第9話 疑惑

  土曜日の朝、大月中央署で打合せをしていた西島の携帯電話が鳴った。

 「空木ですが、西島さんにお伝えしたい事があって電話しました」空木はそう前置きをして、昨日、大森と菊田から聞いた森重勇作の、携帯電話の情報について、大森の心情を交えて説明した。

 「下松が、森重勇作の携帯電話に、電話をした可能性があるということですか。空木さん、わざわざ連絡ありがとうございます。大森さんには、別件で聞きたいことも出てきましたから、今日にでも話を聞きに行くつもりでした。その時に、この件も確認させてもらいます」

 西島の言う別件とは、恐らく事件のあった当日の、大森たちのゴルフの件だろうと、空木は推測した。

 空木との電話を終えた西島は、刑事課長に空木からの情報を伝えた。

 「空木という探偵さんには、色んな情報が集まるんだな。それにしても、森重に電話をした人間が、下松だとした らホンボシかも知れないぞ。慎重に行ってくれ」

 刑事課長の「慎重に」という意味は、アリバイの有無、殺害の動機、犯行に使われたロープの入手など、証拠固めをしっかりやれということだと西島は理解した。

 課長は西島に、今日明日中にビッグムーンゴルフクラブでプレーしたというホープ製薬の大森、下松、横澤の三人の詳細な聞き取りをするように指示した。

 昼近くになって、西島に筆跡鑑定の結果が届けられた。結果は「同一人物の筆跡と思われる」だった。三ツ峠山の山小屋に偽名で泊まった人間は、国崎とほぼ確定した。殺された国崎が、偽名で宿泊した人間だった。何故、偽名でなければならなかったのか、それが事件に繋がったとしたら、それは犯人が犯行に及んだ動機に繋がるのだろうか。西島は、そんなことを考えながら、国分寺署の石山田に連絡した。


 練馬区高野台に住む大森からの聞き取りは、西島ともう一人の刑事が担当し、世田谷区赤堤に住む横澤の聞き取りには、別の二人の刑事が向かった。西新宿五丁目に住む下松からの聞き取りは、明日、西島たちが行くことになった。

 自宅マンションのリビングに、西島たちを案内した大森は、コーヒーを用意した妻に、子供たちがリビングに入らないように言っていた。

 「森重勇作さんの携帯電話の件でしょうか」大森は、空木からの連絡を受けて警察が来たと思っていた。

「いえ、その確認もありますが、十月十日土曜日のゴルフについて話を聞かせていただきたくてお邪魔しました」

 空木が言っていたのは、この事なのか、と大森は冷静に聞いた。

 「大森さんは、ビッグムーンゴルフクラブの場所については、ご存知だと思いますが、国崎さんが殺害された梨の木平と目と鼻の先です。そのゴルフ場で大森さんを含め、被害者と同じ会社の方三人がゴルフをしていた訳ですから、被害者とすれ違うなどの接点がなかったのか確認させていただきたいのです」

西島の説明に、大森は「わかりました」と言って、両手を膝の上で組んで、話を始めた。

 大森が、ゴルフ場に到着したのは、スタート時間の九時四十五分の一時間以上前の、八時三十分。三人の中で一番若く役職も下の自分が、最も早く着いていなければならない、という気持ちからの早着だった。

 下松が到着したのは九時十五分頃、横澤が来たのはそれより十分程遅い、九時二十五分頃だったと記憶していた。大森の記憶は、年長の二人を迎える意味で、フロントロビーの椅子に座って待っていたとのことではっきりした記憶だった。

 プレーは五分遅れてのスタートで、前半が終わってクラブハウスに戻ったのは十二時十五分頃だった。後半は、午後一時ちょうどのスタートで、十八ホールが終わってクラブハウスに入ったのは、三時二十分頃だった。

 シャワーで汗を流し、三人がクラブハウスを出たのは四時過ぎだった。帰りの梨の木平付近には、緊急車両は勿論のこと、事件があったと思わせるようなものは何も目にしなかった。大森は、自分の記憶を確かめながら、ゆっくりと西島たちに話した。

 「ゴルフ場ではずっと三人は一緒だったのでしょうか」

「はい、そうです」

「そうですか。そうしましたらその日の、大森さんも含めた三人の車の車種、色それと服の色とかを、記憶の範囲で結構ですから話していただけませんか」

 刑事の質問に、大森は腕組みをして考えていたが、自分以外の二人についてはよく覚えていない「申し訳ありません」と答えた。

 西島は大森の話に偽りは感じなかった。それは、大森の話の内容もさることながら、今朝がたの空木からの連絡で聞いた、大森からの情報提供も多分に影響していた。

 「最後に、ゴルフの件ではないのですが、森重勇作さんの携帯電話について話を聞かせてください」

 西島の質問に大森は、スマホを出して、あの日下松に手渡した時と同様に西島にスマホを渡した。そして、電話帳リストから森重勇作の電話番号を見るまでの手順を説明した。

 スマホの画面を見ながら西島は、下松が森重勇作の携帯電話の番号を知った可能性は高い、明日の聞き取りでこの件をぶつけてみようと考えていた。


 大月中央署に戻った西島たちが、刑事課長に大森からの聞き取りの報告を済ませた頃、横澤の聞き取りに当たっていた刑事たちが戻って来て、同様に課長に報告した。

 その内容は、横澤が世田谷の自宅を出発した時間は七時四十分頃。その後永福ランプから首都高、中央高速と走り、談合坂のスマートインターチェンジで下りてゴルフ場に向かった。

 ゴルフ場に着いて以降は、大森からの聞き取りと一致していた。西島は、大森からの聞き取りではわからなかった、横澤の服の色、車種、車の色を手帳に控えた。


 石山田から、三ツ峠山の小屋の偽名宿泊者の筆跡鑑定の結果を聞いた空木は、「やっぱりか」と呟いた。そして、直ぐにそのことを菊田に伝えた。

 「やっぱりそうでしたか、何のためにそんなことをしたのか‥‥」

 菊田の想いは、空木も同様であり、大月中央署の捜査本部も同じ思いだろう。加えて空木には、料理屋『たかべ』の飲み会メンバーの動向を探って、スキャンダルの有無を調べなければならない仕事がある。石山田からの平寿司への誘いを断ったのは、その為だった。空木は、今夜、神楽坂の料理屋『たかべ』に行くことを決めていた。

 JR飯田橋駅で降りた空木は、神楽坂芸者新道の『たかべ』の看板を探して、狭い小路を歩いた。

 『たかべ』は、玄関の間口は狭かったが奥に長かった。七、八席が並ぶカウンター席と、通路の奥には六人が入る小部屋が三つ並んでいた。

 「いらっしゃいませ」の声に迎えられて、空木はカウンター席に座り、ビールを注文した。時間は夜の六時少し前で、客入りには少し早い所為か、それとも土曜日の所為か、カウンターにも奥の部屋にも誰もいないように思えた。カウンターの中の板前は二人で、一人は四十前後、一人は二十代のように思えた。

