わたし星間飛行(文フリ加筆版)

日笠しょう

ちかちか弾けて

(1)きらきら輝いて


「いやだよ」

 かろん、とグラスの氷が鳴った。珈琲の冷たく澄んだ黒色にそっくりな瞳が、私を籠絡せんと見据えている。押し負ける気がしたので、顔を背けた。

「絶対にやらないよ」

「そう言わずにさ、ササッ」

 私の前にあった珈琲を、詩音がさらに寄せてくる。賄賂のつもりか。

 ちゃぷん、と水面が揺れる。深い深い黒。星浮かぶ宇宙を思わせる、潤んで煌めく2つの目。不安そうな、だけども私を信頼しきっているこの目が好きで、最初のお願いを必ず断っていた時期がある。すぐに不毛と気づいて辞めたが。

 私を囲む黒色を少しでも減らしたくて、ミルクを注いだ。

「ブラック派じゃなかったっけ?」

「うるさいな」

「どうしてもお願いできない?」

 詩音が居住まいを正す。

「七花じゃなきゃ、いやなの」

 あーもう。ダメだよ! あーダメ! そんな顔をされたらもうおしまい! 試合終了! どれだけ堅牢に守りを固めたって、見つめられたら七花城は呆気なく落ちるのみなのです。

 9年前の私、つまり19歳の私が頭の中で騒ぎ、勝手にしょぼくれている。

 わかるよ、私。

 詩音は氷の彫刻なんて呼ばれていたこともあったね。どこまでも静謐で、冷たいほどに綺麗で、あっという間に壊れそうなくらい儚げで。

 でもそれは、遠くから見ているだけの人たちの感想だ。

 私は知っている。本当の詩音は氷なんて似合わない、無垢で無鉄砲で無遠慮で火の玉な生き方をする。子どものように、今その瞬間を楽しむことに全力を捧げる。そのときの詩音は格好良くて、可愛くて、愛おしいのだ。

 私だけが、知っていた、はずだった。

「……もう何年も触ってないんだよ。指だってふにふにだし」

「ほんとうに?」

「さわるなっ」詩音が伸ばした手を軽く払う。「ほら、仕事も家のこともあるから、練習する時間も取れないかも」

「2カ月あるんだよ、いけるいける」

「結婚式の余興なんだから、もっと上手い人とか……というか、旦那さん私とパート被ってるじゃん。旦那とやりなよ」

「二人で練習したら誰が育児するのさ」

「……曲だって簡単なのしか無理だよ」

 詩音が悪戯っぽく笑う。

「その悩みはすでに傾いている人のだよ、七花」

「〜〜〜〜っ!」

「卒業以来、6年ぶりの再結成だ。ライブしようよ、ね?」

 ごめん、19歳の私。何も変わってなかった。きらきら輝いていたあのときみたいに、私はまた籠絡されたのだ。

 失恋相手の結婚式の余興のライブなんて、字面だけでも地獄なのに。


 無事、詩音の頼みを断りきれなかった私はしぶしぶ話を進めることにした。

「曲は決まってるの?」

「まあ、なんとなくは」

「結婚式なんだから無難に——」

「bad dayとか」

「メロディはそれっぽいけど、意味知ってる?」

「School Food Punishumentとヲワカがいいかな」

「却下」

 ストローに数滴分の珈琲を溜めて、飲み口を指で塞ぐ。そのままストローを水面から離すと、圧力で中に液体が留まる。それをストローの空袋に垂らしてしわしわ縮んでいくのを見るのが好きだ。

「まだやってるんだ、その癖」

「スリーピース以外組まないから」

「なんで私とやるときだけ3人にこだわるのさ」

 なんで、って。

 唇を噛みながら、詩音を睨んだ。当の本人はキョトンとしている。

 言ったってどうせ、わからないだろうに。

「意地」とだけ口にした。

「そうか……意地かぁ……意地ならまぁ、仕方ないかぁ」詩音が突っ伏す。意地悪じゃないよね? と上目遣いしてくるのを、見ないふりする。

「じゃあ、わかった。3人ね」

「ドラムは……羽海野?」

「もう声かけた。『七花がいるなら、この3人だね』って言ってたよ」

「わかってるじゃない」

「最後くらい大所帯でやりたかったぁ」

「私以外とやって」

 ちりっ、と耳の中がひりついた。最後。それはそうだ。なんならこれは、神様がくれたボーナスステージだ。

 あの日、これが最後になるねと3人で語らったときから6年越しに、またあの空間に立てる。時間が止まり、あらゆる光がこちらに飛び込んできて、私たちが世界の真ん中にいる、この世のすべて。替えの効かない、唯一無二の瞬間を味わえる。

