馬鹿のいとまごい

安座ぺん

馬鹿のいとまごい

 妻が死んだ。結婚六年目の三月の半ば、風呂場でヒートショックを起こした。

 

 残業をして普段よりも帰りが遅くなったあの日、玄関をくぐってただいまと声をかけたが、返事はなかった。脱衣所から灯りが漏れていたのを見て、風呂に入っているのだと気にもとめず、スーツを脱いでコンロの鍋を温め直した。


 入浴時間が長すぎると、心配になって浴室を覗いた時には手遅れだった。


 湯に浸かって温かな体は、ちっとも反応しなかった。慌てて救急車を呼んだ。

 二人で暮らしていたマンションのエントランスにサイレンが鳴り響いた頃、おそらくもう息をしていなかった。それでも言われるがまま救急搬送に付き添い、妻と一緒に病院へ向かった。医師に死亡していると告げられた。


 遠くから世界を見ている感覚で時間が流れた。しかし、葬儀の準備は忙しなく、死後の手続きは煩わしく、自分の心が遠ざかったり近づいたりした。

 心が近づくと、体が動かなくなってしまう。小さく蹲ってしまいたくなる。

 心を遠ざけて騙し騙し、近づいているときにはそれに気づかぬふりをして、妻がいなくなる前と同じ生活を送った。


 しかし、食事が喉を通らない。体重が減った。妻に先立たれた男へ送られる憐憫のささやき。


 限界が来た。衣替えをする気なんてとても起きない五月のことだった。

 妻の元に行くことにした。



 右を向くと海、左を見てもはてしない海。波が寄せる水際には、まばらな草原が広がっている。砂浜はない。空が青い。風にそよいで、草木が鳴いた。人工物は近くになく、太陽を遮るものもない。


 天国。

 ではない。北の方にある、大陸からひょろりと伸びた半島。海面上昇で数年後には沈んでなくなると言われている場所だ。


 人間は見ないが、鹿は沢山いた。何匹かで集まり、そこだけ毛が白い尻をこちらに向けて、草を食んでいる。


 ――妻と以前、ここに旅行に来たことがあった。

「素敵な場所。死ぬんならここで死にたい」

 妻が草原のなかでくるくるまわってから、私の胸に飛び込んできて、そう言った。美容室に行くのを怠けて、毛先にだけ明るい茶色を残した黒髪が、風になびいていた。


 死ぬのなら、ここだよな。

 白布に銀糸で菊の模様を仕立てた袋を、右手に掴んで佇んだ。


 昨夜、財布とコート、それから妻の遺骨だけを持って、仕事終わりのスーツのまま車で飛び出した。

 夜通し走ってようやくたどり着いた懐かしい大自然は、私にとって世界の果てだった。


 衣替えをしていなくて正解だった。北上したため、気温がかなり下がった。コートを着ていて、ちょうどいい。これから冷たい海に入っていくのだから、戯れでしかないけれど。


 コートのボタンに指先で触れた。腹のあたりについているボタンはひとつだけ、他と種類が違う。木の手触り。なにかの拍子に元々ついていたものがちぎれて、妻が縫い直してくれた。


 その際、大量に届いたボタンを思い出す。

 三個入をネット通販で買ったらなんの間違いなのか三十個届いたのだと。販売元に連絡を取ったら、余分に届いた分は無償にしてくれたと妻は喜んだ。


「あと二十九回ボタンちぎっていいんだから、よかったね」

「一生かかっても使い切れないな」


 ――まさか、君の一生がこんなに短いとは思わなかったが。


 私には、海に入る前にやりたいことがあった。

 辺りを見渡した。目印になるものがほしかった。草原のなかのひょろ長い木に目が留まり、そちらに向かった。草についた露がズボンに染みて冷たかった。


 進行方向にいた鹿たちが、私を避けるように二、三歩遠ざかった。


 目的の木にたどり着き、そこに膝をついて座り込む。遺骨袋に手をかけた。口を留めている糸を引き、中から骨壺を取り出した。滑らかな白の陶器の蓋を開ける。


 乾いた唇で妻の名前を溢した。遺骨袋と蓋を地面に置いて、両手で骨壺を包むようにして持つ。陶器の縁に額を押し当てた。目を瞑ると、頭上の枝葉が揺れている音がよく聞こえた。


