第10話 殺意の代償

  日曜日の朝、世田谷西警察署に緊急通報が入った。

 早朝の散歩中の男性から、世田谷区赤堤の公園で、ブランコ台から吊り下がった状態の首つり死体を発見した、という通報だった。

 空木は、昼のテレビニュースを見て言葉を失った。

「世田谷区の公園で、会社員、横澤和文さんが首を吊った状態で発見されました」

アナウンサーの伝えるニュースが空木うつぎには信じられなかった。

 空木は直ぐに、大月中央署の西島の携帯に電話を入れた。

 「西島さん、今テレビのニュースを見ました」

「重要な容疑者が死んでしまいました。張り込みに入るのが、一日遅れてしまったのが悔やまれます。課長が所轄の警察署に連絡を入れているところで、我々も現場に向かうところです」

「現場というのは、世田谷の公園と言っていたところですね」

「ええ、赤堤の赤松公園だそうです」

「テレビでは首を吊った状態と言っていましたが、西島さん、結び方をよく見てみてください」

「そのつもりです」

 電話を切った空木は、捜査本部も自分と同じ推測なのだと感じた。

 西島と話している間に、ホープ製薬の菊田から留守電が入っていた。


 世田谷西署に入った西島は、刑事課長の鈴木に挨拶し、状況の説明を受けた。

 「大月中央署の課長さんから、そちらの捜査状況は伺っています」鈴木はそう言ってから状況を話した。

 今しがた届いた司法解剖の結果では、横澤和文の死亡推定時刻は、昨夜の十時から十一時、体内からは細いうどんとアルコールが検出された。死因はロープによる窒息で、索状痕は首に二重についていた。使われたロープは工具用のナイロン製ロープで、太さ九ミリ、長さ七メートル三十センチ弱。遺留品は、腕時計、財布、小銭入れ、自宅の鍵で、持っていた筈のスマートフォンは無かった。

 現場周辺の鑑識結果としては、ブランコ台付近に多数の靴跡が残されていて、いくつかの靴跡が採取された。

 被害者の自宅からは遺書も見つからず、家人によれば、昨日の被害者の足取りは、会社の集まりで夕方五時半過ぎに神楽坂かぐらざかに出かけて行って、家には戻っておらず、ロープも所有していなかったことから、世田谷西署は絞殺による殺人事件と断定し、捜査本部を設置した。

 現状は最寄り駅から現場までの防犯カメラの確認と、公園周辺の聞き込みを開始していることを、西島らに丁寧に説明した。

 そして鈴木は、現場写真を何枚か西島の前に置いた。西島は拡大鏡を手にして、持ってきた国崎殺害の現場写真と見比べた。

 「‥‥これはエイトノットだ」そう言った西島は、直ぐに大月中央署に居る課長に報告し、相談した。そして改めて鈴木に依頼をした。

「鈴木課長にお願いがあるのですが、殺害された横澤の自宅のパソコンの保存データの任意提出を要請していただけませんか。そこに、我々の事件とこちらの事件を解決するカギが入っている可能性があります」

 鈴木は、それを大月中央署の正式な要請として、承諾した。

 世田谷西署を出た西島たちは、現場の赤松公園へ向かった。

横澤が吊り下がっていたブランコ台の周囲は、立ち入り禁止のテープで囲まれ、警官が現場保存の警戒に当たっていた。

 赤松公園から横澤の自宅までは、徒歩五分の距離の近さにも拘わらず、家に寄っていないということは、誰かと一緒だったか、誰かと公園で会う約束をしていた可能性があるのではないかと西島は考えた。

公園から西島たちは、西新宿五丁目の下松の住むマンションに張り込んでいる捜査員の応援に向かった。


 西島との電話を終えた空木は、留守電が入っていた菊田に折返しの電話を入れた。

 菊田も横澤の死亡をテレビのニュースで知って、空木と同様に驚き、電話を入れてきていた。

 「ところで菊田さんは、エイトノットは結べますか」

「突然ロープの結び方ですか。思い出しながら、ゆっくりなら結べると思いますよ」

「下松さんは、結べるかどうかご存知ありませんか」

空木の問いに菊田は知らないと答えた。そして、旧太陽薬品の株の調査は、判明次第連絡すると言って電話を終えた。

 空木は、大森が気になり、スマホの登録リストから大森安志を選び、キーを押した。コールは鳴っていたが、運転中なのか電話に出ることはなかった。

 しばらくして菊田から再び電話が入った。

「空木さん、大森の奥さんから今電話がありまして、「いやな予感がする」大森が死ぬんじゃないかって言うんです」

「死ぬとは、どういうことなんですか」

「詳しいことは話してくれませんでしたが、それらしいことを匂わせる置手紙があった、というんです。それで大森の携帯に電話を入れましたが、通じません。伝言だけでもと思って入れておきましたが、心配です」

