◆
「ふうん、物騒なこともあるもんだ」
そう言って、永田は書類の束を指でぱちんと弾いた。
「きちんと鍵は掛けとかないと」
いくつかの翻訳業者の連絡先をまとめて紙に記したものを、わざわざまた東京から持参してくれたのだった。
「こんな田舎だけど、女のひとり暮らしでしょう」
「はあ」
いつの間にか随分と気安い口の利き方になっていたけれど、それすら私にとっては心の拠り所ならんとする何かがあった。なにせ、昨夜はそよ風に囁く枝葉の音にすら驚いて飛び起きるか、浅い夢の中暗闇に佇む異形の姿を見て冷汗と共に大きく身体を跳ねさせるかだったからだ。睡眠はまるで足りてなくて、頭の奥にぼんやりとした怠さがあった。
「あの、これ、読んでもらえませんか?」
そう言って差し出したのは、件の日記だった。
「僕に?」
「はい、その……私にも、よく分からないところがあって」
ふん、と鼻から漏らす溜息と共に、永田は日記を受け取った。私よりもずっと長い指が手帳を隔てた向こう側に添えられるのを見て不意に永田の肉体を意識して嫌悪にも近しい感情が自分の中に芽生えるのが分かったが、それを押して、手帳を押し付けた。
それほど長い時間は掛からなかった。ひとしきり日記を読み終えた永田は、もう一度冒頭のページからぱらぱらと捲りながらいかにもつまらないものを見たとでも言わんばかりの口調で「ふうん」とだけ漏らした。
「あの……どうですか」
「どうって」
「これ……本当に日記なのかなと……あの、ほら、」
永田に私を責めたつもりはなかったろうけれど、私はとりなすように、ただでさえ他人にかけるには慣れない言葉を、不器用ながらも必死で言葉の引き出しから繰り出し重ねた。それはひとえに永田にこの家を去って欲しくなかったからで、それは永田でなくとも、誰でも良かった。この家に、一人きりでいることは恐ろしかった。
「これが遺品だということをさて置くと」
いかにももったいぶったように、永田は言う。
「愚にもつかないな」
「……そうですか」
雨の日が続くようになり、どうやら梅雨入りしたようだった。連日ぱたぱたと軒から雫の滴り落ちる音が、私の子守歌になった。日の差す時間は減ったけれどもその分急に空気は重く湿気るようになって、私は少し迷ったけれど結局物置から扇風機を引っ張り出した。
集金の男は、あれからもう一度だけ来た。例に漏れずどんよりと曇ってじめじめとした日中の事で、またぞろ呼び出しベルも鳴らさずに玄関の扉を開けたところ、そこに丁度永田が居合わせたのだった。
「なんだ、あんた」
咄嗟の事だったが永田にも感づくところがあったのだろう、努めて語気荒く問いかけ、果たして男は慌ててその場を去ったのだという。それからそのまま、二度とこの家へはやってきていない。
薄暗い部屋に、湿った音が響いている。朝からぼたぼたと大粒の雨が降り注いでいて、今も屋根や庭の土を叩く音が家全体を覆っていた。南側の縁側に面した部屋ですら、柱や箪笥の影などは闇といっても差し支えないくらいに暗くて、うんと顔を近づけなければ本も読めないほどの光しか届いていないというのに、私も永田も明かりを点けようとはしない。
雨音にも負けず部屋の中に響き渡る、汗ばんだ肌と肌を打ち付ける音、湿っぽい粘膜を搔き回す水音、永田の荒い息、それに私の口から漏れる獣の咆哮にも似た喘ぎ声を、私の中にいる私はどこか他人事のように聞いている。
永田はこの頃一層頻繁に家に通っては私を抱くようになって、私もまたいつの間にか自分でも不思議なほど、求められるがままに身体を開くようになった。
かつて彼の身体の端々に見えた異性としての肉感は未だ私に嫌悪にも似た忌避感を抱かせるのだけれど、諦めたように一度受け入れてしまってからは自分でも驚くほどそんな心と身体を分かつことが出来て、そして私の身体はどうしようもなくそれを受け入れては乱れた。
肌のあちこちを触られ、摘ままれ、舐められて、身体は自分の意思と関わりなく跳ね、やがてその動きは大きくなり、喉の奥から漏れる程度だった吐息はすすり泣きのように変わって、それもいつしか濁った叫び声になる。扇風機がぶんと音を立てて首を振り、それでもまとわりつく湿気が汗となって、粘っこい音を立てる。