 あなたと——。

 二度と交わることのない分かれ道の、まさに分岐点での出来事になるとしても、そこから先を独りで歩くためのお供くらいはあってもいいだろう。

 大切な人の旅立ちを目の当たりにするのは嫌だが、その場にいないのも絶対に嫌だ。せめて思い出だけは、連れ帰らせてもらう。

「やろう。やるよ、バンド」

 そうこなくっちゃ、と詩音が指を鳴らした。


(2)めらめら燃えて


 Nirvanaを披露宴でやりたいという愚かな新婦を数の力で黙らせ、セトリはチャットモンチーとステレオポニーという、青春感満載の無難な落とし所となった。

 まずすべきは、相棒の健康チェックである。

 卒業から2度の引っ越しを経て、今や押し入れの最奥に鎮座する楽器ケースを引っ張り出さなくてはならない。途中、ピックコレクションやら、四苦八苦して作った卒業ライブの耳コピ譜面やらが出てきて懐かしさに手が止まる。その後も次から次へ、思い出の品が発掘された。

一緒に観たライブの半券。節約のために3人で割り勘した教科書。ライブハウスのバックステージパス。羽海野に返し忘れたCD。なにかの記念でもらった、詩音とのツーショットがプリントされたマグカップ——。

失恋、といえるほど立派なものじゃない。最後まで思いを伝えることはなかったし、勝手に焦がれて、勝手に振られただけだ。本人は私の気持ちにこれっぽっちも気づいていないだろう。ああ見えて、熱中すると自分の世界に浸るタイプだし。でも、それでいい。好きだった、という思い出だけでしばらくは生きていけるつもりだ。

 結局、早朝から始めた救出作業はお昼までに及んだ。

「……こんなにデカかったっけ?」

 私の相棒。真っ赤なIbanez。ツヤを消したマットな質感と飾らないシンプルな姿に一目惚れして、人生の一番大切な時期を一緒に駆け抜けた、心の拠り所。

 ずっと日陰にいたからしっとりとしている相棒は、記憶のなかよりも大きくて重くて、よく私これ持って飛び跳ねていたなと、若さに呆れてしまう。

 それはそれとして。

 おかげさまで体型はここ数年変わっておらず、ボディを支えるストラップを肩から掛ければ思いの外しっくりくる。

 ネックの傾きも、右手が弦に当たる位置もあのときのまま。

 ネックは少し反っているし、弦は触った手が茶色くなるほど錆びているけれど、おおむね問題なし。「待ちくたびれたよ」なんて、欠伸しながら言っているような気さえする。

 おまたせ。ただいま。また少しだけ、よろしく。

 べん、と指で弦を弾く。ゆるゆるの弦が少し震えて、間抜けな音が独りの部屋に吸い込まれていく。

 ちょっとワクワクしているのは、誰にも内緒だ。


「楽しそうね」

 私のささやかな秘密は、出会い頭に暴かれた。卒業してからずっと会ってないんだぞ! 何年ぶりだと思ってるんだ。

「七花、なんも変わってないね」

「それは19歳から? 卒業してから?」

「高校生から。思慮深いようで単純。慎重なのに短絡的。すぐに顔に出る。まだ言う?」

「遠慮しとく」

 数少ない高校時代からの友人である羽海野は、相変わらずの無表情でうなづいた。眠そうな雰囲気が堪らないと一部の男子たちはよく盛り上がっていたが、実際は感情の起伏に乏しいだけで、割とハキハキ言う子である。