「行き先に心当たりはありませんか」

「‥‥思い浮かびません。警察に相談しますか」

「奥さんに、明日の朝までにご主人が帰らなかったら、最寄りの警察に届けるように言ってあげてください。届けを出しても探し出してくれるとは限りませんが‥‥」

 電話を切った空木は、ベランダへ出て西の方向を眺めた。丹沢の山並みと、富士山が綺麗に望めた。

煙草を吸いながら考えた。横澤が死んだこのタイミングで、大森が失踪したのは偶然だろうか。何故失踪したのか。横澤の死と大森の突然の失踪が関係しているとしたら、大森はどうするつもりなのか。空木にも悪い予感が走った。

 一時間程して、菊田からまた電話が入った。

 「大森と連絡が取れました」

「それは良かった。それで大森さんの様子はどうでしたか」

「声を聞く限り落ち着いている感じでしたが、どこに居るのか言いませんでした。ただ、最後に三人の思い出の山に行くと言っていました。もしかしたら、我々同期三人で行った三ツ峠山のことではないかと思ったのですが‥‥‥」

「私もそう思います」

「どうしましょうか」

「‥‥‥私に考えがあります。ある人に連絡してみますから、しばらく待っていてください」

 空木の頭に浮かんだのは、三ツ峠山荘の主人だった。あの主人なら力になってくれると考えた。幸い今日は、日曜日で主人は間違いなく山荘にいる筈だ。

 空木はスマホのリストから山荘の主人の携帯電話の番号を探し出した。

 「空木です。ご主人にまたお願いがあります。人の命に係わることです。力になってください」空木はそう言って、事のあらましを説明し、大森という男を見つけたら保護しておいてくれるよう協力を依頼した。

「何があったのかわからんが、この山で事故が起こるのは面倒なので、それらしい人を見かけたらあんたが来るまでここに居させるよ。眼鏡をかけた単独行の男だな」

「見つけたら連絡してください。迎えに行きます」

空木は山荘の主人に礼を言って電話を終え、菊田に状況を連絡し吉報を待った。

 山荘の主人からの連絡は、それから一時間余りが経過した四時前に入った。

空木と菊田の予想は当たった。


 翌日早朝、空木は高尾駅で、菊田の運転する車に合流同乗し、三ツ峠山の登山口の駐車場に向かった。

到着した駐車場には、大森の車と思われる一台の車が駐車していた。空木はそこから三ツ峠山荘の主人に連絡を取り、大森を乗せた山荘の四駆が下ってくるのを待った。

 「おはようございます。ご主人ご協力ありがとうございました」空木は、車から降りてきた主人に頭を下げた。

「久し振りです、空木さん。大森さんという人は、自殺する心配はなさそうだよ。何か人には言えない、覚悟みたいなものはありそうだが」主人は空木の耳元で、小声で言った。

「空木さん、菊田、心配掛けて申し訳ありませんでした」大森は二人の前まで歩いて来て、頭を下げた。

 空木の帰路は、大森の運転する車に同乗することになった。大森は菊田に、別れ際「心配してくれてありがとう。友情は絶対に忘れない。これからも俺の家族と仲良くしてくれ。宜しく頼む」と丁寧に言葉を掛けた。

 三人は、山荘の主人に別れを告げて峠を下った。

 中央高速の笹子トンネルを過ぎた辺りで、ずっと黙って運転していた大森が、空木に話しかけた。

「‥‥サービスエリアでコーヒー飲んでいきませんか」

「‥‥そうしましょう」

 談合坂サービスエリアの駐車場に車を停め、大森は缶コーヒーを二本買って、ベンチへ歩いた。

一本を空木に渡し、ベンチに並んで座り、缶コーヒーを一口、二口と飲んだ。

 空木は、ここまで来る車中からずっと、他人を受け入れない大森の雰囲気を無言の中に感じていた。覚悟みたいなもの、と言っていた山荘の主人の言葉が浮かんだ。

 「空木さん、私はこれから警察へ行かなければなりません」

数秒間の沈黙の後、「横澤さんの件ですか」空木が応じた。

 しばらくの時間、二人は缶コーヒーを飲みながら、黙って都留つるの山々を眺めた。

 「横澤は許せない人間でした。でも殺そうと思ってあの夜、会いに行った訳ではありませんでした。下松部長が横澤をロープで絞めているところに出くわしてしまったことが、始まりでした」

