雨の音、風の音(あめのおとかぜのね)

福山典雅

雨の音、風の音(あめのおとかぜのね)

 寂しさは優しくて甘い。それを感じる雨の日が私は好き。


 当時、19歳だった僕に彼女はそう言った。


 僕らはベッドに並んで寝ていた。窓の外を見ると昨晩から続く雨の粒が柔らかく弾け、幾重にも枝分かれした小さな水流が、絶え間なくガラスを伝わっていた。その向こうに広がる梅雨の曇天は、暗いと言うよりは少し明るくて、とても曖昧な陰を帯びていた。


 美雨みうは雨が好きだ。まどろみの中で抱き合い、遠くで響く雨音のせいなのか、この場所はとても静かだった。同い年の彼女と僕は友達と言う間柄は越えていたが、普通の恋人同士となるには多くのためらいを抱えていた。こうして束の間だけベッドで抱き合えば十分であり、互いにそれ以上は望んでいなかった。


「雨が好きだって女の子は多いの。何故だかわかる?」

「素敵な傘をたくさん持っているから?」

「ちょっと違うなぁ」


 腕枕の上で彼女はこちらに顔を傾けて微笑んだ。柔らかな頬の感触と確かな体温、僕は美しいカレイドスコープを覗くみたいに彼女の瞳を見つめていた。


 十代最後の歳という割に、僕は色々と不足がちな自分を自覚していた。例えば誠実さの意味さえも、靴下の表裏がわからない子供みたいに履き違えてばかりだった。


 きっと、いつまでも人生はやり直しが効くのだと、絶えず曖昧に考えていたせいかも知れない。自分に存在する時間は無限にあり、どこかに潜み機会を伺う切迫感なんて、滅多に会わない友人と変わらなく、どこか他人行儀に思っていた。


 恋をして自らを見失い、目眩を覚える想いに憧れてしまうほど純粋ではなかったが、容易く傷つくナイーブさをいつまでも消せずに狼狽えていた。僕はそんな19歳だった。


 美雨は少し額にかかる髪をゆるやかにかきあげ、その声はしめやかな響きを帯び僕にそっと教えてくれた。


「それはね、匂いがするから」

「匂い?」

「そう、雨の匂いが私はたまらなく好きなの」


 僕は雨の匂いを思い出した。生きる上で、気付かない内に見落とし、そして忘れ去ってしまう事は案外とても多い。人生においてそんな小さな積み重ねが、大きく何かを変化させてしまう様な気がした。そういう何かを思い出させてくれる美雨を僕は大切に考えていた。






 彼女と出会ったのは、些細なきっかけからだった。僕の友人の一人が、そのまま進化すればストーカーになるくらい美雨に言い寄り困らせていた。その著しくしつこい男を回避する為に、彼女が僕の名前を彼氏として使ったのが始まりだ。

 

 友人からの浅はかなクレーム電話に対し、僕は見知らぬ女の子の気持ちを慮って、適当に話を合わせておくくらいのマナーは持ち合わせていた。彼女はそれを恩に感じていてくれたらしい。


 当時の僕は恋愛話が人生の最優先事項みたいにはしゃぐ仲間達を眺めながら、彼らと一定の距離を置く様にしていた。例えるなら乗る事のない電車の時刻表みたいなもので、仲間が好きな噂話や詮索の類いを意図的にやり過ごすのを好んだ。


「あなたが柊くん? 良かった、探してたの」


 唐突に大学の学食でメニューに悩む僕に美雨は声をかけて来て、Bランチのオムライスを奢らせて欲しいと情熱的に申し出て来た。


 初対面の女の子である彼女に対して、僕は「気にする事ないさ」と遠慮した。けれど勝手に名前を使った事を詫びる彼女の使命感は強く、否応なしに従わされた。申し訳なさを感じた僕は、お礼として大学の女子が知らないであろう隠れ家的なカフェに彼女を誘い、ケーキセットを奢った。


