番外編 家出娘セレーナ(前編)



 怪盗シリルがセレーナを盗み出してから、三日目のこと。

 昨晩、森で野宿した二人は、夕方になってようやく、宿のある街にたどりついた。


「あー、さすがに疲れたな。さっさとシャワー浴びて寝たい」

「そうだね……昨日はあんまり眠れなかったしね」



 早速宿をとると、セレーナは先にシャワーを使わせてもらった。お湯を浴びると、疲れがどっと湧き上がってくる。


「お待たせ、シリル……って、いない?」


 セレーナが浴室から戻ると、そこにシリルの姿はなかった。かわりに、テーブルの上に書き置きが残されている。


「街に出かけてくる。先に寝ててくれ……か」


 おそらく、情報を集めに行ったのだろう。シリルも疲れているだろうに、セレーナを依頼人のもとへ送り届けるために、頑張ってくれているのだ。


「じゃあ、遠慮なく、休ませてもらおうかな」


 セレーナは髪を乾かしてベッドに潜り込むと、すぐさま、眠りに落ちていった。





 扉のきしむ小さな音で、セレーナは目を覚ました。おそらく、シリルが帰ってきたのだろう。

 シリルは、セレーナを起こさないようにという配慮からか、電気もつけずに扉を閉め、そのまま浴室へと向かう。


 ベッドの横を通り過ぎたシリルからは、女物の香水の匂いと、酒の匂いが、ふわりと香った。

 セレーナは、理由もわからぬまま、胸がしめつけられるように痛くなり、枕に顔を押しつけた。



 シャワーの音がやんでしばらくすると、セレーナの寝ているベッドの右側が、ずしりと沈む。


 シリルは今回も、なぜか一昨日と同様に、ダブルベッドの部屋を借りている。

 夕方、この部屋を取ったときに理由を尋ねたら、「その方が都合がいいから」としか答えてくれなかった。

 どう都合がいいのかはわからないけれど、丸二日以上もべったりそばにいたのだ。セレーナとしても、もう今更、「絶対に嫌だ」というほどではなかった。


 セレーナは、眠っているふりを続ける。香水の匂いをさせて帰ってきたシリルと、話す気も起きなかったし、自分の胸に去来したこの感情を処理するだけで手一杯だ。


 なのにシリルは、寝ているふりをしているセレーナの髪に、後ろから手を伸ばす。

 優しく髪を整えて、布団をかけ直して、それから彼はようやく、横になった。


 ――この扱いは、一体何なのだろう。

 真夜中に香水の匂いをさせて帰ってきた男が、ひとりの女性に対して、どうしてこんな慈しむような行動を取れるのか。

 シリルはきっと、セレーナを子供だと思っている。だから、一緒のベッドで眠っても、ドレスを脱がしても、平気なのだろう。


(けれど……森の朝のことは、どうして?)


 いくら考えても、セレーナには、シリルの真意など、到底わかりそうになかった。





 翌朝。

 セレーナは、朝日が昇る前に目を覚ました。


 隣を見ると、まだシリルは穏やかな寝息を立てて眠っている。


(これは……チャンスでは)


 一昨日と違って、外に着ていく服もある。森を抜けたから、追っ手もきっとまだ来ていない。


(――今なら、シリルから逃げられる!)


 セレーナは、すぐに決意を固めた。

 昨日の夕方までは、やっぱりシリルに最後までついていこうかという気持ちが強かった。

 だが、昨晩、胸の痛みに気づいてからは、自分の気持ちをこれ以上膨れ上がらせないためにも、シリルから離れたい気持ちの方が強くなってしまったのだ。


 セレーナは音を立てないように静かに着替えを済ませると、そっと扉を開けて、宿の外へと出て行ったのだった。




「ああ、なんて開放感なの!」


 ほんの少しの夜を残す、清廉な朝の空気を目一杯に吸い込んで、セレーナの口元は綻んだ。

 まだ店も開いておらず、民家の電気もぽつりぽつりとしかついていない。


「でも、どこへ行こうかしら。……あら? なんだかいい匂い」


 どこからか、香ばしい匂いが漂ってきて、セレーナのおなかが、ぐぅ、と小さく音を立てる。


「……おなかすいたなぁ」


 いい匂いにつられるように、セレーナは商店街の奥へと足を進める。匂いをたどってセレーナが着いた場所は、一軒のベーカリーの前だった。


 ベーカリーの朝は早い。

 窓からのぞくと、明かりが点る店内で、エプロンを着けた店員が、せわしなく働いているのが見えた。


「そうだわ」


 セレーナはいいことを思いつき、ベーカリーの扉をノックしたのだった。





 セレーナが宿から抜け出し、しばらくたった頃。

 部屋の中で目を覚ましたシリル――ジーンは、ようやくセレーナがいなくなっていることに気がついていた。


「くそっ! セラ、どこ行ったんだ? 俺としたことが、抜け出したことに気づかないなんて」


 ジーンは頭を抱える。昨晩はリチャードに付き合わされて、少し酒を飲んでしまった。そのせいで眠りが深くなっていたのだろう。


「……後悔してもはじまらねえ。急いで探さねえと」


 ジーンは窓を開けて、首から下げていた鳥笛を吹く。すぐに白い鳩が飛んできて、ジーンの指先にとまる。


「セラがいなくなった。探してくれ……いてっ」


 白い鳩は、怒ったようにジーンの額をひと突きすると、急いで空へと舞い上がっていった。


「俺がいない間に、怖い目に遭いでもしたら、許さねえ」


 もしそうなったら、ジーンが許さないのは、セレーナに対してではない、ということだけは確かだった。


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