 空木は、やはり下松が横澤を殺そうとしたのだと、冷静に大森の話を聞いた。

 「それで下松さんは」

「逃げました。暗くて私を確認出来なかったと思います。倒れている横澤に近づくと、横澤はピクリと動きました。それを見て殺したいという殺意が湧きました。その殺意はどうしようもなく急激に膨らみ止めようがありませんでした。気がついた時には、勝手に下松部長が使ったロープで、横澤の首を絞めていました。でも横澤が死んだのを見て、怖くなり自殺に見せかけようと、ロープを首に巻き付け、ブランコ台に括りつけました」

「‥‥‥大森さんは、何故横澤さんに会おうとしたのですか」

 大森は、缶コーヒーを手に持ったまま、山を見ているのか、青い空を見ているのかわからない視線を中空になげて、しばらく沈黙した。

「‥‥私の妻は、横澤に性的暴行を受けました」

空木は大森の言葉に、一瞬体が固まった。

「もとは横澤の誘いに乗ってしまった私の所為なのです。二度ほど横澤の誘いで私たち夫婦は食事をしました。ある日妻は、私の将来の為にと言う横澤の言葉に騙されて、誘い出されレイプされました。九月の土曜日だったそうです。妻は一人で苦しんだと思います。体調を崩し、死にたいとも言い出しました。事情をやっと最近話してくれました。横澤は、以前から妻に目を付けていたようです。それで、私はあの夜、横澤に会って、会社を辞めて私たちの前から去って欲しいと伝えるつもりでした」

「それであの公園で待ち合わせた」

「はい、車を公園付近に停めて、約束の夜十時を待ちました。そうしたら、横澤の二、三十メートル後に下松部長がいたんです。車を降りてしばらく離れたところから見ていましたが、様子がおかしいので近付いたら、あとはさっき言った通りです」

「辛い話をさせてしまいましたね。奥さんを愛しているんですね」

「妻を守ってやれなかった‥‥‥」

大森の眼鏡の奥からは、涙が溢れていた。

「苦しかったでしょうね。‥‥奥さんの為にも、罪を償ってやり直しましょう」

空木は、横に座っている大森の膝に手を置いた。

 空木は、ベンチを立って、大月中央署の西島に電話を入れ、横澤の事件の管轄警察署を確認するためだったが、西島は電話に出るなり言った。

 「空木さん、横澤のパソコンに、梨の木平で下松と国崎が一緒に映っている写真がありました。空木さんの推理通りでした。今しがた下松の逮捕状を取りました」

西島の声が、興奮してたかぶっているのが、電話越しの空木にもわかった。

 横澤の事件の管轄警察署の確認を終えた空木は、大森の車に再び同乗した。

空木に全てを話したためか、運転を交代する必要もない位に大森は落ち着きを取り戻していた。

 「大森さんは、エイトノット結びは出来ますか」

「ええ、出来ます。横澤を縛った時もエイトノットで結びました」

「下松さんは、エイトノット結びが出来るかどうかご存知ですか」

「下松部長は、エイトノット結びは得意ですよ。小学校から高校までボーイスカウトに入っていたらしくて、エイトノット結びを自慢していたくらいです」

 証拠の写真が出てきた今となっては、下松のエイトノット結びがどれ程の意味を持つのか、空木には疑問だったが、自分の推理に間違いがなかったことに、不思議な満足感を感じていた。

 「それとKKKが判かりました。神田常務を囲む会のことのようです」大森が落ち着いた声で言った。

「それはどうして判ったんですか」

「横澤に面会を申し入れた時、今日は神田常務を囲む会だからダメだ、と言って夜の十時に会うことになったんです。その時に、そうか、神田の「か」、囲むの「か」、会の「か」なのかと判ったんです」

助手席の空木は、「そうだったんですか」と言いながら、この情報も今となっては、あまり意味のないことかも知れないと思った。

 午後三時過ぎ、世田谷西警察署に着いた大森は、空木に付き添われ自首した。

 大森の供述を受けて、その日の夕方、既に大月中央署に逮捕されている下松に対して、二つ目となる逮捕状が出された。


 世田谷西署で事情を聴取された空木が、国分寺光町の事務所兼自宅に戻ったのは、陽もとっぷり落ちた、六時を少し回った時刻だった。冷蔵庫から缶ビールを出してテレビをつけた。