「そういう羽海野も、あんまり変わってないんじゃない?」

 羽海野が両手を広げる。

「背が伸びた」

「だからなんだ」

「七花はちっちゃいまんまだね」

「うるさいな」

「なんか、家事してると背が伸びる」

「旦那の背が高いからじゃない?」

 羽海野も一昨年に会社の先輩と籍を入れている。式を挙げていない。羽海野の希望だそうだ。

「私と同じくらいだった七花が、こんなにも小さく」

「今もそんな違わないでしょ。ほら、行くよ」

 むすっとしている羽海野を連れて、相棒を背負い、私たちは懐かしの御茶ノ水へと繰り出す。

 学生時代、暇さえあればワケもなく御茶ノ水をうろいていた。もはや庭同然のつもりだったが——、

「ぜんっぜん、わからん」

歳月というのは残酷らしい。

「こっち」

 羽海野の足取りは、昔と変わらない。

 終始視線を上げながら、人で溢れる御茶ノ水をなんとか羽海野についていく。

 はじめてこの街に来たときもこんなだったな、と苦笑する。右も左もわからず、自分が認められていないような不安。楽器を買った後は、背負って御茶ノ水にいることがなぜだか誇らしく、だから足繁く通ってしまった。

 この角、中古屋じゃなかったっけ。ここにラーメン屋なんてあったっけ。ここは……ずっとレコード屋だ。

 すっかり様変わりした街並みに昔の記憶をダブらせて、懐かしさと真新しさに戸惑いながら歩き回る。

「ついた」

 曲がった路地のその先に、相棒を見つけた楽器屋が顔を出した。入り口こそわかりにくいし小さいが、中は結構広い。秘密基地みたいで、好きだった。

「おおー、おおー!」

 店内は昔のまんまで、棚の裏に大学の頃の私が隠れてるんじゃないかと思うほど。さりげなく確認して、いなかったことに安心する。

「自分でも探してる?」

「そんなわけないでしょ。えぇと、弦は……と」

 ベースの弦はなぜこんなに高いのか、と買うたびに思う。一応、1000円程度の廉価版もあるにはあるが、せっかくの披露宴だ。ちゃんとしたのがいい。

 ついでにピックも選ぶ。100円で雑多に売られているものでも、一つ一つ厚さや感触が違う。掻き分けて最高の一枚を見つけるのが楽しい。

 お目当てのものを買い揃え羽海野を探しに行くと、スティックを天秤にかけているところだった。

「いいバチあった?」

「これが完璧」

「じゃあ行こっか」

 と、その前に。

「中身壊れてないか試しがてら、スタジオ入らない?」

 楽器屋に併設されているスタジオを指差す。幸い、今は誰もいないようだ。

「なに合わすの?」

「いや無理。昔やった曲とか全部忘れたし」

「私覚えてる」

「すごいねあなた。まぁ、適当に? それにやってたらなんかしら思い出すかも」

 手癖、なんて大層なものがあったかさえ記憶にないが、何かはできるかもしれない。

「もともと、その気で来た」

 羽海野はぶんぶんと、会計前のスティックを振り回した。店員がそわそわしながらこっちを見ている。


(3)つらつら思って


「もう一回、合わせようか」

 詩音が息を切らしながら、マイクに向かって言った。鏡越しに見ても、だいぶ疲れているのがわかる。当然だ。もう2時間も歌いっぱなしなのだから。

 明らかに、私の練習不足が足を引っ張っている。卒業ライブは明後日。ここからどうこうというのは、現実問題として望みが薄い。

 2人の優しさに甘えている、そんな自分が死ぬほど嫌だった。だからといって、泣き言を言っても仕方ない。せめてなんとか形にするしかない。

「他の曲はいい感じだからさ、大丈夫。なんとかなるよ。七花はもうちょい周り見て。羽海野にお願いあるんだけど、キメのときになんか合図欲しいな」

「おけ」羽海野がスティックを振り上げた。「こうする」

「いいね、それでよろしく」

 壁面いっぱいの鏡に、どうしても目をやれない。今の私は、どんな顔をしているだろう。惨めで卑屈で、嫌な奴だと思う。

 最後をみんなで楽しみたかった。最高のかたちで終わらせたかった。でも——。

 本当に、付き合ったの?

