希死念慮を攫って

天井 萌花

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 放課後、1人きりの教室。

 開け放たれた窓から、涼しい風と一緒に青い匂いが入って来る。

 心地よい風に誘われた眠気は、鼻から抜けていってしまった。


 机に伏せていた頭を持ち上げ、大きく息を吐く。

 5月の空気は流石に暑くて、冬服で来たことを後悔した。

 お別れ寸前なブレザーのポケットを探り、指先に触れた物を取り出す。


 小さなチャック付きのポリ袋に入った、PTPシートで保護された1錠の薬。


 昨夜、月明かりに導かれるようにふらふらと彷徨っていた時――不思議な人に貰ったものだ。




 御伽話の魔女がそのまま飛び出してきたような人だった。


 その人曰く、俺は退屈そうに見えたらしい。

 ただ暇だったのではなく、人生に退屈しているように。

 だから特別だよ、と、この薬をくれた。


 薬物とかそういうのじゃなくて、魔法のような、“不思議な薬”だと。

 飲んで寝てしまえば、苦しむことなく確実に、ゆるりと死ねてしまうのだと。


 不思議な人は、そう言って笑った。




 それが、今俺の手の上にある、この薬。


 死にたい、なんて漠然と、ずっと前から考えていたから。

 安全にゆっくり死ねるなんて最高だと思って、つい受け取ってしまった。



 ずっと、死にたかった。

 死にたかったんじゃない。生きていたくなかった。


 将来の夢や目標もなければ、趣味も好きなものもない。

 “推し”とか彼女とか、そういう大切な人もいない。


 学校へ来て、授業を受けて、家に帰って、勉強して、寝る。

 そんななんの生産性もない、味気のない毎日を、ただ無心で咀嚼し続けているだけの命。


 高校に入ってからのことじゃない。思い出せないくらい昔から、ずっとそうだった。

 何をしても、どこへ行っても、誰と話しても、同じ。

 きっとこの先も、同じだろう。


 適当に、なるべくいい大学に行って。

 適当に、給料の高い会社に就職して。


 そうした他人と同じような人のフリをあと70年、80年も続けたって、息苦しいだけじゃないか。


 だから、生きていたくなかった。

 そんな俺にとってこの薬は、夢のようだった。


 この薬を飲むか、呑まないか。

 今日1日中、そんなことを考えている。


 勿論、死にたいのは嘘じゃない。

 楽に死ねるなら、本当に死んでしまいたい。


 けれど――そんな甘い話があるわけない、と、冷静な自分が言う。


 死ねないまま、ずっと苦しむことになったらどうしよう、と心配してしまって、踏ん切りがつかなかった。


「――加藤かとうくん、何見てーるのっ?」


 突然、後ろから軽く肩を叩かれた。

 明るく高い声が俺の名前を呼ぶ。

 視線も思考もすっかり薬に集中していて、人がきたことに気が付かなかった。


「えっ、あ、いや……ちょっと、頭が痛くて。考えてたんだ、薬飲むか」


 そのまま隣に座ってきた女子生徒に目を向けながら、咄嗟に言い訳をする。

 不思議な安楽死の薬だなんて、言えない。


 彼女の黒目がちな瞳が、俺の持つ薬に向けられている。

 白い肌に映える、艶やかな黒髪を持つ美人。

 話すのは初めてだが、誰かは勿論知っている。


柚木ゆぎさんは? 帰ってなかったんだ」


 彼女は柚木ゆぎ麗亜れいあ。1言で説明すると、クラスで1番可愛い子。

 顔が可愛くて、いつも明るく笑っている、見るからにモテそうな女の子。


 男子がよく彼女の話をしているが、彼女自身が男子と話しているのはあまり見ない。

 いつも女子に囲まれていて話す隙がない、といったところか。


「――うーん、帰りたくない日もあるよね。そんなことよりそれ」


 俺の質問に適当に流した彼女は、唇を笑みの形に歪めた。

 すらりと伸びた指が、俺の手の上を指す。 


 彼女の纏う雰囲気は、少し俺が抱いていた印象と違う。

 遠くで見ていた彼女は、いつだって明るくて優しそうだった。

 一方今近くにいる彼女は、どこか怪しげな笑みを浮かべている。


「君、死にたいんだ?」


 吊り上がったままの端正な唇が、衝撃的な言葉を口にした。


「えっ!? 柚木さんも貰ったの?」


 すかさず聞き返すと、柚木さんはあははっと、大きな声で笑った。

 愉快そうに笑いながら、小さく首を横に振る。


「風の噂で聞いただけー」


 歌うように言った彼女が、蝋燭の火のように笑みを消す。

 試すような目で俺を見て「それで」と続けた。


「何で死にたいの?」


 教えてよ、誰にも言わないから。


 と、不敵に笑った柚木さんの声が、甘く耳を撫でた。

 彼女に話す理由などない。

 友達にも、勿論親にも言ったことのない、俺だけが知っている気持ち。


「……何もないから。生きる理由が」


 なのに何故か、話してもいいと思えた。

 柚木さんは不思議な空気を纏っていて……どこか浮世離れしたその雰囲気が、俺の口を緩めたのかもしれない。


「へー、どうして?」


「夢とか、趣味とか好きな物とかなくて……何のために生きてるか、わからないんだ」


 ふーん、と簡素な相槌を打った柚木さんが、薬に目を向ける。


「飲むの?」


「迷ってる」


 柚木さんはそっか、と短く言って、静かに目を閉じた。


「――じゃあ、君はまだ死なない方がいいよ」