 「飲食店経営、高部悦子さん四十七歳が自宅マンションで、死体で発見されました。死後二日ほど経過していて、首に絞められた痕があり、警察は殺人事件として捜査を始めました」という女性アナウンサーの伝えるニュースに、空木はビールの缶を落としかけた。

 神楽坂の料理屋『たかべ』の女将なのだろうか。空木は、国分寺署の同級生、石山田に電話をして事情を説明し、テレビのニュースで報じられた事件の、所轄警察署が飯田橋警察署であることを確認した。

 夜のテレビニュースは各局でこのニュースと、大森安志が自首したニュースを報道した。

 下松逮捕の報道は、東京の事件ではないためか、テレビでは報道されなかったが、翌日の新聞では高部悦子殺害事件、赤松公園の横澤和文の事件とともに報じられた。

 ホープ製薬が大変な朝を迎えているだろうということは、空木にも容易に想像できた。

 菊田から電話が入った。

 「空木さん、大変なことになりました。会社は大混乱ですが、大森のことが私には大きなショックです。あいつの覚悟というのはこれだったのかと思うと残念です」

「菊田さん、大森さんは計画的に殺人を犯した訳ではありません。大森さんは、大きな過ちをしてしまったことは間違いないことですが、いつか大森さんの心情を聞く機会あれば、その辛さを聞いてあげて下さい。友を信じてあげてください」

「‥‥空木さんは事情をご存知なのですね」

「はい、菊田さんと別れた三ツ峠山からの帰りに全てを話してくれました。菊田さん、大森さんのご家族の力になってあげてください」

「‥‥わかりました。それから、旧太陽薬品の株のことですが、調査した四人全員が、合併公表直前に買って、公表後に売っていました。これから星野常務たちと、インサイダー情報の流出元の調査をどうするかの相談をすることになっているのですが、空木さんにも出来るだけ早く来ていただけませんか」

空木はやはりそうだったか、と思いながら了解した旨を伝えた。

 菊田との電話を終えた空木は、飯田橋警察署に電話をした。

 空木の電話は、捜査本部の杉川という刑事課長に回された。空木が住所、氏名を名乗り、死亡した高部悦子の経営する飲食店の名前を確認したいと言うと、「あなたが空木さんですか」と思いがけない反応に、空木は「えっ‥‥」と驚いた。

 「今朝がた大月中央署から、殺害された女性が経営する飲食店の名前は『たかべ』なのかという問い合わせがありまして、同じような問い合わせが空木という探偵からあったら、捜査の役に立つかも知れないから一度話を聞いてみたらどうか、と言っていたという訳です。捜査はまだ始まったばかりで、情報を集めているところですから、空木さんからも話を聞かせていただければありがたい。協力者として来ていただけませんか」

空木は、一瞬ためらったものの、「役に立つ」と言ったのが西島だろうと思い、今日の午後訪問することを約束した。


 急遽呼び出されたホープ製薬の役員応接室には、常務の星野の他に営業推進部長の古河こが、菊田そして総務課長の荒浜というメンバーが待っていた。

 星野に促されて、荒浜が調査の結果を報告した。

 「調査した四人は、旧太陽薬品の株を一昨年の八月半ばから九月半ばにかけて、五千株から二万株を興陽証券他から購入し、合併が公表された十月一日以降に売却しています。購入時の株価は八百円から八百五十円、売却時は千二百円から千五百円の株価で売却しており、取得利益は二百万円から一千三百万円になります」

 荒浜の報告を聞いて星野が口を開いた。

 「あとは監視委員会に告発して、インサイダー情報の流出元の調査を託すのか、我々で内部調査を進めるか、なのだが‥‥」誰に聞くともなく星野は呟くように言った。

「内部調査で聞き取りをするにしても、四人のうち話を聞けるのは、古河部長のところの村内課長だけです。二人は亡くなり、一人は逮捕されています。村内課長が、死んだ二人のどちらかから情報を聞いたと言ったら、それで調査終了になります」そう言って菊田はお茶を飲んだ。

「星野さん、高部悦子という女性の、旧太陽薬品の株の売買を調べてくれませんか」

「高部悦子ですか‥‥」

「神楽坂の料理屋『たかべ』の女将です。ニュースで報道された、殺害された女性ですが、神田常務と懇意にしていた女性で旧太陽薬品の株で儲けている筈です。もし時期が四人と同じ時期だとしたら、インサイダー情報を神田常務から知った可能性があるのではないでしょうか」

