歩く涙

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歩く涙

 窓の外から見る昼間の雨景色は、静かながらも独特の美しさがあった。

 柔らかい雨粒が建物の壁面や葉っぱに打ち付けられ、水たまりが道路に広がっている。空は灰色に覆われ、太陽は雲の向こうに隠れているようで、光は薄く差し込んでいるだけだった。

 一人の少年は自宅から、その景色を険しい表情で眺めていた。

 やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。

 小ぶりで丸みのある形状のメガネをかけているためか、落ち着いた優しい印象がある。取り立ててカッコよくない目立たない男の子。

 アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。

 これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。

 酷な言い方をすれば、

 イモ。

 それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。

 ……でも、何だろう。

 イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。

 素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。

 そんな、少年だった。

 名前を佐京さきょう光希こうきと言った。中学生だ。

 光希は氷水を張った洗面器を手に持ち、窓に映る自分の顔を見ていた。

 顔には、暗い影が落ちている。

 雨の日は嫌いではない。

 むしろ好きな方だ。

 何もしないで雨の音に耳を澄ましているだけで、心が安らぐ。

 だが今日は違った。

 光希は洗面器を手に、そっとノックをし妹・蛍子の部屋に入る。ベッドの上で横になっている小学生の妹の姿が目に入った。

 額には汗をかき、息も荒い。苦しそうに呼吸をしている。

 枕元にはスポーツドリンクとカゼ薬があった。

「蛍子。どうだい?」

 光希は優しく声をかける。

 蛍子はゆっくりと目を開き、兄の方を見た。

 弱々しい声を発する。

「うん……」

 兄に対して申し訳ない気持ちがいっぱいなのだろう。蛍子は申し訳なさそうな声で返事をした。

 光希は蛍子の額に手を当てた。

 熱い。

 体温計で測らなくても高熱だと分かる。

 蛍子が熱を出したのは昨晩からだ。学校の帰り道に雨に降られ、ずぶ濡れになって帰ってきた。すぐにシャワーを浴びて体を温めたのだが、そのまま風邪を引いてしまったようだ。

