雨上がりに匂いたつ

南沼

 兄の死を伝えてくれたのは、東京からの電話だった。


 5月の末、雨の日が増えたけれど、梅雨には少し早いというある日のこと。庭の草木たちが目を見張るような早さで枝葉を青々と伸ばして、朝水やりをする時は少し肌寒いけれど、買い物に出かける日中になると途端に太陽の日差しがちりちりと肌を突き刺す時期だった。

 それはちょうど、近所のスーパーで買い物をした帰りだった。私が家を空けるのは週に一度だけ、自転車をゆっくりと漕いで15分ほどのところにあるスーパーで野菜と卵が安売りされる日だから、確か火曜日で間違いはなかったはずだ。

 夏至を控え日は既に高く、空は少し悲しくなるぐらいに青いのだけれど所どころに下の方が少しばかり暗くなるほどの厚みのある雲が流れ、日に日に鋭角さを増す太陽の光を遮ってくれる瞬間だけ風が少しだけひやりと涼しくて、日よけの帽子の下で薄っすらと汗ばむ私の頬や額を心地よく冷やしてくれた。平地のただ中を自転車で漕ぎ進むだけでも、運動とはまるで縁遠い私の身にはそれは大変な労苦であって、ましてや自転車の前後ろの籠に卵や牛乳のパックがその角の形を詳らかにするほどにみっちりと詰め込まれた白いビニール袋をそれぞれ満載しているものだから、私は爽やかな朝の空気には不釣り合いなほど息を荒げながら家路を漕ぎ進むのだった。

 もう随分長い間働きづめであちこちのきている自転車を押してコンクリートの黒ずんだ車庫に置き庭に足を踏み入れたところで、電話のベルが鳴っていることに気付いた。

 門扉から玄関先にかけては点々と置かれた石畳が合間を分け右手に薔薇、左手に紫陽花の株が隙間もあらばと植わっていて、薔薇の方はまだ時期が早く淡い桃色の蕾が開きかけてるのに紫陽花は早咲きの品種なものだから紫がかった青い花弁が元気いっぱいに花開いている。石畳の上にまで青々とした肉厚の葉を伸ばしにかかる紫陽花の葉を避けて玄関前まで辿り着き、施錠を解いてガラリと引き戸を開けると、一層うるさく鳴るベルの音がけたたましく耳を突いた。

 扉を開けた私を出迎えたのはベルの他に古い日本家屋のどこかかび臭いような独特の香りで、これは私が家を離れる週に一度のこの時だけ感じることの出来る、ある種の儀式めいた特別な瞬間として私はこれを気に入っているのだけれど、勿論それを楽しむ意識も時間もなく、履き古した運動靴を三和土に半ば脱ぎ散らかして玄関脇の電話台に小走りに駆け寄り、顔の汗をてのひらでべたべたと拭いながら黒いプラスチックの受話器を持ち上げた。


「はい、佐和田です」

「外務省領事局の永田と申します。佐和田俊之さんの、ご家族の方でしょうか?」


 ガイムショウリョウジキョク、という単語が意味するところを咄嗟に思い浮かべることが出来ず、私は「はあ」と生返事をしか返すことが出来なかった。

 そして永田と名乗るその男は、訃報を告げるにはいささか場違いなほど落ち着き払った深く通る声で、兄の死を告げたのだった。


 遠く離れた中東の地で、安宿が火事にあったのだという。

 慌てて階下に避難しようとしたところを、煙に巻かれて倒れたのだという。


「ニュースにもなっていたと思いますが」

「テレビは、あまり……」


「まずはお悔やみを」と殆ど白々しいばかりの弔意に続いて、いかにも事務作業を急ぎますといった態度を隠そうともせず、永田は続けた。

 遺体の損壊が激しいことから、現地で荼毘に付すこと。

 遺品などの確認はこれから行うこと。

 そして遺体の輸送に掛かるおおまかな時間、必要な費用。

 日程が分かればまた連絡します、という一方的な言葉と共に通話は切られた。

 チン、という微かな音と共に受話器を置いた後、私はしばらくその場を動けずに、電話機のダイヤルに書かれた数字をじっと見つめていた。

 ただ、いつの間にか、汗はすっかりと引いていた。


 しばらく呆然としていたのは、肉親が亡くなったという実感を全く得ることが出来ずにいる自分にひどく驚き自身の薄情さを責めるような気持ちでいたことと、それに反発して必死になにがしかの感傷を得ようと踏ん張っていたからだったが、結局その努力はまるで実らなかった。

