第8話 社内の争い

 菊田章と大森安志はJR神田駅の南口近辺の居酒屋で久し振りに会っていた。

 大森から菊田に「警察が聞き取りに来たことで会いたい」と誘ってのことだった。

 「お前から誘われて飲むのは、初めてかも知れないな。警察の聞き取りで何か言われたのか」生ビールの入ったジョッキを大森と合わせながら菊田が言った。

「特に何か言われた訳ではないんだけど、少し引っ掛かることがあって、どうしたものかと考えているんだ」

「引っ掛かること?国崎さんのことか。お前何か知っているのか」

「いや、そうではないんだが、森重の親父さんの携帯電話のことで気になることがあるんだ。警察が聞き取りに来るまでは、全然気にしていなかったんだけど‥‥」

「けど‥‥何だ。話して見ろよ。その為に俺を呼んだんだろ」

 大森は、ジョッキのビールを二口、三口と喉に流し込んで、しばらくテーブルを見つめていた。菊田も大森が口を開くのを待った。

 どのぐらい沈黙の時間が続いたのか、菊田がジョッキを空にして二杯目を注文した時、大森が口を開いた。

 「俺は、森重もお前も裏切っていた」

「裏切っていた‥‥‥。どういうことだ」

「俺は、旧ホープ製薬の幹部たちと定期的に飲んでいる」

「‥‥それが俺たちを裏切ったということになるのか?俺はそうは思わないが‥‥。ただ、そのことはある人から聞いていた」

「聞いていたのか。森重から聞いていたのか」

「まあ、そんなところだから、飲み会のことは気にしなくてもいいんじゃないか」

「ありがとう。でもそれだけではないんだ、俺は二人だけではなく、旧太陽薬品の人たちを裏切ってしまったんだと思う。連中の目的は、会社をより良くすることが目的じゃないんだ。古河部長や東京の支店長という身近な人間を潰すためで、俺を巻き込んだのは、スパイをさせるためだったんだ。俺は、お前たちに飲み会のメンバーであることを知られたくないのと、所長のポスト欲しさにスパイのようなことをした。森重の親父さんが、探偵を雇って販売企画部の調査をしようとしていることも、俺は話してしまった」

「話したのか‥‥。言わないでくれと頼まれていたのに、誰に話したんだ」

「横澤副支店長だ」

「飲み会メンバーに話したのか」

大森は黙って頷き、「すまん」と消え入るような声で言った。

「大森、それは俺に謝るようなことじゃないぞ。森重と森重の親父さんに謝らなければいかんぞ」菊田の言葉には怒気が混じった。

「わかっている。それと、もう一つ気になることがある」

「それも森重絡みの話なのか」

「絡む話かどうかはわからないが、前回の飲み会の時だったが、下松部長が俺のスマホのアプリを見たいと言って、しばらく俺のスマホを触っていたことがあったんだ。今から思えばその時部長は、自分自身のスマホに何か入力していたような気がするんだ。それがもしかしたら、森重の親父さんの電話番号だったのではないだろうかと、気になり始めたんだ」

「そうか、そしてそれを警察に言うべきか、どうすべきか、ということか」

 大森は、思い出したかのように、ぬるくなったビールをごくごくと音を立てて飲んで、「フ―」と息をついた。

 「大森、警察には伝えるべきだと思うが、一刻を争うようなことでもないような気がする。どうだろう、明日にでも空木さんに一緒に会って相談してみないか。場合によっては、空木さんから警察に話してもらうのも一つの方法だと思う」

「探偵の空木さんか‥‥‥」

「大森は空木さんにも会い難いのかも知れないが、こういう時は頼りになりそうな人だと思う。それに俺は、別件で会いたい用件があるので、俺は会いに行くぞ」

「‥‥わかった一緒に連れて行ってくれ」

 菊田は、一口ビールを飲むと、スマホを手に店の外へ出た。

 しばらくして、席に戻って来た菊田は、「明日の午後、三鷹で会うことになった」といきなり大森に言った。

 「三鷹で会うのか」

「俺から三鷹で会いたいと言ったんだ。意識の戻った森重の見舞いに、お前と一緒に行こうと思ってね。その帰りに三鷹で会いましょうということだよ。明日の午後四時三鷹駅で待ち合わせることにした」