 落ち着いた声色で言って、ゆっくりと目が開いて――真っ直ぐな視線が、俺に向けられる。

 綺麗な顔は大人びていて、影が差しているように見えた。


「そうやって冷静に考えてられるうちは、大丈夫。私に指図されてカッとならないってことは――まだ生きたいって、思ってるんじゃない?」


「……そうかな?」


 俺のこと――話したことのない人のことなのに。

 彼女の言葉は、やけに確信めいているように聞こえた。


「そーだよ。今死ななくたって、好きな物くらいいつか見つかるって。夢なんてなくても、小さな『これしたい』『あれしたい』があればいい!」


 そんなこと、とうに考えた。

 いつか、いつかって――いつかは、何年も訪れなかった。

 だから、見切りをつけたはずなのに。


「君は生きるべき人間だよ。私の勝手な願いだけど、死なないでほしい」


 彼女の言う通り、カッとならなかった。


「それに加藤くん、勉強とかいっつも頑張ってるじゃん。未来見てなきゃ、頑張れないでしょ」


「知ってたんだ……」


 驚いた。

 柚木さんはよく目立つから、俺は彼女を知っていた。

 でも柚木さんは俺のことなんて、何も知らないと思っていた。


「勿論。いっつも鞄重たそうだし、あてられても余裕そうだし」


 ――俺も、たまに柚木さんのこと見てたよ。


 なんて気持ち悪い返しをしてしまう前に、彼女は言葉を紡ぐ。


「私ね、死にたいって思うこと、よくあるんだ。でも、まだ死ねないの」


 また、驚いた。

 柚木さんが死にたいと思うなんて、意外だった。それも、よく。

 明るくて元気で、楽しそうな人の中にも――暗い感情は、渦巻いているのだろうか。


「強く誰かの記憶に残りたいっていう、小さなしたいことがあるから」


 彼女はにこっと笑って、明るく言った。

 それからすっと、俺に手を伸ばしてくる。


「ねぇ、生きる理由がないなら――私のために生きてみない?」


「え?」


 意味がわからず、間の抜けた声を出してしまった。

 彼女は少し眉を下げて、呆れたように笑う。


「付き合おうって言ってるの。私を、君の生きる理由にして?」


「……え?」


 言い直されても、柚木さんが何を言っているのか、上手く理解できなかった。

 付き合うとは、恋人になるってことだろうか。

 何故。突然。話したこともないのに。


「私、結構いい女なのよ? だから好きになって。可愛い彼女のために生きてよ」


 伸ばした手を、ずいと差し出してきた。

 柚木さんが可愛くて、明るくて優しくて、素敵な人なことはもう知ってる。


 でも――逆は?

 柚木さんは俺を見ていたと言っていたが、俺にいいところなんて、あったか?

 俺と付き合ってもいいと思わせる要素が、あったか?


 ……なんて、疑っているのに。

 そっと、彼女の細い手を取ってしまった。


 すかさず、ぎゅっと握り返される。


「……ありがと。よろしくね」


「うん、柚木さんは……いいの?」


 俺は疑ってる癖に、手を取ってしまった。

 手を取った癖に、聞いた。


「うん。私、頑張れる人が好きなの」


 彼女はさらりと、けれど少し頬を染めて、照れたように言った。

 俺の手を握ったまま、鞄を持って席を立つ。


「校門まで一緒に帰ろう、私、右なの。加藤君は左でしょ?」


「ああ、わかった」


 俺も薬をポケットに戻してから、鞄を持って立ち上がる。

 廊下に出ると、柚木さんがさり気なく手を握ってきた。


 好きな食べ物は?

 デート行くならどこ?

 得意科目は?

 今やってる映画見たいね。


 なんて、恋人らしいような、初対面のような、不思議な会話をしながら校内を歩いた。

 その時間は案外楽しくて、あっという間についてしまった。


 校門を出ると、どちらからともなく立ち止まる。

 なんとなく会話も止んで、無言で見つめ合った。


「……ちょっと憧れてたの、こういうの」


 そう言った柚木さんが、ぎゅっと抱き着いてきた。

 抱き返すことはできなくて、身体が緊張で強張ったのを感じながら、ただじっとしていた。


 数秒間そうした後、柚木さんの身体がぱっと離れた。

 数歩下がった彼女は、にこっと笑う。


「ありがと。じゃあ……また明日!」


「うん、また明日」


 大きく手を振る彼女に、手を振り返す。

 彼女は名残惜しそうに、こちらを向いたまま数歩下がって――とうとう、俺に背中を向けて歩き出した。


 ――だから好きになって。だなんて。


 多分俺は、もう彼女に惹かれている。

 だからすぐに手を取ってしまったんだ。


 

 生まれて初めて、好きな人ができてしまった。

 生まれて初めて、生きる理由ができてしまった。


 生きててよかった。なんて思えてしまう俺は、かなり単純なんだと思う。

 数分前の希死念慮は、風とともにどこかへ行ってしまった。


 ……もう、あの薬はいらないな。


 捨ててしまおう。死ぬ気などないのだから。

 そう考えながら、ブレザーのポケットを探る。


「……あれ?」


 ポケットの中には、何も入っていなかった。

 さっき確かに、あの薬を入れたはずなのに。



 俺がいらないと思ったから、消えたのだろうか。

 案外、本当に不思議な、魔法の薬だったりして。

 ――なんて、もういらないから、関係ない話だが。

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