七 清らかなる睡蓮の花

『あんた、第二皇子の所に何しに行ってたんだ? 今更、断れないだろ?』


 珍しく薄く化粧をしたを天擂は覗き込む。あどけなさが抜けて、いつも以上に大人びた姿。そんな少女は、天擂の軽薄な口調を気に知る様子もなく答えた。

 

『ええ。ですので交渉に』

『へえ、実りはあったのか?』


 嫌味な口振りはらしい。だからだろうか、少女も十四歳らしい悪戯な姿を披露した。

 

『第二皇子殿下に、お金たかっちゃいました』


 少女は明るく答えて、天真爛漫な笑顔を見せた。

 

『たかるって……』

『私と婚約している間、婚姻関係を結んだ後も治療院への援助を続けると約束してもらったんです』


 皇族は決して甘くはない。たかるや約束と言うが、それをもぎ取るなど容易な心持ちではまず無理だ。

 

『それは……簡単に頷いてはくれなかっただろ』

『ええ、もう今にも血管切れそうなぐらいに怒ってました』


 睡蓮は戯けて指で眉を吊り上げる仕草をして見せる。


『でも、あの人は必要な様ですし、納得して頂けましたよ』


 しかし、戯けた様子とは裏腹に、睡蓮の手は僅かに震えて、今も緊張状態を和らげようと必死。それが天擂の目にもしっかりと映っていた。


『お前は、それで良いのかよ』

『……どうせ、私には何も出来ないんです。だからこそ、出来る範囲で反抗してやるって決めてるんです』


 怯えても尚、自分の意思は曲げずに必死で生きるその姿。


『天擂さんの言葉で言うなら、“腹を括った”ですね』


 そう言った睡蓮の瞳にはしっかりと意思が宿り、天擂を真っ直ぐに見つめる。

 誰よりも高潔で清らか。この世で最も美しいものがあるとすればきっと――



 ◆◇◆◇◆



 ガタリ――と、馬車が揺れた。大きな揺れで古い記憶から現実へと引き戻された天擂は、記憶と重ねる様に目の前に座って窓の外に視線を向ける女を眺めた。

 十四歳という少女の姿からは遠のいて、妙齢の美しさに磨きのかかった女。

 物憂気な眼差しには、先行きの不安と期待が混じり、数年前よりも輝きに満ちている。


 九年の歳月。それだけの期間、眺めても眺めても見飽きる事は無く、今も尚、天擂の心を埋め尽くしてしまう。

 この世で最も美しく、清らかな睡蓮の花。


 ――やっと、ここまできた


 天擂は思わず熱い息がこぼれた。女の髪には天擂が贈った睡蓮の花の簪。それだけでも、睡蓮を手に入れたも同然の心地だった。


 睡蓮は博愛だ。その実、他人に無関心でもある。

 慈愛の精神が救いを求める者へと手を差し伸べはするが、人との関係性によって傷つかないように一定の壁を作って、自身を守る為に深くは関わる事を避けていたのだ。


 今までは。


「天擂さん」


 気がつけば、外を眺めていた瞳が知らぬ間に天擂を見つめ返していた。


「どうした?」

「天擂さんは、顓頊殿下の命令で私の側に?」


 来ると判っていた問いに天擂は静かに答える。


「そうなるな」

「それなら、このままで良いの?」

「何が」

「私の護衛。どう考えても厄介ごとだもの。それに天擂さんのお家ならもっと良い仕事に就けるでしょう? 私なんか……」


 睡蓮の目線が落ちる。だが天擂の声は、睡蓮の視線すら掬い上げるように明朗に答えた。


「きっかけは命令だが、今ここにいるのは俺の意志だ」


 黒い瞳は純白に染まった睡蓮へと熱い眼差しを向ける。

 視線はスカートに隠れた爪先からたおやかな曲線を辿り、膝の上に丁寧に置かれ手へ。そこから細い腕を伝い艶めかしい首筋を辿り、更にその上。

 かと思えば狭い馬車の中、天擂は睡蓮の隣へと移動した。薄紅に色付いた頬へと天擂の手が伸びた。直接触れると壊れるとでも思っているかのような手つきは、人差し指の背でゆっくりと頬を撫でながら髪をかき上げる。

 

 そうやって漸く辿り着いた、持ち主と同じく決して染まらぬ白い花の簪。

 そろりと触れて、花を揺らす。僅かな振動が睡蓮にも感じたのだろうか。それとも天擂が触れている事に緊張しているのだろうか。

 睡蓮は更に頬を紅潮させて、潤ませた瞳が横目に天擂を捉えた。

 思わず、天擂の喉が鳴る。


 もう九年だ。もう何度手を出して取って食ってしまいたいと思ったか解らない女を前にして、本能が揺れた。

 直に肌に触れ、首筋に顔を埋め、色付く唇に齧り付きたい。焦がれた想いで胸が焼けただれそうだった。

 だが、まだ今じゃ無い。あと、もう少しだと言い聞かせ、空いているもう一方の手を爪が食い込むまで握りしめた。


 そうして上気した感情を押し殺して声を絞り出す。

 