 光希は蛍子の枕元に座り、氷水で冷たくしたタオルで妹の額を冷やしてやる。

 すると蛍子は熱で潤んだ目を動かし、かすれた声を出した。

「ありがとう。お兄ちゃん」

 光希はその声を聞き漏らすまいと耳を向ける。

 不安気な声だった。

 いつもは明るい妹がこんな声を出すなんて珍しい。よっぽど苦しいのだろう。

 しかし、今できる事は看病だけだ。だから一生懸命、手を尽くすしかない。それが兄に出来る唯一の事なのだから。

 汗を拭いてやり、薬を飲ませてやる。

 そして、手を握ってやった。

 しばらくそうしていると、やがて安心したのか、すーすーという寝息が聞こえてきた。

 寝入った妹を見て、ホッと胸を撫で下ろす。

 今は蛍子をしっかり休息を取らせることが最優先事項だ。

 光希は窓の外で激しくなる雨音に耳を傾けながら、本を手にすることにした。本棚から一冊の本を取り出し、読書を始める。

 読んでいるのは芥川龍之介の『羅生門』だ。

 皮肉も、下人が、羅生門の下で雨やみを待っているシーンを読んでいると、つい自分と重ね合わせてしまう。

 自分もまた、家の中とはいえ雨の中に居る一人に過ぎないのだ。

 物語の中で下人は、雨やみを待っていたが、正確には暇を出された下人が、行き所がなくて途方にくれていたのだ。

 今の光希と同じだ。

 熱を出した妹を、自動車に乗れない自分は病院に 連れて行くことも出来なくて途方にくれていのだから。

 そんなことを思っていると、蛍子が寝返りをする。

 熱で暑苦しいのだろう。布団を蹴飛ばし、パジャマのボタンも外れてしまっている。

 発熱した場合は薄手の布団にして、熱が逃げやすい状態にしておくのが望ましいが、さすがにこのままではマズそうなので、光希は掛け布団を蛍子の下半身にかけ直してやった。

 その時、蛍子が微かに口を動かした。

「……みず……」

 と。

 光希は驚いて蛍子の顔を見つめた。

「水が欲しいのかい?」

 訊くが、蛍子は答えない。彼女の顔はいつもの元気な表情とはまるで違っていた。頬は赤く熱を帯び、閉じた瞼の下で目が動いている。

 レム睡眠時に起こる急速眼球運動という状態だ。この閉じたまぶたの下で眼球が動いている状態は、夢を見ていることが多い眠りとされる。

 蛍子が夢を見ていることを察しつつも、光希は続く言葉に耳を傾ける。

「……水。塊……歩いてる……」

 光希は蛍子の言葉に驚いた。

 歩く水?

 それは何かの幻覚か、夢の中の話だと思ったが、蛍子の怯えにも似た表情に光希はその言葉がウソではないと感じた。

 光希は思った。

(もしかして怪異か何かだろうか)

 妙に引っかかりを憶えつつも、光希はその話を聞いて心に寒気を感じた。蛍子がその怪異に遭遇したことで、病気になったのかもしれないと考えたからだ。

 光希は妹の部屋を出ると二つ折りの携帯電話を開き、友人の木村風樹かざきに連絡を取ることにした。風樹は、小学生の時からの友人で共に怪異に遭遇するなどの経験を持つ貴重な友人だ。

 コール音が続く。

 光希の心臓がドキドキと鼓動を速める。まるで時間が止まったかのような静寂が続いた。

 やがて、風樹の落ち着いた声が電話越しに聞こえてきた。

「光希? どうしたんだ」

 幸いにも風樹はすぐに電話に出てくれた。

 光希は一瞬息を呑み、そして言葉を絞り出した。

「風樹、相談したいことがあるんだ。妹が高熱を出したんだ。でも、それだけじゃない。蛍子が……変なことを言ってるんだ」

 風樹の声は少し緊張しているようだった。

「変なこと?」

 その言葉に、光希はごくりと唾を飲み込んだ後、言った。

「……断片的なんだけど、水が歩いているのを見たみたいなんだ」

 風樹は一瞬沈黙した後、少し笑いを含んだ声で答えた。

「歩く水? それはまた変わった話だな。何かを見間違えたんじゃないか?」

 光希は携帯電話を握りしめる手に力が入る。

「いや、蛍子の様子から見間違えじゃなく本当に見たんだと思う。風樹、君は何か知らないか?」

 すると、今度は真面目な口調で返事が返ってきた。

「思い当たるものがあるけど……」

 風樹は口ごもりながら知っていることを光希に告げる。その内容に、光希は納得するものがあった。

 続けて、風樹は教えてくれる。

「……それと、妖怪や怪異に人が遭遇すると、4つのことが起こるんだ。人の役に立つ。人を傷つける。ビックリさせる。そして、病気にするだ」

 それを聞いて光希は納得がいった。やはり原因はあの水塊なのだろうと思う。だとすれば一刻も早く手を打たなければならないと思った。このままでは妹の命に関わる可能性がある。

「ありがとう風樹」

 電話越しで風樹が呼び止めるのも聞かず、光希は電話を切ると、窓の外の雨を見つめた。

 雨音がますます強くなり、まるで泣いているかのように屋根に響く。光希の心の中には不安が渦巻き、妹のために何としても真相を突き止めなければならないという決意が芽生えた。


 ◆


 光希はカッパを羽織り、頭にはフードを深くかぶっていた。

 雨は冷たく、まるで心の不安を洗い流そうとするかのように降り注いでいる。

 しかし、光希の心には重い鉛のような不安が募るばかりだった。蛍子が目撃した怪異の正体を確かめるため、彼は妹が通る通学路へと向かっていた。

 細い路地に足を踏み入れると、雨の音が一層強く耳に響いた。

 狭くて暗い雰囲気が漂い、昼間でも薄暗いこの場所は、まるで別の世界に入り込んだかのような感覚を抱かせた。古い家々が並び、長い年月を経て朽ちかけた外壁には苔が生え、雨水が滴り落ちていた。