 仲居の女性がお絞りとビールを運んで来た。

 空木は、品書きから「酒肴三点盛り」を注文し、改めて店内を眺めた。

「いらっしゃいませ。お客さんは、初めてですか」年長の板前が空木に声をかけた。

「どなたかのご紹介で来ていただいたのですか」

「まあそんなところですけど、一見いちげんさんはお断りですか」

「いえいえ、そんなことはありませんが、神楽坂のこの辺りですと、紹介されて来られるお客さんが多いんです」

「ご主人は、店を開いて長いのですか」

空木は、ビールを空けて芋焼酎のロックを頼んだ。

「私はここの主人じゃないんです。女将は奥の部屋に入っていますから、後程ご挨拶にお邪魔すると思います」

「女将さんがここの主人なのですか」

 板前は、「ええ」と言って頷いた。

「お客さんは、もしかしたら製薬関係のお仕事ですか」

「以前はそうだったのですが、今は無職というか自由業です。ここは製薬会社のお客さんが多いのですか」

「比較的多いと思いますよ。四、五社ぐらいの方がお見えになっていますかね」

「年齢層はどうなんですか、若い人たちも来るんですか」

「いいえ、ご年配の偉い方たちばかりです。若い人はその方たちに連れられてお見えになるだけです」

 空木は、二杯目の焼酎のロックを注文して、また品書きを見た。そして比内地鶏の照り焼きを注文した。

 「この店には、ホープ製薬の方たちも来るんですか」

空木は、何かを探っているようには思われないよう慎重に口に出した。

「ええ、良く来ていただいています。今日もお見えになっています」

板前の声は小さかったが良く聞こえた。

 今日は、土曜日で会社は休日だろう。休日に来て奥の部屋で飲んでいる。しかも女将が、かなりの時間入っているようだ。常連の中でも大事な客なのだろう。もしや下松がいるのだろうか。空木がそんなことを想像しながら奥の部屋を眺めていた時、部屋の襖が開いて年配の男性と、和服姿の女性が出て来た。六十代と思われる男はトイレに立ったようだった。

 和服姿の女性は、空木の座っているカウンター席に近付いて来て「初めましてここの女将の高部です。ようこそお越しいただきました。ありがとうございます」と空木に名刺を渡しながら挨拶した。

 四十代前半に思える女将は、中背で色白、小顔の端正な顔立ちで名刺の名前は高部悦子とあった。

 「名刺の持ち合わせがなくてすみません。空木と申します。料理も美味しいですし、良いお店ですね」

空木はここでは名刺を出すのは控えた。特に、口の軽そうな板前には素性を明かせなかった。

「ありがとうございます」

「女将は秋田のご出身ですか。品書きが秋田のものが多いようですが」

「はい、その通りです。秋田は能代の出身なんです。これからもご贔屓にしていただければ嬉しい限りです。宜しくお願いします。ゆっくりしていって下さい」

女将はそう言って頭を下げ、奥の部屋へ戻って行った。

「女将が戻って行った部屋のお客さんが、ホープ製薬のお偉いさんですか」空木は、年長の方の板前に聞いた。

板前は頷いて「そうです。常務さんです。土曜日によく来られます」と小さな声で答えた。

 空木は、二杯目の焼酎を飲み干し、締めに注文した稲庭うどんを食べて『たかべ』を出た。

 土曜の夜の中央線快速電車は空いていた。

 今日の『たかべ』でのターゲットにしている人間に関しての収穫は、何もなかった。常務という人物のスキャンダル探しであれば、大きな収穫だと言えるのだが、役には立たない。とは言っても、一回の訪問で欲しい情報が得られる筈がないと自答しながら、帰路についた。


 西新宿五丁目の下松のマンションに、西島がもう一人の刑事とともに訪れたのは、日曜日の午後三時だった。

 「下松さんのお話しを聞かせていただくのは今日で二度目ですが、今日は、十月十日土曜日のゴルフの状況の確認を含めて、少しお時間がかかる聞き取りになるかも知れませんが、ご家族は大丈夫ですか。ご迷惑がかかるかも知れません」

「妻も子供も帰ってくるのは夜遅い筈ですから、ご心配なくどうぞ」

下松は、落ち着いた様子で、妻が予め用意しておいたと思われるお茶を出した。

 下松の話によれば、当日このマンションを出た時間は午前七時五十分。初台ランプから首都高に入り、中央高速を走り、談合坂のスマートインターチェンジで下り、ゴルフ場に向かった。ゴルフ場到着から出るまでの時間は、昨日の大森の話と同じだった。

 「途中どこかに立ち寄りしたということは」

「はい、コンビニに寄りました」

「そうですか。国崎さんが亡くなった梨の木平は、下松さんもご承知のとおり、ゴルフ場の入口に近いところです。九時頃に国崎さんは、その付近を歩いていた可能性が高いのですが、それらしい人を見かけませんでしたか」

 西島は、国崎の名前を出すことで下松の態度、口調、目の動きに変化はないか注意深く見ていた。

 「国崎課長が亡くなったのは梨の木平ですから、確かにあの辺りを歩いていたかも知れませんが、見かけなかったですね。見かけたら声位かけていたと思います」下松はゆっくりと静かに答えた。

「ところで、下松さんは入院している森重さんのお父さんをご存知ですか」

「いいえ知りません」

「では、森重さんのお父さんの携帯の電話番号も、知っている筈はありませんね。実は、あの日森重さんのお父さんは、誰かに呼び出されてあの辺りにいまして、国崎さんの遺体を発見することになったのですが、誰に呼び出されたのか定かでは無く捜査しているところなのです」

「仮に私が知っていたとしても、電話をする理由がありませんし、何より私には電話番号を知る術もありません。電話をしたのは国崎課長がしたんじゃないですか」

「国崎さんは、森重さんのお父さんの電話番号を知っていたということですか。それを下松さんはご存知だったんですか」

西島は、素知らぬ顔で訊いた。

「いえ、彼は入院している森重の見舞いにも行っていますし、電話をする可能性がある人間は、国崎課長ではないか、という意味です」

 西島は、下松の動揺を感じた。下松は国崎が森重勇作に電話をしたことを知っている。誰も知らない筈のことを知っている。以前、空木が言っていた「電話をしたのは国崎ではない」という話を思い出していた。下松が、国崎の携帯を使って電話をした可能性がある。

 「下松さんにもう一つお聞きしたいことがあります。国崎さんは、森重さんが山で転落した同じ日に、同じ山に登っていました。それも偽名で泊まってです。何故そんなことをしたのか、下松さんには心当たりはありませんか」

「それは全く知りませんでした。偽名で泊まっていたのですか。しかし、何故また私にそんなことを聞くのですか。知る筈もないのに」

「当時あなたの部下だった二人の課長が、同じ山に登っていた。しかも一人は偽名を使って登っていた。そしてその後、偽名を使った人物は殺されたとなると、上司であるあなたに心当たりを聞くのは当たり前だと思いますが、いかがですか」

「‥‥残念ながら、私には心当たりはありません」

「そうですか」

 西島は、腕時計を見ながら椅子から立ち上がり、礼を言って数歩歩いたところで下松を見た。

 「‥‥下松さん、申し訳ないのですが、最後にプリンターを見せていただけないでしょうか」

 下松の表情に一瞬の戸惑いがあったが「はい、いいですよ」と言ってプリンターが置いてある部屋に二人を案内した。

 西島は、プリンターのメーカー名と機種を確認して、下松のマンションを出た。


 その日の夜、空木は、石山田と平寿司のカウンター席に座っていた。

「健ちゃんの推理通り、国崎という男が偽名の主だったな」

「推理通りは良かったけど、やっぱり何故、偽名であの山に行ったのかが問題だよ」

二人は、ビールで乾杯して一気にグラスを空にした。

「それは普通ではないことをする為、つまり突き落とす為というか、殺す為に行ったと考えるのが普通だろう。もしかしたら、ナイフとかの刃物も持っていたかも知れないよ」

「俺もそう考える。そして、それが誰かから命じられたことだった」

「しかし、人に命じられただけで人を殺そうとするかな‥‥」

「‥‥しないと思う。だから国崎自身にも、命じた人間にも共通した利害が存在した筈だ。森重に生きていて欲しくない何かがあったんだと思うけど、残念ながら、森重自身にはその認識はなかったようだ。認識していれば森重本人の口からそれが聞ける筈なんだけど」