 サークルの先輩と一緒にいるところを、同期が見かけたらしい。単なる友達とは思えない距離感だったと。

 もやもやして、練習に身が入らなかった。悲しくなって、一人で夜の町をさまよいもした。誰が悪いのか、何がいけなかったのか、そもそも私は何を許せないのか。どうしたいのか。一つとしてわからなくて、ベースを持つたびに涙が溢れた。

 変わらないままって、ダメなのかな。

 たぶん、詩音は隠さない。聞けば教えてくれるだろう。自主的に言わないのも他意はなく、ただ言う意味がないと思っているに違いない。

 自分が誰と付き合おうと、私を含む友達との関係はなんら変わらないと思っている。だから詩音にとっては、自分の恋愛事情など特別言う必要のないこと。

 でも、みんながみんな、そうじゃない。私にとって詩音は。あなたは。

 先に伝えて欲しかったとか、そういう問題では、とうにない。いまさら明かされたって、状況は良くならない。むしろ発狂するまである。こうなったが最後、どの道バッドエンドは確定で、できることといえば死に方を選ぶだけだ。

 羽海野がバスドラを鳴らしはじめる。体の芯を震わす低音が、私の思考をさらに深部へ沈めていく。

 鏡越しに、詩音と目があった。汗で前髪が額にくっついている。シャツを肩まで捲り上げているから、華奢な腕が剥き出しだ。その腕が、力強くマイクスタンドに絡んで——。

 あぁ、やりたかったことだけは、はっきりしている。それはもう叶わないのだろうけど。ただ、私があなたの隣にいたかった。

 この場所で、同じ音楽を奏でて、光のなかで一緒にいられるだけでよかったんだ。ずっとこの時間のなかに揺蕩っていたかったんだ。


 3人でスタジオを出ると、後輩の男の子、茅場君と会計で鉢合わせた。

「ども。詩音さんたちも今終わりっすか?」

「そそ。明後日のライブ、頑張るよー! 茅場君も出るんだっけ?」

「先輩方のサポートっす。羽海野さんとも組んでますよ」

「よろ」

 茅場君は恥ずかしそうに頭を掻いた。一個下で大人しい性格だが、ギターはやたら上手い。ライブのたびに色々な人から声をかけられているらしく、一晩で最低3回は見かける。

 うちのサークルは基本的に固定バンドが少なく、ライブのたびにやりたい人同士で集まる形式だ。いつも同じメンバーなのは、私たちくらいだろう。

「最後かと思うと、寂しくなりますね。先輩方とはたくさんバンド組んできましたし……詩音さんや七花さんとは、一度もやれませんでしたけど」

「私もあまりキャパが多くないからさー。ま、3人でのんびり気ままにやるのも性に合ってるのかなって」

「そうなんですか? てっきり七花さんが」

「茅っち、明日の意気込みは?」

「えっ? あぁ、任せておいてください。先輩方の花道を賑やかにしてみせますから……ところで、七花さん、なんか静かですけど大丈夫ですか?」

「えっ」と、急に話を振られて慌ててしまう。「元気だよ?」

 結局、満足いくかたちにはならなかった。重たい不安だけ、私の肩にのしかかる。

 詩音が見れない。変わりゆくもの、終わりゆくことを直視したくなくて、現実から逃げてしまう。

 いくつもの晩を、楽器を抱えたまま明かしてしまった。弾こうとしても詩音の顔がチラついて、それから手が動かなくなる。ベースの重みと、私の奏でる拙い音が私を雁字搦めにする。

 ボディの冷たさに心臓は止まりかけるけど、いつしか体温が移って、ベースもほんのり暖かくなる。その温もりだけを縁に、私を縛るもののせいにしながら、それを頼りに座り込んでいる。

 この場所から動かない免罪符。

 今さら何が、できるんだ。

「みなさんはそのままで、サポートで僕が入るとかもよかったかもしれませんね」

「茅っち、それは——」

「よくないよ」

 茅場君の肩が跳ねた。空気が凍ったのがわかる。店内BGMが、やけにうるさく聞こえる。よくないな、と自分自身に思った。思ったのに、言葉が止まらなかった。

「ライブ中は、世界が止まるの。客席は真っ暗で、私たちにだけたくさんの光が降ってくる。目の前の風景だけが世界のすべてになって、それを作っているのは私たち。あの特別を、誰かに譲るわけにはいかない」