 空木の提案に星野は、荒浜の顔を見て直ぐに調べるように指示をした。それを見た空木は星野に改めて聞いた。

 「星野さんにお聞きしたいのですが、インサイダー取引をした四人は、何故自社のホープ製薬の株ではなく、合併相手先の太陽薬品の株にしたんですか」

「それは当時の太陽薬品の株価は、新薬開発の失敗でかなりの安値が続いていましたから、利益幅が大きいと踏んだのだと思います。それと自社株では社内チェックされる、と考えたのではないでしょうか」

 星野の話を聞き、合併を金儲けのチャンスと考え、そして保身、保全に執着する人間が幹部の中にいる会社を、若い社員たちはどう思うだろうかと空木は想像した。誇りに思える会社にできるのだろうか。

 頑張って欲しいと願いながら、星野たちに挨拶をして空木はホープ製薬を後にした。


 曇り空の日本橋界隈は、昼食の為か歩いているサラリーマンが多かった。

 空木は思い出したかのように、大月中央署の西島に電話をした。昼食の時間で、下松の取調べも休憩に入っているだろうと思いながら、西島が電話に出るのを待った。

 「空木さん、飯田橋署にはもう行きましたか」

 やはり、西島は昼の休憩に入っているようだった。

 「いえこれからなんですが、西島さんに伝えておきたいことがありまして電話しました」

「もしかしたら、国崎殺しの動機に繋がる調査の件ですか」

「繋がればいいのですが、調査の結果、下松と国崎は他の二人とともに、インサイダーの株取引をしていたことが判りました。ここからは私の推理ですが、下松と国崎は、森重裕之にそのインサイダー取引の調査をされていると思い込み、国崎に株取引情報を漏らした責任を取るよう命じたのではないかと思います。そして、その調査が転落して入院してしまった森重裕之さんから、父親の勇作さんに引き継がれたと考えた。下松は、これ以上口の軽い国崎を生かしておくのは危険だと判断したのではないかと考えたと思います。恐らく下松は、自分はもとよりインサイダー情報を流した大元にいる役員に、重大な危機が及ぶことを避けなければならないと考えたと思います。間もなく証券取引監視委員会が動く筈です。このことを下松に伝えてみたらいかがでしょう」

「今聞いたインサイダー取引の件を、空木さんの推理と合わせて使わせていだきます。ありがとうございます」

 西島への連絡を終えて、空木はもう一度自分の立てた推理を考えてみた。

 下松は何故、森重の父勇作を扇山の山頂に呼び出したのか。考えられることは、勇作の名前で送られてきた手紙を読んだ国崎が、万が一、確認のために勇作に連絡を取った時の用心のためだったのではないか。国崎に怪しまれずに、梨の木平に呼び出すには必要なことだった。勇作の名前を使った手紙を国崎が読んだことを確認してから、国崎の携帯を使って勇作に電話を入れたのだ。勇作の犯行に見せかける為でもあったかも知れないが、それよりも国崎を確実に梨の木平に行かせたかったためで、逆に勇作と国崎が顔を会わせないようにする為に、勇作には扇山の山頂に十二時にしたのだ。

 

 空木は、神田駅近くの立ち食い蕎麦屋で昼食を食べ、午後一時過ぎに、飯田橋署に着いた。

 空木は、刑事課長の杉川に名刺を渡して挨拶した。

 「空木さんは、高部悦子さんとはどういうご関係ですか」杉川は、空木の名刺を見ながら聞いた。

「単なる店の客です。行き始めてまだ十日ぐらいで、三回通ったところです」

「それで今回の事件で問い合わせをされたのは、何か気になることがあったのですか」

杉川は、初対面の空木に疑い深そうな目を向け、探偵が何を言い出すのか聞き耳を立てているかのようだった。

「すでに聞き込みなどで課長さんの耳に入っているかも知れないのですが、『たかべ』の常連客の中で、ホープ製薬という会社の人間が、二人殺害され、一人が殺人容疑で拘束されています」

「それは大月中央署の西島さんから聞いています。西島さんが、あなたには捜査に協力してもらっていると言っていました」

「それで、その人間たちの集まりが、高部悦子さんが殺害された土曜日に『たかべ』であったということをご存知でしょうか」

「集まりだったかどうかは知りませんが、土曜日の客も含めて、店の名刺ホルダーに入っている客は、全て聞き込みに当たっているところですが、その集まりの客の中に容疑者がいると空木さんは考えているということですか‥‥」