「健ちゃんには、その命じた人間の目星はついているのか」焼酎の水割りを飲みながら石山田は聞いた。

「国崎の上司の下松という男ではないかと思っているが、死人に口なしだし、証拠もない」

「その命じた人間が、国崎を口封じのために殺したということか‥‥。つまり下松が犯人ということになるのか」

石山田の言葉に、黙って頷いた空木は、焼酎の水割りを口に運んだ。

「大月の捜査本部はどう考えているのかな。健ちゃん、西島に聞いてみたらどうだ」

「巌ちゃん聞いてみてくれないか。捜査に首を突っ込むつもりは毛頭ないんだけど、事件に関わってしまった以上は気になるんだ」


 月曜日の朝、大月中央署では捜査会議が始まった。二百人近くに及ぶ十月十日のゴルフ客への聞き込みでは、緊急車両のサイレンを聞いた話、帰りに警察の車がたくさん停まっているのを見たという以外は、事件に関係するような情報は得られなかった。

 次に大森、下松、横澤の三人の聞き取りの報告がされ、刑事たちから意見が出された。

中でも横澤の自宅からゴルフ場へ到着の所要時間が、他の二人と比べて長いことが指摘された。下松よりも早く自宅をでているにも関わらず、ゴルフ場到着が下松より遅い、ナビゲーションによる所要時間では一時間十五分ぐらいであることから、再確認が必要ではないかという意見が出された。刑事課長は、当日の中央高速の渋滞情報、三人の料金所監視カメラでの確認を指示した。

 西島からは、大森と下松の聞き取り状況から判断すれば、下松を第一の容疑者と考えざるを得ないと報告された。

 それは、捜査会議の始まる三十分程前にかかって来た石山田からの電話、つまり下松という男を疑うべき、という空木の推理の影響も少なからずあったが、昨日の下松からの聞き取りでの「国崎が森重勇作に電話をしたのではないか」という話が、西島の下松に対しての疑いを深くしていたからだった。

 捜査会議が終わって西島は、下松の自宅のプリンターの機種から、国崎に送られた手紙の印字の鑑定が出来ないか、メーカーに依頼することを刑事課長に申し出た。そして、西島は山具販売店の店内カメラでの確認を、下松との面会に自分と二度同行した刑事と一緒に終日することにした。


 空木のスマホに、大森から横澤の写真が送信されてきたのは、月曜の午後だった。その後、夕方には菊田から下松と、村内の写真がそれぞれ送信されてきた。

 空木が料理屋『たかべ』で見た常務と言われた人物は、やはり下松ではなかった。しばらくして、また空木のスマホが鳴った。今度は菊田からの電話だった。

 「下松部長が誰かと『たかべ』に行くようです。日時も相手もわかりません。大森に確認しましたが、例の飲み会ではないようです。横澤副支店長が行くかどうかはわからないそうです。営業推進部の村内さんもわかりません。全く別の人かも知れませんが、近いうちに行くことは間違いありません」菊田の声は抑えた低い声だった。

「わかりました。それから別件で菊田さんにお願いなのですが、先日『たかべ』に行った際に、御社の常務と言われる方を見かけたのですが、顔と名前が判るような物は手に入りませんか」

 常務と言われる人物の名前が判ったところで、新たな情報が手に入る訳ではないのは承知している空木だったが、会社の休日に来店して、女将が付きっきりになる人物に大いに興味を持った。

「空木さん、もう『たかべ』に行ったのですか。動きが早いですね。領収書はちゃんと取っておいてください。調査料としてお支払いしますから心配しないでください。それと役員の顔と名前ですが、私もわずかながらの株を持っている株主ですから、株主総会用の議案書が送られてきます。その中に取締役の顔写真もありますから、鮮明ではないかも知れませんが、空木さんのスマホに送ります」

「すみません、ありがとうございます。菊田さんは若いのにホープ製薬の株を持っているんですね」

「持っているとは言っても、旧太陽薬品の株を持っていたものが、合併でホープ製薬の株になっただけのことです。旧太陽薬品の株で儲けた人もたくさんいたみたいですけど、私はそれが出来ませんでした。バカ真面目ってやつですか。ハハハ」菊田は小声を忘れて大声で笑った。

 菊田からの話を聞いた空木は、明日から『たかべ』通いになると覚悟した。


 西島が「似ている」と呟いて、下松との聞き取りに同行した刑事を手招きした。

西島が指差したパソコンの画面を見た刑事が「係長、マスクをしていますが下松ですよ」と声を上げた。

「多分、間違いない。ただ、何を買ったのかまではこの画面では確認できない」

「そうですね、とは言え下松が、山具店で何かを買ったことは間違いないことです。あとは、プリンターの印字の機種が特定出来たら、ガサ入れすべきだと思いますが‥‥」

「俺もそうすべきだと思う。課長と相談する」

 刑事課長は、決定的な証拠とまではいかないかも知れないが、ガサ入れする価値はある。プリンターの結果次第で動くこととし、それまでは下松を張るように西島たち刑事に指示した。


 「いらっしゃいませ」の声に迎えられて、空木は『たかべ』のカウンター席に座りビールを注文した。

 カウンター越しに「土曜日に来ていただいたお客さんですね。ありがとうございます」と板前が礼を言った。

 ビールを運んできたのは、女将だった。

 「また来ていただいてありがとうございます。空木さんでしたね」

空木は、今日も酒肴三種盛りと比内地鶏の照り焼きを注文した。

「今日は、ホープ製薬の役員の方は来ていませんね」空木は、カウンター内の板前に小声で聞いた。

「ええ、平日は滅多にお越しにはなりません。別の常連さんが、明日来られるようです。コロナの影響で売り上げ激減ですから、ホープ製薬さんはありがたいお客さんです」

 空木は、下松かと思ったが、口に出すわけにはいかなかった。

 ビールを飲み終わって、照り焼きを口に運び、焼酎のロックを注文した。

 焼酎を運んできた女将に「ホープ製薬の方たちは、良く来られるみたいですね」と空木は振った。

 「あら、空木さんホープ製薬様にお知り合いがいらっしゃるんですか」

「合併した旧太陽薬品に知り合いがいるものですから、何となく親しみを感じていまして、つい聞いてしまいました」

 空木は、自分の返答が妙にわざとらしく思え、これ以上のホープ製薬の人間の話は怪しまれそうな予感がした。

 「そうなんですか、明日お二人が来てくれるみたいなんです。お二人は旧ホープ製薬の方ですが、太陽薬品の株で儲けていますから、旧太陽薬品には感謝していると思いますよ。実は、私もそうなのですけどね」女将はそう言って、舌を出して微笑んだ。

「女将さんのお店も、コロナの影響でお客さんは減っているのですか」空木は話を変えた。

「そうなんです。宴会がぱったり無くなって、持続化給付金なんかも申請しましたけど、青息吐息です。空木さん助けてください」

女将は小さな顔を曇らせ、小さく溜息をついた。「助けてください」の言葉が空木の耳に残った。

 空木は二杯目の焼酎のロックと「いぶりがっこ」を頼んだ。

 ほろ酔いの空木の頭に、太陽薬品の株で儲けた話を、別のどこかで聞いた記憶が浮かんだ。空木は、バッグから手帳を取り出し、ページをめくった。面会した順に、大森、菊田、吹山、山路とめくって、手が止まった。ホープ製薬販売企画一課の山路貴子からの聞き取りのページだった。「国崎課長は、太陽薬品の株で儲けたようで旧太陽薬品には良い印象を持っている」というメモを見つけた。空木は、明日『たかべ』に来る客の一人が下松だとしたら、旧太陽薬品の株で国崎と下松は繋がりがあるのではないかと推理した。しかし、推理通りだとしても、それがどんな意味を持つのか空木には全くわからないが、とにかく明日もここに来るしかないと思いながら二杯目のロックを空けた。

