落伍者、孤独に身を翳る

観測者エルネード

落伍者、孤独に身を翳る

深い霧に囲まれた円の中、銀色の龍が瞑目する。———龍の前には、死体が横たわっている。


 龍より死せし者に捧げられしは静寂の鎮魂歌。この者は、世に憂いを抱いて寺院に籠り、孤独の内に死んだ。


 人の世は明けぬ鈍色の天に似る。世界のシステムの不条理が人々に押し付けられ、人の心に昏きが生まれる。人類はみな、胸の内に憂いを抱いて自らの物語を生きる。人は自らの昏きから逃げることは許されず、歴史は哀しき連理を紡いできた。




(この者も……)




 憂いは人の内に蓄積し社会に蓄積して、骸の山を積み重ねていく。弱者の嘆きは弱きが故に人世に響かず、上に至れし者の苦悩はその栄華故に声に発されず。人類に圧し掛かる、憂いと苦しみという死の呪いを止めるべくは、今は無い。




(せめて)




 龍は思う。




(生きることの真の意味を見出せし者が増えれば)




 何万年後になるだろうか、人が哀しい音を発さずに済むようになるのは。死体に誓うように龍は頭を垂れる。




(人が迷惑しなくなる日が来るまで、私はここで迷える者の道標になろう)




 開かれた龍の瞳は、新たなる来訪者の姿を見据える。












 王都外れに木造の無計画な建物が雑多に建ち並ぶ道の中、擦りきれた木のプレートを握りしめながら黒髪の男が歩く。衣服は傷だらけ、顔には無精ひげがいっぱいで髪はボサボサ、正に不衛生な身なりだ。そうして、瞳には最後の輝きと言うべき光が煌々としていた。


 この男は、名をエル・ハウェと言う。この男が向かうのは、この辺りで一番豪華な外見の建物、役所だ。役所の前に人だかりができている。人だかりのほとんどは、一応の身なりは整えているが行動が荒々しく気品があまり感じられない。


 黒髪の男と、人だかりの人たちは王国の官僚試験の合否発表を見に来たのだ。


 といっても、人だかりの人たちと男では事情が違う。官僚試験は奴隷などの被支配身分でない限り、貴族でも平民でも受けられる。が、実際に受けるのは貴族がほとんどだ。さしずめ貴族に命じられて代理として結果を見に来た人が大半のところであろう。農奴の出である黒髪の男は自分で受け、自分の足で結果を確認しに来た。


 官僚試験。この試験は、この国では指折りで数えるほどしかない、平民が貴族になれる手段の一つ。首席合格や成績優秀であれば王国の大臣の座を狙えるかもしれない、正に平民の希望の道である。———最も合格者の殆どが貴族で、不合格者の殆どは平民の、不平等生産試験にもなっているのだが。


 エル・ハウェは農奴の出にして、農奴らしかぬ頭脳を以て官僚試験を受けたのだった。周りの人達からの反対を聞き捨て、停滞しているように見えた家族さえも縁を切って捨ててここにやって来たのだ。彼自身の頭脳のいと気高さを誇示する為に。


 人が多すぎて、結果を公表する立て板が見えない。木のプレートを眼前に挙げ、刻まれた数字を確認する。同じ数字が板にも刻まれていれば、男は合格だ。


 暴力的な文句を無視しながら人混みをかき分け、男が板を見る。


 ……男の数字は無かった。


「……え? そんな」


 瞬間、瞳の輝きが揺らめいて消えた。木のプレートを手からこぼし、あえかなる足取りで振り返って人混みを出る。どこか建物と建物の間の小路の中に入っていく。ぐるぐると小路を回り、袋小路に突き当たる。男が手を挙げて目前の壁に拳を叩きつける。壁に血が張り付き、手の甲からは赤い滝が流れる。


「クソがっ!」


 続けて蹴りを壁に入れ、ヒビが入ったところで男の身体から力が抜けて壁に前のめりに倒れる。


「あっあ……ううぅ……」


 手のひらに爪を立てすぎて血が出るくらいに拳を強く握る。壁に縋るような姿勢で、男は慟哭する。涙が溢れ、男の膝元には大きな染みができている。


「なぜなぜ、なんで俺が落ちる……」


 ひどく狼狽した様子で天を仰ぎ見る。そして、何かを悟ったように瞳を下ろす。


「そうか。そうだったのか。……結局、どこにも神は在りやしないんだ」


 どれくらい、そうしていただろうか。涙が枯れて、空を仰いだ時には雲が夕焼け色に染まっていた。ポン、と男の肩に手が置かれる。手の主、帯剣した男が今まで泣いていたエル・ハウェと瞳を合わせる。


「飲み、行こうか」








      ◇◇◇








「そうか、落ちたのか」


 騒々しい酒場の中で、木のビールジョッキを片手に帯剣した金髪の男が黒髪の男に話す。


「で、これからどうするよ? 生憎だが、俺にはお前をこれ以上住まわせる余裕はない。なぁ、エル」


 エル・ハウェが顔を上げる。金髪の男、ロイスが続ける。


「警備の仕事くらいなら俺が紹介できる。下町でだって、お前魔法使えるから魔法を使うところの下働きとかできるだろ?」


 エルは顔を上げ、天井の一点を見つめる。その眼差しは虚空の色を示して、世の全てを見得ていないようである。


「なんか言ったらどうなんだ?」


 ロイスがビールジョッキでエルの額をどつく。虚空から現実に戻された瞳がロイスの顔を捉える。アルコールによってもたらされた熱が、掃き溜めのような生臭い息となってエルの口より漏れ出る。