杉川の口調から、空木の推理に対する杉川の反応は薄いと空木は感じた。

「その集まった人間全員が、株のインサイダー取引をしていた、或いはしているかも知れないのです」

杉川の目つきが変わった。

「それは犯罪ですよ。確かなことなのですか」

杉川はいい加減なことを言うなと言わんばかりだった。

「犯罪です。近いうちに警察も、証券取引監視委員会も動き始めると思います」

杉川は腕組みをして考え込んだ。

「そこで、何があったのかわかりませんが、『たかべ』の女将と最も親しい人間は、神田という常務です」

「その常務が怪しいと、空木さんは考えている訳ですか」

空木は、無言で頷き、杉川は腕組みを解いて机に体を乗り出した。

 「被害者のマンションの防犯カメラに写っていた男は、マスクをし、ジャケットを着た年配者としかわかっていませんし、部屋内の指紋も拭きとったのか残されていません。セキュリティーがしっかりしたマンションにも拘わらず、玄関ドアの鍵はかかっていなかったことから、顔見知りの人間を部屋に招き入れた後、扼殺されたと睨んでいます。その神田という人物に当たる価値は、あるかも知れません。ただ、困ったことがありましてね、死んだ高部悦子は新型コロナの抗原検査で陽性と出まして、目下PCR検査の結果待ちなのです。我々としても濃厚接触者との対応には慎重に当たらなければならないのです」

「新型コロナ陽性だったんですか‥‥」

 空木は、自分の顔が青ざめていくのがわかった。「俺はどうなる」という思いだ。

 「死体発見者は、「たかべ」の板前ですが、保健所の職員が被害者を、ある接客店で発生した陽性者の濃厚接触者として追跡し、連絡をとろうとしていたところだったのです。それで死体発見とともに抗原検査をしたところ、陽性だったということです。先週の木曜から被害者と接触のある人は、要注意だそうです。空木さんは大丈夫ですか‥‥」

杉川は真面目な顔で言った。

 

 大月中央署で取り調べを受けていた下松は、家宅捜索で押収されたパソコンのデジタルフォレンジックにより、国崎に送られた森重勇作名での手紙の原文が見つかったこと。押収した下松の車のナビでの殺害当日の移動記録、加えて旧太陽薬品の株のインサイダー取引の件を聞かされると、一瞬驚き、そしてうなだれ、全てを自供し始めた。

 十月十日土曜日、国崎を殺害した日、下松は自宅を七時二十分頃出ていた。当初七時五十分頃出発したと言っていたのは、ゴルフ場に到着した時間から逆算しての辻褄合わせをしたつもりだった。

 中央高速を下りた後、コンビニに寄り、梨の木平に向かった。

 雑木林に車を停めて、一週間前に新宿の山具店で購入しておいたザイルロープを持って、梨の木平に行き、崩れかかった休憩所の付近で国崎が来るのを待った。

 国崎は、九時過ぎにやって来た。ベンチに座って握り飯を食べ終わった国崎の後ろから、ロープで首を絞めて殺し、崩れかけた休憩小屋へ運んだ。急いでロープを支柱に結わいてその場を離れ、車に戻ってゴルフ場に向かった、と供述し、横澤が見ていたことには全く気付かなかったと言った。

 「何故、国崎を殺そうと思ったのか。株取引の口封じのためだったのか」

西島が、下松を睨みながら尋問を始めた。

 「あいつは口が軽い。勢いでペラペラしゃべる。だから森重に株のことを掴まれ、旧太陽薬品の連中に調べられるようなことになった。その責任を取れ、森重の調査を止めさせろと指示したが、森重は死ななかった。死なないどころか、今度は、森重の父親と探偵とやらが、調べ始めてしまった。それを知った国崎は、隠し通す自信がないと言い出した。その時から国崎の口を封じるしかないと決めました。国崎を放っておくと、常務にとんでもない迷惑を掛けることになると思って、殺すしかないと」

そう言って下松は、両肘を机に立て、両手で頭を抱えて下を向いた。

「証券取引監視委員会が調べることだが、お前も国崎もインサイダー情報は、その常務から聞いたのか」

「‥‥いえ、違います。『たかべ』の女将から聞いた情報です。死んだ高部悦子です」

下松は顔を上げた。

「高部悦子がその常務から聞いたという訳か‥‥」西島は独り言のように呟いた。

「梨の木平を殺害の場所に選んだのは何故だ。森重の父親に罪を着せようと思ったからなのか」

「あの場所は、ビッグムーンゴルフクラブに行く時に、何度も見ていて、人目が無いことを知っていました。森重の父親が山に登ることも国崎から聞いて知っていました。森重の父親の名前で呼び出せば、国崎は必ずあそこに来ると思ったから名前を使いました。名前を使うなら犯人に見せかけようと思ったことと、国崎が万が一父親に連絡をした時の用心のために、父親も呼び出しましたが、二人が顔を会わせないよう、会わせたら国崎は全部喋ってしまうだろうと思い、父親は扇山の山頂に十二時にしました」