 

 翌日、大月中央署の捜査本部にプリンターの製造会社からもたらされた回答は、西島たちの期待に反して、不明という回答だった。当該プリンターから印刷されたものを照合するのとは違い、機種からの照合は不可能だった。結果、捜査本部は現段階での家宅捜索許可状は断念することとした。

 一方、横澤の聞き取り内容の確認では、横澤は途中の談合坂サービスエリアでトイレに入ったことを言い忘れていたと説明した。

 ところが、ホープ製薬の三人が中央高速を下りた談合坂のスマートインターチェンジの監視カメラでは、横澤の下りた時刻は、自宅を出た時刻から推察して、ほぼ合致していたものの、今度は談合坂からゴルフ場への所要時間に新たな疑問が残った。

 さらに捜査本部は、下松の中央高速を下りた時刻が、自宅を出たという七時五十分に対して異常に早い時間に、談合坂を下りていることにも疑問を抱いた。

 結果として、捜査本部は下松と横澤の二人に任意出頭を求めるとともに、任意の提出物としてETCカードの提出を求めることとした。そして、直ちに二人に出頭要請の連絡を取った。二人とも明朝、大月中央署に出頭することとなった。

 西島はもう一人の刑事とともに、下松の張り込みの交代に出る準備にかかっていた。

 「係長、下松と横澤はお互いに連絡を取り合いますかね」

「辻褄を合わせなければならないことがあればするだろうな。携帯電話でいくらでも連絡は取れるから、スマホの差し押さえでもしない限り、防ぎようはないよ」

 準備を終えた西島たちは、中央線で大月から神田に向かった。


 菊田から送られて来た、ホープ製薬株主総会議案書に掲載された役員の顔写真は、不鮮明ではあったが判別には十分だった。

 社長、副社長、常務取締役二名、取締役四名の計八名で常務の名前は、星野孝夫と神田徹とあった。空木は、「この人か」と呟いた。神田徹、取締役常務執行役員営業本部長だった。

 空木は、ベランダに出て煙草を吸いながら、九合目付近から上を雪化粧した富士山を眺めながら、大森が言っていた「KKK」という言葉を思い出していた。あの時は、恐らく何かの頭文字だと思ったが、見当はつかなかった。しかし今、空木は神田という名前を見て神田、下松、国崎の頭文字が浮かんだ。三人のイニシャルはKKKだ。営業本部長、販売企画部長、販売企画課長の集まりなのか。そう言えば、神田、下松、古河こがもKKKではないか。営業本部長と二人の部長の集まりかも知れない。しかし、それなら周囲に内密にするようなものではない筈だし、そもそも古河は旧出身会社がホープ製薬ではないことから、このKKKではないだろう。神田、下松、国崎のKKKにしても、国崎が亡くなって消滅することになる。そもそもKKKとは恐ろしい言い方だ。「クー・クラックス・クラン」アメリカの白人至上主義を唱える秘密結社を思い浮かべてしまう。まさか旧太陽薬品を抹殺する合言葉なのだろうか。空木は、そんなことを考えていた。


 夜空に浮かんだ弦月を見ながら、今夜も空木は『たかべ』に入った。

 「空木さん連日来ていただいて、ありがとうございます」

 女将の挨拶に合わせて板前の二人も「いらっしゃいませ」と声を合わせた。

カウンター席に座った空木にビールを運んできた女将が「仲居さんには休んでもらっています。私ですみません」と言って笑った。 

 しばらくして、玄関戸が開き「いらっしゃいませ、お久し振りです」と言う女将の声に迎えられて、スーツ姿の一人の男性客が入って来た。

 空木は、スマホを取り出して大森から送られてきた写真を見て「横澤‥‥」と呟いた。下松が会う男は横澤なのか。

 空木はビールを空けて焼酎のロックを注文した。

 女将が奥の部屋に横澤を案内すると、年長の方の板前が「あの方がホープ製薬の方です」と小声で空木に言った。

 時計は六時半になろうとしていた。

「いらっしゃいませ、お待ちしていました」女将の声に、空木が玄関を見ると、またスーツ姿の一人の男が入って来た。

「‥‥下松だ」空木はスマホの画面を見ながら呟いた。

 二人は一体何の話をするのか。女将が、横澤が居る奥の部屋に、下松を案内するのを見て、空木が板前に目を会わすと、板前は小さく頷いた。

 しばらくして空木は二杯目のロックを注文して、奥の部屋のさらに奥にあるトイレに立った。二人のいる部屋の前をゆっくり歩いてみるが、声を聞くことは出来なかった。

 そして空木がトイレから出て来た時、トイレに入ろうとする下松とすれ違った。すれ違いざまに「くそ」と小声で呟く下松の声が、空木の耳に入った。

 空木が席に戻ってしばらくして、横澤が部屋から出て来た。二人が店に入ってまだ一時間も経っていない、料理の注文だろうかと空木が思った時、横澤の声がした。

 「私はちょっと用事が出来て先に帰るので、会計は下松さんでお願いします」

 もう帰るのか、今からの用事とはどんな用事なのだろう。後を追うべきかと思いながら、空木は焼酎のロックを一気に飲んだ。

 空木が「会計お願いします」と言うのと同時に、横澤は玄関戸を開けて出て行った。急いで会計を済ませた空木が、後を追って急ぎ足で芸者新道を東へ向かった。

 「空木さん」名前を呼ばれた空木は、驚いてつまずきそうになった。

「空木さん、西島です。こんなところで何をしているんですか」

「あ、西島さん」空木は目を丸くした。

「話は後で、電話します。今、西島さんの前を通って行った男を追っているんです。急ぐので失礼します」

「その男なら、そこを右に曲がって行きましたけど、誰なんですか」

「ありがとうございます。後で必ず電話します」

 空木は走った。ほろ酔いが飛んでしまいそうだった。

 神楽坂の人通りが少ないのが幸いして、スーツ姿の背中が見えた。外堀通りの交差点で、スーツ姿の男に追いつき、横に並んだ。

 マスクを着けてはいるが横澤に間違いなかった。

 交差点で立ち止まった瞬間に酔いが回った空木は、交差点を渡る横澤のすぐ後ろを歩いた。横澤は、JR飯田橋駅から中央総武線で、新宿で降り、京王線に乗り換えた。

 空木は横澤に顔を知られていないのが幸いした。マスクを着けて横澤の隣に座った。座って落ち着いたのか、空木は西島刑事が何故あそこにいたのか、改めて不思議に思った。

 西島も、もう一人の刑事と思われる男も横澤を知らなかった。考えられるのは下松だ。下松を尾行していたに違いないと確信した。捜査本部は下松を容疑者としてマークしている。

 ところで、横澤は新宿で降りなかったが用事とは何だろう。下高井戸で東急世田谷線に乗り換えた横澤は、松原駅で下車し、公園近くの自宅へ帰宅した。住所は世田谷区赤堤とあり、住宅街の中の比較的大きな一軒家で高級外車が車庫に停まっていた。

 空木は、ここまでの横澤の行動が、自分の期待通りでなかったことで、急に肩の力が抜けた。横澤は用事があると言って店を出たが、偽りだったかも知れない。いずれにしても店には一時間もいなかったことを考えると横澤と下松は、お互いに、またはどちらかに何かを伝える為か、確認する為に会ったのではないだろうか。しかも電話では済まない用件だった。店のトイレの前ですれ違いざまに言った下松の「くそ」には、何か意味があるのかも知れないと空木は推測した。

