◆

 それほどのことがあっても、私はなおテレビをつけることは無かった。ラジオもまた、同じように。

 ひとつには私の生活はすでに穏やかに満たされていて無用な刺激は余分であったことと、同時に私は新しく慣れない事に手を出すといった行為が酷く苦手だったことによる。兄との別れは済ませたつもりだったし、この先必要な手続きに関しても永田が知らせてくれるという役人然とした言葉を鵜吞みにして、そのまま安心しきっていたのだった。


 まずは連絡する、と言ったはずの永田だったが、1週間もした頃、突然我が家を尋ねてきた。

 玄関のチャイムを鳴らして、「すみません」とドア越しに張り上げる声が電話越しのそれとあまりに印象がかけ離れているものだったから、名乗りを上げるまでそうとは気付かなかった。上等そうな背広に身を包み、髪を額の真ん中で分けてぺたりと撫でつけた男だった。細身ながらひどく下あごが後ろに退がって喉の肉に飲まれかかっているのと、芯の強い香りの香水を身に纏っているのが、どこかちぐはぐな人物像として心に残った。


「永田です。どうも」

「あ……どうも、こんにちは」


 ええと、外務省の……と呟いてそこで尻切れとんぼになったのは、その後に続くはずのなんとか局という単語が余りの突然さに頭からすっかりと消えて飛んでしまったからだ。


「これ、お持ちしましたので」


 とん、とこれもまた上等そうな風呂敷の包みを断りもなく上がり框に置いて、するりと解いた結び目の下から現れた、片手で抱えられるほどの無垢の桐箱が何なのかは、すぐに分かった。


「兄の、お骨ですか」

「さすがに、郵便で送るものでもないので」

「東京からわざわざ、そのために」


 東京からここまで、鉄道とバスを乗り継いで2時間は掛かるだろう。


「あと、これも」


 永田が鞄から取り出した書類の方には、見覚えが無かった。というよりも、明らかに日本語ではない、蛇ののたくるような何かが書いてあって、整然と記されたそれは明らかに何らかの文字なのだけれども、漢字にも平仮名にも似つかない、ひとつひとつの文字の区切りがどこにあるのかすらわからないそれは、私の頭を一層と混乱させた。


「死亡届ですよ」

「はあ……」

「現地の医師が書いたのですが、これを役所に出さなければならないんです」

「はい……はい」

「勿論、このままではまずいので、翻訳した文書も一緒に必要ですが」


 そんなことを言われてもどうしたら良いか、さっぱりわからない。どうしたら良いかわからなくなると、こめかみや背筋の上のあたりがかっと熱を持ったようになって汗をかき、そこに元気を吸われてしまったかのように辛くて、惨めな気持ちになる。この時も、そうなった。


「あの、困ります」

「何が」

「その……」


 いい歳をして、自分がいかに世間知らずで能無しなのか思い知らされるほど悲しくなることはない。


「ああ、良ければ翻訳を請け負う業者を探しましょうか」

「……すいません」

「少しばかり、お金と時間は掛かりますが」

「はい……」


 そこで、黒縁眼鏡の奥から覗く目が、私の方を無遠慮に、値踏みするように這いまわっているのを感じた。安心のためか先ほどの惨めさは私の中から半ば消えかかって額と背中の熱はじっとりとした汗だけを残して引いていたが、また別の気まずさから私は俯いて、身体を捩らせるのを内心難儀しつつも我慢した。


「あの、お茶でも召し上がりますか」

「どうぞお構いなく……ああ、いや、いいんですか。これはどうも」


 どたどたと永田は靴を脱いで上がり込み、どこか硬質な香水の香りが後を追った。


 夜になり、私は客間の座敷机の前に座って、厚手の手帳を手に弄んでいた。机の上には、死亡届を入れた書類袋も置いてある。どちらも永田が置いていったもので、骨壺の方はいったん仏壇の脇に置いてあった。これはまた、お寺とゆっくり相談すれば良いだろう。

 手帳の方は、やっとのことで見つかった兄の遺品だった。燃え残った荷物から、これだけは辛うじて持ち出せるほどに無事だったらしい。年季の入った分厚い革張りの表紙で、てらてらとした質感の、うっとりするような飴色だった。紙の一枚いちまいは端の方で繊維が解れて不揃いに捲れあがるようになっている。同じ質感の革紐で手帳を二重三重と巻いてあって、勝手に開かないようになっているのだけれど、その端には艶が出るまで丸く磨いた綺麗な石の根付けが施されている、いかにも古そうで、でも余程凝った作りの手帳だった。

 これが本ではなく手帳だと知っているのは、一度中を覗いたからだ。「僕は見ていませんが」とどこか言い訳がましく永田が手を振ったのを、私は当の永田が座った座布団の上で今更のように思い出す。彼がついぞ手を付けずそのまま置いてあった、黒紫がかってどっしりとした茶請けのおはぎを一口齧ってから、私はもう一度手帳の紐を解いて表紙を開いた。

 確かに見覚えのある兄の筆跡で書かれたそれは、一見日記のようだった。



3月2日

 珍しい鳥がやってくると聞いて、池のほとりにやって来た。

 その鳥は、後ろ向きに飛ぶ。あるいはそういう風に身体が造られているのかもしれない。空にある姿を一見すると長い首を前に伸ばし行く先を見据えているようだが、それは去りゆく地を一心に見つめているのだ。