 両親が早逝し、残してくれたこの古い家に私一人だけが籠りきりになって、もう10年になるだろうか。他人と馴染めず、また体力にも乏しく、ありとあらゆる社会活動がうまくゆかずに実家に戻ってきた私は両親がいた頃からずっと、家付きの家政婦のように家事に自分という存在を埋没させて生きてきた。

 他方兄はといえば、とりわけ情が薄いということでもないのだが飄々とした人で、いつどこにいても明日自分がその場所から一歩でも遠くを歩いていないと気が済まないような気質の持ち主だった。誰とでも分け隔てなく友人になれる才がありながら、築き上げた人とのつながりを嫌味なくあっさりと放り出して旅に出る人間で、放り出されたそれらの中に私もまた居たに違いない。

 両親が亡くなった時は、さすがに帰ってきて喪主としての務めを果たしてくれた。出先で巻き込まれた急な交通事故、誰もが予想しなかった突然の訃報に駆け付けて、やれ葬儀だ役所の手続きだ保険の請求だと、さっぱり何が何やらと悲しみより先に途方に暮れている私を尻目に奔走しご近所や数少ない親戚にもそつなく振る舞い、ようやくそれらを終えたかとひと息をついた頃、ふた言み言と言葉を交わしたその翌日には、もうどこか知らぬ地へと旅立って行った。


「孫の顔」

「え?」

「孫の顔を、見せてやりたかったな」

「兄さん、良い人がいるの?」

「まさか。でも、親孝行ってんなら、それだろう」


 葬儀を終えた夜、兄と私以外ようやく誰もいなくなった家ですっかり冷めた仕出し弁当を食べながらぼつぼつと交わし合ったそれが、意味のある最後の会話だったと記憶している。私に良い人がいるのかどうかすら話題には上がらなかったのは彼が私の気質を良く知っていたからで、私もそう理解されていることに何の不満もなかった。すっかり温くなったビールを舐めながら、網戸から吹き込む風の思いがけない生温さのなかに私たち2人を隔てる距離感を訳もなく自覚して、それは居心地の良さと悪さを半ばずつしたような不思議な気分だったものだ。

 だから翌朝、四十九日なんかの法事や埋葬についてについてお寺と相談するべき事柄や、決して少なくないはずの両親の遺産を欲さないことなどを記した紙きれだけを残して兄が姿を消していた時、私が抱いた思いは「やっぱりか」という当たり前のものごとに対する納得に近かったと思う。書置きにはまだずっと先のはずの一回忌や三回忌などのこともあって、そのちぐはぐな律義さに私は可笑しくなりながら、兄さんはもう二度とこの家に帰ってこないのだという思いを、両親そしてふたりの葬儀という出来事が去った後にできた心の穴にすとんと過不足なくはめ込んで、それで良しとした。


 ああ、だからなのだ。

 兄の訃報を受けてからほんの少しだけ増えた、縁側で西日を受けながら軋む安楽椅子を揺らす時間の中、私はようやく気付いた。兄は確かに大事な家族で私のたった一人の兄、最後に残った肉親なのだけれど、別れはとっくに済ませていたのだと。不器用で不器用な私の心はそれでようやく納得して、山向こうに太陽が沈んで空の藍色がかっていく有様を見送ってから、誰にともなく頷き、それが私の人生におけるひとつの区切りであるとようやく実感として飲み込むとともに、少しだけ泣いた。


 さりとて、生活は続く。両親が早すぎる死と共に遺した、預金通帳の数字がそのまま私の残り寿命に等しいのだと、私は何の衒いもなく受け止める。私よりもずっと年季の入った瓦葺の平屋と、それと同じくらいの広さの、四季折々の姿を見せてくれる庭、それらをぐるりと囲む薄く苔むしたコンクリート塀の内側が私の世界の概ねすべてで、だからスーパーへの買い物や止むを得ず銀行や役所に手続きだのに出かけるときは、よそ様の家に無断で入り込むような大変に気まずい思いをずっと心の中に抱えながら、おっかなびっくりやり過ごすのが常だった。