 空木は、駅に戻りながら西島刑事の携帯に電話をしたが、留守番電話になっていた。

 西島から空木に電話が入ったのは、空木が国立駅から自宅に向かって歩いていた九時過ぎだった。

「さっきは電話に出られなくてすみませんでした。空木さん、あそこで何をしていたのですか。あの追いかけていた男は誰なのですか」

「私の方も西島さんたちが、あそこで何をしていたのかお聞きしたいところですが、間違っても下松を張っていたとは言えないでしょうから、西島さんの質問に答えることにしましょう。私は、依頼された仕事の関係上、下松が『たかべ』という料理屋で誰かに会うという情報をもらって、あの店で誰と会うのか探っていたんです。そこに来たのが横澤というホープ製薬の東京支店の副支店長だったんです。二人とも私の仕事上のターゲットなのですが、先に店を出た横澤を追うことにしたという訳です」

「あの男は横澤だったんですか‥‥。私らは、横澤の顔を知らなかったのですが、横澤はあの『たかべ』で下松と会っていたということですか」

「そうです」

「それでその横澤はどこへいったのですか」

「西島さんたちが張っていた下松はどこかへ行きましたか。先にそっちから教えていただけると嬉しいですね」

「なるほど、そうですね。下松はあの後、八時過ぎに店を出て、真っ直ぐに西新宿五丁目のマンションに帰りました。今、それを見届けたところです。そちらは」

「こっちも残念ながら、世田谷区赤堤の豪邸に真っ直ぐ帰ってしまいました」

「そうですか、二人とも明日は、うちの署に来なければならないので早めに切り上げたんでしょう」

「二人を呼んでいるのですか」

「おっと、それは聞かなかったことにしてください。空木さんも一度、任意出頭ではありませんけど、捜査協力という形で大月の署まで来ませんか」西島は本気とも冗談ともつかない言い方をした。

「行っても良いのでしたら、近いうちに行きますよ」

 空木もひょっとすると、下松、横澤に関して何らかの情報を聞けるかも知れないという欲が出た。


 翌日の木曜日、下松は九時過ぎに、横澤は十時近くにそれぞれ大月中央署に任意出頭して来たが、二人が顔を会わせることはなかった。

 西島は、下松の事情聴取を受け持って取調室へ入った。任意提出を求めていたETCカードを受け取り、担当官に十月十日の使用状況を確認するよう指示した。

 「事件のあった日の朝のことを聞く前に、下松さんに是非見ていただきたい画像があります」西島はそう言うと、用意していたパソコンの画面を下松の方に向け、西島自身も下松の後ろに立った。

「国崎さんの殺害に使われたロープは、ザイルロープといわれる山具店で売られているものです。その犯行に使われたザイルロープは六メートルの長さで、それは新宿の店で十月三日土曜日に販売されたことがわかりました。それでその日の店内のビデオを丹念に調べましたら、マスクを着けていますが下松さんによく似た人が、何かを買っている画像を見つけたんです。下松さんには、それがあなたなのか、今から確認していただきます」

 下松の背中が固まっているのを、西島は感じていた。

 「‥‥十月三日は確かにこの店に行きました。これは私に間違いありません」

「何を買いましたか。ロープを買ったのではないですか」

西島は、下松の後ろから席に戻り、下松を睨んだ。

「いいえ、この日買ったのは、虫よけのハッカスプレーでした。翌週のゴルフに備えて買いに行きました」

下松はパソコンの画面から目を離した。

「ハッカスプレーを買ったんですか。わざわざそれを買いに山道具の販売店に行った。ロープは買わなかった‥‥」

「ロープなんか買っていません。北見のハッカスプレーは昔から気に入って使っているんですが、東京では山具店で売っているものですから、買っています。ゴルフの同行者に聞いていただければわかります。ハッカの匂いは特徴的ですから、記憶に残っている筈です」

「ハッカスプレーの他に、ロープも買ったのではありませんか。あなたは、森重勇作さんの犯行に見せかける為に、わざわざ登山用のロープを使って、国崎さんの首を絞めたのではないですか」

西島は、下松の応答に業を煮やしたのか、捜査本部の推理を突き付けた。

「何をバカな事を言っているんですか。何故、私が国崎を殺さなければならないんですか。曲がりなりにも国崎は私の部下です。動機もない私が、殺した証拠でもあるんですか」下松は気色ばんで大声で返した。

「‥‥まあ、この件はいいでしょう。では、事件のあった日の朝のこと、ゴルフ場に到着するまでのことを詳しく聞かせていただけますか。こちらの調べでは、談合坂のスマートインターチェンジを下松さんは、八時二十一分に通過していますが、西新宿のご自宅を出られた時間は、あなたの話では七時五十分に出たと言われました。わずか三十分で談合坂に行くのは、尋常なことではありません。説明していただけますか」

 西島の前には、パソコンから打ち出された、ETCカードの使用履歴が置かれていた。

 「本当に申し訳ないことですが、寝坊してしまい、首都高、中央高速を、百五十キロを超えるスピードで走ってしまいました。事故を起こさずに済んで幸いでした」

「‥‥そうですか、では、談合坂からビッグムーンゴルフクラブまで一時間近くかかっていますが、どこかに立ち寄っていたんですか。寝坊したのにおかしいですね」

「朝の遅れを取り戻したので、コンビニに寄って朝食を食べて休みました。あんなスピードで走るとやはり疲れました」

「どこのコンビニですか、鳥沢ですか」

「いいえ、四方津しおつの駅を上野原方面に少し走ったところのコンビニです。三十分ぐらい駐車していたと思います」下松は全く慌てる様子もなく、平然と答えた。

「調べれば判ることです。いい加減なことを言わないでください、下松さん」

 西島は、同室の刑事にコンビニでの確認を指示した。

 「もう一つお聞きしますが、今日ここに来ることを誰かに話しませんでしたか。例えば昨夜、横澤さんと今日の話をされませんでしたか」

「‥‥それはどういう意味ですか」

 下松が西島の質問の裏に、何かあると疑っていることが、西島には感じ取れた。

 「横澤さんに昨晩会っておられたようですが、何を話されたかという意味です」

「何故それを‥‥、尾行していたんですか。横澤には会いましたが、今日の出頭の話はしていません」

「では今日、横澤さんもここに来ていることはご存知ないということですか」

「え、横澤が‥‥」下松の目が、ほんの少しだけ宙を泳いだ。

 

 横澤の事情聴取は、下松の聴取から一時間程後に始まった。

 ETCカードの使用履歴が刑事の前に置かれ、刑事は、談合坂のスマートインターチェンジの監視カメラの画像に映された車の写真を、横澤の前に置いた。

 「横澤さん、ご自宅を出てから談合坂を出るまでは、トイレに入ったことを含めて整合性は取れています。教えていただきたいのは、談合坂からゴルフ場に着くまでの時間が、五十分ほど掛かっています。これはどこかに立ち寄っていたのではありませんか」

「時間に余裕がありましたから、一度行って見たいと思っていた猿橋を見に行ってきました。日本三大奇橋ですから、こういう時でもないと見られませんから」

「何故、この前の聞き取りでそれを言わなかったんですか」

「聞かれなかったので話しませんでしたが、すみません」

「横澤さん、昨日、神楽坂で下松さんと会っていましたね」刑事は単刀直入に聞いた。

 横澤が驚き、明らかに動揺したのを聴取の刑事は見た。

 「何故、それを警察が知っているのか恐ろしいことですが、確かに会っていました。それがどうかしましたか」横澤は開き直ったかのように答えた。

「下松さんと今日の聴取の件について、何か話をしたのではありませんか。何を話したのか聞かせていただけませんか」

「今日の件は、話していません。何を話したのかはプライベートなことなので言えませんが、ある事の相談に乗っていただきました」

動揺していた横澤が、落ち着きを取り戻していた。


【疑惑Ⅱ】

 空木は、ホープ製薬の菊田と大森に、昨晩確認した神楽坂の『たかべ』での下松と横澤の飲食の件を伝え、精算したのが下松だったことから、菊田には、しばらくしたら経費精算の有無の確認をしてみるよう依頼した。

 大森からは、上司の東京支店長の協力により、内密に横澤副支店長の合併後の経費精算を確認したところ、『たかべ』での精算は出てこなかったが、いくつかの不審な清算が出てきた。すべての案件の確認にはしばらく時間がかかるが、不正を見つけられるかもしれない、と伝えてきた。

 二人への連絡を終えた空木は、次に森重勇作に今日の午後、杏雲大学病院に入院中の息子の裕之に話を聞きたいと思っていることを伝え、本人への連絡を依頼した。

 

 空木は、午後のリハビリが終わった森重裕之と、リハビリ病棟の談話室で父親の勇作も同席して面会した。

 森重の足は、まだまだ不自由で車椅子での移動だったが、両足ともに感覚が少しずつ戻ってきているらしく、表情は明るく、十日前に会った時よりもずっと前向きになっている印象を空木は受けた。

 「森重さん、リハビリ頑張っているみたいですね」

「あんなことをした私が、どんな顔で空木さんに会ったら良いのか、正直恥ずかしいのですが、今はリハビリを精一杯続けることが私のできることと思い、周りの人たちに感謝する気持ちで頑張ろうと思っています」

「そうですか、その一生懸命が、私の好きな言葉の「く生きる」ということなのです。ご家族もきっと嬉しいでしょう。私もこういう森重さんを見ると嬉しくなります」

森重は、空木の言葉に嬉しそうに微笑んだ。

「空木さんは、最近も山に登っているんでしょうね」そう言って森重は窓の外に目をやった。

「森重さんと三ツ峠山で一緒になって以降は、大月の権現山と扇山に登りましたよ。三ツ峠山からの富士山の眺めとはいきませんが、しっかり見えましたよ」

 空木の話を聞く森重の目は、窓からは見えない山々を眺めているように、遠くを見つめる目になっていた。

 「ところで森重さんにとって、辛い記憶を呼び起こすことになるかも知れないのですが、お聞きしたいことがあります。いいでしょうか」空木は、森重と父勇作の双方に話しかけるように二人を見ながら言った。二人は頷いた。

 「あの日、私と森重さんがいた三ツ峠山に、亡くなった国崎さんもいたことがわかりました」

森重は「えっ‥‥」と絶句し、勇作は黙って空木を見つめていた。

「それは間違いないのですか」森重は混乱しているようだった。

「‥‥だから親父は、僕に国崎さんと山の話をしたのか聞いたのか」

「その時はまだ、国崎さんなのか、誰なのかわからなかったのですが、お父さんにも協力していただき、最終的には警察の調べで判ったことですから、お父さんも今の私の話で知ったということです」

「空木さんは、お前の転落に疑問を持ってくれていたんだ。その疑問を解こうとして、国崎さんが、お前が登った山と同じ山に、同じ日に登っていたことに行き着いたんだ。たった一晩、一緒の山小屋にいただけのお前のために、これだけ動いて調べてくれた空木さんには、感謝しかないぞ」

 森重は、勇作の言葉に黙って天井を見つめた。

 「空木さん‥‥、妻の由美子からも聞きましたが、私のために調べていただいたこと、本当にすみませんでした。私は、とんでもないことをしてしまったと後悔しています。しかし、何故国崎さんは、三ツ峠山にいたのに私と会おうとしなかったのでしょう」

「そのことは、私も含めて多くの人が疑問に思っていることです。‥‥言いにくいことですが、これはあくまでも私の推測ですが、国崎さんは森重さんを突き落とすチャンスを狙って、森重さんと同じ山に登ったのではないかと思っています。もしかしたらあの日の朝、頂上のどこかに隠れていたかも知れません。そこでチャンスを狙っていたら、森重さん自ら転落してしまった。それは国崎さんも慌てたでしょう。」

「私を突き落とそうとしたなんて‥‥。確証があるのですか」

森重の顔は信じられないと言っていた。

「何の証拠もありません。偽名で宿泊していたという事実があるだけです。偽名で宿泊していたから、あなたが転落したところを見ても通報は出来なかった。その場にいたら疑われる。逃げるしかなかった。結果としては、あなたを突き落としたのと変わらない結果になってしまった」

「‥‥偽名で宿泊ですか‥‥」

 横で聞いていた勇作が、天井を仰いで大きな溜息をついた。

 「それで、改めて森重さんにお聞きしたいのですが、国崎さんとそれまでに話をした中で、国崎さんの態度とか言動とかで気になるようなことがなかったか、思い当たることがあれば思い出していただきたいのですが、いかがですか」

 森重は、車椅子の肘掛を握りしめて、黙って俯き考えているようだった。

 「思い当たることですか‥‥。一度だけ国崎さんが、話を途中で止めてしまったことがありましたね。話好きな国崎さんでしたから、気分を悪くさせたかと思いました」

「その話を聞かせて下さい」

「いつ頃だったかよく覚えていませんが、私が国崎さんに「旧太陽薬品の株で儲けられたそうですね。合併の発表の前の、うちの株は異常に安かったですからね」と話しかけたように記憶していますが、国崎さんは「誰から聞きましたか」と聞いてきて、私があやふやに答えると「トイレに行く」と言って行ってしまったんです。本当にトイレに行きたかったのかも知れませんが、「おや」と思ったので記憶しています。でもそれが三ツ峠山に登ったことと関係しているとは思えませんが」

 森重の話を聞いていた空木は、また太陽薬品の株の話が出てきたなと思いながら、疑惑の想いがまた膨らんだ。

 「関係しているかどうかは別にして、話を聞かせていただいてありがとうございました。またお会いしに来ますから、リハビリ頑張ってください」

 森重に別れの挨拶をして談話室を出た空木を追って、勇作が声をかけた。

 「空木さんにお聞きするのは、筋違いかと思いますが、警察からはその後何も音沙汰がないのですが、私の容疑は晴れたと思っていていいのでしょうか」

「容疑者からは外れたと思いますが、捜査本部は森重さんに掛かって来た電話の相手を捜していますから、電話の声に思い当たったら警察に連絡してあげてください」

勇作は、空木に礼を言って談話室に戻って行った。

 空木が病院を出てしばらくしてスマホが鳴った。ホープ製薬の菊田からの電話で、明日の午後三時に営業推進部長の古河こがが会いたいと言っているので、日本橋のホープ製薬本社まで来て欲しいという話だった。空木は了解した。


 国立駅の北口を出た空木は、日が暮れた歩道を平寿司へ歩いた。

 「いらっしゃいませ」の声に迎えられて、いつものようにカウンター席に座った空木は、いつものようにビールを注文した。

 カウンター席の端には、先客で証券会社のOBの梅川が日本酒を飲んでいた。

 前回梅川に会った時、空木は不正、スキャンダルについて梅川に聞き、証券会社では金銭、異性関係のトラブルの他に、インサイダー情報の漏洩、インサイダー取引があるという話を聞いた。