両肘を立てた四つん這いでお尻を突き出し、永田がその長い指が肉に食い込む位ほどに強く、だらしなく余った私の腰の肉を掴んで激しく抽挿を繰り返している。全身を貫く快楽に頭の中は白く染まりっぱなしで、私は顔を臥せ、皺の寄った敷布団に向かって殆ど叫んでいるような恰好だった。余りに強い快感は痛みにも近しくて、でも制止や懇願の声を上げてはその度にお尻を強く叩かれ、その刺激が更に意識を現実から遠ざけて、もう今となっては何度絶頂を迎えたか分からない。
呼吸もままならない私の喉が、おぐ、おお、と何の意味も持たない音を出す。
永田は、後背位を好んだ。恐らくその方が動きやすくて男にとっても快楽を得やすい体位なのだろうけれど、私にしてみればたまったものではなかった。一度事が始まれば、永田が私の中に精を放つまで、決まって数え切れないほどに達した。おまけに永田の陰茎が私の中の丁度良いところに当たるのか、何かの拍子に抜ける度、激しい水音と共に膣からお汁が迸ってあたりに饐えた匂いが充満し、私の腰は大きく引き付けを起こして前後に揺れるのだけれど、恥ずかしいとか隠したいと思うだけの余裕は、その頃になればとっくに無くなっていた。
あまりに毎度毎度と吹き出すものだから大振りのタオルを下に敷くものの、いつの間にか捲れあがってしまって何の役にも立たないことが殆どだったし、そうでない時は畳の上を四つ足の獣のようになって部屋中這いずり回りひざを真っ赤に腫らし、その体勢のまま犯され続けた。
永田の気が済むまで滅茶苦茶にされようやく解放された後は息も絶え絶えになって、手足をだらしなく放り出しぐったりとうつ伏せになったまま、涎や体液でぐっしょりと濡れた布団の上で放心するのが常だった。
今も快楽の名残が頭の芯に霞をかけていて、それが身体の隅々までゆっくりと、波の形で染み透っていく。それは波なものだから寄せては返し、引いてゆくその折に身体の節々が勝手に痙攣し、剥き出しのお尻はたぶのあたりがきゅうきゅうと勝手に窄まるのだった。
煙草の匂いがする。すぐ隣から、ちりちりと紙と葉の焼ける音がして、長い吐息がそれに続く。
いまだゆっくりと痙攣を続ける私のお尻が大層面白かったらしく、永田は平手で強くはたき、私は「ひう」と呻いてお尻を一層大きくぎゅっと窄ませた。
ひとつ、気付いたことがある。
精魂尽き果てるまで貫かれ、思考や感情の芯のようなものがぽっかりと抜け落ち真っ白になった、ある意味特別な時間にだけそれは起こる。
真っ白の中にいるはずの私がその実、ここではないどこかにいると、ふとした瞬間に私は見出したのだ。
始めは夢だと思っていたそれがどうやら夢とも違うらしいと気付くのにそれほど時間は掛からなかったのは、あまりにも鮮やかに五感全てを刺激しながら、それらがあまりにもはっきりと記憶に残り続けたからだった。
ある時私は、池のほとりにいた。
水場とあって蒸し暑く、水は半ば濁った緑色でどこか澱んだ生臭い匂いが鼻先掠めたが辺りは凪いでいて、湖面は完璧な鏡として草木や空を映している。
日の高く雲のまばらな青空を指さすのは私の腕は陽に焼け骨ばっていて、いかにも体毛が濃い。見覚えのあるそれは、兄の腕に違いなかった。
腕は興奮のあまりぴんと伸ばされていて、指さす先には、一羽の鳥の姿がある。
渡り鳥のような首の長いその鳥は僅かに褐色がかった紅色の羽を生やしていて、後ろ向きに飛んでいた。伸ばした首が、自身の進む後方を名残惜しむように眺めていた。鳥は高度を落とし着水するかとも思ったが、思い直したかのように低空を一度旋回してからふいと高度を上げ、僅かに水面にさざ波を立てたのち同じ体勢で飛び去って行った。
ああ、ここは兄が日記に書き付けたあの世界なのだと、ようやく気付いた。
隣にいる、顔の下半分を濃い髭でくまなく覆った男性が、アーマドだろうか。
「あの鳥を食べたいのか?」
その言葉は日本語とはかけ離れた不思議な響きを持っていて、きっとあの死亡届にあった奇妙な文字を音にしたものなのだろうと思った。決して聞き取れはしないのだけれど、それがどういう意味を持つ言葉なのかは、どういった具合かすんなりと理解することができた。
「やめておけ。ものすごく不味い」