「蛍子がここで……」

 この道を通っている時、彼女は異変を感じ取ったのだ。それを思うと光希の胸が痛んだ。自分が代わってやりたいとも思った。

 だが、今は妹のためにもこの怪奇現象を解明しなければならない。

「どこにいるんだ……」

 光希は呟きながら、周囲を見渡した。

 雨の音にかき消されるような小さな声が、自分自身の不安を反映しているようだった。

 その時、不意に目の前の水たまりが動いたように感じた。

 光希は驚いて立ち止まり、じっと見つめた。水たまりの中で水が渦を巻き、ゆっくりと形を変えていく。

 水たまりの中で小さな渦が生まれ、ゆっくりと回転し始めた。渦は次第に大きくなり、その動きはどこか生き物の呼吸を連想させるようなリズムを持っていた。

 光希は目を凝らして見つめ、その異様な現象に目を奪われた。

 渦の中心から水が盛り上がり、まるで透明な触手のように形を変えながら伸びていく。その触手は空中でしばらく揺れ動いた後、再び地面に戻り、ゆっくりと一つの楕円形の塊を形成した。その塊は完全に透明でありながら、光の加減で微かに虹色に輝いていた。

 大きさは、フットボールくらい。

 その第一印象は、山梨県の水信玄餅かのようであった。

 光希の目の前で、その透明な塊がまるで意思を持つかのように動き出した。塊は地面を這うように進み、一歩一歩、まるで見えない足を持っているかのように道を歩いていった。

 水たまりから生まれた、その生物のような存在は、周囲の景色を歪ませながら雨の中を進んでいく。

 光希は息を呑み、その奇妙な光景に目を奪われた。塊が移動する度に、周囲の空気がひんやりと冷たくなり、彼の肌に冷たい霧がまとわりつくように感じられた。その塊の動きは滑らかで、まるで水面を滑るように静かだったが、その静けさがかえって不気味さを増していた。

「これが、あるき水……」

 光希は風樹が教えてくれたことに目を見開いた。

 水たまりがまるで生き物のように動き出し、透明な塊となって道を歩き始めたのだ。


【あるき水】

 雨の日に現れる怪異。

 その名の通り水の塊のような存在で、歩いていく。

 山梨県甲府市の女性が目撃したもので、雨の中、2~3個を歩いて行くのを見たという。

 その体験談を、漫画家・水木しげる氏に送り水木氏は目撃画談にしている。

 

 あるき水はまるで道を知っているかのように、迷いなく進んで行く。

 光希が見ていることに気づいていないのか、襲いかかって来る様子もなく、彼はその水の怪異の後を追うことにした。

 あるき水は住宅のある場所から離れて行く。やがて人気のない雑木林の中へと入っていった。

 周囲は暗く不気味な雰囲気に満ちており、光希は思わず身震いをした。それでも勇気を振り絞り、足を踏み出す。草をかき分けるようにして進むと、その先に開けた空間が現れた。

「ここは……」

 そこには高さ30cm程の小さな祠と石碑があった。

 石で作られたそれは、苔むして倒れ、木造の祠も木が腐り長い間誰も訪れていないことが伺われた。周囲には枯れた草木があり、手入れされた様子もない。放置されてかなりの時間が経っているようだった。