 「梅川さんに教えて欲しいことがあるんですけど、聞いていいですか。まだ酔っていませんか」空木は、店員の坂井良子が運んできたビールを飲みながら聞いた。

「大丈夫、まだ酔っていないよ、これからだ。何を教えて欲しいのか知らないけど、私でわかることならご教授して差し上げましょう」

 空木が、もう酔っているんじゃないかと思うぐらい、梅川の機嫌は良かった。

 「インサイダーについてなんですけど、上場企業同士の合併の時のインサイダーは、特に注意が必要だと思いますが、どうなんですか」

「その通りです。証券取引所も目を光らせていますから、幹事会社となった証券会社は勿論、合併当事社の担当役員は、合併が公表されるまでは極秘中の極秘扱いで、家族にも合併情報は話せません。それをマスコミ、特に経済担当記者はスクープとして必死で探るんです。役員は、合併公表後は証券取引等監視委員会というところに、公表前後の株取引が存在しないか、徹底的に調査されますから、インサイダー取引は不可能ですよ」

「もし、公表前に情報を漏らしたらどうなるんですか」

「情報を漏らした結果、一人でも金銭的な利益を得たら犯罪です。もしも、組織的にやったとしたら、証券取引所、金融庁から厳しく処分を受けて、下手したら企業存続に影響するかも知れませんね。関係した人間は、懲役刑、罰金刑の刑事罰を受けますから、懲戒処分で解雇になるでしょう」

梅川は気持ちよさそうに日本酒を口に運んだ。

「厳しい処分を受ける訳ですね‥‥」

 空木は、ビールを空け、鉄火巻きと烏賊刺しを注文した。

 煙草を吸いに店の外に出た空木には、ある推理が浮かんでいた。その推理を如何に立証していくか、それが明日面会する予定の古河こがと菊田から依頼された仕事の結果に繋がっていく筈だと、空木は考えていた。


 翌日の午後三時少し前に、日本橋本町にあるホープ製薬を訪れた空木は、役員応接室に通され、菊田とともに古河が部屋に現れるのを待っていた。

「菊田さん、ここは役員応接室ですよね。どうしてなのですか」

 空木は、応接ソファに浅く腰を掛けて、落ち着かない様子で部屋内のあちこちを見廻していた。

 「一階の応接室を予約しておいたのですけど、部長がここに変更したんです」

 内密の話をする為に、古河がわざわざ場所を変えたのだろう、と空木は推測した。

 三時を十五分程回って、二人の男が応接室に入って来た。古河一人だと思っていたところに二人が入って来て、空木は「おや」と思いながら、ソファから立ち上がった。

 「お待たせして申し訳ありません」眼鏡をかけた小柄な男が、詫びながら空木に近寄った。

「空木さん、初めまして私が古河ですが、弊社の常務が同席しますので、先にご紹介させていただきます。事前にお話ししていなくて申し訳ありません」古河はそう言うと、常務という男の脇に寄った。

「星野です。古河部長から話は聞いています。面倒を掛けますが、宜しくお願いします」

 物腰の柔らかい、初対面でも安心感を与える役員だと空木は思いながら、名刺の交換をした。名刺は、常務取締役管理本部長 星野孝夫とあった。続けて古河とも、改めて名刺交換し挨拶をした。

 常務が同席することの意味を、空木は頭をフル回転させて考えた。星野は、旧太陽薬品の社員のトップに位置する人間の一人だろう。旧ホープ製薬のトップに位置する一人が、同じ常務で営業本部長の神

田であろうから、これは社内政争に完全に巻き込まれたかと思った。

 「空木さんが戸惑っておられるのはもっともです。私と菊田の二人と会うものだ、と思っていた筈ですから当然です。実は、空木さんにお願いした今回の依頼は、常務の了解をいただいた上で依頼させてもらったことです。言うなれば常務が依頼者ということで理解してください」

古河の説明に、空木は「わかりました」と言って頷いた。

 ドアがノックされ、秘書の女性がコーヒーを置く間、しばらくの沈黙が続き、秘書が出た後、また古河が話し始めた。

 「空木さんに調査を依頼して、まだ一週間余りですが、何か感触めいたものは掴めましたか」

「感触というよりも、私の知り得た事実をお話ししますが、現時点で下松さんと横澤さんは、国崎さんの殺害事件の容疑者と見られて、警察の聴取を受けています」

「二人が容疑者ですか‥‥」淡々と話す空木の話に、古河が驚いて聞き直した。

「あくまでも容疑者ですから、犯人ではありませんが、捜査の行方次第では、不正、スキャンダルどころの話ではなくなります。しばらく様子を見られたらいかがでしょう」

「それも一つの方法かも知れませんね‥‥」古河はそう言って常務の星野を見た。

「‥‥‥確かにそれは会社にとっても重大事です。ただ私は、彼らが事件を起こす、起こさないに拘らず、何かがあるように感じています」

 星野はコーヒーを口に運んで、空木にもコーヒーを勧めた。

 「星野さんが何かを感じているように、私も感じていることがあります。それを調べてみませんか」

 空木は、星野を常務と呼ばずに「星野さん」と呼んだ。組織の人間ではないことを、改めて主張したつもりだった。

「調べてみるというのは、我々と空木さんが、一緒に調べるという意味ですか」

「いえ、私では調べることが出来ません。星野さんたちに調べていただかなくてはなりません」

「我々しか調べられないというのは‥‥」

「株です。合併以前の旧太陽薬品の株で、不正がなかったか調べてみてはいかがでしょう」

「‥‥それは合併情報の漏洩、インサイダー取引ということですか」

 星野が眉間に皺を寄せて聞くと、空木は「そうです」と言って頷き、「これは、合併したホープ製薬にとっては、致命傷にもなる可能性もあると思われます」と言った。

 星野はしばらく考えた後、秘書を呼び、総務課の課長を呼ぶように指示した。

 「空木さんは、何故インサイダーがあったと思われたのですか」端に座っていた菊田が初めて口を開いた。

「話せば長くなるのですが、森重さんの転落事故から糸を手繰たぐっていったら、旧太陽薬品の株が出てきたということです」

「‥‥言っている意味が私にはよくわかりません」菊田はそう言って、首を捻りながらコーヒーを飲んだ。

 「失礼します」と言って空木に名刺を渡したのは、星野に呼ばれた荒浜という男だった。名刺は、総務課長 荒浜聡とあった。

 「空木さん、合併交渉にあたった役員は、ホープ側が現社長と神田常務、太陽側が現副社長と私の計四人でした。合併に合意して発表した十月一日までの三か月ぐらいは、四人で極秘のトップ交渉をした訳ですが、太陽薬品の株で利益を得たとすると、その交渉している間に株を買って、公表後に値が上がったのを見て売ったということでしょう。だとすると我々四人のうちの誰かが、インサイダー情報を漏らしたことになります」

「幹事の証券会社の可能性もありますが、証券会社の社員は、非常に厳しい監視下に置かれていますから、考えにくいでしょう。やはり星野さんが言われた通り、意図して漏らしたのか、そうでないかは別にして、その可能性が高いと言わざるを得ません」

 端のソファで話を聞いていた荒浜の顔が、次第に強張っていくのが空木には見えた。

 「調べるのは、下松部長、横澤副支店長、村内課長、そして亡くなった国崎課長の四人ですか」菊田が身を乗り出して聞いた。

「はい、その四人の方たちが、合併前に旧太陽薬品の株を買って、公表後に売っているかどうかです。役員の方たちは、合併公表後に証券取引等監視委員会がチェックしていますから、調べる必要はないと思います」

「荒浜課長、ここまでの話で大体のことは理解してくれたと思うが、合併公表前後に、インサイダー取引があったかどうか調査しなければならない。会社の存亡に関わることでもあり、内密に調査してほしい。総務部長も旧ホープだ、念のため内密にしてくれ」

