さようなら小説
紫鳥コウ
さようなら小説
父から電話がかかってくることは、滅多にない。しかし今日は、母のメンタルのことで話しあわなければならず、気乗りはしないながらも、思い切って連絡を受け取ることにした。
いつからか母は、いま流行の事件について、あまりに敏感になるようになった。次は自分の身に危険が及ぶというふうに考えてしまい、眠ることができず、一日中スマホでそれにまつわる情報を調べるようになった。
一度、病院で
唯一あるのは、良い評判をきかないところだけに、遠くの病院にしようというのだが、僕も父も実家から離れて生活しているため、車を走らせることができるひとがおらず、通院は難しいという結論に達した。
この日の話し合いでは、なにも良い案が浮かばなかったが、とりあえず次の休日に、父が
電話を切ろうとしたとき、父はこんなことを言ってきた。
「康志はもうすぐ三十やったな。お父ちゃんも、そろそろ先が見えてきたし、いろいろ考えんとあかんな……」
「分かっとるよ」
そう、分かっているのだ。このままでは、ダメなのだということを。
* * *
事前に連絡がない。ということは、なんの賞にも引っかからなかったのだろう。いや、発表は誌面と書いてあるのだから、それを
ネットで調べてみても、そういう情報はヒットしない。秘密事項なのだろうか。とりあえず、このことは考えるのは止そう。いまは、目の前の締切りをこなすだけだ。
次の同人誌即売会に持っていく新刊を作っている。書き下ろし小説だ。バイト代をすべて注ぎ込んだ。だけど、すべて
それでも、この新刊を手に取ってくださった方に、少しでも「温もり」を与えることができたのなら、それでいい。売り上げなんて、本当にどうでもいい。一冊でも売れれば、大成功だと言っていい。
歴史ものである以上は、たくさんの文献にあたらなければならない。参考文献一覧だけで、結構な紙幅をとっている。
平安朝を舞台に、現代からタイムスリップした男性が、次々に姫君を
こうした、エンターテイメントに振りきった小説を執筆するのは、はじめてだ。それでも、なんとか喰らいついている。
* * *
しかし、一冊も手に取っていただけなかった。
隣のブースに続々とやってくるお客さんが、ひとりでも来てくれたなら、なんて思っていた。もちろんそれは、虚しい期待だった。六時間、ただ座っているだけだった。
内容に自信があったとしても、読んでいただけてはじめて、その「おもしろさ」を発見してもらえる。
一冊も売れなかったという事実は、僕という物書きの存在意義を問うことに繋がっていた。もうイベントには参加せず、必ず目を通して貰える文学賞に応募することだけに専念しようか。
だがそれは、甘っちょろい考えだろう。もう一年、フリーターをしながら創作に専心したいという願いを、父が受け入れてくれるとは思えない。
来年で三十歳になる。文学賞の受賞者には、僕より年下の方が少なくない。もうプロになるための芽は摘まれているのではないか。そう考えるときもある。
いや、前向きにならなければならない。ここで
両の手のひらで
そういえば、夜ごはんを食べていない。新刊を作るために、かなりのお金を要した。しばらくは節制しなければならない。
となると、夜遅くまで開いている、五百円でロースカツ定食を食べられる近所のお店へ行くのが、ベストな選択だろう。安くて腹がふくれるのが、一番だ。
八時ともなると、お客さんの数もそれほど多くない。
だいたいのものは箱詰めにして送ってしまったが、文房具や小物類はリュックに詰めこんである。席の下の箱に荷物を入れてしまうと、ひりひりと肩に痛みを感じだした。もう一度これを背負う必要があるのかと思うと、気が重くなってしまう。
そのときだ。スマホが震えたのは。何度も震動している。電話がきたのだ。
もしかしたら、文学賞の件かもしれない――というのは、もちろん甘な期待であった。雲が月光を隠した秋の夜空のたもと、僕はもう小説を書くのを止めることにした。
《康志、たいへんなの。お父さんがね、お父さんが……事故に遭ってしまって。命に別状はないんだけど……それでも、入院をしなくちゃいけなくて。だから、少し帰ってきてくれると助かるの……》
〈了〉
さようなら小説 紫鳥コウ @Smilitary
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます