番外編 家出娘セレーナ(後編)
商店街の一角にある、小さなベーカリー。
普段は壮年の店主が一人で切り盛りしているその店に、若い娘の声が響く。
「クロワッサンにバゲット、美味しいですよー。いかがですかー?」
「次、アップルパイ出るぞ」
「はーい! アップルパイ、焼きたてでーす。いかがでしょうかー?」
セレーナは、ベーカリーの店内に、焼き上がったパンを並べていく。アップルパイは昇りきった日の光に照らされて、つやつやとした輝きを放っている。
「アップルパイ一切れください」
「はい、どうぞ」
「お会計お願いしまーす」
「はい、ただいま!」
セレーナは、ベーカリーで接客担当として、一時的に雇ってもらっていた。
最初は渋っていた店主だったが、セレーナが必死に頭を下げ続けていたのと、再び鳴った彼女のおなかの音に、不憫そうな視線を向けて「職業体験ならいいぞ」と許可してくれたのだ。
しかも、焼きたてのクロワッサンと牛乳までご馳走になってしまった。
セレーナはもちろん断ったのだが、「客の前で腹の音を聞かせるわけにいかない。給料の前借りだ」と言う店主に押し切られたのである。
「助かるよ、嬢ちゃん」
「いえ、一飯の恩に報いるためにも、頑張りますね」
「ああ。小遣いはずんでやらないとな」
そう言ってがははと笑う店主には、セレーナは家出娘だと思われているようだ。
「はい、お会計これでちょうどね」
「確かに頂戴します。ありがとうございます!」
店内の客足が落ち着いて、セレーナは会計を終えた客を、入り口まで見送りに出る。
「ありがとうございました、またお越し下さいませ」
「いい匂いだな」
「いらっしゃいま――!?」
新しい客を迎えようと向けた笑顔は、いらっしゃいませの言葉と一緒に、途中で固まってしまった。
「ふぅん、エプロン姿も似合ってるじゃねえか」
「シっ、シっ……」
「やめろよ、虫じゃねえんだから」
店の前に立っていたのは、腕を組んで、明らかに怒った表情の、シリルだった。
「ベーコンエピ、出るぞ――おっと、嬢ちゃん。お迎えかい?」
「いえ、その、あの」
「ああ、店主殿、すみませんね。うちのがご迷惑をおかけして」
セレーナがまごついていると、シリルがセレーナの肩を引き寄せる。そうして、ササっとエプロンの紐を解いてしまった。
「いいえいいえ、迷惑なんて。むしろ助かりましたよ。妻が倒れてから、一人でしたから――さて、嬢ちゃん、家出はこれでおしまいだな」
「ええ、すみませんでした」
シリルは強引にセレーナの頭に手を置き、店主に向かって頭を下げさせる。
「ちょっと!」
「ほら、お礼もまともに言えないのか? 兄ちゃん、悲しいぞ?」
「兄ちゃ……!?」
「お・れ・い」
「……ありがとうございました」
セレーナは、シリルに促されて、店主に頭を下げた。
「ああ、そうだ、ちょっと待ってろ」
店主は、一度店内に引っ込むと、紙袋をひとつ持って戻ってきた。
「嬢ちゃん、これ、少ないけどお礼だ。銅貨じゃなくて悪いな。兄貴と一緒に食べな」
「えっ、こんなに?」
「おっ、うまそう。ありがとうございます、いただきます」
紙袋の中には、店主が愛情を込めて焼いたパンがいくつも詰め込まれていた。
「あの、ありがとうございます。短い時間でしたけど、すっごく楽しかったです」
「こちらこそ楽しかったよ。また家出したくなったらここに来な。歓迎するよ、がはは」
セレーナからエプロンを受け取ると、店主は店の中に引き返していった。
ベーカリーの扉が閉まるのを、セレーナは無言で見つめる。
「……で、どういうつもりかな、セレーナ嬢?」
やけに明るい声に、セレーナは恐る恐る、シリルの方を振り返った。
さらさらのダークブルーの髪、銀縁眼鏡の奥のアーモンドアイ、すっと通った鼻筋、緩く弧を描く唇――美しく整った爽やかな笑顔が、すごくまぶしい。
けれど、その琥珀色の瞳は、全く笑っていなかった。
「そ、その、ちょっと家出しようかなと思って」
「家出、ねえ。そもそも絶賛家出中だろうが。これ以上どこから家出しようとしたのかな? ん?」
「ご、ご、ごめんなさいっ!」
セレーナは、がばっと頭を下げた。
頭上から、シリルのため息が聞こえる。
「……あんたに何もなくて、良かったよ」
思いがけず優しい声が降ってきて、セレーナは頭を上げた。
「……心配かけて、ごめん」
「全くだ」
シリルはセレーナの頭に、ぽんと手を置いた。
大きくてあたたかい手だ。やっぱり、子供扱いである。
セレーナは、照れを隠すように、盛大にため息をついた。
「あーあ。でも、どうしてわたしがここにいるってわかったの?」
「言ったろ? 俺からは逃げられないって」
シリルは、不敵に笑った。
「どこにいても、俺は絶対あんたを探し出す。だからもう逃げんなよ――セラ」
「……うん。ごめんなさい」
セレーナは、頬を染めて頷く。
なんだかんだ、シリルが自分を見つけ出してくれたことが、迎えに来てくれたことが嬉しかった。
「それ、持つぞ」
「いいよ、一緒に持とう?」
「心配しなくてもあんたの分まで盗らねえよ」
「そっ、そんなこと心配してないから! あ、でもアップルパイはわたしのだからね」
「ははっ、甘党かよ」
日が昇りきった道を、寄り添いながら、二人は歩く。
ひとつの紙袋を、一緒に持って。
盗まれたのは、望まぬ結婚を強いられた花嫁でした〜怪盗の溺愛からはもう逃げられない〜 矢口愛留 @ido_yaguchi
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