「はぁ……。俺には、もう生きる理由がない」


「あれか? 人の上に立たなきゃならないってあれか?」


「ああ。俺は、気づいてるんだよ。この世は不条理だ。それを突破するための官僚だったんだが……。唯一の道が不合格じゃな」


「だとしても、生きてるだけでもうけ」


 ダン! と、エルがビールジョッキの底を卓に叩きつけて割る。ビールが卓にぶちまけられ、その中のいくつかは小さな滝となって床に零れ落ちる。零れた液体はもう還らない。自分と同じだな、と嘲笑してから顔をロイスにぶつける。


「それは、生きていることにならない。不正義を見て見ぬふりする奴隷と同じだ。奴隷になるなら死んだ方がましだ……」


 眉間に皺を寄せて、まるで鬼のように言う。尚もビールジョッキを卓に押し付ける手は震えている。


「じゃあ、お前は死ぬつもりなのか?」


 ロイスも負けじと身を起こしてエルに睨み返す。


「ああ。というより、死ぬしかない。結果を得られなきゃ、なるべき存在になれないなら無意味だ」


 予想できた返答に、しかしロイスは視線を泳がせつつ呼吸を整える。ロイスにとっては、彼に言ってほしくない言葉だった。束の間に自分の望んだ未来が陽炎となって立ち消えるような幻想を感じたのち、現実に戻ってエルを睨み返す。


「エル……。本当にそう思ってるのか」


「そうだ」


「お前、それは」


 エルがその先の言葉を紡がせまいとロイスを制した。否。彼の瞳の奥に広がる虚無の世界が、気だるげに構えられた黒の衣の全身が、中途半端に強張った筋肉が、ロイスに言葉を紡がせまいとした。ロイスの口が泳ぐ。エルは、ただそこに身を中途半端に投げ出し構えているだけで彼の言葉をロイスに悟らせようとしていた。


 言える言葉はいくらでもあった。彼をなだめる言葉は幾らも浮かんだ。それでも、ロイスは遂に彼を救う言葉を見つけられなかった。ロイスは彼に時間が必要だと思った。否、自分に彼から少しだけ逃げる時間を欲した。


「金は置いておく。寝床はやるから、後で俺んち来いよ」


 そう言ってロイスは席を立ち、酒場を後にした。後には、椅子に中途半端に身を投げ出した黒衣の男一人。


「答に……。すべて正しき答よ、いずこ……」


 ぼそぼそと呟きながら、エルは、ぼんやりと酒場の空間のどこでもないようなところを眺めつつ彼自身の人生を追憶する。




 はじまりは義務感だった。母親に連れられて教会に行ったはじめてのとき、”神の教え”を教わった。あのとき、身が震えた。”神の教え”は全能感にあふれていて、この世界の理を規定する唯一無二の答えであるように思えた。あのときから俺は聖典を読み漁るようになった。聖典の解釈を学ぶために教会に通った。でも幼いころに王都に赴くことになって俺は失望した。異教徒が普通に存在していて、当の教団は腐敗していた。俺の中で、”神の教え”が”ただしいおしえ”じゃなくなって、まるで今いる世界が根本から崩れ去るような感覚を味わった。その時から俺は様々な宗教の本を読み漁り、”ただしいおしえ”が何処にあるのか血眼になって探した。だけども、何もわからないままここまで来てしまった。世界の不条理を無くしたいという思いと”ただしいおしえ”がどこにあるか知りたいという思いの二つだけで、ここまで来てしまった。官僚になれば、高い位の者たちと触れ合って”ただしいおしえ”を知る者と出会えるかもしれないと思っていたけども、それも潰えた。もう気力は無い。




 少しの間ぼんやりしていたら、テーブルに人の影が忍びた。辺りを見回すと、帯剣している二人組が立ってこちらを睨みつけている。大方、傭兵といったところだろうか。


「席、よこせよ」


 その言葉に応える気力もなく、椅子に座ったままでいようとした。立とうとしないエルに二人は苛つき、罵声をかけた。それでもエルは動かない。大きい方がエルの胸倉を掴んで、引きずる。エルは死体の様になって、抵抗しない。酒場の裏口から裏小路に引きずり出されると、エルの身体が生ごみの掃き溜めに投げられる。肉の腐った匂い、ハエのたかる音、誰かの吐瀉物の感触。


「俺らを舐めてんだろ、お前。痛い目に合いたかったか?今ならカネで許すが」


 二人組がエルの膝を踏みつけながら、掌を彼の前に開く。催促だ。


「ない」


 無機質に首を横に振る。もう終わった身。抵抗することに何の意味があろう。


「あ? ケッ!」


 エルの腹に重い衝撃が響く。二人組の蹴りが四、五発と入れられ、エルが吐く。掃き溜めに吐瀉物を追加し、エルは自分の身もついに汚物の仲間入りしたかと嘲り笑う。


「気持ち悪いな。これ以上やっても俺らが汚れちゃかなわねぇ、切りあげるか」


 二人組が去り、まるで死体のようにエルが生ごみの上に横たわる。横たわりながら、エルは呟く。


「ただ見下ろすだけの星の海め……」


 それからしばらくして、寝息をかくようになった。数時間ほどだろうか、エルがゴミの上に横たわったままでいるとロイスがやってきて、目を閉じたままのエルを担いでロイスの家へと帰る。