「もう一つ聞くが、お前は、エイトノット結びは出来るのか」

「エイトノット結びは、子供の頃から結んでいますから結べます」

「国崎を殺害し、ロープを結んだ時もエイトノットで結んだのか」

「首も支柱にもエイトノットで結びました。それも私が犯人である証拠ということですか」

「その逆だったかも知れない。下松、お前が去った現場に誰かが来て、支柱に結んだロープを解いたようだ。何の為なのかは、今となってはわからない。お前はそいつを殺してしまったようだ」

西島の話を聞いた下松は、目を見開いた。

「‥‥横澤だ、横澤が自分の後に来た。何をしに来たのか‥‥。俺を強請ゆすってきた横澤が‥‥」

「生きていればお前は、殺人未遂になったかも知れないが、それも今となっては無理だな」

「いや、国崎を殺したのは横澤だ。横澤に間違いない。横澤は、国崎に「あいつは金に汚い、能無しだ」と周りに言いふらされて、国崎を憎んでいた。刑事さん、国崎を殺したのは横澤だ」

 西島は、眉間に皺を寄せて、組んだ拳を机の上に置いた。

 「下松、お前は自分のしたことをよく判っていないようだ。全ては、お前が国崎を殺そうとしたことから始まった。いや、お前が森重裕之を職場で追い込んだことから始まったんだ。横澤が国崎を殺害した証拠は何もない。お前が、国崎の首を絞めたことは間違いないことなんだ」西島の口調は穏やかだった。

「‥‥森重を追い込んだというのは、一体何のことですか‥‥」

西島には、下松の言い方が白々しく聞こえ腹が立った。

「森重裕之が三ツ峠山で転落したのは何故なのか、お前は承知しているか」

「国崎がやった、事故に見せかけた転落の筈です。私ではありません」

 西島は下松の顔を睨みながら、以前空木から渡された調査報告書に書かれていた下松の所業を思い返していた。

 「森重の転落は、自殺未遂だったんだ。お前からの嫌がらせやお前との闘いに疲れ、追い込まれたんだ。自分のことしか考えられないお前には、他人への気遣いなんか出来ないし、弱い立場の人間の苦しさも理解できないだろう。そういうお前の所業を細かく調べ上げた人がいるんだ。お前は、それをインサイダー取引の調査と思い込んだようだな」

「‥‥‥‥」下松は黙って床に目を落とした。

「お前は、餓鬼がきを知っているか。いつも腹を空かせている餓鬼には、見える物全てが食べる物に見えて食べようとするが、それを手に取ると消えてしまったり、火の玉になったりして、食べることが出来ない。いつまでも空腹が続くんだ。お前たちは、餓鬼だ。金、権力の欲にまみれて他人のことはお構いなしで、その欲望を際限なく手に入れようとする。俺の物だ、お前の所為だと罵り合い、周りの気配に怯える。お前たちは餓鬼と一緒だ。餓鬼の心に染まった人間のする悪行は、善の心を持った人間には全てお見通しということだ」

 

 世田谷西署に移送された下松は、赤松公園での横澤和文殺害の取調べを受けた。ここでも、現場に残された靴跡が、押収した下松の靴底と一致したこと、大森安志が犯行を目撃したことを告げられると全てを自供した。

 横澤に、梨の木平で撮られた写真をネタに強請られた下松は、十月二十四日土曜日の夜、神楽坂の『たかべ』で、常務の神田を囲んで横澤、村内の四人で飲食した後、店の外で、封筒に入れた百万円を横澤に渡した。横澤はかなり酔っていたが、タクシーは使わなかった。経費で落ちないことはしない横澤らしかった。

 そして横澤の後を付けて行き、公園に入って行ったところを、カバンに隠し持っていたナイロンロープで後ろから首を絞めた。時間は十時少し前だった。どの位絞めていたかわからないが、人が公園に入って来たのを見て、写真を撮られたスマホを奪って逃げた。ブランコ台にロープを結んで、自殺に見せかけようと思っていたが、時間がなく出来なかった。奪ったスマホは自宅近くの神田川に捨てたと供述した。