「強引だが、了解した」

「ところで大森、何故旧ホープ製薬の飲み会の話をする気になったんだ」

「‥‥今回の人事を見て、このままではポストがなくなった先輩たちに顔向けできない、人間として恥ずかしいことはもう止めようと思った」

 二人は、改めてジョッキを合わせ、小さく「乾杯」と言った。


 大月中央署では、刑事課長と係長の西島刑事に、数人の刑事が加わって、空木から渡された「調査報告書」を前に置いて、話し合っていた。

 「筆跡鑑定の結果次第ですが、国崎が偽名で三ツ峠山に行っていたのは、自分の意志だったのか、誰かの指示だったのかは重要なポイントになりそうです。もし、誰かに命じられたのであれば、その命じた人間にとって、その目的次第によっては、国崎はいてもらっては都合の悪い存在になるのではないでしょうか」西島は静かに刑事課長に話した。

「その命じた人間が、この調査報告書に出てくる下松という部長ではないか、と言いたい訳か」

刑事課長は、椅子を左右に振りながら西島に言って、さらに続けた。

「そして、その命じた人間が国崎を邪魔な存在として殺害したという筋書きか。森重勇作に電話をかけて来た人間が、国崎に命じた人間と同一人物だとなれば、森重を呼び出した理由はともかくとして、そいつが犯人に間違いないだろうな」

「課長、取り敢えず下松の当日のアリバイを確認してみる必要はあるんじゃないですか」

「大森の聞き取りの時に、たまたま聞いたのですが、当日、下松という男は、大森と東京支店の横澤という副支店長と三人で、ビッグムーンゴルフクラブでゴルフをしていたようです」傍らの、大森安志の聞き取りに当たった刑事が、手帳を見ながら言った。

「ビッグムーンゴルフは、扇山の麓、梨の木平付近が入口になっていますよね。課長、裏を取りましょう」

「わかった、そうしよう。それと西島、筆跡鑑定の結果で、偽名の主が国崎だとなったら、下松に聞き取りに行ってくれ」

 西島たち刑事は、課長の机から仕事に散った。

 

 その日の午後、ビッグムーンゴルフから戻った刑事が、課長に報告した。

 「課長、大森安志の話の通りでした。九時四十五分アウトスタートで、下松、大森、横澤の名前がありました。ゴルフをしていたのは間違いないようです。念のため、その日のチェックインのサイン名簿のコピーを持って帰ってきました」

「課長、九時四十五分のスタートだったら、梨の木平で殺す時間はぴったりです。ロープを持って歩いていた人間を見ている客がいるかも知れませんね」横で聞いていた西島が、身を乗り出すようにして言った。

「よし当たってみよう。当たる客数は多いぞ、空いている全員で手分けして当たってみてくれ」  

 課長の指示によって、およそ二百人の当日の客に当たることとなった。


 杏雲大学病院に入院している森重を、菊田と大森は見舞った。

 「森重の意識が戻ったのを聞いて、早く来たかったのですが、遅くなりました」菊田は、森重の妻の由美子に挨拶した。

「お忙しい中、お二人揃ってわざわざ来ていただいてありがとうございます。主人も何とか、リハビリが始められるまでになりました」由美子はそう言って、二人をベッドサイドに案内した。

 リハビリから戻ったばかりだったのか、森重はベッドに腰をかける格好でいた。菊田が森重と話しているしばらくの間、大森は黙って聞いていた。

「森重、今日この後、古河こが部長から頼まれている件で、空木さんに会おうと思っている。お前も承知しておいてくれ」

菊田の言葉に、森重は大森に目をやった。

「大森なら心配ない。おい大森、お前、森重に何か言うことがあるんじゃないか」

 大森は小さく頷いて、一歩二歩と森重に近付いた。

 「森重、申し訳ないことをした、謝る。すまなかった。お父さんにも俺が詫びていたことを伝えて欲しい」大森は深々と頭を下げた。

 森重は驚いて菊田を見て「どうしたんだ。親父にも、とは‥‥」と小さく言った。

 「昨日、旧ホープ製薬の飲み会に関わることを全部話してくれた。俺たちに謝りたいということだ。この後会う予定の空木さんにも一緒に会う。親父さんへの詫びについては、約束を破ったことを謝っているんだが、いずれ森重にもわかるだろうから気にするな」