 瞼を撫でる陽光に、エルが目覚める。開目一番、目に入ったのがロイスだった。


「ロイス……」


「よう、エル。随分やられたようだな」


「ゲホッ。はぁ、運んだのか、俺を」


 はぁ、とロイスがため息をつく。


「どうも、お前の態度を思い出してるとずっとあそこから動かないんじゃないかと思ってな」


 ロイスの手をエルが掴み、立ち上がる。ロイスがある程度洗ったとはいえ、生ごみの酷臭にはさすがのロイスにも応えたようですかさず鼻をつまむ。


「くせぇな。外れの川でもっと洗えよ。代わりの服はやるからさ」


「ああ。そうだな」


「ところで昨日の続きなんだが、」


 ロイスが一息置いてから、強い声調で言う。———先ほどとは打って変って、身に軸を据えたように態度が定まっている。


「お前はどうも、人生を簡単に諦めているように見える」


「……は?」


 ギロリ、とエルの鋭い眼光が彼を睨みつける。熱い風が二人の間を横切り、静寂たる緊張が生まれる。言葉の間合いを見つけてか、ロイスが言葉を繋げる。


「他人の人生だし、俺がどうこう言うことではないだろうが……。もっと、こう、他に頑張る道くらい見つけられるはずだろうと思ってな。ほら、村に帰って畑耕すとかさ」


「他? 他の道? 俺には見当たらないな。大体、村に帰れと言われても過去は棄てちまってるんだ。さぞやお前は俺よりも聡明なんだろう。貴殿の言う道を私にご教示くださいな!」


 荒々しい声でエルがまくし立てる。


「……。お前の道は俺が決めることじゃないからご教示することはできない。ただ、世の中を見回せば思いつくだろう?」


「無責任だな」


 冷たい一言が空間を引き裂く。


「道を見つけろと言いながら、お前は道を示さない。俺にはもう道がないって分からないのか! 俺が今の今まで悩んで悩んで悩み抜いてこれしかないと悟ったたった一つの道を閉ざされたって分からないのか!」


 自分の固まりに固まった思考を声に上げるその様子は、ロイスには気が狂っているとしか思えなかった。


 ロイスが何か言おうとしてとして、自分の声を押しつぶした。エルの視ている世界とロイスの視ている世界は違う。エルにとって大事なのは自身が世界の上に立つこと。ロイスにとって大事なのはその日暮らしの命を繋ぎながらたまの日に楽しむこと。エルに生きてもらいたいならばエルがエル自身を変えるしかなく、その術はロイス、いや、エル以外の全ての者には無いかと思われる。


 結局、ロイスは説得を諦めた。肩を落として臭いため息をつく。


「分かった……。とりあえず、川に行って残りの匂い落としてこい」


「ああ、そうだな……」


 二人の会話に一応の決着はついた。ロイスは苦虫を噛みしめるような顔でエルの背姿を見つめる。そうして、酒場から漏れる喧騒を人生の一度たりともエルに分けてやれなかったことを悔やむ。










 身を川の水で清めたエルは、数少ない自分の所有物を整理する。


「この家にずっと居てもいいんだぜ、死ぬか、他の道を見つけるまで」


 ギロリ、とエルの黒い瞳がロイスを刺す。


「言っただろう。他の道は無いと」


「やはり、無理か」


「絶対にな」


「じゃあ……。何かやり残したことがあるなら言ってくれ」


 これから、の言葉にエルが動きを止める。すっかり落伍した人生に、なんの未練があろうか。記憶の糸を手繰り寄せて、何もないことに気づく。


「いや、死ぬことしかない」


 ロイスにとっては、やはり、という感じだ。そうしてロイスは今、じわじわと親愛なる友人を失う実感にを現実に持ち始めている。背に氷柱が走り、心臓の鼓動が早まる。冷や汗を頬で感じながらも、手が冷たくなって動かなくなるのを懸命に耐える。


「そうか。まあ、止めることはない。お前の人生だもんな、好きにしろよ。あ、ここで死ぬのは勘弁だかんな」


「分かってるよ」


 親友の懇願とも取れるささやかなジョークにエルが頬を綻ばせる。それから、エルは宙に目を漂わせて自分の死を思う。


 どう死のうか。できれば苦しくない、楽な死に方がいい。飛び降りるのはむしろ延々と苦しむことになる。毒も、すぐに死ぬことはできない。刃物と人体に知識のないエルでは、自分の身に刃を突き立てることも苦しみの死につながる。


 エルが部屋の中に羊皮紙の本を見つける。伝説が記された本だ。そういえば、とエルが頷く。


「グノーモンの寺院に行ってみるか」


 グノーモンの寺院。それは、伝説に記された寺院。おおきな霧の柱、ファルネスの大霧の中に在りて、今までに目撃したとされる人物は唯一人だけ。今まで寺院を目指した者は数多く、しかし一人を除いて全員が今だ霧から帰らず。


「グノーモンの寺院……? お前、まさかファルネスの大霧の中に入ろうっていうのか?」


「ああ。どうせなら、伝説の中に死にたい。それに、必ず一人になれるそうだからな」


 グノーモンの寺院にはこんな言い伝えがある。唯一の生還者曰く、“霧の中では必ず一人になる”。


「分かった。ここからじゃ少し遠いか……。馬車の金は?」


「大丈夫だ」


 エルが金の入っている袋をロイスに見せる。納得したロイスは、ドアから身体をどける。


「友人エル・ハウェの旅立ちに幸いあれ、神よ」


「ありがとう、ロイ」


 エル・ハウェがロイスに見せた笑顔は、破滅の間際にいるようだった。






       ◇◇◇






 おおきな霧の柱、ファルネスの大霧が立っている。ひとつの大城は囲めそうなほどに大きく、上を仰げばいつも曇り。不思議なことに雨は降ったことがない。かつて沢山の人がこの霧に入り、そして姿を消した。霧の向こう側からはただ一人を除き誰も、そして何の返事も帰ってきていない。