「あの、七花さん」

「あの体験を、空間を、時間を、世界をね、詩音にほかの人と過ごしてほしくない。初めて一緒にライブをしたあの日から! 詩音は、私とだけでいい。ずっとずっと、私たちだけでいい……私たちだけが、よかったのにっ!」

「ちょ、七花さん落ち着いて」

 はっとして、詩音を探す。いつのまにか、私のそばからいなくなっている。

「……詩音は?」

「さっき羽海野さんが連れて行きました。ええと、だから、聞かれてないと思います、けど」

 茅場君がばつの悪そうな顔をしている。

「ごめん、帰るね」

 楽器ケースを背負い直し、私は逃げた。



(4)しんしん積って


「七花?」

「うひゃぁ!」

 突然、視界いっぱいに羽海野の顔が現れて思わず飛び退く。

「ぼうっとしてた?」

「あー、うん。ちょっとトリップしてたかも」

 久しぶりに体を貫いたアンプからの重低音に色々と思うところがあり。2人で簡単に合わせているうちに、つい物思いに耽ってしまった。

 あまり思い出したくない記憶だったけども。

「出る?」

「そだね。帰ろか」

 相棒の音色は昔と遜色がなく、あとは私がリハビリするだけ。大丈夫。もう取り乱したりしない。私だって、大人になったのだ。

 2人でレジが空くのを待ちながら、見るとはなしに店内を眺める。ふと、さっき羽海野を怪しげに見ていた店員と目があった。

 店員は慌てた様子で棚の整理に戻ったが、なお、挙動不審にこちらをちらちら伺ってくる。

「七花、細かいのある?」

「あ、うん」

 レジに向き直り、小銭を払う。そういえば、ここのポイントカードどうしたっけ。

「あの、もしかして七花さんですか?」

 声をかけられ振り返ると、さっきの店員が緊張した面持ちで立っていた。

 ん〜〜〜〜〜? なんか、見覚えがあるような。

「茅っちじゃん。元気?」

 羽海野がこともなげに名前を呼ぶ。

「うそ、茅場君?」

「はい、お久しぶり、です」

 茅場君は記憶よりも大人っぽい出立ちで、でもどことなく面影があってなんだかうれしくなった。

「茅っちいるなーって思ってた」

「そういうの先言ってよ」

「いや、自分も自信なかったんで」

 茅場君が、いつかのように頭を掻いた。思い出したのは私なので、茅場君は何も悪くない。

「ここで働いてたんだ?」

「店長が、友達なんです」

 茅場君が照れくさそうに、でも心なしが誇らしそうに、笑った。

「大学卒業してから、一緒に働かないかって。なんかずっと一緒にいるんです。変ですよね」

 茅場君の視線が店の奥に向かう。つられてそちらを見ると、今まさに接客中の細身の男の子がいた。初々しい女の子相手に、必死にギターの説明をしている。彼女は、初めて楽器を買いに来たのだろうか。

 あれ。

 なんか、変だ。

「まあでも、そういうのもありかなっておもって。なんだかんだやってます」

「そうなんだ」

「七花さんたちは、またバンド組むんですか」

「組む」

 羽海野が私を隠すように動いた。羽海野の小さな背中が、私の視界を隠す。

 あぁ。なるほど。

 突然、私の胸の中を埋め尽くしたもやもやの正体に、遅れて気がついた。

「ごめんね、茅場君。私たちもう行くから」

「あ、七花さん!」

 離れかけた私を、萱場君が呼び止めた。なに? と視線だけで問いかける。

「あの……6年前のことなんて覚えてないかもですけど……すみませんした」

 ぶん、と頭が取れそうな勢いで、茅場君が頭を下げた。染めた茶髪が、根元だけ黒くなっている。ちょっと抜けたところがあるのは昔から変わっていない。

「なんのこと?」

 そう、私はとぼける。

「ええと」

「私が忘れてるなら、きっと大したことじゃないんだよ。だから、またね?」

「あ、はい……でも、すませんした」

「わかんないよ」

 私は笑った。茅場君が返した笑みは、引き攣っていた。


「だめだよ」

 帰り道、羽海野が私の裾を引っ張った。もうすぐ御茶ノ水駅の改札で、私と羽海野は家が逆方向だから、ここが分かれ道になる。

 空はもう真っ暗で、ぼんやりとした街明かりが星を隠していた。夜なのに、その始まりも終わりも感じさせない、迷い人を絡めとるような薄ら闇。焦点の合わない黄昏時が、私はあんまり好きじゃない。