「‥‥そうなのか。空木さんに二人一緒に会うことは、古河部長も承知のことなのか」

「いや、話はしていないが、ダメかな‥‥」

「承知すると思うが、話しておく方が良いよ」

「わかった」菊田はそう言うと腕時計を見た。

 菊田と大森は、病院を出て空木と待ち合わせの三鷹駅に向かった。


 空木は、三鷹駅の南口を出た歩道橋の上で待っていた。

 空木が大森に会うのは、甲府で会って以来二度目、菊田に会うのは同じ三鷹で、国崎が三ツ峠山の偽名の宿泊客ではないかと話して以来三度目だった。

 三人は、近くのコーヒーショップに入り、コーヒーをプレートに乗せ、奥のテーブルに座った。空木は、この店に入るのも三度目になった。

 「菊田さん、私に相談したい事というのは何でしょう」

 菊田は、大森に目をやり、大森から昨夜聞いた、下松が飲み会の場で大森のスマホから森重勇作の携帯電話の番号を盗み知った可能性があることを空木に話した。

 警察に話すべきだと思うが、先に空木に相談してからでも遅くはないと考え、相談に来たと説明した。

 「それは、私から大月の警察に伝えてくれということですか。私から伝えても、警察は大森さんを参考人として会いに来ると思いますよ」

「それはそれで構いません。先日の聞き取りの時には、思い浮かばなかったのは事実ですから」大森が答えた。

「しかし、下松さんは、どうして森重さんのお父さんの存在を知り、気にすることになったのでしょう」

空木はそう言いながら、電話番号を知りたいだけなら大森に教えてくれと言えばいい筈なのに、とも思っていたが、口にはしなかった。

「‥‥それは、私の所為せいです。私が、森重の親父さんと空木さんが森重の職場を調べていることを話したからです。誰にも言わない約束をしたにも関わらず、申し訳ありませんでした」

大森はテーブルに両手をついて頭を下げた。

「下松さんに話したのですか‥‥」

「いえ、下松部長に直接ではありませんが、横澤副支店長に話しましたから、横澤さんから伝わっていたと思います」

「わかりました。そうしましたら、もう少し詳しく状況を確認させてください。その飲み会の場所、日時、メンバーを教えてください」

 空木はボールペン手にして、手帳を取り出した。

 「飲み会の場所は、毎回同じところで、神楽坂かぐらざかの『たかべ』という料理屋です。月に一回のペースで集まっていて、私のスマホを下松部長が触っていたのは、十月二日金曜日の飲み会でした。メンバーは下松部長、横澤副支店長、それと私が毎回出席で、国崎課長と村内課長が稀に参加していました。先日の会には、村内課長も参加していました」

大森は、口が渇いたのか水を口に運んだ。

「村内課長というのは‥‥」

「営業推進部の課長です。古河部長の部下です」

「その飲み会では、どんな話をするのですか」

「特に決まった話題がある訳ではなくて、飲み会の話、ゴルフの話、家庭の話やらという、ごく普通の飲み会ですが、時折、幹部の情報というか、常務がこう言っているとか、あの支店長はこうだとかの話をしていました。私は聞いていることがほとんどでしたが、東京支店長の話になると、ゴルフは何回行ったとか、どこに飲みに、誰と行ったとかは良く聞かれました」

「緊急事態宣言が出ている間も飲み会はやっていたんですか」

「時間を早く始めて、早く終わるようにしてやっていました。『たかべ』に気を遣っているんじゃないかと思うぐらい、律儀にやっていましたね」

「そのメンバーとは、その『たかべ』という料理屋での飲み会だけですか。例えば、ゴルフとか旅行とかですが」

「旅行はありませんでしたが、ゴルフは誘われて二、三回行きました。あの日も誘われて行っていました」

「あの日と言うと‥‥」

「国崎さんが殺害された日です。刑事さんにも話しましたが、ビッグムーンゴルフクラブで下松部長と横澤副支店長の三人でラウンドしました」

「扇山の麓のゴルフ場ですね。どなたかがメンバーなのですか」

「下松部長がそこのメンバーで月に一回ぐらいのペースで行っているようです」

大森の話を聞いた空木は、ある確信を持った。

「大森さん、近いうちにそのゴルフの件で、警察が細かい話を聞きに来ると思っておいた方がいいですよ。それ以外はありませんか」

「それ以外ですか‥‥。そう言えば私には声が掛からない会があるようでした。時々、「次のKKKはいつ」とか言っているのを聞いたことがあります。私には何のことかわかりませんが、何かの集まりのような感じがしました」

