雨を集めるヌメメ

しぇもんご

mi amigo

 日曜日の夕方、同じクラスの高野ヒロトが、ヌメメを抱えてうちに来た。

 

 ヒロトは玄関のドアから少し離れた位置で、黒いラグビーボールのような塊を赤子のように抱いて立っていた。最後に二人で遊んだのは小六だから、こうして自宅の玄関で対面するのは五年ぶりだ。何を考えているのかさっぱりわからない蒸留水みたいな顔には、うっすらと汗が浮かんでいる。暑いだけか、それとも少し緊張しているのだろうか。


「公園に落ちてた」


 ヒロトの「ああ」以外の言葉を久しぶりに聞いた。コイツの声、こんなに低かったのか。というか主語はなんだ。

 

「たぶん、ヌメメ」


 まじか。

 ヌメメは雨の日に現れるという都市伝説だ。たしか悪いやつを溶かし、親切な人間の願いを叶えてくれるのだったか。未知の化学物質と酸性雨が反応して生まれたとかいう、妙にリアルな設定があるのは、この街に化学メーカーの工場がいくつもあるからだろう。

 この辺の小学生なら一度は聞いたことがあるし、実際、僕とヒロトのように雨の中を探し回ったことがあるやつもいるかもしれない。

 だが、こいつは高校二年にもなって、まだそんなことを言っているのか。いろんな感情が次から次へと湧いてきて、言いたいことがぐるぐると頭を巡ったのだけれど、結局、僕の口から出てきたのは、心底どうでもいいことだった。


「雨、降ってないじゃん」


 ヒロトは重々しく頷くと、どうでもよくなさそうに言った。


「だから、弱ってる。どうしていいかわからない」


 それは僕のセリフだ。そもそも生きているのかソレは。黒くて丸くて少しツヤがあって……柔らかいのだろうか。

 その黒い物体とヒロトの真剣らしき顔を交互に見ていたら、なんだかすべてが馬鹿らしく思えてきて、だから僕は一旦それをヌメメだと認めることにした。それに、弱っているのはよくない。人も、ヌメメも。とりあえず僕は洗面器を持ってきて濡らしたタオルをそこに敷いた。


「こんなんで元気になるのか?」


 知るか。コイツの感情を隠せない不器用な喋り方は昔のままらしい。ヒロトは少し迷った後に、僕が用意した濡れたタオルの上に、彼がヌメメだと言うものを置いた。とても大切そうに。


「それで、どうすんのコレ?」


 うちに来た時点で答えはわかっているのだが、確認しないわけにはいかない。


「あそこには置いておけない」


 そのきっぱりとした口調に、自分が責められているような気がして、目を逸らしてしまった。


「……元気になったら返す。それでいい?」


 諦めたような僕の提案に、ヒロトは無表情に安心を一滴だけ垂らした、懐かしい顔で頷いた。短いやり取りのあと、ヒロトはバイトがあると言って帰っていった。ひとり残された僕が、同じく玄関に残されたヌメメらしきものをぼんやり眺めていると、ふいに目が合った。目なんかないからきっと気のせいなのだろうけど、でもなぜだか急に心配になってきた。コイツは本当に元気になるのだろうか。それにアイツ、バイトなんかできるのかよ。



 僕らが通う公立高校は、県内ではそれなりの進学校だ。


 僕とヒロトは小学、中学、高校と同じ学校に通っていた。それこそ小学生の頃は毎日のように遊んでいたが、中学に入って違うクラスになった途端、ほとんど会話をする機会がなくなった。僕は僕で自分のクラスで居場所を作るのに必死だったし、ヒロトも同じだろうと思っていたのだが、そうではなかったことに気づいたのは中学二年で同じクラスになった時であった。


 ヒロトはすでにその時には今のヒロトになっていた。喋らず、笑わず、クラスの誰とも関わろうとはしない、有り体に言えば暗いやつ。別にイジメがあったとかではなかったけど、彼は間違いなくクラスの中で浮いていた。僕はと言えば、最初こそヒロトに明るく声をかけていたのだが、迷惑そうな彼の態度に何かを悟ったような気になって、距離を置いた。顔を合わせれば軽く――彼の負担にならないように――本当に軽く挨拶をするだけであった。