目鼻の大きくて厳めしい見た目だが、表情や身振り手振りは豊かで、どこか陽気な印象のある人物だった。
「そんなに不味いのか」
兄が喋るのを私は一体どこで聞いているのだろうかと、ふと不思議に思った。視界を共有しているのならば私は兄の頭の中にいるはずだが、兄の声は、私の聞き覚えのある彼の声そのままだった。自分で聞く自分の声と他人が聞くそれが違うというのは聞いたことがあるが、では私は兄の耳以外の耳で聞いているのだろうか。兄の目で見ているというのに。考えても、一向に答えは見つからなかった。
「あの鳥は『影喰い』だ。食い意地が張っていて、自分の影まで食べてしまう」
「影?」
「次はもっとよく見てみると良い。あの鳥は影を持たない」
さっき低空を飛んでいた時はどうだったろうかと私は思い出そうとしてみたが、後ろ向きに飛ぶ姿ばかりに気を取られていたせいか、上手くいかなかった。
「変な格好で飛ぶのと、何か関係があるのかい」
「影と時間は近しい概念だ。時間がなければ影もない。あの鳥は時間を見失っているから後ろに飛ぶ。影がないんだから身も詰まってない。だから不味い」
「よく分からないな」
私にも、アーマドが何を言っているのかちんぷんかんぷんだった。アーマドはそれ以上の説明は諦めたようで、ただかぶりを振った。
「気が済んだら帰るぞ。飯の時間だ」
池は町から少し離れたところにあって、ここまでは馬に乗ってやってきたようだった。灌木の陰に控えていた馬が姿を現した時、私は息を呑んだ。こんなに気高くて美しい生き物を、今まで見たことがなかったからだ。大きな身体と太い脚には筋肉が隆々と浮き出ていて、亜麻色の毛とそれよりも少しだけ薄い褐色の長く波打つ
アーマドは軽々と馬の背に飛び乗り、兄は差し伸べられた手を取ってやっとのことでよじ登る。アーマドの腰に手を回して鞍の後ろに落ち着くと、馬は大振りの礫がごろごろ転がる悪路を軽やかに歩き出した。馬にしてみればゆっくりとした速度だったろうが、ちょうど後ろ脚の付け根の辺りに腰かけていることもあって揺れはがくんがくんと大きく、うかつに喋れば舌を噛んでしまいそうなほどで、私は揺れる景色に軽く眩暈を覚えた。
町までの道のりは荒野めいて乾ききっていて、地面と同じ色の壁をした家々が並ぶ町は濃く青い空の下、随分と遠く見えた。
この時は、ここで途切れた。不思議なこともあるものだと、ただ一風変わった夢を見ただけだと思ったけれど、そうでは無かった。事を終え、忘我の極致を経た時は、かならずここに来ることができたからだ。
川に消える驢馬や、血肉を吸う蝶の群れだけではない。手ずからむしり取った夜の一片を売る露店や、小瓶に生きたまま詰められ歪んでしまった白鳥、通り過ぎた途端にすべての色を失う森があり、それらは夢で見る不思議のように脈絡もなくただあるのではない、すべてに成り立ちがあって、存在するべきものとしてそこにあった。
愚にもつかない嘘っぱちだと永田が切り捨てたのは、彼がただ狭い世界をしか生きることが出来ていないからに過ぎない。兄は違う、そして今や、私も違う。兄は彼に許されためいっぱいの時をそこで過ごしたし、私もまた、そこを訪れることができる。
次に気付いた時、雨はもう止んでいた。まだ日は暮れていないようだったが空はなお暗く、部屋の中はいよいよ闇に支配されつつあった。
煩く鳴っていた扇風機もいつの間にか止まっていて、ただ煙草の残り香だけが漂う暗く静かに部屋に、水底を連想した。灰皿に吸い殻をいくつか残したきりで、永田は姿を消していた。情事の前も後も素っ気なくて、手ぶらでやってきては取って付けたような世間話を二言三言交わし、出したお茶も冷めないうちに私の手を引き寄せて覆いかぶさる。永田に異性として慕うべきところは何ひとつなかったが、それがむしろ喜ばしかった。
明日もまた来ると、そう言っていたような気がする。明日もまた何気兼ねすることなく、この古いだけの家から夢幻めいた美しい世界へ旅立つことが出来るのだと、私はひとり頬を緩ませた。
明日は、どこへ行けるだろうか。
雨上がりに匂いたつ 南沼 @Numa_ebi
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