夜が朝に変わる頃
秋犬
夜が朝に変わる頃
夏休みの前は、学校全部がそわそわして落ち着かない。
寄宿舎に押し込められた僕たちは、訪れる夏の気配に浮かれて羽根を伸ばしたがっていた。辛気臭い教師たちはそれが面白くないのか、普段よりガミガミ怒っている気がする。そんな面白くない奴らも寝静まっている明け方、僕はこっそりベッドから抜け出した。
僕はまだ薄暗い学校の中庭を歩いて行く。仄かに顔を出している太陽が、夜を溶かそうと空の絵の具をかき混ぜている。そんな空の下で、1人の少年が中庭の
「やあ、随分早かったんだね」
僕を待っているのは、同級生のヒューだ。小柄で濃い栗色の髪をしている彼は、僕を見つけると気の早い太陽のように笑った。
「どうしても早く見せたくて、居ても立ってもいられなくてね」
僕がヒューの隣に座ると、彼は紙の束を僕に寄越す。
「自信作なんだ、今回は」
「それじゃあ、じっくり読ませてもらうよ」
僕はヒューからもらった紙に書き付けてある物語を貪るように読む。遠くの国のお姫様が怪物に攫われ、それを助けに行く勇敢な侍女の話だ。
「なんで勇敢な侍女なんだい?」
「侍女は聡明って決まっているんだ」
ヒューは屈託のない笑顔で僕を見る。無邪気な顔をしているが、僕は彼の中に渦巻く激しい感情を知っている。こうやって物語を書いているときが、彼が自由になれる時間なのだと思っていた。
僕はいつも彼の物語に魅了されていた。それ以上に、物語を書く彼をもっと知りたいと思っていた。
「どうして侍女がお姫様と結ばれるんだい?」
「そのほうが面白いだろう?」
僕が物語を読んでいる間、ヒューはいつも手紙を書いていた。
「今日もアンドリューへの手紙かい?」
「ああ、いつも通りの僕の読者第一号についての報告。アンドリューは君のことを気に入っているよ」
アンドリューはヒューの弟らしかった。彼はいつもヒューの物語を楽しみにしているそうで、僕が読んだ物語は手紙に沿えられて、アンドリューが読むことになるらしい。
「ねえ、アンドリューはどんな子なんだい?」
「とても賢い奴さ。僕なんかよりたくさん本を読んでいて、アンドリューのほうが父さんのお気に入りなんだ」
ヒューは手紙を書く手を止め、僕をじっと見つめる。その間だけ、僕はアンドリューに勝った気分になる。
「僕は君の方がずっと魅力的だと思うけどな」
ヒューは少し眉をひそめる。
「なんだ、君はアンドリューを知らないくせに」
「違うよ、君と君の父さんの世界の話じゃない」
僕は更にヒューの顔を覗き込む。
「僕の世界では、君が一番魅力的なんだ」
「それは僕の書く話がってことかい?」
「だから違うって」
僕はヒューの肩をしっかり抱く。朝の冷たい空気の中に、熱い感覚が姿を現す。
「大丈夫、ヒュー・フィッツジェラルドはここにいる。君は君だ、そうだろう?」
「でも、君はここに物語を読みに来ているんだろう?」
「全く、君は自分以外の物語には無頓着だな」
ヒューはそのまま僕に抱きついてくる。彼の髪が僕の頬をくすぐった。
「ああ、君は本当に僕のことを見てくれるんだね」
「当たり前さ。こんなに素敵な奴は他にいないよ」
朝の風が中庭を吹き抜ける。僕はヒューの温もりを感じながら、同時に会ったことのないアンドリューについて考えずにはいられなかった。
僕は、ヒューのことが好きだ。
僕らがこの秘密の関係に至って半年くらいになる。いつも教室の隅で黙々と何かを書いている彼のことが僕は気になっていた。それから彼が落とした紙の束を拾ってあげたことがきっかけで、僕は彼が情熱的な物語を書いていることを知った。誰にも物語を書いていることを知られたくないというヒューの願いで、この朝の時間が作られた。
それから僕はすっかりヒューの虜になった。彼の書く華麗な物語に、外見からは想像もできないほど内に秘められた激しい感情、そして弟思いの優しい兄であること。彼の内面を知れば知るほど僕は打ちのめされ、そしてその想いはヒューも知るところとなった。
そして今、僕らはこうやって互いの体温を感じている。
「夏休みが終わったら、僕は14歳になる」
「僕もそうさ」
夜が次第に朝に侵食されていく。うっすらと残されていた宵闇の色は空の端へ追いやられ、僕らの時間に終わりを告げているようだった。
「14歳か、もう大人だね」
「13歳も14歳も変わりはしないよ、きっと」
おそらくヒューの言うとおり、僕らは少し大人になるんだろう。最近声の調子が悪いのも、ヒューをこれ以上欲しいと思うのも、きっと僕が大人になってきた証拠なんだ。
「そうだ、14歳になったら大人になろう」
思いつきをそのままヒューに打ち明けると、ヒューの顔がより近く感じられた。
「大人に?」
僕はヒューの唇を奪う。それは朝の空気のように清らかな味がした。ヒューは僕の腕の中で少しだけ柔らかくなって、僕との距離をより近づける。
「大人か、いいね。14歳が待ち遠しくなった」
ヒューが妖艶に微笑む。今すぐにでも僕は彼の全てを見たいと思ったけれど、それは僕も大人になってからにしようと思った。
「約束だよ」
「もちろんさ」
それから僕らは、起床時間になるまで何度も何度もキスをした。口と口を合わせただけでこんなに頭が痺れるほど甘く苦しくなるのに、大人になったら、僕らはどうなってしまうんだろう。
大人になるのは怖い。でも、僕はヒューと一緒なら何にだってなれる気がした。
それから間もなく、学校は夏休みに入った。僕らは縛られていた寄宿舎から追い出され、それぞれの家へ帰っていく。僕はヒューと別れるのが寂しくて、何度も何度もこっそりキスをした。男とキスをすることは神に背くことだと思ったけれど、それでも僕は退屈な神への祈りよりも紙の中でどこまでも自由なヒューが欲しかった。
ヒューが家に帰ったらアンドリューとどんな話をするのか、そしてどんな物語をアンドリューに読ませるのか。そこに僕がいないことがひどく惨めだったけれど、僕はヒューの幸せも祈りたかった。
***
長い夏休みが明け、僕はまたあの息苦しい学校へ戻ることになった。学校へ行くのは憂鬱だったけれど、ヒューがいるから大丈夫と僕は自分に言い聞かせる。しかし、学校へ着いた僕を待っていたのはあまりにも悲しい知らせだった。
ヒューは夏休みの間に、事故で亡くなったそうだ。
級友の死に落胆が広がる教室で、僕はひとり真っ白になっていた。
ヒューが死んだって? あのヒューが?