 美雨との出会いはそんな簡単なものだった。


 コーヒーを飲み終える頃には、すっかり僕らは打ち解けていた。彼女は僕の友人から受けた一連の迷惑行為の顛末を語った後に、自分は熱烈な恋人を作るより、友情を育める男性を探す方が大事だと教えてくれた。


「私の求めている恋や愛は出来るだけ大袈裟じゃなくて、普通の感情の延長くらいがいいの。誰かを愛するって素敵な事だけど、汚らしくご飯を食べ散らかす人を見て、おいしそうに食べて可愛いだなんて思いたくもないし、一方的で狭い言葉しか知らない人を、誰よりも頼り甲斐があるって勘違いするなんてゾッとしてしまうの」


 真剣な表情で語る美雨は「そう考えるのが当然じゃない?」と同意を求めて来た。僕は容易く人を否定したりはしないが、沈黙し肯定したふりをするのもどうかと思い、控えめに自分の考えを彼女に伝えた。


「君の言う事はわかるけど、僕は恋を普通にしたいし、誰かを愛せるのならキチンと誠実に愛したい……、僕は思うけど、大多数の男はね、セックスの為に恋愛を使っている後ろめたさを抱えているんだ。若い男にとって恋愛というのはマンガやゲームを好きなのと同じで、女の子が考えている程ロマンチックじゃない。でも時として大袈裟に恋愛ごっこをしてしまい、自分でもよくわからなくなる、そんな情けない生き物なんだ。だからそう目くじらを立てなくてもいいと思うよ」

「そうなの? あなたって変わってるわね」

「……君に言われると自信がつくよ」


 僕は2杯目のコーヒーをオーダーし、その後も彼女の言う恋愛観というか人生観を楽しく聞いた。この時の僕は恋愛感情を抜きにしても、彼女の持つ空気感がとても好ましくて、無闇に心が浮足立ち始めるのを感じていた。





 すぐに僕は美雨と頻繁に会う様になった。僕らは一緒に食事をしたり、映画を観たり、街を散歩したりして、たわいのないお喋りをたくさんした。僕は彼女の考える友人としての役割を十分に果たし、きっとそれは思いがけずも望ましい形だったのかも知れない。


 だが実の所、僕は彼女との節度ある距離感を知らずに見失ってしまわないかと少し恐れていた。誰かと親しくする時、僕は出来得るならそういう部分を淡々としてやり過ごす様にしていた


 人付き合いにおいて相手が期待する事と自分の期待する事のずれにより、自分自身が酷くみっともない気分にならない様に常に心掛けている。それは相手を理解する事を避けると言う意味では無く、フラットな間柄が好ましいと考えていたからだ。


 自分の意見を伝える事と押し通す事の境界線を探すのは無意味かも知れないが、僕は必要以上に感情的にはなりたくないし、相手を傷つける様な真似もしたくない。またその逆に消極的で大人しそうに見えて、本質的には相手に対し無関心であるのは罪だとも感じていた。


 きっと僕は、総じて他人との距離間が良くわかっていなかった。





「適当に座って待ってて」


 その日、初めて美雨の家へと招待された。梅雨だというのに清々しく穏やかな晴れ間が広がった日だった。僕は少しだけ早起きをしてから、限定販売のコーヒーゼリーを買い、彼女へのお土産として持参した。美雨に手渡すと「気を遣うなんて馬鹿ね」と苦笑され、「でもそういう所は嫌いじゃないけど」と慰められた。


 美雨の家はとても古く、戦前からある建物だった。彼女には5歳年上の姉がいて数年前までここで二人暮らしをしていた。姉妹の両親は離婚しており、どちらも養育を拒絶した為、母方の祖父母が住むこの家に二人は幼い時に引き取られた。だが美雨が高校進学すると同時に祖父母が次々と亡くなり、一緒に暮らしていた姉も結婚して家を出て、今の彼女は一人暮らしをしていた。