「ごめん」


 木の根元に遺骨を撒く。真っ白ではなくて、ところどころ茶や黒が見えるものが、地面に積み重なった。


 せめて、妻が死にたいと言った場所でお別れをしたかった。


 骨を眺めていると、後悔が心を刻む。後退りで木から離れて、頭を地面に押し付けた。

 帰ってきてすぐに風呂場を覗いていれば。脱衣所が寒くならないように、暖房を用意しておけば。もっと大切にしていれば。


 謝罪の言葉が濁流のように口から出た。土がつくのもお構い無しに、地面に額をこすりつけた。

 長いことそうしていた。


 ふいに頭の先で何かの物音がした。反射的に顔を上げる。

 木の足元で、鹿が腹を伏せてこちらを見つめていた。長い脚は折りたたまれている。


 妻の遺骨の上だ。大声をあげて追い払おうとしたが、鹿は何を考えているのか分からない黒い目で体勢を変えなかった。


 我を失って鹿に掴みかかろうとすると、そいつは俊敏に立ち上がり、触れられる前に私の手から抜けた。鹿の動向を追うよりも先に確認すると、遺骨は乱れ散らばっていた。怒りよりも絶望があった。最後すらうまくいかないのか。


 力なくそいつを見ると、あちらも私を見ていた。歩を進めながらも、こちらから目を離さない。角は生えていないから、雌だ。


 私ははっと目を見張った。


 この鹿は、その他の個体とまるで様子が違っていた。あくまで個人的な認識だが、鹿は立ち止まって辺りを見るか、草を食べるか、まっすぐ前を見て歩くか走るか、のどれかしかしない。おそらく一つの動作しかできないのだと思っていた。だって、馬鹿という文字に含まれている動物なのだから。


 ところが、この雌鹿は歩きながら顔を向けて、私を観察している。さながら肉食獣のような振る舞いだった。遠くには鹿の群れがいるが、こいつは一匹で過ごしているらしい。


 雌鹿は少しずつ離れていき、今は遠くで食事をしている。

 こちらを見据える視線がなくなったことで緊張が解けて、深く息を吐いた。散らばった遺骨を整えようとして、無意味だと気づく。いずれ土にかえるのだから。


 夜通し運転した体は疲れきって重く、眠い頭を抱える。妻の遺骨を撒いて海に飛び込むつもりだったのに、少しだけ眠りたいと思ってしまった。


 見えなくなるまで何度も遺骨を振り返りながら、歩いて路肩に停めた車に戻った。運転席に腰かけ、脱いだコートを顔に被って日除けにした。眠るには天気が良すぎた。


 意識を手放す寸前、妻と雌鹿がふいに重なった。彼女は泣き虫で怖がりのくせに、自分を強く見せようとして少し口が悪かった。理不尽な場面に直面すれば、涙目になりながらでも反発していた。肉食獣の振る舞いをする草食動物。

 我ながら変な連想だった。


 夢に出てきた妻は、記憶のままの黒黒とした瞳で私を眺めていた。


 目が覚めると随分日が傾いていた。よく眠ったため、頭がすっきりしていた。

 死ななければならない。


 車で通ってきた道沿いには、くすんで古ぼけたブイや漁に使うであろう網が置かれていた。魚介をとって生計を立てている者がいるのだ。何時いつから漁を始めるのか知らないが、人のいないうちに海に入らねば。


