Love

「アンリ様、ノース様を見ませんでしたか?」


 使用人の一人に話しかけられたのは、朝早い頃だった。アンリは読んでいた本を閉じると、「知らないな」と息を吐く。


「昨日の夜から部屋に戻ってきていないようで……」

「そう」


 申し訳なさそうに部屋を出ていく姿を見送り、椅子に深く座り直した。ひとつ溜息を漏らすと、それに反応するかのように扉が二回ノックされる。返事をする間もなく扉は開き、青年は部屋に入ってきた。


「朝から暗いな」


 アンリの顔を見て一言そう言うと、机に腰を預ける。アンリは読んでいた本から栞を取ると、彼に差し出した。


「ノエル、これ読み終わったから返す」


 振り返った紅い瞳に陽光が煌めく。本を受け取ったノエルは、感想を促した。


「エリザベート・バートリ。昔実際にいた人間の話だ。

 彼女は自分の美貌を保つために若い使用人を殺し、生き血を啜っていた」

「そしてその死体を裏庭に埋めていた───。

 一部に記録によると、そこには血のように赤い薔薇がいつも咲き乱れていたそうだ」


 話すアンリを遮るように、彼は言葉を漏らす。


「…そんなこと書いてなかった」

「あくまで噂だよ、伝説の話」


 ノエルはそう言って肩をすくめてみせた。黒く長い髪が笑いかけるように揺れる。アンリの位置からその表情を捉えるのは難しい。


「…そういえば、昨夜から王女が行方不明らしい。何か知らないか」


 話題を替えようとして尋ねると、ノエルは僅かにこちらを振り返った。黒の隙間から覗く白い肌に浮かぶ紅い唇が、微かに笑みを含む。


「いや? 知らないな」

「そう」


 アンリが再び口を開く前に、ノエルは扉へ向かっていた。


「…縞、このあと久しぶりに出かけないか」


 瑞綺は咄嗟に言葉を紡ぐ。縞は扉の前で動きを止めると、彼の方を振り返った。


「──アンリ様。残念ですが部屋の掃除が残っておりますので」


 扉が閉まる音が響き、瑞綺は部屋にひとり取り残される。仕事を始めようと書類を取り出して、また溜息を吐いた。


 理由はなんとなくわかっている。見て見ぬふりをして、お互いがお互いを利用し続けている。こんなこと、今すぐ辞めさせるべきなのに。辞めろと言ったら辞めることもわかっているのに。言いたくない自分がいる。彼の気持ちを確かめ続けたい自分がいる。そしてそれはきっと、彼も同じなのだ。


 エリザベート・バートリ。血の伯爵夫人とも呼ばれた彼女の胸の奥には、亡き夫に対する深い恋慕の情があったという。彼に愛される自分でいるためには、老いることのない永遠の美貌が必要だったのだ。そんな幻想のような夢に溺れた彼女の気持ちは、胸が千切れるほどに理解できた。


 恋は盲目だ。

 しかし、たとえ自らが盲目だとわかってしまったとしても、走り続けなければならない。



「ノース様を見ませんでしたか?」


 グレースは彼にそう声を掛けた。振り返った彼は驚いたように彼女を見る。


「か、鍵が空いてたのでここにいるのかなと思いまして……」


 慌ててそう取り繕うと、ノエルは困ったように息をこぼした。


「ノエルさん、ノース様ともよくお話しされてましたよね。

 ご存知ないですか?」

「いや、知らないです」

「そうですか…」


 あちこち探し回っているのに、見つからない。失踪となれば国は大騒ぎになるだろう。なんとしても探さなくてはならない。

 ノエルに短くお礼を言うと、温室の出口へ駆け出す。その視界に白い薔薇が揺れた。


「赤い薔薇じゃないんですね」


 独り言のように呟いてから、出口のノブをひねる。しかし扉は開かない。鍵がかかっているのかもしれない。尋ねようと思って振り向くと、すぐ目の前に彼が立っていた。


「何言ってるんですか。

 この部屋の薔薇は、全部白薔薇ですよ?」


 彼の言葉を理解する前に意識が飛ぶ。彼女の脳天を鈍色のナイフが切り裂いた。



 深く掘られた穴に、そっと苗木を落とす。吸い込みきれず残った赤い海に土を被せ、青年は満足げに微笑んだ。水やりは当分しなくて良さそうだ。すぐに美しい赤薔薇が咲くだろう。期待に胸を高鳴らせ、そっと土を撫でてやる。


 青年の瞳に濁りはなかった。寧ろ何も知らない無垢な子どものように、きらきらと輝いている。その瞳はどんなに美しい赤薔薇がよりも、狂気めいた、耽美な色をしていた。

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LIFESTORY -Short Story Collection - 幻中紫都 @ShitoM

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