 古風な台所で鼻歌まじりに飲み物を準備する彼女を眺めながら、僕は畳の和室には似つかわしくないソファに遠慮がちに座り、少し落ち着かない新鮮さを感じていた。


「はい、どうぞ」


 美雨はアンティークな木目の丸いテーブルに、アイスコーヒーと買って来たゼリーを置き隣に座った。


「ねぇ、柊くん、私ね、あなたと居るととても楽しいの。それが何故かは言いたくないけど、あなたはすごく穏やかで、私をたまらない気分にさせるわ、知ってた?」


 唐突に美雨がそう言った。彼女がスプーンでゼリーを口に運びながら、何を僕に見ているのかわからない。ただ彼女の言葉に嬉しさを覚えると同時に、戒めにも似た心細さにも襲われていた。


「……僕は君と居るとずっと一緒に過ごしたくなるけど、同時にどこかへ衝動的に行きたい気分にもなる。多分、僕はそんな自分を持て余してるんだ」

「私の事、いつも考えてる?」

「許される程度にはね」


 彼女の家でこうして二人で話すと、外でお喋りする感覚とはどこか違う。僕は隣に座る彼女の体温をいつも以上に感じていたし、それはゆったりと知らぬ間に穏やかに揺れ動き、とても自然に淡く静かに流れていた。


「ねぇ、私の部屋に行かない?」


 彼女に導かれるままに、僕は狭い急な階段をトントンとあがった。二階にある短い廊下を経て、彼女の部屋に入ると甘い匂いがした。ある程度キチンと整理された室内は高さの低い横広な本棚があり、小説と雑貨が半々に埋まっていて、一人用のシンプルなテーブルと椅子がすぐ側に置かれていた。そして美雨はベッドに座り僕を隣に招いた。


「腕枕をして欲しいの」


 微笑んでそう言うと美雨は僕の左腕に触れた。少しだけ遠慮がちな柔らかな指先が導くままに、彼女と一緒にそのままベッドに寝た。「重くない?」と聞かれ、「そうでもないよ」と答えると美雨は嬉しそうに微笑んだ。


 僕の身体に美雨はそっと身を寄せて、それ以上は何も望まなかった。服越しに伝わる彼女の柔らかな感触と匂いを感じながら、同じく僕もそれ以上先に進む気はなかった。


 男として当たり前の欲求は感じていたが、それよりももっと深い場所を僕はただ見つめていた。それは微かな残骸だけを残し決して見つけられないものなのか、それとも手に入れる事をもはや許されないものなのか、または頼りなく既に雲散し過ぎ去ってしまったものなのか、僕にはまるで判断がつかなかった。ただすぐ側にいる美雨を意識するだけで、得難い安らぎが確実にそこに存在した。


 僕らはそれから何度もベッドで腕枕をしては抱き合う様になった。そのまま部屋に泊まる事さえあったが、男女の一線を越える事はなかった。






 彼女を抱けないのには理由があった。僕は美雨に言う事が出来ず、さらには誰にも知られずにずっと内緒にしている事がある。


 昔、僕には好きな人がいた。その人は近所に住む4歳年上のお姉さんだった。大人しくて控えめな瞳がとても綺麗な人だった。彼女が大学生になって最初の夏休みを迎え帰省した時に、僕は部屋に呼ばれ服を脱がせてもらい彼女とセックスをした。すごく気持ち良くて、僕らはを幾度も抱きあって二人で何度もイッた。そしてその翌日彼女は首をつって死んでいた。僕には彼女が死を選んだ理由がわからない。別れ際に彼女は僕にキスをして優しく微笑んだのに、もうこの世にはいない。僕はそれ以来、誰ともセックスをしていない。




 

「ねぇ……気持ちいい?」


 その日、突然美雨は腕枕から少し動いて、僕の固くなっているペニスを触って来た。戸惑う僕の反応を他所に、そのまま彼女は「手でしてあげる」と言って、寝たままでズボンを開いてパンツをずらすと、ゆっくり手を動かし始めた。