東急世田谷線松原駅の防犯カメラに写っていた、横澤と後を付けて行く下松の通過時刻が、殺害時刻と供述に合致し、既に自首していた大森安志の供述とも合致した。

 赤松公園で十時に会う約束をしていた大森は、車の中から横澤の後ろを少し離れて歩いて行く下松を見て不審に思い、二人の様子を暗がりから窺っていた。様子がおかしい思い、ブランコ台の方に近付くと、下松が逃げ去り、倒れている横澤が残されていた。

 横澤の首には、白いロープが巻かれていた。下松がったのだと思いながら、横澤を見ていたら、体がピクリと動いたのを見て、思わず首に巻かれていたロープで首を絞めた、と大森は供述していた。

 大森は妻が横澤にレイプされたことが、殺害の動機だったと供述していた。

 大森の供述調書を読んだ、刑事課長の鈴木は、横澤の体が動いたのは、死亡直後の痙攣ではないかと思った。一度死んだ人間をもう一度死なせる罪が、どういう罪名なのか鈴木には思い浮かばなかったが、罪を犯してしまった夫を奥さんはどう思うか、大森の犯行動機から想像すると忍びなかった。


 他方、飯田橋署の捜査本部は、ホープ製薬営業推進部の村内からの聞き取りで、高部悦子が殺害された十月二十四日の夜『たかべ』で常務の神田を囲んだ飲み会があったことを確認。

 さらに帰宅する高部悦子と同じタクシーに神田が乗ったという証言を得て、該当するタクシー会社を当たり、飯田橋の高部悦子の住むマンションで降ろしたことを確認すると、神田を重要参考人として任意出頭を求めた。

 ところが、神田は出頭してこなかった。いや、出頭できなくなっていた。高部悦子殺害の報道がされると神田は逃亡目的があったのか会社に出社せず、ホテルに連日滞在した。そして事件から四日後発熱を訴え、検査の結果新型コロナ陽性が確認され、隔離入院してしまった。

 取調べに取り掛れない捜査本部は苛立ったが、刑事課長の杉川は、「神田がコロナに感染したのは、犯した罪への最初の罰、代償なのかも知れん」そう言って刑事たちをなだめた。


 この後、神田は重症化し、飯田橋署での取り調べを受けたのは、およそ一か月後だった。

 その間に、ホープ製薬は自らの調査を基に、証券取引等監視委員会に合併情報の漏洩によるインサイダー取引が行われた可能性があることを通報した。

 監視委員会は、ホープ製薬の所轄である日本橋署と協力し、調査、捜査を開始し、高部悦子の旧太陽薬品の株の売買を確認するとともに、神田の銀行口座と殺害された高部悦子の銀行口座に多額の入出金を確認した。

 また、下松、横澤、村内、国崎のインサイダー取引についても、各証券会社と各銀行への調査で、旧太陽薬品株の売買、それに伴う出入金が確認され、インサイダー取引の裏付けとされ、金融商品取引法違反で逮捕状が出された。その後国崎、横澤は被疑者死亡のまま起訴された。

 下松と村内からの聴取によって、神田から『たかべ』の女将、高部悦子に合併情報が漏らされ、その高部悦子から下松たちに伝わった。

 それを知った神田は、激怒し「この件は、他には絶対に漏らすな、絶対に話すな」と強く釘を刺されたことも供述した。

 所轄の日本橋署は、神田と高部悦子の銀行口座の入出金日、取引株数、売買期日から推定して、神田は高部悦子名義で売買させるために、高部悦子の銀行口座に金を入れ、株を買わせた。そして、合併公表後に売らせたと推定した。

 高部悦子の銀行口座には、何回かに渡って百万円単位の入金があり、株を売った直後の入金が最も多く、協力した手数料的な金と思われたが、以後の入金の理由はわからなかった。その経緯が、明らかになったのは、退院した神田の取調べでの供述だった。

 店の資金繰りに厳しくなった高部悦子に金をせびられ、数回に渡って数百万円を振り込んだ。十月二十四日の夜もせびられ、それを断ると、会社にはインサイダー情報の漏洩を、家族には自分との関係を話すと脅された。無性に腹が立ち、絞め殺してしまった。

 この自供と高部悦子のマンションの部屋から採取された毛髪のDNA鑑定も加わり、神田は飯田橋署からは殺人で、そして日本橋署からは金融商品取引法違反で逮捕された。

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