適切な文章の距離をはかるという「苦行」

***


<文例>


・蓉子は裏切られた復讐とばかりに、手にしたグラスのワインを隆の顔めがけてぶちまけた。それで隆の涼しい態度が崩れることはなかったが、蓉子は隆の視線が一瞬、自身のお高そうな背広にできた染みへと向けられたのを見逃してはいなかった。所詮、女の感情よりも目先の損得勘定の方が大事、彼女にとって証拠はそれで十分であった。


・蓉子は手にしたグラスのワインを隆の顔めがけてぶちまける。そして涼しい態度を装い続ける彼の視線が一瞬、彼の身に付けた高価な背広にできた染みに向けられるのを、彼女は見逃さなかった。それは彼が女の感情よりも目先の損得勘定を優先する男だと結論づける証拠として十分だと、彼女はそう判断した。


***


 私はこの文例から、前者の方が後者よりも「適切な文章の距離」を保つことができている、などど主張する気は更々ない。実のところ私は、後者の文章が反吐を催すほどの悪文であることを確認していただければそれでよいのである。もし諸兄がこの文章を「まるで下手くそな翻訳文学のようだ」と思ったならば、私はその感性に拍手をもって賛同する。何故なら私はそのように感じてもらえるように書いたのであり、これこそが私の謂わんとするところの「」の典型であるからだ。それは「意味さえ通ればそれでいい」と構えている生意気な受験生の如き文章であり、世に対して何ら責任を負う覚悟なきパシフィストの文章であり、あらゆる価値から自由であろうとして失敗している無様な文章である。


 近すぎず、遠すぎず。適切な文章の距離を見極めるという行為は羅針盤なき航海にも似たもので、それは終りの見えない苦行といっても過言ではあるまい。しかし虎穴に入らずんば虎児を得ずの故事の通り、文筆の楽土に至らんことを欲するのであれば、自ら進んで苦海に飛び込んでみせてこその文士ではあるまいか――。


<了>

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文章の距離について 律角夢双 @wasurejizo

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