蜈蚣の色

冷田かるぼ

蜈蚣の色


「百足の死骸出てきたんだけどさ、要る?」


 ある夜、突然友人からそういう旨の電話がかかってきた。六月下旬の肌に纏わりつく湿気が鬱陶しい日だった。まあありえないと思うだろうが、僕はそれを喜んで受け取ることにしたのだ。つまり即答である。僕は百足の死骸が好きだ。集めている。生きている百足が好きなわけではないということは強調しておくが。


「……お前マジで趣味悪いよな」


 電話越しに本気で引いている声が聞こえる。仰る通りだ。だがしかし趣味を否定されるというのもあまり喜ばしいことではないので反論する。


「そういう電話をかけてくる方も来る方だろ」


「いや、うちで捨てるのも気味が悪くてさ。……なんか変なんだよ……」


 変、とは? 聞き返してみたが濁すばかりで何も答えやしない。とにかく今から持って行くからとだけ伝えられて電話は切れた。そんな勝手な、と思ってしまったがせっかく持ってきてくれるというのだから文句を言うべきではないな。念の為に少し部屋を片付けて人を呼んでもいい状態にする。大学生になってからだらしなさが一気に開放されて部屋は相当に汚い。時々片付けると死んだ百足が出てきてくれるからありがたいのだが。


 よく『なんで百足なんか好きなの』と訊かれることがあるが、逆に言うとなんで分からないのだろうと正直思ってしまう。そのつやつやした身体の軸の色とか、きゅっと縮こまった大量の足とか、すごく妖艶であると思うのだ。


 僕の実家には幼い頃からよく百足が出た、生死問わず。生きている方は全力で逃げるが、死んでいるのを見つけたときは思わず興奮した。自分だけの宝箱に収めた。今となってはその宝箱をどこにやったのかもわからないが、まあ、処理もしていない虫の死骸に何が起きているかなんて考えたくもないものだ。




 友人の家から僕の家まではそう時間はかからないのだが、待っている間にカップラーメンのお湯でも沸かしておくか、と重い腰を上げて電気ポットに水を注いでプラグを挿した。


 シンクは洗っていない食器だらけだ。とはいってもほんの一日しか放置していない。これでもマシな方だ。平皿、お椀、実家から送られてきたちょっと高そうな漆器……いや、これはさっさと洗っておいた方がいいのではないか? うん、流石に洗っておこう。そう思った瞬間ぴんぽん、とチャイムが鳴る。手を濡らした後でなくて良かったと心底思った。


「おう」


 若干古い錆びた扉を開けるといつもより元気のなさそうな友人が顔を出した。そうしてポケットに手を突っ込み、何かを手渡してくる。


「ほら、これ」


 それは小さな木箱だった。あまりに恐ろしくて箱に入れるべきだと咄嗟に判断したらしい。よくこんなぴったりな箱があったな、と訊くと百均で買ったと答える。見た目に似合わず安価だったようだ。まるでへその緒を保管する小箱のようだ、となんとなく考えた。


「気を付けて開けろよ、毒とかあったら大変だし」


 そう言われてもそんなに危ないものならもう少し保管の仕方があるだろ、と思いつつも蓋を開けてすぐ、友人がなぜそんなにも恐れていたのか分かった。――――群青。そう呼ぶのが相応しいのだろうか、この色は。分からない。理解が及ばなかった。小箱の中にはガーゼの上で深い青色の身体を持ったちいさな百足が幼い少女のように丸まって眠っている。死んでいるとは思えないほどみずみずしく、生きているとは思えないほど無機質だ。


「じゃあ、俺、もう帰るわ」


 友人は心底不快そうにそう言ってさっさと帰ってしまった。引き止めることさえもしなかった。去っていった後にゆっくりと閉まる金属製の扉、その鍵をかけることさえ僕にはできなかった。僕はただ目の前にある愛しく艶かしいこの娘をどうしてしまおうかという欲望で脳を埋め尽くされてしまったのだ。例えばこの細くも硬い大量の足を全部一本ずつ抜いてずらっと並べてみたい。例えばこの群青の裏側にある淡い灰色の胴をすう、っとナイフで裂いて中身を暴き出してみたい。例えばこの触角を、例えばこの顎を、と考え始めればキリがなくてどうしようもない。