 朝にしぜんと目覚め、冬であれば電気あんかのコードを抜いて丸めてから布団を畳み、冷蔵庫から一度使ってから冷ましてとっておいた昆布を取り出し出汁を引いて、味噌汁と作り置きの佃煮で炊き立てのご飯を食べる。洗濯機を回してから、今日は台所、今日は床の間といった具合に順繰りに家の掃除をするか、庭の草をむしって草花に水を遣って、葉の上にまあるく残る雫の一粒ひとつぶが朝の光に輝く様子にしばし見入る。そうこうしている内に洗濯機が止まるから脱水槽に入れ、淹れたてのお茶を飲みながらまた庭を眺める。多めに買っておいた柑橘なんかを桜の枝に刺しておくと、私が庭を去ったのを見計らった頃に小鳥たちがやってきて、ちいちいと可愛らしい声で囀りながらついばむのだ。身体の幾分大きなヒヨドリが我が物顔で独り占めしている後ろの方で物欲しげに雀たちが羽ばたき、あるいは枝に留まって首を傾げているのを目にすると、ついつい心の中でそちらを応援してしまう。ひとしきり窓の中から愛でて、鳥たちが飛び去ってからようやく重い身体を持ち上げ、洗濯物を干す。鰯の丸干しなんかを2匹ばかり焼いてから、味噌汁の残りを軽く火にかけ、冷ご飯を茶碗に盛れば私のささやかな昼食は出来上がる。

 ちょうど今は季節の変わり目でもあるから、毎日少しずつでも家のを変えなければならない。午後は襖と障子を取り外して納戸に仕舞い、代わりに予てから陰干ししていた葦簀戸よしずど御簾みすをはめ込んでゆく。なにせ人一倍体力や腕力、なにくそという負けん気に欠ける私だから、これには何日も要することになる。ああもういいや今日はこれでおしまいと自分に言い聞かせられるくらいにキリの良いところになれば、畳にぺたりと腰を据えて寝間着を繕ったり、くったりと煮込んだ小豆餡を練って蒸したもち米とともにおはぎを作る。これには仏壇に供える分と隣家におすそ分けする分も含まれるので、とにかく沢山作らなければならない。晩御飯の支度だって、忘れてはならない。旬の馬鈴薯やらいんげん豆やらを弱火で煮込んでいる間に酢の物を作って、あるいはしばし手を止めて塩鮭の切り身を焼こうかどうか、食欲と節制の間で思い悩む。

 夕食を済ませすっかり日が暮れたとて、退屈に苦しむことなど何もなかった。何せ周りに田畑かけやき林か精々牛舎がある程度の田舎だから星は良く見えて遮るものなど何もないし、蛙がそこここでもうもうと歌う声や厚ぼったい鈴を鳴らすような虫の声、枝葉が風にさざめく音も、耳を澄ませば澄ますほど豊かに重なり合い、うんと大きくて細部に至るまで精緻に描き込まれた絵画の隅っこを覗くような気持ちにさせられる。いつしか私は絵画の中の住人となり、私の外側にどこまでも広がりゆきながらその存在を曖昧にしてゆく、私と外を隔てていたはずの境界線がどこにも知覚できなくなってから、私の意識は夜の闇におもむろに音もなく、落ちるのだ。

 とりわけ私が好んだのは、春先から夏にかけての時期だった。あまりに暑いのは苦手なのだけれど、気温が上がって穏やかな風が肌を心地よく撫でる感触が好きであるのと、空気の湿気がうんと増えるその時期は、あらゆる香りが豊かに満ちる頃でもあるからだった。咲き零れた花の匂い、背丈の高さまで漂う土の匂い、それとは別に雨に打たれた地面から立ち上ってくるどこか香ばしい匂い、隣近所の畑から漂っては鼻の奥を鈍く突く堆肥の匂いすら、私は愛した。

 そんな生活が、私が望みうるもっとも豊かで平和なものだと、何の疑いもなく受け入れていた。


「佐和田さんって、もしかして、ニュースでやってましたけど」


 永田から電話があってから3日ほど経った日のことだったろうか、ガスの集金にやって来た若い男に、そう尋ねられた。


「亡くなられた方って、もしかしてこの家の」

「あ、いえ、あの」


 ぎくりとして、ただでさえ見知らぬ他人と話すのが苦手なわたしはすっかりへどもどしてしまって、男の急かすようなじっとりとした視線に気づきながらも「すいません、わかりません」とつっかえながら返事をするのが精一杯だった。

 男は身体の線に不釣り合いなほど下ぶくれでにきびだらけの頬の上にある、厚ぼったい一重瞼の下から私をじっと見つめていたが、押し付けるようにしてお金を渡すとそれでやっとのこと自分の仕事を思い出したのか、口の中だけで「どうも」とでも言うようにくぐもった返事を返して玄関先を去って行った。

 晴れた日だったが、玄関の中でも脱ぐことのなかった帽子のせいか、男の顔が私の中に残す印象が酷く暗かったことに、後から気付いた。

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