 二人の兵卒が槍を担いで霧の周りを歩いている。


「…ふぁ~あ。ねむい。」


「おい、気を抜き過ぎだ。」


「なんだよ。……いつものことながら誰もこねーんだよ。」


 と、会話している最中に背の高い方が、誰かが霧を囲う柵を乗り越えようとしているのを見つけた。


「あれだ!」


「おう!」


 誰かの元に走り寄り、二人掛けで柵から引きずり下ろす。


「いてっ!」


 拍子に、柵を越えようとした者が地面に頭を打ちつける。よく見ると、柵を乗り越えようとしていたのは黒髪の、無精ひげが生えた面長の男だった。この男こそが、エルである。


「おい、なんで乗り越えようとしてたんだ?」


「言えるか、そんなん。」


「ま、このまま駐屯地に連れていくんで、いいすね。」


「……やだ。」


「なんで嫌なんだ、とっとと立て!」


 二人はエルの腕を掴んで立たせた。


「……離せよ。腕が動かん」


 男は腕をしっかり掴まれて自由に動けないようにされている。


「ほら、いくぞ。」


 二人の歩みに抵抗するかのように男はぎこちない歩き方をする。


「さあ、もう一回訊くぞ、なんで乗り越えようとしたんだ」


 男は頭を下に向けて、唾を吐く。


「……分かるものかよ、話したって。天を目指したのに堕とされた奴のキモチなんて」


「なに?」


 彼は自由の利く手首を回して手のひらを二人に向けた。


「抵抗はやめよーよ、ねっ」


「いやこれは、目をつぶー」


 背の高い兵卒が言うより早く、エルが詠唱をして発光魔法を発動した。目をつぶるのが遅かった二人はあまりの光量に驚いて、顔を手で覆ってしまった。


「あ、くそ! 離してしまった、おい逃げるな!」


 背の高い方が叫んだが、目が見えない為エルを追いかけて捕まえることは出来ない。


 ようやく二人の目の自由が利くようになった時には、そこには二人の他に誰も居なかった。








 エルは白い霧の中をさまよっている。彼を囲う霧は不思議なことに纏わりつかず、恭しく道を譲るようであった。風が麦色の雑草を鳴らして、寂しい音色を奏でる。


(おかしい、霧の中だというのに明るい……。一寸先の様子がわからぬというのに)


 しばらく歩いていると、霧の靄の先に明るい光の玉が浮かび上がる様が見えた。


(アレは……? ……目指してみるか)


 エルは光の玉に向かって歩いた。歩いた。ずっと歩き続けた。しかし、一向に光の玉が霧の中から現れる気配はない。


(近づけば玉が大きく見えるようになるはずだが……うおっと)


 不意に霧が晴れた。違う、抜けたのだ。燦然と降り注ぐ日光の下、男の眼前に広がるのは壁に囲まれた荘厳な寺院の姿だった。


(これは……、なんという……)


「これが、うわさに聞く、出れずの寺院、グノーモンの寺院か……!」


 彼の住んでいる国のどのような建築にも見当たらない、しかし年季の入っている、ねずみ色の建築はただ厳かにエルを圧していた。


「これは……ジェネフ建築か…? だが、どこか違う……?」


 ハ、と気が付いて後ろを振り返る。太陽まで届くかというほどに霧の壁がそそり立っている。よく見てみると霧の壁はぐるりと寺院を囲っているように見える。ここは、ファルネスの大霧の中なのだ。


 男は、ただしばらく其処に座していた。だが、本来の目的を思い出すと、立ち上がった。


「……お世話になるぜ、グノーモンの寺院。」


 門に向かって歩く。


「……俺の命が果てる時までな……」




       ◇◇◇




 門の内側に入ると、草ぼうぼうになって放置された花壇、井戸、石道などが目についた。


(かつては華やかにあしらわれられていたんだろうが、今は見る影もないな。)


 荘厳な寺院が彼の前にそそり立つ。だが、よく見れば見るほどその荘厳さは空虚なものに思えてくる。獣一つの動く気配もせず、自然の新鮮な姿さえも見えない。此処の空間を支配しているのは生の精彩を放たないもののみ。


 寺院本体の、伝説に出てくるような巨人一人が入れてしまう扉の前に立った。


(これ、絶対儀式用だろ。どこかにあるはずだ……おっと)


 隣に小さな扉があるのを見つけ、取っ手を後ろに引いた。中に入ると、長椅子が規則正しく並べられた礼拝室が目につく。子供がはしゃいで端から端まで徒競走をしてしまいそうなほどに広い。天井はとても歪曲されており、天使やら老人やら、青い鎧を着た青年、太陽を手にする女性やら、果てには龍に似ているが形容のとてもつきそうにない化け物までが描かれてある。壁には、黄金の様々な装飾がなされてある。装飾を見るに、どうやら天井に描かれた絵と同一のモチーフを有しているようである。それで、最奥には、中にひし形の穴がくりぬかれているひし形の黄金が立っている。およそ、偶像の類であろうか。


「なんという……、まさかここまでとは思わなかったな……」


 ひとしきり嘆息を漏らしたのち、側にある長椅子に腰かけて息を漏らす。そうして、あたりをぐるりと見回す。


 音一つしない。それがエルの感想だ。伝説の事実に安堵して、心が安らぐのを感じる。


「疲れた……」


 抑制の効かない涙が、彼の頬を伝る。懐をまさぐって、傷で擦れた革の身分証明書を取り出す。


「はぁー……。こんなもの持っていてもなぁ」


 礼拝室のどこかに適当に放る。そうして、長椅子に座ったままでいる。


 今のエルに、目的はない。彼は今まで、平民の身でありながらにして自身の崇高な目的の為に奮闘していた。だが、高位な役職の採用試験に落ちてその前途が潰えてしまったのだ。