横で聞いていた菊田が、「KKK‥‥」と呟いた。

 空木が「わかりました」と言うのを待っていたかのように菊田が「空木さんにもう一つ頼みたいことがあります」と切り出した。

 「私は、十月から森重の後任の課長になって、業務を引き継ぎましたが、古河部長からの仕事も引き継ぎました」

 大森が隣で「俺が居ていいのか」と小声で言った。

 「お前にも聞いていて欲しい。というより協力してほしいんだ」

菊田は大森を見て言った後、再び空木への話を続けた。

「古河部長から森重に託した仕事というのは、下松部長たち旧ホープ製薬の幹部の不正を探れという指示で、森重は『たかべ』の飲み会メンバーは大森を含めて掴んだそうですが、不正の有無を確認するまでには至っていません。私はその後を調べることが、託された仕事なのです。空木さんにお願いしたいことは、そのメンバーの不正、スキャンダルの調査なのですが、受けていただけないでしょうか」

 空木は、「うーん」と唸り、腕組みをして考え込んだ。

 「社内の勢力争いですか。人の弱みを探るというのはあまり気が進みません」

「弱みを探る仕事ではありません。合併した会社に不正があれば、それを正して膿を出す。意欲に燃えている若手、中堅の社員たちが、胸を張って良い会社だと言える、好きになれる会社にするための仕事です。ダメですか」

 菊田という男は、森重の時もそうだったように、熱くなる男だと空木は感じながら、自分が万永製薬を辞めた時を思い浮かべ、菊田のような姿勢で会社と向き合うことも必要だったのだろうと思った。

 「‥‥‥わかりました。出来るだけのことはやってみましょう。ただ、私は社外の調査中心に動きますから、経理などの社内の調査は菊田さんに全て任せます。それとこの話は、古河さんという方は承知ということですね」

「はい、勿論です。いずれ空木さんに古河部長を会わせます。ありがとうございます」

 空木は、下松をはじめ横澤、村内という人物の情報を、大森と菊田の知る限りについての情報を聞いた。

 「ところで菊田さん、不正は確認出来なかったと言われましたが『たかべ』の精算に不正は見つかっていないのですか」

「はい、警戒しているのか、森重が経理部の知り合いに調べてもらったようですが『たかべ』の「た」の字も出てこなかったようです」

「大森さんは、精算の際に支払っていましたか」

 空木は、大森を見た。

「いえ、一度も払ったことはありません。誰が払っていたのでしょう」

「あなたの弱みを握る意味では、支払わせなかったということでしょう」

「私の分を他の人間が、かぶっていたということですか」

「そうなりますね。それから、私は下松、横澤、村内の三人とも顔がわかりません。出来たら写真を私のスマホに送っておいていただきたいのですが、出来ますか」

菊田は大森を見てから「私が、下松部長と村内課長の写真を用意して、大森が横澤副支店長の写真を用意するようにします。大森いいな」

大森は頷いて「OK」と言った

「私は、お二人からの情報を基に、聞き取りをしたり、尾行をしたりすることになります。あくまでも、あなた方が中心であることを十分ご承知ください。宜しいですね」

二人は頷いた。

 二人と三鷹駅で別れた空木は、三鷹から国立への電車の中で、依頼されたスキャンダル探しより、下松が森重勇作に電話をした人間だとしたら、何故扇山に呼び出したのかを考えていた。

 それは、国崎を殺害した犯人であって、勇作の仕業に見せかけるためだったのだろうと考えた。それは、森重勇作には国崎を殺害するだけの動機があると、警察が判断すると下松は予測したからだ。しかし下松は何故、国崎を殺さなければならなかったのか、最も重要なその動機は何か。森重勇作が、国崎の三ツ峠山での目的を知ったとして、国崎がそれは下松から命じられたと告白したら、自分はどうなるか。それが動機で口を塞いだのか、それで人を殺すのか。

 

 空木が国立駅の改札口を出た時、駅の時計は六時を回っていた。

 平寿司の暖簾をくぐると、先客が三人カウンターに座っていた。一人は証券会社を定年退職して、今は無職で年金生活を送っている常連の一人の梅川と、あと二人は、矢口という作家の夫婦で月に何回か平寿司に来る、やはり常連だ。

 「矢口さんは小説家、梅川さんは証券会社のOBとして、お聞きしたいのですが、不正、スキャンダルといったらどんなことを挙げますか」

「推理小説なら、代表的なものは金、そして不倫を含めた異性関係、でしょう」

「なるほど、やっぱりそうですか」

「証券会社も同じですが、金の中でも株を扱いますから、インサイダー取引ですかね」

「インサイダー取引ですか」

 空木は、納得して相槌を打ち、いつものように鉄火巻きと烏賊刺しでビール、焼酎と進め、最後の締めにパスタを食べた空木は、国分寺崖線のきつい坂を登って帰路についた。

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