第12話 保坂戦死

 十月に、東京でチフスがはやり、孤児たち二十二人が感染。

 医師と看護師のつききりの看病でなんとか回復しましたが、松澤フミさん(二十三歳)が感染により殉職。

 小さな子達の、「フミさんは? フミさんは?」と探し回る姿が涙を誘いました。


 全国から支援が集まり、あの米騒動をあおった新聞が、今は連日心温まる記事を載せています。

 新聞記者たちは

「いい記事を書こう、この子達のことを世界中が知ってくれるように」

 と励まし合ったと言います。


 そんな新聞の後押しもあり、国民からの寄贈品や寄付金が続々と送られてきていました。 日本中が、この子達を守ろうと立ち上がっていたのです。


 私は毎日新聞の記事を切り抜き、シベリアの保坂さんに送り続けました。


「まだ読んでないんだぞ、裏が読めないじゃないか」

 穴の空いた新聞を見た父さんに、よく文句を言われました。


「待ってたら、郵便の時間に間に合わないの」

 と、わたしは押し通しました。


 その頃には親族一同、あの自殺未遂は何かの誤解による一時的な気の迷いだったのだと解釈され、私と保坂さんは言い交わした仲だということになっていました。


「お姉ちゃん、やっぱり保坂と結婚するんだ」

 シゲにはからかわれ、保坂さんの家とは親戚付き合いをするようにまでなっていたのです。 


 兄さんは、それを心から喜んでいました。

「あいつはついに夢を叶えた。あれはそういう奴だ。しのぶ、俺たちも頑張ろうな」



 ◇



 一九二一年、二月二十日。二十五歳男子による普通選挙が行われました。

 フランス革命以後、産業の発展と大衆の政治参加が、世界の近代化の二大指標でした。日本はやっと近代化をとげたのです。

 これからの日本は良くなると、明るい希望が見えた一瞬でした。



 ◇



 保坂さんからは、赤十字を通じて、手紙が連日のように来ています。

 私が、あまりにも頻繁に手紙を書くので、嬉しいけれど、周りにからかわれて困ってるそうです。


 そんな手紙を読む兄さんの喜ぶ顔。でも顔色は蒼く、頬はこけています。

 保坂さんの無事を願って、仏様に肉食断ちの願掛けをしていて、どんなに勧めても魚も卵も食べないからです。  


 それでは体が持ちません。芋や豆腐や油揚、蕎麦がき、麦飯。

 卵や肉を食べろと、どんなに勧めてもダメでした。


 このままでは、保坂さんの帰国の前に兄さんが死んでしまう。

 わたしは、前に母さんが清六を生む時、鯉の生き血を飲んだというのを思い出しました。


 流石にそのままではわかってしまうので、血を固めて錠剤にしたものを手に入れて、肺に効く新薬だと偽り、す ごく苦いからと、オブラートに包んで兄に飲ませていました。

 そのせいかこの頃調子がいい様なのです。


 兄さんの願掛けを邪魔する様で気が咎めましたが、わたしには、遠くの保坂さんよりも目の前の兄さんの方が大事でした。

 どうか気付かれませんようにと神に祈りながら。 



 兄さんは兄さんで、毎日仏壇の前で、保坂さんの無事を祈り続けていました。

 そんな中、一九二二年七月、日本も遂にシベリア撤退を決めたのです。


「もう時間がありません。救出を待つ孤児たちはアムール、ザバイカル、沿海州各地にも残っています。

 第二次救助隊を編成して、ギリギリまで一人でも多くの孤児を救います」

 保坂さんの手紙にも、焦りが出ていました。


「保坂のやつ無理をしなければ良いが」


 兄さんは心配そうに言いました。私も、胸騒ぎが止まらなかったのです。




 日本赤十字は一九二二年八月五日から、二十七日まで第二回救援活動を行い、特に急を要する三百九十人の孤児を保護します。

 三回に分けて、敦賀港から孤児たちは、今度は列車で大阪へ向かいました。

 大阪市立公民病院の、看護婦寄宿舎の二階建ての洋館を、大阪市が無料で提供してくれたのです。


 宿舎につくと袖にお菓子がたっぷり入った浴衣と靴が支給されました。

 ここで孤児たちは故郷ポーランドへの船便が準備できるまで保護されたのです。

 東京同様、たくさんの心温まる新聞記事が、報道されました。

 貞明皇后は、大阪にもお菓子料を下賜されました。


 中でも、子供たちが大はしゃぎしたのは、天王寺動物園で、象の背中に乗せてもらえたことでした。

 子供たちは全員で園長の元に駆け寄ると、たどたどしい日本語で、「アリガト」と御礼を言います。

 その姿に、園長がたまらなくなりおいおいと泣き出したそうです。


 やがて、ポーランド行きの船の準備が整い、子供達とのお別れの時が来ました。

「日本に居たい」と泣く子がたくさんいたそうです。

 でも、国同士の取り決めで叶わぬことでした。

 港に、ポーランド国歌と、君が代の歌がながれ、孤児達は船に乗り込みます。

 沢山のお菓子とお土産、新しい服と、寒くないようにと毛糸のチョッキまでもらって。



 けれどあの手紙を最後に、ぷつりと保坂さんから手紙の返事が来なくなっていたのです。




 やがて保坂さんのお父様から手紙が来ました。戦死のしらせでした。


 孤児達を探して山にいたところを、パルチザンにやられたのです。

 保坂さんが庇って、最後に助けた二人の孤児が、無事に船に乗れたのが救いだと書かれていました。


「あの子は汚いところなど、一つもない子だった。

 私はあの子を育てられたのを誇りに思う。

 あの子が私の息子になってくれたのを、神仏に感謝する」とも。


「保坂、保坂……」 


 兄さんは、涙を見せぬよう押し入れに頭を入れ、大声で泣き続けています。


「私のせいじゃない。 

 保坂さんが死んだのは、私が兄さんの願掛けを邪魔したせいじゃない」


 そう自分に言い聞かせながらズキズキと胸が痛みました。

 保坂さん、保坂さん、ごめんなさい……。



 ◇



 十月、日本軍シベリア撤兵。

 三千五百名の死者を出し、十億円に昇る戦費を消費。

 のちに『何一つ国家に利益をもたらすことのなかった外交上まれに見る失政の歴史』といわれる無為な戦いでした。

 救いは、七百六十五名のポーランド孤児の救出だけだったのです。


 

「保坂戦死」の手紙が来た次の日、兄さんは店のお金を持ち出すと、行方知れずになりました。

 

 皆で必死に探したけれど、見つかりません。

 ひと月後、山奥の鄙びた温泉の宿で、血を吐いて倒れたから迎えに来てくれと、連絡があるまで。


 担架で家に戻った兄さんは、持っていたトランクを渡して言ったのです。


「俺の全てだ、子供をこしらえる代わりに書いたんだ。

 お前にやる。よく消毒してから読め」


 中には三千枚に及ぶ、詩と物語が綴られた原稿が入っていました。

 所々に血と、それを拭き取った跡がありました。

 兄さんはこれを書く為に、最後の命を絞り尽くしたのでした。


 高熱と咳と喀血が続きます。できる限り私が一人で看病しました。

 両親や弟妹達が会いたがりましたが、感染らないよう少し離れて様子を見るのが精一杯でした。


「お前も休まないと」


 時々母さんに替わってもらって横になっても、苦しい夢ばかり見ます。

 そのくせ何の夢だか覚えていません。

 あの魚はどうなったのでしょう。

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