「何が?」

「あの態度。茅っち、引き摺るよ」

 羽海野はいつになく真剣に私を見据えている。

「だって、なんのことか知らないし」

「嘘」

「羽海野に何がわかるの?」

 自分から出た声が信じられないほど冷たくて驚いた。慌てて取り繕うと思ったけど、羽海野はやっぱり真剣な顔つきで、私は何も言えなくなる。

「わかるよ」

 目の前の道路を、ヘッドライトを焚いた車が通り過ぎていく。学生が私たちを追い越して、改札へ吸い込まれる。走り去る中央線を、目の端で追いかける。あの車輌にはたくさんの人が乗っていて、千葉のほうへ帰っていくんだなと、どうでもいいことばかり頭をよぎる。

「わかんないよ」

 だって、羽海野は結婚したじゃん。

「わかるよ、七花がなに考えてるか」羽海野が笑った。いつもの抑揚のない表情とは違う、全部諦めたような、からからに乾いた笑みだった。「わかるから……全部、わかるよ」

 線路の向こうはまだ橙色を湛えている。電車を動かす何本もの線が影になって、空を横切っている。薄闇に目が慣れない。誰も彼もがダブって見えるなかで、羽海野だけが、悲しそうに佇んでいる。街並みは切り絵のようだ。一番前のレイヤーに羽海野がいる。

 羽海野がわからないし、私の気持ちがわかるはずもない。わかってほしくもない。いつまで経っても新しい光を見つけられず、遙か昔の、今にも消えそうな小さな光を後生大事に守っている。情けないことと知りつつも、それでもほかの道よりは選ぶよりは良いはずだと、このかすかな光を守ることだけが自分の誇りだと泣き喚き続けている。暗い宇宙に身一つで漂流しているようなこの孤独を、まっとうな幸せを歩くあなたたちがどうして共感できる。