「何もやる事がないとこうなるものかよ……」


 次第に瞼が重くなっていく。空腹感は覚えるが、特段どうしようという気が湧いてこない。喉も多少乾いているが、立ち上がろうとする気はない。エルは、もう自分の身がどうなっても良いと思っている。彼自身は、そう思っているつもりだ。すべてが黒になっていく。






       ◇◇◇






 目覚めたエルの目についたのは、歪曲した天井だ。彼の実感として、酷く腹が凹んでいて喉がパリパリと乾燥して痛い。いつの間にか、立って礼拝室の奥のドアのノブに手をかけているのに気づく。


「まあ、いいや。腹満たせるもん、探すか」


 生を諦めたはずの男が、寺院内を食料を求めに彷徨い歩く。光のカーテンが差し込む中庭に面する、部屋のドアの多い回廊を歩くと階段の上から果物の匂いを感じ取る。上ると、さっきまでとは打って変って光があまり差し込まない廊下に出る。今にも、均等に並べられている像が動き出して襲い掛かりそうだ。


 廊下をぐるっと回ると、ドアが開放されている一室を見つける。果実だけでなく、肉やパンの匂いまでもする。


(まさか人がいるのか?)


 廊下と違って光量が丁度良い部屋だ。調理用の台や道具が所狭しと並べられ、保管室であろう隣接する部屋からの食料の匂いが強い。よく観察してみると、道具に人の手が触れた形跡がない。まるで最初に配置されたその時のままのようだ。


 発光魔法を用いて隣の保管室を覗く。エルは少し気分が悪くなった。


「これは、そうか。保管用の魔法ともう一つ、俺の知らない魔法が使われている」


 棚には肉や魚、果実など様々な食料が並べられている。その棚には魔法陣の紋様が施されている。魔法陣から発されるマナが濃い為に彼はマナ酔いを起こしたのだ。ささっとパンと野菜と肉を取って、調理室に逃げる。


「これほど大きい寺院なら、水が勝手に流れ出る魔法もあってよいものだが」


 しかし、調理室をいくら探してもそんな魔法は見つからなかった。諦めて、食料を台において桶を取り、中庭に見かけた井戸に向かう。井戸で水をくみ取り、調理室に移動したところで疲労がどっと押し寄せる。


 桶に口を突っ込んで水を飲み、パンだけでも今のうちに食べようと台の上に手を伸ばす。———手が空を振る。パンが無い。


「あ?」


 よく見ると、野菜には歯型がついている。肉には何ともない。


 この寺院に他に何かいると思うと、背がうら寒くなってくる。伝説は嘘だったのだ、と舌打ちを打つ。仕方なく、マナ酔いを我慢して保管庫からパンを持ってきて、かぶりつく。野菜は別のに変えて、調理室にあるものだけで調理する。


 出来上がった料理は素朴で簡単なものだ。野菜スープに、焼いて切った肉。それらを口におさめる。


「さて、どこか寝るところは……と」


 エルが見たところ、寺院は中央の建物とそれを取り囲むように配置されたそれぞれ別の方向にある三軒の建物で成り立っているらしい。その内、尤も宿泊施設らしい外観の建物に向かおうとする。


「しかし、本当に埃っぽいな」


 喉のパリパリが潤いのある柔らかみに変わり、腹が膨れ、心も落ち着いたエルは今更ながら建物全体が埃っぽいことに気づく。きっと、永らく掃除されていない。


 最初二階から下りる階段に向かおうとしていたが、方向を間違えてしまったらしい。歩いているうちに、まだ見たことのない大きな扉の前に立った。気になって、扉を押し開ける。


「マジかよ……」


 身長の二倍はありそうな本棚。所狭しと並べられた無数の鎖付き本。思わず、一番近くの本に手が伸びる。


「読めねぇな。言語が違うのか……」


 エルの分かる言語で書かれている本は、一時間の苦闘の末に発見された。


「はぁ~っ、良かった。多少古い言語だが、読める……!」


 目を輝かせて手元の本を見る。この本には一生お世話になりそうだ。図書室の隣の鍵を保存する部屋から鍵を持ってきてロックを外し、階段に向かう。






       ◇◇◇






「ここだな」


 エルが向かっていた、一番素朴な外見の宿泊施設らしき建物。だが、井戸と水洗い場が草をかぶりながらも完備されている。中に入ってみると、食堂らしき広がりのある部屋が二部屋あり、浴室らしきものもある。


「これは、魔法がかかっている……? だが、こう壊れていては湯が出んな。俺みたいな身分にゃ湯には滅多に入れないのに、目の前でおあずけかよ……」


 浴室の壊れた給湯口に舌鼓を打ちながらその場を後にする。上の階は全て宿室になっている。一番行動しやすいように、二階の階段すぐそばの部屋に腰を落ち着けることにする。


 埃だらけのシーツを外で払い、何とか環境を整えて初めてベッドに飛び込む。


「天国だ……天国……」


 ハ、としたようにエルが顔を上げる。


「そうか……俺はもう何しなくてもいいんだ」


 責任から解放された気分になる。


 思い起こせば、今まで何かに追われるように頑張ってきた。小さいころに村を貴族の馬車が通って、身分の絶望的な差を痛感した。たまたま訪れた王城で配られるべき富の存在を初めて知った。今まで信じて来た宗教の絶対性が、汚職であえなく崩れ去った。それからは絶望の水底から這い上がってほんとうにただしいこたえを探し求める為に勉強、勉強、勉強……。