 高校に入ってすぐ、ヒロトの名字が変わった。同じ中学出身の人間も何人かいたが、表面上は誰も気にしなかった。結局高校生になっても、みんな自分の居場所を作るのに必死で、だから大して知らない誰かの苗字が変わるなんて、そんな些事に構っている暇はなかったのだと思う。そのことに僕はひどく安堵したのを覚えている。


 それに僕はこの学校が嫌いじゃない。進学校らしく、みんなどこか余裕がなくて、誰もが距離を詰めすぎないように緊張している。僕の得意な軽い挨拶が、あちこちで飛び交っていて、それがとても心地好いことのように思えた。


 だからこそ、僕は今、かなり戸惑っている。僕の席の前に来て、「おう」とか「ああ」とかそんな感じのいつもの挨拶を交わしたヒロトが、僕の前から動かない。


 すでにクラスの何人かがこの些細な異変に気づいている。朝のホームルーム前に流れる喧噪も今日は少し控えめだ。ヌメメのことを聞きたいのなら、今はやめて欲しい。


「どうした?」


 軽く、自然に。慎重に声音を調整する。


「リョウタには、彼女がいるのか?」

「はぁ?!」


 最悪だ。思わず大きな声が出てしまった。今のは僕も悪いけど、でもコイツ、どういうつもりだ。

 幸い、その後すぐに担任の教師が入ってきて、ヒロトは自分の席に帰って行ったけど、僕は内心頭を抱えていた。これは本格的に困ったことになったかもしれない。


 昼休みになると、僕は自分の席で弁当を広げた。大半の生徒が僕と同じように、黒板に向かって一人で食べていて、僕はこのクラスのこういうところも気に入っている。

 早々に昼食を終えて、明日の数学の課題を片付けていると、前の席の女子が話しかけてきた。

 

「この問題もうやった? 教えて欲しいんだけど」

 

 複雑そうに見えるその方程式は、最初に少しだけ特殊な式変形をすればあとは簡単に解けるやつだ。知っていれば解ける問題。彼女が本当に知らない可能性はどれほどだろうか。

 

「おお! なるほど、ありがとー」

 

 僕の親切ぶった教えに、軽くて明るいお礼が返ってくる。ほとんど無意味なこのやりとりも、休み時間というちっとも休まらない時間を塗りつぶすのには、きっと必要なことなのだろう。

 ふと前方の席を見やれば、ヒロトはいつも通り購買のパンを一人で黙々と食べていた。違うのは、右手に持った付箋だらけの文庫本。タイトルは――ぼくは勉強ができない。

 また頭を抱えたくなってきた。朝の発言といい、コイツは何がしたいんだ。モテたいのか? ちなみに去年の期末テストでヒロトは僕より一つ上の順位だった。別の言い方をすれば、彼はこの学年で誰よりも――勉強ができる。


 次の日もヒロトの奇行は続いた。朝、僕の席の前に来るなり、どうでも良くて、微妙に答えづらいことを聞いてくる。

 

「避妊具って、コンビニと薬局だと何か違うのか?」

「……いや、一緒だろ」

 

 こんなわけのわからない質問に、少し見栄を張って答えてしまったことが情けない。正しくは、知らない、だ。


 昼休み、また僕は前の席の女子――伊藤さんの質問に答えていたのだが、今日はそこにロボットみたいな動きでヒロトがやってきた。手には現代文の教科書が握られている。嫌な予感しかしない。

 

「俺も、教えて欲しい」

 

 一瞬固まった伊藤さんが素早く切り替えて、明るい声を出す。

 

「おっ、学年一位の高野くんでも分からない問題があるの? どれどれ、わたしが教えてしんぜよー」

 

 さすが伊藤さんだ、ヒロトとは初めて喋っただろうに。それにしても、ヒロトが「高野くん」であることにいまだに違和感を感じてしまう。

 

