第13話 雪に泳ぐ魚
もう秋。小康状態になると、なぜか兄さんは詩ではなく、絵を描き出しました。
スーラの点描画でした。モデルは私です。
「保坂の代わりさ。保坂は、本当は点描画でお前を描きたがってたんだ。
この絵は描くのに時間がかかる。それだけ長い間、お前をみていられるからと言っていた。永遠に見ていたいと。
保坂は本当にお前が好きだったんだ。
しのぶ、俺に飲ませたオブラート、あれ鯉の血だったんだろう。願掛けが効かないわけだ」
「ごめんなさい」
やはり気づかれていたのです。
「お前……俺がどんな気持ちで、保坂をお前に譲ったとおもってるんだ」
ああやっぱり――兄さんは保坂さんを愛していたのです。
もう驚きも怒りもなく、分かっていたことを確認しただけのことでした。
兄さんは保坂さんを、保坂さんは私を、私は兄さんを、
三人揃って、報われない片思いをしていたのです。
不意に花火の音を聞いた気がしました。保坂さんの寂しげな顔。
あのまっすぐで何一つ汚れていない人を、心底私を好いていてくれた人を、私は裏切ったのです。
私は下を向いたまま、兄さんの方をみられませんでした。
「俺が死んだ後、俺の代わりにお前を守れるのはあいつしかいない。
あいつさえ生きていたら、俺は何の心配もなく死ねたんだ。それを……台無しにしやがって」
そう言う姿の影の薄さ、この人はもうじき行ってしまう。
そうしたら私は一人なのです。
「死ぬんなら私も連れてって。
私たち一緒に生まれてきたのよ、死ぬ時も一緒だって言ってくれたじゃない。
お願い、俺と一緒に来いって言って」
兄さんに縋ろうとする私を兄さんは払い除けました。
「だめだ! 神仏が許しても俺が許さん。
後を追ってきたりしたら、現世に叩き返すぞ」
はじめて見る、鬼の形相の兄でした。
「お前にはやらなくてはならんことがある。俺の大事な子供達を龍に育ててくれ。
そのためにあのトランクを置いてくんだ。
必ずだぞ、お前だから頼むんだ。分かったな」
「はい」
そう答えるしかありませんでした。
「保坂はえらいな。俺は結局自分のことだけ。
今度生まれて来るときは、こんなに自分のことばっかりで、苦しまないように生まれて来るよ」
兄さんは自分を恥じるようにそう言ったのです。
その後すぐ、兄さんは寝たきりとなり、結局私の絵はまた完成しませんでした。
◇
「ダメでしょう、こんなに吐いているのですから。昨夜から眠らず血も出つづけなもんですから。
良く持った方です」
何とか秋をやり過ごし、冬の初めになっていました。でも冬は越せそうもありません。
お医者様の言葉にいよいよなのだと、覚悟するしかありませんでした。
「今夜が峠です」と言い残してお医者様は帰られました。
「どうも間もなく死にそうだな。不思議に苦しくないのだよ。
血と一緒に魂魄が半ば体を離れたのだろうかね」
やっと咳と血が止まった兄さんは呑気な風にいいました。
「お医者様に、御礼を言いそびれたよ。
こんなにいろいろ手当てもしていただいて、これで死んでも、まずは文句もない」
私は兄さんから目を逸らすしかありませんでした。
「悲しい目をするなよ、これが俺の運命だ。
外は
「クニが、おままごとに使ってた。まだあるはずよ」
「あの碗で雨雪をすくって、砂糖をかけて食べたいな。天然のアイスクリームだ。」
私は茶碗を見つけて、急いで洗うと、庭に駆け出しました。
庭の雪たちはどこを選ぼうにもあんまりどこも真っ白です。
松の枝の降ったばかりの雪を、兄さんの最後の食べ物を、碗にすくいます。
お正月には早いけど松の枝も一折りします。あの雷の落ちた残りの松の枝です。
「ああ良い、爽やかなターペンティン《松脂》のにおいだ。
まるで林の中に来たようだよ。もう一度お前と一緒に雪を渡って行きたかったな」
青い松の針に頬を埋める兄さんはもう、痛みも感じなくなっている様なのです。
とってきた雨雪の砂糖がけを、ひとすくい、ほんのひとすくい。
