第11話 寛治、結核に倒れる・ポーランド孤児救出
そこで目が覚めました。
父さんと母さんと兄さんが真っ青な顔して覗き込んでいました。
「もう大丈夫です」
フロックコートを着た学会の帰りだという医者が言う。
「良かった、生きとってくれて」
母さんが泣きながら私の手を握る。弟妹達も泣いていた。
「すまんかった。もう嫁に行けなど言わん。お前の好きにしていい」
と父さんが言った。
兄さんは何も言わなかった。
ああ、兄さんもあの夢を見たのだ。なぜか私には分かった。
だから私も黙っていた。
目だけで「貴方のせいです」と言った。
兄さんは俯いたきり何も言わなかった。
そして次の日、兄さんは保坂さんを伴って、大学の寮に帰りました。
描きかけの絵を残して。
兄と共に私の作家への夢は消えました。
それきり私はもう魚の夢を見なくったのです。
八月の終わりには、スペイン風邪が、日本に上陸しましたが、マスクに手洗い、アルコール消毒など、保坂さんに散々訓練された風邪予防が効いたのか、家の者たちは皆無事でした。
九月二十九日には寺内内閣総辞職。
初めて薩長・軍閥ではない平民宰相、原敬が総理大臣になり、一連の米騒動もやっと収まります。
米騒動は貧困問題を浮き彫りにし、階級制度の打破をかかげる、普通選挙の運動へとつながるのです。世に言う大正デモクラシーです。
十一月九日、ドイツのウィルヘルム二世が、退位。
十一日にドイツと連合国が休戦条約を調印し、ヨーロッパ中を巻き込んだ世界大戦がついに終りました。
ドイツはすべての植民地を失い、ヨーロッパは疲弊し、
文化の中心はアメリカへと移っていきました。
戦争への反省から世界初の「国際連盟」が作られ、日本はパリ会議で「人種差別撤廃」の法案を提出しますが、白人主体の参加国に阻まれ却下されました。
植民地支配の正当性が揺らぐからでした。
それでも兄の言ったように、民族自決の風潮は消えることなく広がっていったのです。
親戚からの縁談も自殺未遂以来、聞こえなくなり、私は、ただ家事に明け暮れる日々でした。
兄さんは正月休みにも帰って来ませんでした。
三月十日、大学の卒業式の連絡があり、父さんは息子の晴れ姿を見に東京へ出かけ、その直後「カンジ タオレル オイデコウ」の、電報が来たのです。
私と母さんは取り急ぎ東京へ向かいました。
兄さんは東京大学附属病院小石川分院に入院していました。結核でした。
付き添っていた保坂さんが、兄さんは在学中にすでに発病していたのだと言いました。それに気づいた保坂さんが、周りに気取られぬようずっと庇ってきたのだと。
だからあんなにいつも一緒にいたのか。
眠っている兄の顔は頬がこけて蝋人形のようでした。
あのアルコール消毒もマスクも、潔癖症なんかではなく、私達に感染させまいと必死だったのです。
「兄は後、どのくらいでしょう」
「医者は、五年持てばと言ってます」
保坂さんの言葉に、頭の中が真っ白になりました。
出たい、出たいと、雪原の池の中でもがいていた黒い魚。
龍になって空を飛ぶはずだった兄さんなのに。
「四月の徴兵検査で隠しおおせないのは、わかってました。でもせめて卒業式には出して上げたかった。力及ばず申し訳ありません」
保坂さんはそう言って深々と頭を下げたのです。
「僕も、四月に赤十字の一員としてシベリアに行くことに決まりました。
もう、お会いすることもないと思います。
どうか寛治くんを大事にしてあげてください」
ああ、この人には汚れたところなど、ひとつもなかったのだ。
私が勝手に誤解をしていただけだったのです。思わず、保坂さんの手を握りました。
「どうか、ご無事にお帰り下さい。兄も待っていると思います」
その握り返した手の強さ――。
「もし無事に帰れたら、その時は、あのことをもう一度考えて貰えませんか?