「現代文のこれなのだが、この男はどうして避妊しなかったのだろうか」

 

 コイツは何を聞いているんだ。確かにそれは僕も思ったけど、でもエリスが妊娠しなきゃこの話は進まないだろうが。というか伊藤さんの前だぞ。

 

「それ、わたしも思った。方法がなかった、てことはないよね?」

 

 これ、僕が答えなきゃいけないのか。なんでこんなことになっているんだよ。

 

「……詳しくは知らないけど、たぶん明治であれば、あったはずだよ。男性用も女性用も。知らないけど」

 

 顔が熱い。

 

「へー、そうなんだ。じゃあほんと、なんでなんだろね。ちゃんと後先考えてほしいよね」

 

 伊藤さんのその軽くて正しそうな感想に、ヒロトは不器用な声を絞り出して頷いた。どうやらヒロトには、軽くはなかったらしい。たぶん、正しくもなかったのだろう。



 その日の帰りにヒロトと電車の中で鉢合わせた。僕もヒロトも帰宅部だから、同じ電車に乗ることはあったけど、同じ車両は初めてだ。三車両しかないから仕方がないけれど、二人ともいつもと違う車両に乗るなんて、大した偶然だ。


 少し離れた位置に立つヒロトを盗み見る。最近、170センチの大台に乗った僕より、やっぱり少しだけ背は高そうだ。一時期はとても痩せていたけど、今はそうでもないように見える。髪も随分さっぱりしたな。バイトは何をしているのだろうか。日曜も働くなんて大変そうだ。それなのに勉強もできるなんて凄いな。

 無理は、していないだろうか。


「ヌメメ、見ていくか?」


 気付けば口が動いていた。


「いいのか?」


 照れているのならいっそもっと表情に出してくれ。こっちまで恥ずかしくなってくる。


 駅から二人、無言で自転車を走らせる。工場の横は昔と変わらず、よく分からない人口的な匂いが漂っていた。小学生の時も「くさい」と言いながらこの辺を二人して自転車で走り回った。そういえば工場と工場の間に小さな公園があって、そこでよくヌメメを探したんだった。


 家につくと両親はまだ帰っていなかった。自分の部屋に向かってヒロトと狭い階段を上る。二人ともそれなりにでかくなったから、階段が軋む音もあの頃とは全然違う。だけど感傷的な気分に浸れたのもここまでだった。

 

 部屋に入って僕は思わず「へっ」と間抜けな声をあげてしまった。タオルの上の黒い塊が、ソフトボールくらいの大きさになっていた。

 ヌメメが、縮んでしまった。


「ど、どうして! 今朝はちゃんと普通だったんだ!」


 狼狽える僕を無視して、ヒロトはひと回り小さくなったヌメメを見つめていた。なんでそんなに落ち着いていられるんだ。


「……大丈夫」

「いや、だけど!」

「大丈夫!」


 ヒロトのこんな声は初めて聞いたかもしれない。でも、大丈夫なもんか。


「雨が降ったら返しに行こう」


 ヒロトは真っ直ぐ僕の目を見て、そう言った。

 ヒロトが帰った後も、僕はずっと落ち着かなかった。水の量や成分がいけなかったのかもしれない。もっと真剣に、大切に扱わなきゃいけなかったんだ。


 それから一週間、雨は一度も降らなかった。もう六月なのに。ヌメメはやっぱり少しずつ縮んでいて、今朝はもうピンポン玉くらいの大きさになっていた。

 その日は中間テストがあって、僕は仕方なく目の前の数学の問題を解いていた。全部、知っていれば解ける問題だ。

 僕はヒロトの抱えていた問題を知っていた。小さな街だから、噂なんかいくらでも耳に入ってきた。僕らが中学生になった年、ヒロトの姉が妊娠したこと。彼女は当時、今の僕らと同じ17歳だったこと。彼女を妊娠させた男がヒロトの家族を傷つけたこと。そして、ヒロトの父親がその男を刺して捕まったこと。全部知っていたけど、僕は何ひとつ解くことができなかった。何もしてやれなかった。今もそうだ。数学なんかいくら解けても意味なんかないんだ。やっとヒロトが僕を頼ってくれたのに。ヌメメが消えてしまったら、僕は――。