きっとこれは彼の物語に違いない。どこかで彼はこの作り話の通りに踊らされる僕らを見て、笑っているに違いないんだ。
僕は現実を受け入れられないまま、時間だけが流れた。学校の息苦しさなんかどうでもよくなるほど、僕は抜け殻のような毎日を送っていた。時折級友たちが声をかけてくれたけれど、僕には何の慰めにもならなかった。
空虚になった僕を見かねたのか、新年休みになって実家に戻された僕はヒューの墓参りを許された。正装した僕は両親に連れられて、ヒューの家へと向かった。彼の両親に案内されて、僕は墓地へ来た。全てが色あせて見えた世界で、彼の白い墓標がやけに鮮やかに見えた。
「ヒュー、ここにいたんだね。また会えて嬉しいよ」
冷たい土の下にいるはずのヒューを思い、僕は初めて泣いた。大事な「友人」だった。本当に、本当に大切な僕の唯一の光だった。
「ヒューをここまで慕ってくれてありがとう、テオドア君」
墓地を後にして、僕はヒューの両親に学校での様子を聞かせてほしいと頼まれた。彼の家の暖炉の前で、僕はヒューについてどこまで話すか少し悩んだ。
「ところで、弟さんはどちらにいらっしゃいますか?」
「ヒューはアンドリューのことを君に話していたのかい?」
「ええ、いつも彼に手紙を書いていました」
すると、ヒューの両親は互いに顔を見合わせた。僕は何かよくないことを言ったかと気まずく思ったとき、ヒューの父親が口を開いた。
「アンドリューは……もう3年も前に亡くなりました」
僕はそれから少しだけ、ヒューとアンドリューの話を聞いた。
生まれつき身体の弱かったアンドリューは両親に随分心配されていたこと。
ヒューはアンドリューにいつも本を読んであげていたこと。
アンドリューが亡くなった後、思い出の詰まった家に居たくないとヒューが寄宿学校へ行くと言い出したこと。
そして、物語もアンドリューの手紙も家へ届けられていなかったこと。
それなら、僕の前で書いていたあの手紙はどこへ行ったんだろう?
ヒューの荷物からは、それらしいものは見つかっていないそうだ。僕の話を聞いて、ヒューの両親は大変驚いていた。それから僕の手をとって、「教えてくれてありがとう」と改めて涙を流した。
僕は訳がわからなかった。
帰り際にもう一度墓地へ寄って、ヒューの墓標に話しかける。
「ねえ、君は一体誰に手紙を書いていたんだい?」
ヒューは答えなかった。多分生きていても教えてくれなかっただろう。
しばらくヒューの墓標を前にしているうちに、隣にアンドリューの墓標もあることに気がついた。そして、もう二度とヒューは本当の意味で僕を見てくれないんじゃないかと不安になった。アンドリューの墓標を蹴飛ばしたい僕がいることに気がついて、僕は急いで墓地から去った。
ずるい、ずるいよ。
どうして僕だけ大人にならなくちゃいけないんだ。
君だけずっと、子供のままで、大好きだった弟と一緒にさ。
ヒューの墓参りをした後、僕は夢を見た。
美しい朝焼けの中で楽しそうに物語を書いている可憐な少年と、その隣で楽しそうに彼の話を聞いてる幼い男の子がいた。それを僕はただ見ていることしかできなかった。
目を覚ますと涙が頬を伝っていた。けれども僕はもうそれ以上泣かなかった。窓の外は新年を祝う清々しい朝の空気に満ちていて、無理矢理僕を祝福しようとする。
もう朝日は完全に昇ってしまったのだと、僕は諦めた。
***
それから僕は、書き続けることしかできなくなった。
思い出せる限りのヒューの書いた物語、そしてヒューに当てた手紙。それから僕自身の物語。
あの美しい朝焼けの色を紙の上に閉じ込めたくてペンを握るのに、僕の言葉は後から後から砂のように零れて意味を失っていく。そんな時僕はヒューの才能を恨めしく思い、また彼に近づくために必死でペンに食らいつく。
誰に見せる訳でもないけれど、僕は楡の木の下でひたすらペンを走らせ続ける。
大人になれなかった彼らに、そして大人になっていく僕のために。
<了>
夜が朝に変わる頃 秋犬 @Anoni
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