 だが、この寺院には身分など存在しない。富など気にしなくてもよい。それに今となっては答を探す意味も無い。


 だが、気にするべきものが唯一つだけある。この寺院には、“誰か”がいる。それを解明するまでは、まだ心の中に引っ掛かった1ピースが抜けない。


 そのまま、微睡みの中にエルは堕ちていく……。








 目が覚める。闇の中にいる。陽が落ちた、というだけだ。エルはバツ悪そうに頭を掻きながらベッドに座す。


 エルの手が不自然に机の上に差し出される。この怪奇現象に、エルが慌てて後ずさる。


(なんでだ……? いや、そうか。これは、俺の強迫概念だ。勉強せねば、上に立たねばの精神そのものなのだ)


「クソっ、もう終わったんだ、終わったんだ……」


 屈んで何かを追い出そうと頭を掻きむしる。何回そうしただろうか。痛っ、と頭から微かばかり血が流れ始めた頃に頭を上げると、柔らかな日光が部屋を包んでいるのが分かった。


「そうか。そうか……」


 悟るように何度も何度も頷く。この明るみがエルに安らぎを与えた。もう何もしなくていいんだよ。陽が彼に語りかけているようであった。


 だが、今まで暮らしてきた日常とこれからの日常の変化に対応するのは難しい。


 抜け殻のように、彼がただ部屋の中に座するのみ。特段何をするわけでもなく、本に手を付けることも忘れてただただ静寂の内に座すのみ。義務も強迫も無い生活で何かをする技術も知識もエルからは抜け落ちている。


 エルは、時々シーツの上に横たえては体を起こし、また横たえる。それだけの生活を繰り返して、苦しみを覚えた時だけ食堂に向かう。その生活を繰り返すのみだ。


 ある時、調理室から戻るのに道を間違えた。気が抜けて、道一本間違えたのだ。それはエルの目の前の上り階段が証明している。気力の無いエルは、その場で崩れ落ちて壁に背を預ける。


(そういえば、子供の頃はどうしてたっけ。世界の不条理に気づく前の。確か、村の外れの修道院がやたらデカくて一度潜入にしたことがあったな……)


(……)


(あの頃は、わくわくしてたな。こーいう建物の、こーいう階段があったら、あの頃の俺は嬉々として昇っただろうな)


 不意に、心の中で沸き立つ感情を悟る。エルが自分の胸に手を当て、不思議そうに首を傾げる。脚がひとりでに前に進み始める。床に手をつけ、筋力を使って何とか立ち上がる。


「……行ってみようか」


 三階の、その先へ。








 かくして、エルは寺院の中を四階を除いて全て探険した。一階は主に大衆向けと見られるような礼拝施設。二階は調理室と図書館と大きなホール。三階は打って変って、専門的な礼拝施設。事務的な部屋もまま見受けられた。寺院の周りにある建物は、居住用を除けば宗教的な意味合いを備えているものが二つ。


 寺院の四階に続く階段は、エルが見た時に昇るのをすぐ断念した。階段はひとつしかなく、人一人通れるかすら怪しかった。おまけに階段の板が傾斜していて足を滑らせる可能性が高い。この階段の他に大きな階段が一つあったのだが、板が酷く損壊していて昇ること自体が不可能に見受けられたのだ。


 部屋に戻ったエルが、ベッドに身を委ねる。“寺院の中めぐり”は彼の少年心を掻き立てた。彼は非常に楽しめたのだ。久しぶりに心の中が晴天で晴れ渡っている。


「あー。良かった……」


 ゴロリと寝返りを打って仰向けになり、満面の笑顔で言う。


 薄明の中、ベッドの上で停止した彼は冷めるスープが如く心の熱が引けていった。少年心もどこへやら、いつしか彼は溜息をつく。


「次は、本か」


 机の上の分厚い本に目を向ける。彼の他の楽しみといえば、本しかないのだ。だが、この日は彼は探険で疲れている。いつしか瞼が重くなる。


 こうして、この一日は終わった。








 次のまた次の日。相変わらず調理室と部屋の往復を繰り返すエルには一つの気づきと一つの懸念がある。


 気づき、それは調理室の保管倉庫にある食料の数が全く減っていないように見えるのだ。恐らくもう一つの魔術がそうさせているんだろう。永遠に減らないとなれば、穏やかに衰え死ぬことができる。


 長らく掃除されていないであろう誰も見当たらない寺院は埃が溜まっている。その為、歩けば床に足跡がついてエルがどこを通ったのかが分かる。


 一つの懸念とは、埃に別の人の足跡がついていることだ。調理室に初めて来た日もそうだったが、確実に誰かがいる。足跡は、多くはエルの足跡に重なっている。つまり、もう一人の人間はエルの存在に気付いて、後をつけているということになる。


 エルは調理室に入り、包丁が仕舞われている台の前に座る。包丁の柄を、チョンチョンと指でつつく。


「さて、いるんだろ? 出てこい」


 調理室のドアに向かって言い放つ。ガタガタ、と回廊で音が鳴る。


「誰だか知らないが、流石にここまで姿を見せないのは異常だ。なに、話し合おうじゃないか」


 エルは、実際はこの寺院の中に一人で居たかったのだ。だが、誰かほかに人がいるのならそれも仕方ないという心づもりだ。


「なぁ、いい加減出て来いって。いるのは分かっているんだから」


 言い終わったとき、彼はうら寒いものを感じて身震いをした。まるで足の無い幽霊のように、ススー、と若い女性が姿を現したのだ。


「なるほど。俺はエルだ。エル・ハウェ。そっちは?」


 問いを投げかけてから、相手を観察する。両手は土と砂でぐっちゃぐっちゃの汚い黄土色で、服から覗く肌には所かしこにアザが見え、髪は金に埃を被せたよう。女性は口を開く素振りどころか表情一つ変えない。まるであえかなる彫刻の様に。エルの視線が頭から腕へと視線を滑らせていくうちに、彼女の手に握られている物を目撃した。