「私ね、昔夜に降る雨が怖かったの」


 彼女が何を伝えたくて何をしたいのかわからず、僕の抱える複雑な想いが迂闊に波立たないように、ただ静かに彼女の事だけを見ようとした。


「昼間の雨は平気だし雷とかもまるで怖くないけど、夜寝ている時に降る雨が怖かった。震える自分を止められなくて暗い部屋の中で怯えていた。まるで感じてはいけない何かに気がついて、それが私を迎えに来るような気がしていたの。怖くて起き上がる事も声を出す事も出来なかった。だから、してたの」

「してた?」

「あそこを触ると恐怖が少し薄らぐから、その感覚を夢中で追いかけた。7歳の私は必死だった。なんとなくいけない事だとわかっていたけど、雨の恐怖から逃げる事だけを考えていた。気持ちいいのかどうかもわからないまま、私はイクとすぐに眠る事が出来てた。いやらしい子だと思う?」

「……思わないよ」

「だからセックスって、言葉や気持ちが足りない部分を誤魔化す為にするものだと思ったの。少なくとも私はきっとそうなると感じてた。もっと自然で穏やかに幸福を考えれればいいと思うけど、どうしてもそれは何かずるいものだと思える。私はあなたと抱き合っているだけで、本当に十分に幸せを感じるの」


 僕は彼女の頭を引き寄せて、軽く撫でてあげた。


「いまでも怖い?」

「ううん、中学生になる頃にはもう何も感じなくなった。今は別の事が怖い」


 少し呼吸が荒くなった僕を美雨はじっと見つめながら、手を動かし続けた。


「あなたはすごく優しくて穏やかだと思う。例えばもし私達が付き合ったら、どんな意地悪をしてもあなたは受け入れてくれるし、酷い喧嘩をしても必ず仲直り出来る。私はあなたから、女の子として受け取れる幸せの全部をきっと貰う、だからそれが怖いの。私はあなたとセックスをしたいって考えている。あなたが私の中に入って来たら、どんな気持ちになるんだろうと想像してる。だけど、そうしてしまうと多分、私はあなたを一生忘れられなくなる。もう二度と会えなくなっても、私は心の中にある自分だけの場所にあなたをおいて、きっといつまでも思い出してしまう。新しい幸せを見つけても、あなたは決して消えない人になる。私はそういう事を考えてすごく怖くなってしまう。恋愛なんかよりももっと深い部分で、あなたは私の中にいる。友達として接していた人が、こんなにも大切な存在になってしまったの。そんな事を考えると後ろめたいくせに寂しくて、やっぱり私はたまらなくあなたが大事なの……」


 そう言って彼女は僕に初めて深くキスをし、「イッて」と呟いた。僕はもう我慢できずに射精した。僕らは精液で汚れるのも構わず、そのまま抱き合った。


 僕は美雨に好きだったお姉さんの秘密をすべて打ち明けた。彼女は僅かに強張りを見せ、何事かを考えただ無言だった。雨音だけが静かに響いていた。暫くして美雨は少しだけ上半身を起こし、僕の瞳をじっと見つめた。


「……私達はどうすればいいと思う?」


 僕は彼女の問いに答えを見いだせる自信がなかった。だが僕のなかで淡々と曖昧にしていた痛みと、いつか時間が解決してくれると思っていた寂しさを、どんなにいたたまれない惨めな苦しみが伴なおうとも、この手で掴み握りしめなければいけないと思った。


「僕は君が好きだ。ただそれは僕自身の中で簡単に決着がつく事とは思えない。僕は自分が幸せになっていいのかさえわからないんだ。だけど何があろうと君を失いたくない。僕は君が好きなんだ」

「私もあなたが好きよ。自分を変えてしまう程好き……、もっと強く抱きしめて」


 僕は美雨を強く抱きしめながら、不意に何かに呼ばれた気がして窓の外を見た。


 しとしと降っていた雨が風と交わり、どこまでも先の見ない霧雨が生まれていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨の音、風の音(あめのおとかぜのね) 福山典雅 @matoifujino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画