 案内人のアーマドはつまらなさそうに「あの鳥は不味い」というだけだったが、僕は羽色が美しい鳥の、奇妙に羽ばたいては空を掻く姿に夢中になった。

 昼食は市場の屋台で、鳥を丸ごと煮出したスープで幾ばくかの根菜を煮込んだものと、柔らかく味のない団子だった。例の、不味いとかいう鳥かどうかは分からない。

 現地の人間たちはその団子を摘まみ上げてはとろみのあるスープに浸し旨そうに喰う。いや、食べているというよりは吸う。吸ってはまたスープに浸す。僕はそれを真似ようとするのだが見様見真似で摘まんだ団子があまりに熱くて放り出すように皿に投げ出してしまい、殊更に笑われた。


3月3日

 地平線は赤く遠い。

 朝焼けがあまりに鮮烈なせいで、たった今から一日が始まるのかようやく終わるのかが分からなくなる。

 野生の驢馬が列をなして川を渡っていた。水面は泥の色に濁っていたがそれほど深さは無く、驢馬たちはさしたる苦労もなさそうにのんびり歩いていたが、川を渡っているうちに驢馬は前触れもなく一体ずつ数を減らし、渡り切ることには一頭きりになっていた。最後の一頭は仲間たちが消えたことを何も不自然に感じている様子もなく。川辺の草をそのまま食み始めた。

「数を数えるな」とアーマドに注意された。「なぜ?」と訊くと、「減ることが当たり前だからだ。数えるな、疑うな」という。釈然としないまま一日を過ごした。

 明日はいよいよ移動だ。


3月4日

 アーマドと別れ、町を離れる馬車に乗った。

 馬車の主は老人で、とても耳が遠い上に訛りがきつく、ぶつ切りの単語だけでの会話が辛うじて成立するぐらいだが、煙草を二箱分けてやると歯抜けの顔で人懐っこく笑った。悪い人物ではないようだった。

 馬車は驢馬の引く二頭立てだった。速度はそれほどでもないのに揺れが酷い。

 枯れ木まじりの林と、人のいなくなった廃墟の村を通り過ぎた。

 林では紅色の翅をした美しい蝶が近くを飛んでいたが、手を差し伸べようとしたら老人が怖い顔をして追い払った。何事かと思ったが、その後村の中で動物の死体に群がる蝶の翅が、白から紅色になって飛び立ってゆく様を見た。どうやら血か肉を吸う種であるらしかった。



 ずっとこんな調子で、日付は火事にあったという前日まで続いていた。手帳の残り半分ほどは繊維質のきつく漂泊の足りていない空白の紙片が続くだけで、きっと兄が事故に遭わなければ、その先も自筆で埋めて行ったのだろう。

 しかし、これは本当に日記なのだろうかという、どこか腑に落ちない思いが頭から消えない。異国の地がどういうものなのか、勿論私は見たことがないけれども、後ろ向きに飛ぶ鳥や、見る間に数を減らしてゆく驢馬の群れ……兄が見たという景色の描写が真実のものだとは、俄かに信じがたかった。

 ふと、虫の報せとでもいうのだろうか、どこか身体に痒いところがあるのだけれどそれがどこなのか自分でもわからない、そんなお尻の据わりが悪いような心持ちになって座布団から立ち上がって、しかし立ち上がったは良いものの別段何か用事がある訳でもないので宙ぶらりんになった気持ちと身体を持て余し、結果妥協案的な行動として、大した尿意がある訳でもないのにトイレへと向かった。

 ぺたぺたと素足で廊下を歩きざま、ほとんど無意識の、身体に染みついた動きで廊下の電灯を点け、


 玄関に人がいた。


 ひっ、と息を呑んで、その場に固まった。

 土間に無言で佇んでいたのは、ガスの集金人だった。制服ではなく麻地の小ざっぱりとしたシャツを着ているのが却って不気味で、その上に載った下ぶくれの顔が、明かりが点いてもまるで動じることなく廊下の奥の、私の方を見つめていた。


「あのう」


 腕を畳んで身を竦ませる私に、男はいつかと同じ抑揚を欠いた声を掛けた。


「やっぱり佐和田さん、火事で死んだ人って、ここの家の人ですよね」


 心臓が早鐘を打って呼吸は浅くなり、恐ろしくて恐ろしくて男の顔をまともに見ることが出来なかった。沈黙のまま固まる私に男はなおも「そうですよね。佐和田俊之さんって」と全く同じ声の調子で声を掛けてきて、私はいよいよこの人は非常識を通り越して完全に頭がおかしいのではないかと思いながら、でもどうやって返事をすればこの場をやり過ごすことが出来るのかわからずに「け、警察、警察を呼びますよ」とどもりながら震える声を出すので精いっぱいだった。

 その言葉が男の中でどういう作用をもたらしたのかはわからない。ただ、男は黙って回れ右をして、集金から去る時と同じ調子でからりと玄関扉を開けて去って行った。私はといえば声を出したり物音を立てたりしたらまた男が戻ってくるのではないか、でも今のうちに今度こそ鍵を閉めなければという葛藤の末、そろりそろりと足音を殺して取っ手の上にある内鍵を、なるべく夜の闇に音が響かないよう、ゆっくりと掛けた。扉を開けて外を確認する勇気は、とてもではないが振るえなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る