 おおきい、石。


 台から包丁を抜き、エルが立ち上がる。


「その石をまず置いておけ。話し合いはそれからだ」


 だが女性は身じろぎひとつしない。まるで、こちらとの間合いを図っているようだ。この時に至り、エルは話し合いを諦めた。


 どちらかが動けば崩れるように空気が張り詰める。静寂と孤独の空間だった寺院が、生殺と緊張の寺院に変わった。


 エルがもう一丁、包丁を持とうと左手を台に伸ばした時、女性が疾風の如く突進してきた。想定していたエルは左手を翻す。


「目をくらませろっ!」


 エルの手から大量の光が放たれ、女性が目を潰される。その隙にエルが調理台を一周して調理室を出、疾走する。




 防壁の上の方がいい……!




 寺院をぐるりと囲っている防壁は、見張りが上を歩けるように歩行通路が狭いながらも敷かれている。環状の通路は前から来たら後ろに逃げる、後ろから来たら前に逃げるという単純な選択肢のみを可能とする。しかも、地面との出入り口が三つあるからどれか一つだけを塞がれても問題ない。


 防壁にくっついている見張り塔の螺旋階段を疾走して昇り詰める。-そこで男は完全疲労し、膝を床につける。腕の力のみで、なんとか防壁の上に這い出る。柵になんとか顎を乗せて、寺院の様子を見る。


 よし、なんとかこっちの様子はバレていない……。


 居場所を見透かされないうちに柵の内側に身を潜め、体力の癒えるのを待つ。








 ダンダンダン、と階段を駆け上る音がする。エルが昇ってきた螺旋階段からだ。すっかり疲労が取れたエルはすかさず螺旋階段の上に移動して、近くに落ちていた石を手に構える。


「それ以上動くな」


 女性の姿が露わになったところで、警告をする。


「そこから一歩でも上がってみろ、この石を落とす」


 エルと女性の間の位置的距離は遠い。物を落とせば、大きな損傷は免れないだろう。


「一体何の目的で俺を殺そうとする?」


 女性はだんまり。エルの瞳を睨み返すだけだ。


「なんか言ったらどうだ。言わなければ、石を落とすぞ」


「汚らわしい。男は消えろ」


 短く、ピシャリと女性が言い放つ。その言葉にエルが頷き返す。


「そうか。じゃあ俺は邪魔なんだな、お前にとって。俺も確信した、お前が邪魔だ」


 エルが石を投げ、女性も上に向かって石を投げる。ぶつかり合った二つの石は勢いを失い、女性の上に落ちる。避けようとした女性は脚を滑らせ、階段を滑落する。


「あっけなかったか……?」


 念には念を入れ、エルは別の出入り口から地面に降りて女性が滑落したであろう所に急ぐ。


 運が良かったのか、女性の出血は少ない。だが、声を掛けても身じろぎ一つしない。


 チャンスだ、とエルは思った。身に忍ばせてある包丁を取り出して、女性の首元に向ける。


 一思いに刺せば終わりだ……。刺せば、終わり……。


 エルの手が震える。汗が止めどなく流れる。人の命を取る事への罪悪感と自分の生への執着心がせめぎ合う。ついに瞳をつぶって刃を突き出す。


 ずぶり、と突き出された刃は土の中に埋まった。女性のうなじは無事なままだ。エルは地面に腰を投げ出し、せわしなく呼吸する。


 そうだ、縛っておけばいいか。殺せぬなら、殺せるようになるまで待つしかない。


 塔の上に縄が置いてあったことを思い出したエルは駆け上って縄を取り、また下る。そうして、女性を身動きひとつとれないように縛る。塔の螺旋階段の直下に押しとどめてやる。


「これでいいか。もう、限界だ……」


 彼は、もう何も考えられなかった。自分の部屋に戻るのに気力を使い果たして、深い眠りの闇へと堕ちていく。








「生きてたか」


 目覚めたエルは、女性を捕らえた塔に赴いた。女性は捕らえられた場から少しは動いたようだが、依然として文字通り手も足も出ない状態だ。そうして、弱い立場であるにも関わらず果敢にも彼に対して睨み返している。


「殺せ」


「なぜだ?」


 首を傾げてみせる。エルは自分の命を女性から守る。片や女性は早く死にたい。利害は一致しているはずだが、依然としてエルの良心が殺害を堰き止めている。だから、理由を聞くことで殺害行為の先延ばしをしている。