 一旦冷静になり、蓋を閉め、物が散乱した机の上に置いた。そこだけが神棚のように神聖に思えた。いや、初めて彼女を家に泊める時のような気分、と言った方がいいのだろうか? 経験したこともないことを例えに出すのは止めておこう。カチ、とキッチンの方からお湯が湧いたのを知らせる音がしたので立ち上がる。用意しておいたカップラーメンにお湯を注いで、机に持ってこようとしたがもう置き場がなかった。仕方がないので彼女には枕元に行ってもらった。まあ、そこも本やら充電器やらでいっぱいではあるのだが。


 三分間待つ間僕はコレクションを整えることにした。今まで標本にしてきた百足たちだ。それらは若干の曲線を描きながらケースの中に飾られている。防腐処理だってネットで調べてなんとか仕上げたのだ。だけれどそれらには何か、何かが足りないような気がしている。僕の技術不足だろうか? まあ、どうしようもないか。いくつか位置を調整する。


 多分数分経ったので座り、カップ麺を啜った。食べ終わり片付けた後ミントの香りがきつい歯磨き粉で歯を磨きもう一度机の前に座った。……今日はもう寝ようか、それとも――――と考えてもう日を跨ぎそうだということに気付く。


 そうしてまあ仕方なく布団に入った。しかし脳裏には先程の青い百足がちらついてどうにも眠れそうにない。こうなったら彼女をもう一度拝ませてもらおう、電気は付けないほうがあの青が引き立ちそれらしくていいだろうなと、微かな月明かりの中枕元の小箱を手探りで掴もうとする。――――ない。ない、どこを探してもない。ないのだ。おかしい、どうして、と明かりを付けるためリモコンを掴もうとして、先程までは感じなかった異様な眠気に襲われた。ぐらり、と天井が歪む。意識が遠のく。


 しばらくの微睡みの後、まずい、という咄嗟の感覚とともに目が開いた。身体が異常に重い。おかしいと思い目をやると、ずり、と僕の身体に這う大きなものが見えた。それは紛れもなく小箱の中に居た彼女だった。やはり眠っていただけなのだ、と思った。しかし明らかに大きさが違う。あのときは手のひらに乗せても小さいだろうというくらいだったのに今は僕と同じ、いやそれ以上にひどく大きい。百足なんて薄っぺらい漢字では明らかに似合わない。彼女は蜈蚣だ。僕を喰らおうとしている。


 そのてらてらと光る群青色の外骨格がぐねぐねと意思を持って動く。僕の胴に絡みつく。足の一本一本がかさかさと動いて僕の皮膚をちくちくと刺激する。そうしてそれは太い身体で僕を締める。ぎりぎりと締める。小さい頃首筋を百足が歩いていたことがあったのを思い出した。あのときは泣き喚いて母親に取ってもらったっけな。こんなん、取れやしない。


 金縛りのような痛みと苦しみが自身を侵食していくのが分かる。それと共に別の強い感覚が胸の奥に湧き上がってきた。恍惚だ。いや、本当はそんな陳腐な言葉で表現したくない。だけれど今僕の頭の中に浮かぶのはその言葉しかないのだ。あまりにも惜しい。痛みのせいで生理的に流れ出てくる涙は留まるところを知らないまま枕を濡らした。


 その足の一つ一つが僕の皮膚にめり込んで、ぐちゅり、と、神経の奥までぐりぐりと刺激してくる。思わず嗚咽が漏れる。じわりと血が滲む。濁点の付いたみっともないうめき声だけが部屋に響いて、脳がじんじんと痛みに疼いて服従させられていく。それなのに僕はそれを快感として認識する。快楽。快楽。快楽。この身体では味わいきれぬ快楽。痛い。気持ちいい。僕の中が蜈蚣に侵されている。いつも僕がそうしているのに。エアコンを付けていたはずなのに全身の血が沸騰したかのように熱くて汗がじっとりと衣服を肌に貼り付ける。


 もうだめだ、死んでしまう。頭の中が真っ白になって真っ赤になって、きっとその後真っ青になる、君の群青になる。くらくらして、飛びそうで、脳の皺の一つ一つにまで蜈蚣が這うような快楽に身を任せて僕は意識を手放した。




 は、っと目が覚めると早朝、ぐったりした身体は汗やら涙やらの体液でべたべただった。皮膚には傷一つない。身体を起こすと腹の辺りから何かが落ちて、何かと見ると彼女の死骸だった。昨夜よりずっと生き生きとして余計に死んでいるようには見えない。僕はそれを元のように小箱に戻して蓋をした。ああ、コレクションは捨てなきゃな。

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