ララ・ライフ
大隅 スミヲ
第1話
それは不思議な看板だった。
取引先に向かうため車を運転していると、ビルの屋上に設置されている看板が見えた。
その看板は白地に黒い文字が書かれているだけのシンプルなものであったが、その書かれている文字の意味がわからなかった。商品名なのだろうか。それとも会社名なのだろうか。聞いたことのない言葉に私は戸惑いを覚えていた。
取引先は何度も足を運んだことがある会社であり、対応してくれた担当部長とも何度も飲みに行ったことのある仲だった。今回の仕事の資料を担当部長に渡し、判子を押して貰う。それだけのために足を運んでいるのだが、メールなどでの書類のやり取りをするよりも、こうやって相手の顔を見て、いろいろな話をしながら判子を押して貰うというのが本当の仕事なのだと私は思っていた。
「そういえば、来る途中に不思議な看板を見かけたんですよ」
私は運転中に見つけたビルの屋上に設置されていた看板の話をした。
すると、急に担当部長の表情が曇るのがわかった。あれ、もしかして、言ってはならない話題だったのか。あれはライバル会社の看板だったのか。私は慌てて話を変えて、その場を取り繕った。背中には嫌な汗をかいたが、なんとかその場を乗り切り、書類を持った私は帰り道を急いだ。
「まいったな」
ハンドルを握りながら私は独り言をつぶやいていた。まさか、あんな反応を示されるとは思いもよらぬことだった。しかし、あの看板に書かれている言葉の意味は何なのだろうか。あとでスマホで検索してみるか。そんなことを思いながら、私は社に戻った。
社に戻った後は判子をもらった書類をまとめ、部長から承認印をもらうなどして、商談の手続きを進めた。特に忙しいというわけでもなかったが、事務仕事をやっているとあっという間に時間が過ぎてしまう。
昼休みに入り、同僚数人と一緒に近所の蕎麦屋で昼食を取ろうという話になり、ぞろぞろと連れ立って社を出た。
この店はなかなか評判の店であり、ランチタイムはいつも行列ができている。私たちもその行列の最後尾に並び、話をしながら自分たちの番が来るのを待った。
そうだ、さっきの看板について調べておこう。そう思ってスマートフォンを取り出すと、検索ワードを打ち込もうとする。
「なにを調べているんですか」
私がスマートフォンをいじっていることに気づいた後輩の女子社員が話しかけてくる。
「さっきね、取引先へ行った時に看板を見つけてさ」
私はことのあらましを彼女に告げた。
「えー、そんな事があったんですね。それで、その看板にはなんて書いてあったんですか」
「ああ、それはね……」
「お次でお待ちの4名様、どうぞ」
私が看板について言いかけたところで、ちょうど自分たちの番が来てしまい、話は途中で終わってしまった。
食事を終えて社に戻る頃には、看板の話などはすっかりと忘れてしまっていた。
そのことについて思い出したのは、家に帰ってからだった。
一人暮らしである私は夕食をコンビニ弁当で済ませ、缶ビールを飲みながらバラエティ番組を何気なく見ていた。
その時になって、あの看板のことを思い出し、パソコンの電源を入れると看板に書かれていた文字を検索してみた。
しかし出てくるのは似たような文言のものばかりであり、その言葉自体がヒットすることはなかった。
何なんだよ、あの言葉。悶々とした気持ちになりながら、その言葉について匿名の掲示板サイトに書き込んでみた。すると、すぐに返信がついた。
『にげろ』
その三文字を見て、私はぞっとした。
いたずらだよな。そう思いながらも、怖くなりパソコンの電源を切った。
しばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。
時刻は午前0時をまわったところである。こんな時間に誰かの訪問を受けたことなどは一度もない。
頭の中で掲示板サイトに書き込まれた『にげろ』の文字がよみがえる。
私は玄関で素早く靴を回収すると、ベランダに出て、そのまま外へと逃げ出した。
一体何なんだよ、『ララ・ライフ』って。
ララ・ライフ 大隅 スミヲ @smee
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