 羽海野だって、3人一緒がいいって、言っていたのに。

 いろいろな思いが重なった。

 ただ、これ以上踏み込めば、何かが壊れてしまう。

 そんな気がした。

 私が選べるものなんて、一つしかなかった。

 黙りこくる私に対し、羽海野の目はただただ優しかった。

 高校生からの腐れ縁だ。私の面倒くささも織り込み済みだろう。

「茅場君はさ、楽しそうだったね」

「そうだね」

「友達と一緒にお店やってるんでしょ。男の子って、いいよね。そういうの、普通にあるじゃん。最高の友達ってやつ? 簡単に、ずっと一緒にいてさ」

「私さ」羽海野の声が、夜に溶けていく。本人は、そうしたくないのだろうけど。「謝ろうって、ずっと」

「なんのこと?」

「あのとき、詩音を遠ざけなかったらって」

 あのとき、がなにを指しているのか。言わなくてもわかってしまった。

「そうしたら、なんか変わってたかもって。ずっと、ずっとね」

「なんも変わんなかったよ」

 泣きそうな声を遮る。薄闇で、顔はよく見えない。見えなくてよかったと思った。見えてたら、気づいてたら、私たちはきっと、終わりのない道を進みだしてしまう。

「どう足掻いたって、ここにいたんだよ、たぶんね」

「でも」

「絶対」

 がたんごとん、と足元を電車が通り抜けていく。たかが人間1人、足踏みしたところで社会はいつも通り時を刻む。

 だから私は、世界を止めるのだ。

「ありがとう……は変、か。がんばろう。うん、がんばろ。せっかくの最後なんだから、びっくりするくらいがんばっちゃお」

 私の裾を掴む羽海野の手をゆっくり外し、彼女の手を握る。

 一瞬置いて、手に力が込められる。夕闇を背景に、羽海野が何かを言った気がした。暗くて見えないし、雑踏で聞こえなかった、ことにした。


 それ以上、踏み込んではいけないラインというのがある。私にも、羽海野にも、詩音にも。

 若さだけを推進力に、誰かを傷つけることさえ厭わず入り込んだ日々とはとうに訣別した。

 感情の奔流をすべて飲み込んで、いつか訪れる決壊に怯えながら、見て見ぬ振りで日々をやり過ごす。絶対に戻れないことを知っているから、憧憬だけを抱えて生きている。

 それが大人になるということ。子供じゃなくなるということ。そう思って、割り切っていた。後悔は先に立たないし、今さら何も私には残っていないのだと。

 悲観的でなくなったのも、成長した証かもしれない。

 羽海野と別れた夜、帰りの電車で2人にメッセージを送った。やりたい曲がある、とだけ。すぐに既読が1つついて、15分くらい待ってると2個目がついた。

「いいね!」と詩音が先に。

「リベンジ」と羽海野が続く。

 すべてを見透かされている気がして、思わず笑みがこぼれる。

 そう、リベンジ。あの時した後悔をやり直せる、突然訪れたチャンス。もう子どもじゃない。諦めてきたことが多すぎて、慣れてしまった。そのなかで一番光っている道を選ぶ術も知っている。

 ないならないで、また後悔しないようにできることをやろう。あの時なくしかけたものを、もう一度作り直しにいこう。

 友達と一緒に。相棒と一緒に。


 と、大見得は切ったものの6年のブランクはやはり大きいもので。

 指は痛いし運指は一向にスムーズにならない。仕事と家事と練習。大人の1日は、24時間だと実は足りない。だんだん家事が疎かになり、次第に睡眠も削り始めた。延長線上で、仕事がボロボロになるのも必然である。

 にもかかわらず、普段より幾分も気分が明るかった。街を見る余裕があって、月日の細やかな移り変わりにもやけに気がつく。緑が鮮やかで、空は抜けるようで、私の体は重いけど、座り込みたくなるほどじゃない。

「でも1人じゃどうにもならんので、助けてください」

 珈琲がなみなみ注がれたグラスをズズっと、詩音に押し出す。 

「なにそれ、賄賂?」

 詩音がけたけた笑う。

「昔っからこのフレーズが苦手なの、お願い!」

「練習不足」

「わかってるよ! わかってるけど、もう2週間後じゃん!」

 ポテトを頬張りながら私を揶揄する羽海野に、スマホのカレンダーを見せつけた。

「社会人の2週間って、可処分時間にしたら2日くらいだからね⁉」

「まぁまぁ。で、何を教えてほしい?」

 詩音が隣の席に写ってきた。薄い、ラベンダーの香りが風に漂ってくる。

「曲はブロックと流れで覚えているんだけど、どうにも構成がわかんなくて」

 詩音に相談しながら、ふと、昔を思い出した。空き教室で初めて3人で集まって、曲選びをしていたあの日。

 私と羽海野は高校からの知り合いで、そこに詩音がやってきた。詩音はサークルでも引っ張りだこだったから、私たちに声をかけてきたのは驚いた。

 2人の雰囲気が、なんかいいなって思って。

 その言葉を、声色を、私ははっきり覚えている。夕日差す春の教室で、これからのことを大袈裟に、でも真剣に、考えた。楽しくなるねって言い合って、実際そうなった。曲をやるたびに、詩音と会うたびに、私のなかに甘い甘い雪が降り積もって、一面を愛しい風景に染め上げた。

 その風景のなかに、いつも詩音がいた。

 隣に羽海野がいて、3人が宇宙のすべてに思えた。

「ここはね、ここと次の5小節が対比になってて」「なにその中途半端」

「区切りで合図する?」

「結構です。あれ、もしかして私、小馬鹿にされてる?」

「大丈夫」詩音が微笑んだ。私は目を開けたまま、心のなかを思い浮かべる。私を揺さぶった甘い雪は、もう降っていない。「今日で完成するって」

 今は積もった雪の上で3人、同じ卓を囲んでいる。

(5)ちかちか弾けて


 ドレスだと動きにくいかもな、なんて誰もいないロビーで待っていると、真っ白なウェディングドレスに身を包んだ詩音が走ってきた。

「ごめん、遅くなった! 羽海野は?」

「トイレ……もしかして詩音、それで弾くの?」

「うん。なんで?」

 なんでって。

「余興って、お色直しのあとにやらない?」

「私さ、ウェディングドレスでバンドやるの夢だったんだよね。ロックじゃん」

「ロック……か?」

「お待たせ。あ、詩音。いい式だね」

 挙式からずっと見ているが、羽海野は羽海野で深緑のタイトなドレスを身に纏っている。あれでバスドラ踏めるのか?