 遺骨を撒いた木の根元を見に行くと、例の雌鹿が相変わらずおり、樹皮を剥がして食べていた。草のほうが柔らかくて美味そうなのに、そんなものも食べるとは、植物性ならなんでもよいのか。


 なんの気無しに見ていると、雌鹿はこちらに目をやった。視線に心臓がざわめいたが、奴は私を見ているのではないとすぐに分かった。後ろを振り向くと、そこには眩い夕日が落ちていたから。


 眩しくないのか顔もしかめず、太陽と対峙する奴は精悍で美しかった。この鹿は天気の良い日は夕日を眺めて一日を終えるのだろう。羨ましい生き方だった。


 私は、木に向かって歩き、足を止めた。妻の遺骨に挨拶をする。雌鹿は相変わらずふてぶてしく、逃げもせず夕刻の輝きに顔を向けていた。


 そして、奴の横をすり抜けてそのまま海まで歩いた。革靴を脱ぎ、靴下で土を踏む。

 一歩踏み出そうとして、濡れるのが嫌だという気分になる。死ぬのだからと頭を振る。一歩、水の中に入ると想像通り冷たい。波に足を洗われる。そのまま勢いをつけて沖合へと進んでいく。荒波に転けそうになるから踏ん張った。


 腿まで浸かった頃、先に進めなくなった。

 ほんの数歩で深くまで来た。そんな深い海が恐ろしい。

 死にたいんだろ、なあ、死ねよ。自分を鼓舞するが、足は動かない。

 にっちもさっちも行かなくなって、呆然とした時、寄せる波以外の水音が立った。


 正体を確かめるべく後ろを見ると、ああやはり。水平線に沈みかけた夕日を背負ったの雌鹿だった。

 海を渡る鹿、そんなもの初めてみた。浸かった足の毛が海面にたなびいていた。


 雌鹿は真っ直ぐこちらに来て、私の腹に顔を寄せた。そして、ボタンを咥えてぐいと引っ張る。妻の縫い付けた木製のボタンだった。足を踏ん張ると、更に強い力で引いた。

 まるで、私が死ぬのを止めてくれているようだった。この力のまま、ついていってしまおうかと悩んだ時に、突如引く力がなくなり私はひっくり返った。海に尻もちをつく。顔にかかる飛沫がしょっぱい。

 鹿は足元をざぶざぶ言わせながら、岸辺へと帰っていった。茫然自失となる。


 引っ張られたボタンはなくなっていた。千切られて、食われたのだと理解した。

 冷たい海の中、シャツに水が染み入って不愉快極まりなかった。

 不愉快なんて。端っから死ぬ気がなかったのだと、今更気づく。ただ、現実は辛く、肩にのしかかる罪悪感や鰥夫やもめを見る世間の目は息苦しく、死んだ妻に恨み言を吐きたかった。


 どうして俺を置いていったんだ。

「答えろよ、誰か」

 子どもの癇癪みたいな言葉は、荒い波が背中を洗う音で掻き消された。


 死にたいんではなくて、ただ、全部なかったことになってほしい。人生ごと全部。

 自分を奮い立たせて立ち上がる目的も見つけられず、這ってでも足のつかぬ水の塊という名の死を目指すこともしなかった。


 雌鹿が陸からこちらを見ていた。ボタンを食っているのか、口のなかで独り言を言っているみたいに、口元が動いていた。


 羨ましい生き物だった。やっぱり妻みたいな鹿だった。あの人も、よく私のお菓子を勝手に食べていた。もぐもぐ動く口が小憎たらしくて、けれど許せるくらいには愛しい人だった。


 けれど、君の後を追って死ねるほどの愛は、持ち合わせていない。会いたいけれど、やっぱり死にたくはない。ごめん。


 家に帰って、妻の買ったボタンを縫いつける。

 なんとか生きる目的を見いだして、私は岸辺に向かって歩き出した。

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馬鹿のいとまごい 安座ぺん @menimega

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