僕は良い加減な気持ちで言ったのではありません。
二人で寛治くんを守っていきましょう」
「はい」
思わず、そう答えてしまったのです。
すぐ終わると思っていたシベリア出兵は、三年も続き、いつ終わるかわからなくなっていました。
ソビエト革命政権圧殺の計画は水泡に期し、一九一九年秋には、英仏は撤兵を決定。
一九二十年アメリカもシベリア撤退を決定しました。
しかし、時の原内閣は駐兵を継続。戦局は泥沼と化していました。
そんな中、私たちに一筋の希望の光がさしたのです。
「しのぶ、保坂から手紙が来た。七月に赤十字を中核に、ポーランド孤児を救出。
戦災孤児達を日本で引き取るという話が起きてるんだ。」
「なに? どういう事なの」
わけがわからず、私は兄さんに聞き返しました。
ポーランドは十八世紀にロシア・オーストリア・プロイセンによって分割され、ポーランドという国は一度消滅してしまいました。
その後なんとか独立しますが、君主はロシア皇帝であり、厳しい従属を強いられました。
ポーランド人は何度も反乱を起こし、ロシアはそんな人たちを家族ごとシベリアへ流刑にし、重労働を課しました。その数は十五万人以上になったのです。
一九一七年、(大正六年)ロシア革命が起こり、ソビエト軍(赤軍)と反革命軍(白軍)がシベリア各地で戦い、ポーランド人たちもそれに巻き込まれて難民となり、冬には氷点下七十度にもなる極寒の地で次々に凍死していったのです。
当時、シベリアには、米・英・仏・伊・日本が出兵していました。ロシア帝国時代諸外国から負った借金を踏み倒し、新たに社会主義国家を目指すと主張する、革命政府を強く警戒したからでした。
ウラジオストックのポーランド救済委員会の会長、アンナ・ビェルケヴィチ女史等は、欧米諸外国に働きかけ、孤児たちだけでも救ってくれないかと嘆願しましたが、
一九二○年、支援する反革命軍の敗色が濃厚。各国は本国へ引き上げる事となり、列車の席の取り合いの末、難民の家族を列車の窓から放り出して、そのまま凍死させるような有様だったのです。
残っているのは地理的にロシアに近い日本軍だけでした。
一九二○年六月十八日、アンナ女史は日本を訪れ、外務省に窮状を訴えました。
日本赤十字社は、たった十七日で孤児たちの救援活動を行うことを可決。
陸海軍それぞれの大臣の認を受けた上で、救済の受諾表明をしたのです。
「日赤社長の石黒直悳は、外務大臣にこういったそうです。
『本件は国際上並びに人道上まことに重要な事件にして、救援の必要を認め候につき、本社において児童たちを収容して給養いたすべく候』
あの陸軍が、なんの国益にもならない、見ず知らずの異国の孤児を助けることに協力するというのです。
寛治くんの言葉は正しかった。
日本人は、龍の心を持つ民族です、アジアの誉です。
やっと念願の夢を叶える働きができそうです。
僕は今日ほど日本人に生まれたのを誇らしく思ったことはありません」
保坂さんの手紙は、喜びで輝いていました。
「やった、やった、保坂さんの夢が叶った。
ねえ、鯉のぼりをあげよう。保坂さんが龍になったんだもの」
久しぶりに屋根に登りました。
「なしたぁ、鯉のぼり上げて」
近所の人が不思議そうに聞きます。
「いいことがあったのよー!」
空に泳ぐ黒と赤と白の鯉のぼり。この空はシベリアと繋がっています。
池の中で、三匹仲良く泳ぐ鯉の夢。
三人一緒。
そんな幸せの形があってもいいと思いました。
「そうなればいい」
光は三色混ぜると白くなり、より強い光となって輝く――
私たちの未来は光輝いて見えたのです。
一九二○年七月二十二日、第一回ポーランド孤児救出作戦決行され、陸軍の輸送船が、五十七人の孤児達をのせてウラジオストックから、福井県敦賀港に到着。
翌年まで五回にわたり、付き添いのポーランド人六十五人と、三百七十五人の孤児を東京府の福田会育児所に収容。
日赤本社病院に隣接しており、孤児達の治療や看護にも都合が良かったのです。
子供たちは痩せ細り、靴を履いている子はほとんどいなかったと言います。スペイン風邪はもう終息していましたが、皮膚病や、百日咳を患うものも多くいたのでした。
貞明皇后(大正天皇の皇后)も行啓され、孤児たちを深く哀れまれ、多額のお菓子料を下賜されたのです。
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