「そこの扉が開くの?」

「そそ。披露宴会場の照明落として、いい感じにしてもらう予定」

 わたしたちの楽器は披露宴会場と壁を隔てた、受付をしたロビーに置かれていた。私に似て所在なさげにしてしまうかなと思ったけれど、意外に堂々と鎮座しているからおかしい。

「これで、最後かな」

 チューニングしながら、詩音が言った。白いドレスに、真っ黒なギターが驚くほど映えている。愛おしそうに弦を引き絞る詩音の俯いた顔が、美術館の一枚絵のように綺麗だった。

「まあまた、機会があれば」ストラップの位置を直す。

「いつでも」羽海野がスティックをクルクル回した。

「そだね」詩音がマイクを握って振り返る。

 ふと、昨日練習中に見たテレビの内容を思い出した。重力とか光の速度とかの関係で、宇宙では時間感覚が狂うらしい。それからは、まさに長い長い時間がぎゅっと圧縮された、濃密な一瞬だった。

 羽海野のドラムに合わせて、詩音がストロークを始める。乾いた音を後追いするように、私がメロディを作っていく。

 耳は全方位に集中しているのに、目は手元しか捉えていない。自分の手がやけに大きく見える。イントロの山を越えて詩音が歌い出して初めて、私は顔を上げた。

 光。会場の照明が落とされて真っ暗闇のなかに、キャンドルの光がちらちら浮かんでいる。どの視線も私を、おそらく詩音をだろうけど、一直線に見ていた。

 詩音の透明な声が会場に響き渡る。もう少し、もう少し。詩音の声と、羽海野のリズムと、私のメロディが、もう少しで完全に溶け合う。意識をしなくても、互いの存在を感じ取れる瞬間。体が勝手にビートを刻んで、演奏をする私と、周囲に漂う私が半分半分になる。

 羽海野がバスドラを鳴らす。私の思考はさらに深くなっていく。あのとき後悔が残った曲。もう何も、怖いことはない。

 それは1音目を弾くのと同時に——来た。

 ぱっ、と光の粒が眼前に飛び込んできた。私たちと観客以外なにもない、世界の約束から切り離された私たちだけの宇宙。いっそしっかり切り取って、このまま時間を止めてほしいとさえ願う空間。

 今、私と詩音の感覚は一つになって、光の海を星間飛行している。

 詩音が目線をよこした。羽海野がスティックを振りかぶる。キメの合図。体を2人に向けてタイミングを合わせる。

 なににも変え難い、至上の幸福。3人で重ねた残響が、いつまでも体を駆け巡った。

 最後の一小節を走り抜けて、羽海野の盛り上げに追随しながら、私たちの旅は終わりを迎える。

 会場が明るくなると大歓声が湧き上がった。相性最高、なんて野次を私は聞き逃さない。

 そうなのだ。私と詩音はこんなにも息が合っていて、世界が、みんなが、こんなにも認めてくれているのに、たった一つだけがどうしても噛み合わない。

 でも、それでおしまいというわけではなくて。3人で過ごしたあの日々は私のなかで星のように綺麗に、小さく、永遠に輝いているから。

 きっと、その輝きだけで十分なのだ。

 だから門出は、幸せであってほしいと思う。

「詩音、あと羽海野も」

 2人に向き直る。ドレスなのに汗びっしょりで、余興でやる激しさじゃないだろうと思ったが、私も似たようなものだった。

「結婚、おめでと」

 詩音と羽海野が顔を見合わせて、それから満足そうにハイタッチしてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わたし星間飛行(文フリ加筆版) 日笠しょう @higasa_akira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画