兄さんは美味しそうに喉を鳴らして食べました。
「茶碗のこの模様とも、もうお別れだな」
そう言って兄さんは眠りました。
穏やかな寝息でした。それを見ながら私も、うとうとと眠ってしまったのです。
あの夢でした。日は西に沈みかかり、東に月が薄く登っていました。
赤い夕やけの雪原にぽっかりと空いた水溜りのような池。
その中に、あの黒い鯨がいました。
それは、何という大きさでしょう。
あまりにも大きくなり過ぎて、鰭を池の淵にかけ、頭しか出すことができず、
穴にはまって動けなくなっていたのです。
鯨は西を見ていました。
保坂さんの死んだ大陸を……西の果てにあるという、極楽浄土を。
ずぶり。
ゆっくりと頭を傾けて、鯨は雪を割り、西へ向かって泳ぎ出します。
「寛治さん待って、私も連れてって――」
いくら叫んでも、兄さんには届かないのです。
堅雪を蹴り、私は鯨を追いかけ走り出しました。
鯨は半分雪に埋もれながら、ただ進み続けます。
時には沈み、時には息継ぎに潮を吹きながら。
ただ前へ。前へ、己の運命の終点へと。
やがて、鯨は見えなくなりました。
浮かんできません。
次の息継ぎはこの辺のはずと、探す私の足元の雪原に
ぽっと、赤く丸い点が下から上がってきました。
ぽ・ぽ・ぽ……。点がつながり、形になっていきます。まるでスーラの絵の様に。
ぽ・ぽ・ぽ・ぽぽぽぽぽぽぽぽ・ぽ……赤い点の描くものは赤い大きな魚の姿。
それが、己の血で描いた兄さんの最後の絵だったのです。
そこで目が覚めました。兄さんは静かでした。
もう魂は体を離れ、冷たくなっていました。
届かないわたしの声と涙が、虚しく腕の中の溶けた雪に波紋を作っていました。
一九二二年十一月二十七日、数えで二十四才の若さでした。
同じ頃、ポーランド孤児たちの最後の船が、無事に故国へ帰っていったのです。
◇
それからの事はよく覚えていません。
葬儀が終わり出棺の時も、ただみんなの後をついて昨日降った雪の中を、トボトボと行くだけでした。
「可哀想にな」
私と兄さんの仲を知る、親族たちの痛ましげな眼差し。
仲のいい従兄弟たちのかける言葉も耳に入りません。
焼き場に入れられ、燃えていく兄さんの黒い煙を、父さんの隣でただぼんやりと見あげていました。
「今日は、火の具合が悪くて、時間がかかるかもしれません」
焼き場の職員の謝る声が遠くでします。
「道理で煙が黒いのう。燃えきれんかのう。不憫な事だ」
父が涙声で言いました。煙は黒く、どこか詰まった様に途切れ途切れでした。
その時、煙突が咳をした様に、急に大きく黒い塊を吐きました。
それは尾を引いて細くなり、もう一度小さく咳をして、また細くなりました。
鰭と尾を持つその黒い姿はあの魚、間違いなく兄さんでした。
その時白い雲が一本、すうっと塊に向かって天から降りてきました。
それは、白い龍のように見えました。
龍が鯨に巻きつくと、鯨は細く伸び、同じく龍になりました。
白と黒と二つの龍の雲は絡まりながら天へ昇っていったのです。
わたしにはわかりました。
保坂さんが白い龍になって、兄さんを迎えにきてくれたのだと。
--よかったね、寛治さん--
その時、見上げる私の喉に熱くつきあがるものがありました。
げぼっ。嫌な音を立てて私は血を吐きました。
「しのぶ、お前感染ったのか!」
父さんの叫び。
母さんと弟妹たちの悲鳴と涙。
いいえ、まだ時間はある。私はまだ死んでいない。
兄さんのトランク、兄さんの残した子供達。
あれを必ず本にする。兄さんの名を世に出し、龍にして見せる。
「それまで時間をください、保坂さん、兄さん。
その後で、わたしもすぐ行きますから」
雪の上に散る血のしみは魚となり、
赤く、赤く、雪の中を泳ぎ続けるのです。
雪に泳ぐ魚 (コバルトノベル長編/一次選考突破・43,000字) 源公子 @kim-heki13
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