「わかりました。合併公表半年前と公表直前の基準日の株主名簿を調べてみます。そこに名前があれば、次の基準日の株主名簿を調べることで、買ったことも売っているかどうかも判断できると思います。あとは名簿管理人に調査を依頼すれば、購入時期、購入した証券会社が判ると思いますが‥‥」

「わかった、それで頼むよ」

星野の言葉には力が無かった。インサイダー取引が事実だとしたら、その後の対応をどうするか考えているように、空木には見えた。

 星野と荒浜が応接室を出るのを待っていたかのように、古河がスーツの内ポケットから封筒を取り出して空木の前に置いた。

 「すでに空木さんには、調査に動いていただいているようなので、調査費が発生していると思います。これは調査料の前払い分です。お受け取りください」

 菊田が、領収書を空木の前に出して「空木さん驚きました。ありがとうございました」と言った。

 古河と菊田とは役員室のある階のエレベーターホールで別れ、空木はホープ製薬のビルを出た。

 その空木を追って、総務課長の荒浜が声を掛けてきた。

 「空木さん、先程ご挨拶させていただいた荒浜です」

空木は、突然の声掛けに驚いて振り向いた。

「空木さんは、万永まんえい製薬の村西さんと親しいそうですね。先月ですが、村西さんから突然電話があって、空木さんから連絡があったら会ってやってほしいと言ってきたんです。空木というのは珍しい名前なので、覚えていたのですが、今日こんな形でお会いするとは、びっくりしました」

空木は、退職した万永製薬の同期の村西良太の名前を聞いて、驚き「あっそうか」と声を出した。

「村西の知り合いの旧太陽薬品の方でしたか。それは大変失礼しました。村西とは辞めた万永製薬時代の同期なんです。今後ともよろしくお願いします」

空木は頭を下げた。

 空木は神田駅まで歩く間に、大月中央署の西島に連絡を入れて、明日の面会の約束を取り付けた。そして、あと一人、村西良太の携帯電話に「持つべきものは友だ、ありがとう」と伝言を入れた。


 翌日の土曜日、大月中央署の捜査本部は、刑事課長と西島の他、数人の捜査員が詰めていた。

 空木は、西島たちと一緒に会議室に入った。

 「下松さんの張り込みは続いているのですか」

「いえ、一昨日の聴取以後、止めました」

「事情聴取では収穫がなかった訳ですか」

西島は、刑事課長を見ながら悔しそうな顔で「状況証拠は揃っているのですが‥‥」と呟くように言った。

「空木さんの調査は進んでいるのですか。死んだ国崎が、三ツ峠山に偽名で泊まっていた理由わけは、わかったのですか」

「これということを掴んだ訳ではないのですが、今、調べていることがあります。ただこれは、依頼者の関係上お話し出来ません」

「それは、国崎殺害にも関係ありそうなのですか」

「わかりませんが、私の推理通りなら関係する可能性が高いと思います」

「動機に繋がるということですか」

空木は、西島のその問いには答えずに話を続けた。

「調査の結果、私の推理が確信になったら西島さんに連絡します。それよりも気になることがあります。下松と横澤の関係なのですが、西島さんはどう思いますか」

空木は、神楽坂の『たかべ』で二人が会っていたことがずっと気になっていた。

「共謀の可能性も疑ってはいますが、しっくりこないんです。課長はどう思いますか」

「口裏を合わせているようには思えないが、状況的には、空白の時間帯が共通して存在していることは疑わしい」

「空白の時間帯というのは、あの事件のあった日のことなのですか」

 西島は、空木の質問を聞き、刑事課長に目をやった。課長が頷くのを見て西島は、下松、横澤の二人が、それぞれ談合坂のスマートインターチェンジを出てから、ビッグムーンゴルフクラブに到着するまでの時間差と、二人の説明内容を話した。

 「二人が、共謀していないとすると、別々に僅かな時間差で現場に行っていた可能性もあるのではないでしょうか。あくまでも私の推理ですが、この写真を見て不思議に思ったことがあります。このロープの結び方なんです」空木はそう言って、スマホで撮影した、梨の木平で国崎が絞殺された現場写真を二人に見せた。

「‥‥こんな写真を撮っていたのですか」

「勝手なことをしてすみません。撮影許可はいただけないだろうと思って、警察が現場に来るまでの間に撮っておきました。そんなことより、この写真のロープの結び方です。被害者の首に近い方はエイトノットという登山や、ヨットでよく使う結び方ですが、柱に結ばれた結び方は、ごく普通の駒結びなんです」

「‥‥空木さんは、二人の人間が別々に結んだと言いたい訳ですか」西島はそう言うと腕組みをした。

「あくまでも推理ですが、エイトノットで結ぶ人間が、片方だけ駒結びにするとは考えにくいんです。一度結んだロープを、別人が何らかの理由で結びを解いて、また結んだがエイトノットで結べなかったのではないか、つまり、先に結んだ人間は、エイトノットが結べる人間で、二人目は結べない人間です」

「課長、もしかしたら、被害者の首の策条痕が二重についていたのは、二度絞められたあとだったかも知れません」

「一度死んだ人間を、もう一度絞め殺すのか‥‥‥」

「課長さんこれも私の推理ですが、被害者は、最初に絞められた時は、いわゆる「落ちた」状態だったのではないですか」

 空木は、同級生の石山田が国分寺東高校の柔道部員だった頃、瞬間的に意識を失う意味の「落ちた」「落ちる」という話をよくしていたことを思い出していた。

 「その後、現場に来た人間に、息を吹き返したところをまた絞められた、ということですか」西島はそう言うと、腕組みを解いて上体を乗り出した。

 空木はまた考え込んだ。一度目に首を絞めたのは下松、二度目に絞めたのが横澤だと仮定する。下松は計画的に国崎を殺害しようとした。では、何故横澤は現場に行ったのか。もしかしたらゴルフ場の入口で、偶然二人を見たのではないか。そして下松が首を絞める現場を見た。下松がゴルフ場に向かったあと、横澤は現場を確かめに行って国崎の首にロープが巻かれているのを見た。そこでたまたま息を吹き返した国崎を、柱から解いたロープで殺した。一度死んだ筈の人間を、また殺しても罪にはならないとでも思ったのか。しかし、息を吹き返した国崎を何故殺す必要があったのか。生き返って欲しくなかったのか、殺したかったのか。

 その時、空木の脳裏に、下松のすれ違いざまの「くそ」という呟きが浮かんだ。横澤は、下松を脅そうと思ったんだ。いやもう脅している筈だ。

 「課長さん、西島さん、横澤さんが証拠の写真を持っているかも知れませんよ」

空木の突然の話に、二人は一瞬言葉を失い呆然とした。

 空木は、二人に神楽坂の『たかべ』での下松の様子も含め、自分の推理を説明した。

「突拍子もない推理でしょうか‥‥」

「そうとばかりは言えないですよ。横澤は、下松と国崎が梨の木平に一緒にいる場面を撮影していた。そして、脅しに使うことを考えた」

 西島の声は大きくなっていった。

 「横澤が、下松を脅しているとしたら、金の受け渡しなり、何なりで二人はまた必ず会う筈です。課長二人を張りましょう」

刑事課長は、「やろう」と言って立ち上がった。

 

 その日の夜、空木は石山田と平寿司で飲んだ。鉄火巻き、烏賊刺しを肴に、ビール、芋焼酎といつものように二人は飲んだ。ちらし寿司を肴に石山田は、空木の焼酎ボトルで水割りを作って、飲みながら空木に言った。

 「健ちゃんお手柄かも知れないね。ただ、これから下松という男がどう出るか、窮鼠きゅうそ猫を噛む、にならなければいいけどな」

石山田の言葉に、空木は考え込んだ。


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