「……あっ」


 静まり返る教室にヒロトの声が響いた。つられて外を見て、理解した。今日は一日快晴で、降水確率は0パーセントだったはずだ。でもこんな季節外れの夏日が続けば、当然あり得る話だ。というか、あんなに空が暗くなるまでなんで気付かなかったんだ! 僕は机を叩いて立ち上がると大声で親友の名前を呼んだ。


「ヒロトっ!!」

「あぁ、行こう!」


 ヒロトも同時に立ち上がっていた。口をあけて固まっている教師を横目に僕らは教室を飛び出した。遠くなる教室から、体調がどうのと弁明する、軽くて明るい声が聞こえた気がした。


 電車の中で雨雲レーダーを確認する。やっぱり中心は僕らの街だ。たぶん、この暑さで、密集した工場の排熱が一気に増えたんだ。駅から自転車で息を切らして家に戻れば、ヌメメはもうビー玉くらいになっていた。灰色の空の下、僕らはすぐに来た道を引き返して公園に向かった。小学生のとき、ずぶ濡れになりながらヌメメを探したあの場所へ。


 公園に着くと、僕は両手でお椀を作り、そこにヒロトがヌメメをのせた。もうほとんど黒子みたいだ。祈るように顔を上げると、頬にぽたんと雫が落ちた。

 きた。

 公園の土にぽつぽつと斑点が現れる。熱気を帯びた甘い匂いも立ち込めてきた。

 さぁ、こい!

 僕らの呼びかけに応えるように、上昇し限界まで膨れ上がった水蒸気の塊が、上空で破裂した。音が一気に加速し、地面を叩く。瞬く間に両手で作ったお椀に水が溜まってきた。

 その小さなプールで、胡麻粒みたいなヌメメがゆっくりと動き出す。掌を確かめるように一周ぐるっと回ったあと、また目が合った。

 

――ありがとう。

 

 ヌメメはお椀の中でぐるぐると回り渦を作ると、その勢いのまま掌から飛び出した。目の前でラグビーボールほどの大きさに戻ったヌメメは、やがて土砂降りの雨に溶けるように消えてしまった。


 僕は、自由になった両手とお尻を地面につけてその場にへたり込む。ヒロトも崩れるように隣に腰をつけた。制服がどろどろだ。もういいかと思い、二人してそのまま後ろに倒れ込み、仰向けに寝そべってみた。降り注ぐシャワーが、ワイシャツに染み込んだ汗を洗い流していく。これでも結構、汗をかいたのだ。お前が取り憑かれたように勉強に打ち込むから、負けないように、一人にさせないように、必死だったんだ。

 しばらくすると空が少し明るくなってきた。雨が止んでしまう前に、僕はずっと気になっていたことを聞いてみることにした。


「バイト、なにやってんの?」


 どうやら僕の口と頭は繋がっていないらしい。


「……マクド」


 まじか。ヌメメよりよっぽど驚きだよ。


「俺はたぶん、もう大丈夫。だから、リョウタ……ありがとう」


 そうか。


 一瞬、雨が強まった気がして、僕は両手で顔を覆った。



 それから僕らは少しずつ話をするようになった。ヒロトは母親と姉、そしてその娘と賑やかに暮らしているらしい。ヒロト曰く、女は強かった、だそうだ。

 

 今日は中間テストの結果が掲示される日だ。興味はなかったのだけれど、張り紙を見て僕は思わず笑ってしまった。おかしいな。途中で抜けたとはいえ、問題は最後まで解いたのに。


 一位 伊藤リカ 790点

 二位 高野ヒロト 782点

 三位 仙崎リョウタ 781点


 まったくヒロトの言う通りだ。また順位が落ちてしまった。でもこちらはヌメメに頼らず、自分で頑張ってみるとしよう。まずは、お礼とお祝いを兼ねて、マクドに誘ってみようかな。

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