 なぜ自分がここに導かれたのか、光希は分かった気がした。

 それから、祠に対して両手を合わせた。

「僕がこの祠を立て直します。石碑も元に戻します。ですから妹を助けてください」

 そう言って深々と頭を下げたのだった。

 雨は未だに止むことなく降り続いていた。

 しかし、雲間から光が差し込み始め、辺りは次第に明るくなっていった。その光は暖かく、周囲を優しく包み込んでくれているような気がした。


 ◆


 光希は古びた祠の前に立ち、深い呼吸を繰り返した。

 雨が止んだ後の空気は冷たく澄んでいて、彼の心を少しだけ落ち着かせてくれた。地面にはぬかるんだ泥が広がり、祠の周りには枯れ葉や小石が散乱していた。

 祠は高さ30cm程の小さなものだったが、その存在感は重く、神聖な雰囲気を漂わせていた。

 手にしていた麻袋から木材と金槌や釘を取り出す。

 事前に寸法を取っていたので材料は全て揃っているハズだと思いながら、作業に取りかかる。

 祠の屋根に手を掛けた。木材は朽ち果てていて、触れるだけでボロボロと崩れそうだった。それでも、光希は決意を込めて祠を修復する作業に取り掛かった。

 腐った木材を取り除き、穴の開いた屋根に板を打ち付けて塞いだ。

 するとそこに、一人の少年が姿を見せた。

 身体は細い。

 しかし、体格はしっかりとしていた。ルックスは悪くないが、華やかさと美しさに欠けるためにあまり目立たず、特徴のない地味な感じだった。

 木村きむら風樹かざきだ。

「風樹。どうしたんだ?」

 光希は驚いて声をかけると、光希の作業を手伝い始めた。

「蛍子ちゃん。良くなったんだってな」

 風樹の言葉に、光希は微笑んだ。

「お陰様でね。風樹のお陰だよ」

 風樹は少し照れたように頭を搔いた。

「俺は、あるき水のことで知っていることを話しただけだぜ。あとは、お前自身の行動だろ?」

 風樹の言葉を聞き、光希は小さく首を横に振った。

「それでも相談に乗ってくれたのは風樹だしさ……本当に感謝してるよ」

 その言葉を聞いた風樹の表情は複雑だったが、やがて嬉しそうに目を細めた。それから光希のしている作業を手伝う。

 二人で祠を作り直すと、今度は倒れた石碑を元の位置に戻した。そこには古い文字が刻まれていたが、風樹には読めない文字であった。

 だが、断片的には読み取ることができた。

「……光希。この石碑だけど、この祠は水神様を祀ったものみたいだ」

 風樹の言葉を受けて、光希も石碑を見つめた。

「水神様?」

 風樹は続ける。

「その名の通り、水の神様だよ。稲作と関係深く、春は川、秋は山に帰るとも田の水口にいるとも。日本の神様は、願い事を聞いて助けてくれる優しくて温和なイメージがあるけど、基本的な性格として『善と悪』の二面性をもつ『二重人格者』なんだ。

 有名な素盞嗚尊すさのおのみことはその典型で、八岐の大蛇退治の英雄神でありながら、その一方では『世の中の諸悪の根源』という恐ろしい顔を持っているんだ。

 この怖い側面を体現するのがいわゆる『荒ぶる神』で、人間に対してその神威を示すときに暴力的な形がとられ、これが『祟り』と呼ばれるものの正体なんだ。

 その地に住む人々が信仰心を持ち続けることによって神様は神様でいられるけど、信仰を失った神は妖怪に成り下がってしまう」

 そこまで聞いて、何となく、あるき水の正体が分かった気がした。

 だが、光希が、ここで、あるき水と向き合って感じたことは、決して悪いものではなかった。むしろ寂しさや悲しみといった感情を感じた。

「僕は、あるき水に、こう思ったんだ……」

 風樹は、光希の言葉に耳を傾ける。その言葉に風樹は驚きつつも表情が緩んでしまう。

(光希らしいな)

 光希は祠に手を合わせるのを見て、風樹もそれに倣った。

 あるき水に感じたもの。

 それは、涙の化身。

 神様が流した哀しみの涙が形をとり、この世に現れた。

 長い間誰も訪れず、忘れられてしまった神様の心が形になって歩いく。過去の祈りが形を成した涙であることを、光希は感じ取っていていた。

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