Leviathan の廻航

小野塚 

第1話



かつて、その白い浜はにしん漁で大いに

賑わっていたという。





遠浅とおあさの浜辺は、夏の一時だけは

海水浴の賑わいを見せるが、それも

ひと月とは続かない。


海の水は真夏でも冷んやりとして、

ボートを借りて沖に出れば、波の下に

何やら小魚が泳ぐのが見えた。

冷たく透明度の高い北の海は、以前

実験で用いたfrascoフラスコを思い出させる。


広い敷地をようした大学の片隅にある

古い校舎の、懐かしい研究室を。





ひなびた海辺の町には 岬 があった。

突端に、今はもう使われていない灯台を

据えた陸繋島りくけいとうだ。

 浜から岬までは遠浅の海と白い砂浜が

続くが、島の裏側は岩礁と切り立った

岩肌が人の介在を拒み、その海面下には

深く底知れぬ海淵かいえんが口を開けている。


岬のいただきには古い神社が。


豊漁を乞い、日々の安全を願う為

陸繋島りくけいとうの白い砂浜から島の頂の神社へと

人々が詣でる姿は今でも見られるが。


それが 逆参さかまいり とは誰も知らない。


朱い鳥居が何本も連なりながら、山の

頂の神社から海へと続く様は、まるで

竜宮か海神國わだつみへと至るあかい階段。


   二度と戻る事のない海の底へと。



あれは新月のくらい夜。







先生は、珍しい 海洋生物 の研究を

ライフワークとしていた。

札幌の大学で教鞭きょうべんる傍ら、遠く

離れたこの 土地 に、何度も足を

運んでいたのだ。


本来ならば大学が所有する船を使った

洋上調査が主になるのだが、テーマが

異なる他の研究室との 合同調査 と

ならざるを得ず、忸怩じくじたる思いを抱いて

いたのだろう。図書館でたまさか目にした

この土地に伝わる 古い伝承 に

先生は俄然、興味を持った。


 もう既に、その時点で


魅入られていたのかも知れない。



「あれは、新月の晩に深い海淵から

浮上する。そして呼ぶんだ。人の

赤ん坊の様な泣き声で。」


先生はそう言うと、静かに笑った。



実際には、潮の加減、気温や海水温、

そして月の満ち欠けなどが、微妙な

具合に影響しているのだ、と。



漸く基礎課程を終えて専門課程へと

進んだ事で、やっと先生の現地調査に

同行する事が叶ったのは、まさに調査を

海洋から陸へと引き上げた時だった。



「もし、あれに大海原おおうなばらで遭遇したら。

船の近くに浮上でもしたらと思うと

空恐ろしい。ソナー探査では、地球上

最大の生物、シロナガスクジラの

十数倍もある影を確認したのだから。」

 浜の夜風のせいだろうか、先生の声は

微かに震えていた。

「そんな生き物が、この日本海に?」

そもそも、この浜は 遠浅 だ。

「佐渡島への連絡船に鯨がぶつかる

事故も実際に起きている。きっと近似の

生物だろう。岬の神社に奉納されている

巻物にも《赤児の泣きたるが如し》と

記されてある。鯨類が超音波を利用して

生活していると考えると、より信憑性が

増すだろう?」


確かに、鯨や鮫など深海に生きる生物の

生態は、まだよく分かってはいない。

重力の兼ね合いからしても、地上の

生物と比べて大型になる可能性は大いに

あるのだろうけれど。


「今夜は新月だ。運が良ければきっと

あれの呼び声が聞こえるだろう。

岬の神社に祀られているのは間違いなく

あの 生き物 だ。豊漁の祈願として

ずっと 神事 が行われていたが、

それが執り行われなくなってからは

鰊漁にしんりょうも急速に衰退して行った。

 時折、あれは新月の晩に深海から

浮上して来る。かつて、崇め奉られていた

頃の記憶を辿って。」そう言った先生の

目は、炯々けいけいと輝いていた。






白い砂が、踏み締める毎に小さく鳴る。

目の前にはくらい海が、波の音を響かせて

寄せては返す。遠浅の海は、ある地点で

突然 深い海淵かいえん が口を開ける。


  にわかに 

     陸繋島りくけいとうの山肌に

       

 篝火かがりびが灯り始めた。



岬の神社へと登る山の参道には

沢山の あかい鳥居 がしつらえてあった。

 容赦なく海風に晒されて元々の

鮮やかな朱は褪色している。だが、

鳥居の間を縫う様に一つ、又ひとつと

灯って行く篝火が、千本鳥居をあか

照らし出している。



  空に、月は無い。



こんな新月のくらい夜に 神事 は

行われていたのだろうか。いつ頃から

始まったのかは分からない。けれども

幾つもの 生命 が闇の中で海の藻屑もくず

消えて行った。



 あかい鳥居の篝火は、

      山の頂から徐々に灯る。



「…。」何処からか猫の鳴き声が。

元々が漁師町だ。昼間よく野良猫たちが

たむろしているのを見かけたが。


《赤児の泣きたるが如しとふ》


猫の声などではないのだろう。勿論、

赤ん坊の声でもない。あれはくらく深い

海の底から呼ぶ。






 あの晩も。


先生を探して、月のない夜の浜へと。

岬の方でチラチラと揺れる懐中電灯の

心許こころもとない光が見えた。


参道の本当の終点おわりは、島の裏側の

荒濤あらなみに削られた岩礁にある。

 岩礁から先は荒濤の渦巻くくらい海。

深く切り込んだ海溝が それ を祀る

眞の 社殿しゃでん だった。


《赤児の泣きたるが如しとふ》


一層、強くなる猫の様な 鳴き声 が

岬の千本鳥居へといざなう。

 壱の鳥居 から陸繋島へと続く参道の

浜の白い砂に足を取られながら岬へと

急ぐ。「…先生!」呼び声は、歓語ざわめき

紛れてしまう。「先生ッ!」一層大きな

声で呼ぶが、岬の光はもう見えない。


篝火が、朱い鳥居を照らす。


神社へは登らずに、藪の傍道わきみちを行く。

荒濤に削られた岩礁が近づくと、海が

あかく光るのが見えた。仄暗い海面が

可視色に耀かがやきながら、みるみるうちに

盛り上がって目の前へと迫り来る。






 海嘯つなみ




   否、それはゆらゆらと睥睨へいげいする





《赤児の泣きたるが如しと謂ふ》



深き海の淵よりまかり越した異形。

神代の遥か昔からかしこみ奉られてきた

海に生きるもの全ての王。






大綿津見神命おおわだつみのみこと






また、闇よりくらい深淵から。




「先生。」







擱筆

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Leviathan の廻航 小野塚  @tmum28

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