「……簪の意味は、考えてくれたのか?」


 睡蓮の顔が殊更赤く染まって、その赤は首筋にまでも侵食する。

 先程まで、凛とした姿勢で皇太子と面していた姿が嘘のように動揺して、それがまた天擂を満足させる。


「天擂さん」

「……ん?」

「私、なんて言葉で返したら」


 恋愛経験皆無の女は自分の顔を掌で覆って、隠し切れない戸惑いに頭が回っていない。

 

 ああ、なんて愛おしいのだろうか。


 天擂は簪から指を滑らせて、髪の一本一本の毛先までを堪能するようにくしけずる。同時にもう一度身体を移動させて、今度は睡蓮の足元へとへ跪いた。

 殊更に情愛を込めた眼差しを向けて、天擂のゆっくりと唇は動く。


「俺の身も心も、仙女睡蓮に捧げると誓う。俺を、仙女睡蓮様だけのものにして頂けますか?」

 

 熱情と九年の思いの丈を込めた言葉と眼差しで、睡蓮は今にも心臓が止まってしまいそうなまでに茹で上がっていた。それこそ赤い都を彷彿とさせる程。

 しかし、なんとか唇だけは動くと言った様子で、最初は声にならない口が鯉のようにはくはくと。次第に音が紡がれて、小さく震えた声が鳴った。


「できれば、お手柔らかに……恋人からでお願いします」


 強すぎる刺激に睡蓮は顔を隠したまま。けれども天擂は再び隣に座り直すと、睡蓮の手をそっと顔から剥がす。

 紅潮したままの頬と潤んだ瞳が覗いて、天擂はそのまま自身の顔を近づけた。

 ゆっくりと重なる唇。羞恥心か、重なると同時に睡蓮が瞳を閉じる。

 

 天擂の無骨な手が睡蓮の手を離れ、両手で頬を包む。口の端から溢れる吐息がより欲望を曝け出し、少しのつもりが、もう少しもう少しと欲が出て、口付けを何度と繰り返す。


 しかし睡蓮が限界を迎えたか、天擂の肩を弱々しい力で叩いた。

 天擂は物足りないと感じながらも睡蓮を解放した。蕩けてしまいそうなまでに上気した睡蓮の顔と、初めての経験の余韻とが混沌と混じり合った顔は、再び言葉も無く掌によって隠れてしまう。


 その姿を前にして、天擂は欲しかったものが手に入ったと――が今実ったと実感した。



 

 天擂にとって、仙女の護衛という顓頊の命令に意味は無かった。

 威光ある家柄でありながら、権威に興味も関心も無いというだけで選ばれた天擂は、暇だからという理由で引き受けたのだ。


 だが、睡蓮へ僅かな想いが芽生えた瞬間、天擂の中で第二皇子への叛意はんいが生まれた。天擂は、睡蓮の為だけに皇太子争いに手を貸すと決めたのだ。


 そう難しい事はしていない。第二皇子は勝手に転落の道を突き進み続けただけなのだから。

 皇后からの抑圧と第一皇子への劣弱意識。

 皇后の地位、仙女の功績が無ければ、第一皇子に追いつけないという事実。落ちぶれた仙女すら思い通りにならない現実。


 そこへ皇太子が決まるという一大事。

 最後の一手として第一皇子は睡蓮との婚姻の妨害を止め、婚姻が決まったその時に一言贈っただけ。


、お前の地位も安泰ではないか』


 と。

 溜まりに溜まった憤懣ふんまんが睡蓮に向かう事は確実だった。


 その後、第二皇子の企みは全てにおいて第一皇子の掌の上。

 いつ決行し、最終的に睡蓮をも含めて、顓頊には知れた事。

 顓頊にとっても、が必要だった。



 天擂はその全てを知っていた。

 睡蓮を餌としたのは

 誘拐される睡蓮をのだ。


 睡蓮にとって酷な時間が始まると知りながら、第二皇子を地に落とす為、睡蓮を悲劇の中の存在にしたのだ。


 助けは、早すぎてはいけなかった。

 遅すぎてもいけなかった。


 想定外の嵩天山すうてんざんと、により、睡蓮は生還したが傷だらけと言う結果。

 しかも直接助ける事も叶わなかった。

 

 あれほど、自身に腹を立てた事もない。

 だからこそ天擂は己の全てを捧げ、生涯守ると誓ったのだ。

 己の全てを賭けてでも手に入れたいと思った、清らかなる仙女の為に。

 


 了

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落ちぶれ仙女は龍の愛に揺蕩う @Hi-ragi_000

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