「殺せ」


「こっちが理由を聞いている!」


 意図するより早く繰り出されたエルのつま先が女性の肩を蹴り飛ばす。地面にぶつかった女性の鼻から血が垂れる。


「どうして殺してもらいたいんだ? え?」


「その方が汚されなくて済む」


 昨日も女性は同じことを言っていた。エルは確信した。こいつは男が嫌いなのだ、と。男から離れられるなら自分の死も辞さないのだ。


「あーそう。生憎今の俺にしちゃあお前は魅力的じゃねーよ」


 実際にエルは今は性欲を忘れているのだ。吐き捨てて、呼び名に窮しているのに気付く。


「お前、名は?」


「……」


「言え。減るものではないだろうに」


「ラス・アルミア」


「そうか。ラスと言うのか」


 これ以上の対話を望めないと判断して、エルが身を翻す。殺す決心は、ついにつかなかった。


「エル、だったか?」


 彼の背後でラスが声を上げる。


「何故、ここに来た?」


 立ち止まって、少々言葉を思索する。


「落伍した、からだ」


「……死にたがりの類か?」


 やけにラスの舌が回る。彼女の不審な態度にエルは吐き気すら覚える。


「そうだな。楽に死ねる方法が無いもんで、ここに来た」


「なら、四階に行け」


 四階……。エルが寺院でまだ行ったことの無い階層だ。ラスが四階のことを話すのだ。そこに、命を終わらせる何かがあるだろうということは察しが付く。


「……。そこまでして俺を殺すか自分が死ぬかしたいのか」


「そうだ」


「分かった」


 エルが寺院を仰ぐ。四階。外見からしてそこが最高の階層。遺跡のようなミステリアスに包まれた雰囲気すら覚える其処に、エルの心臓が高鳴る。それ以上声を発さずに、エルがその場を離れていく。








「この階段、険しいんだよな」


 一人ごちたエルの眼前には、狭くて急な階段が天まで届くか位に伸びている。この傾斜のせいで前回は昇るのを断念したが、其処に特別なナニカがあると聞かれれば少年心が昇らないのを許すわけが無かった。


 這うように階段を昇る。身体がずり落ちて転落してしまわないように。やや気合と体力の要るそれは、充分にエルの疲労を溜めていく。時折クモが手の甲を這っては、埃が鼻についてくしゃみをする。まるで濡れたドブネズミのような姿になりながらも、昇る。


 階段を昇り詰めて、長い回廊を歩いた突き当りに大きな扉がある。扉の隙間から、まるで吐息のように高濃度のマナが漏れてくる。


 -神秘的な存在でもいるのか。


 マナに酔わぬように深呼吸してから、重い扉を身体全体で押してこじ開ける。


 やけに白く、明るい空間。陽の光が、灼かない温度で懸命に俺を灼こうとしている。天井は無く壁はところどころ崩落しており、石の地面が広がる。光さやけき空間の中、銀色に光る巨大なモノがある。


 龍、だ。伝説にしか聞かないファンタジーの存在。頭からは双つの角が生え、犬みたいな四肢だが身体全体は鱗で覆われている。尻からは鞭みたいな尾が伸びている。


 つい、エルが一歩分後ずさる。膝がひとりでに床につく。手が白い石の床に下ろされる。これ以上あの御姿を見てはいけないと、瞳がうつむく。


 今、俺は何をしている。これじゃまるで、神にひれ伏す神官じゃないか。


 エルが捧げているその恰好は、祈りそのものだ。理性よりも先に、本能が龍を敬い、畏れたのだ。


「頭を上げよ」


 ……?


 男は今一瞬、自分の耳を疑った。人の語が空気を流れたのだ。顔を上げ、せわしなく辺りを見回す。


「我と、お前しかいない」


 龍の喉が膨らむと共に声が届く。


 ああ、この龍が……。龍が、俺に語りかけている。


「名は何という?」


「エル・ハウェ。……と申します」


 恭しい態度にエルが自分で驚く。自分には似つかわしくないと思いながら、態度を変えようとはまったく思わない。


「そうか。我はグノーモン。寺院を守護する者。……此処が霧に包まれて久しい」


 龍の姿を凝視しているうちに、グノーモンの後ろに何かが光った。少し視線を逸らして、それを見る。


「外の世は果たして栄華を極めているであろうか。それともその逆、飢餓に餓える地獄であろうか。それともどっちでもない。煉獄の世であろうか……」


 間違いない。グノーモンの後ろには宝物が山に積まれている。


 ……途端、エルが白けていく。龍も、結局は欲望の生き物なんだと。自然と敬いのポーズが解かれていく。


「ん? ……どうした? 何か言うことあれば言え」


 姿勢を変えるエルを不審に思ったのか、グノーモンが言を促す。最後に念のために龍に説明してもらおうと、エルが口を開ける。


「後ろの財宝、何のためにあるんだ? 命を繋ぐのに必要なのか。……それとも、貴方が好きで集めたのか」


 グノーモンと向き合って、問いただす。---、龍の後ろで金色の炎が立ち上がる。


「良し、欲は無いようだな。お前が欲望深き者であれば、即座に食い殺していた……」


 すっかり宝物の山が消え、白い石の床しか見当たらなくなる。


「試されていたのか。はぁ……」


 安心したか、エルが再び跪いて頭を垂れる。その顔には微笑すら見える。


「エル・ハウェ。お前は何故ここに来た?」


「は。それが……、落伍してしまいまして」


「落伍とは?」


「自らの目指す前途が塞がれてしまいました」


 ——途端、グノーモンの眼差しにはエルの背に影が這ったように見えた。それは、エルの重き気が見せた幻覚だった。


「そうか。つまりは、ここで静かに暮らして死にたい、と」


「はい。……問題は今現在ありますが」


「問題とは、ラス・アルミアのことか」


「ええ。私は、寺院の中では必ず一人になる、という伝説を聞きつけてやって来ました。ですから他の人の存在は想定していませんでしたし、それに彼女の私自身に向ける殺意が強すぎます……」


「伝説のことだが、ここを支配する強大な魔法がそうさせている。だが、どんなことにも綻びがあるものだ。偶々、お前はラス・アルミアのいる寺院に入り込んだ」


 つまり、龍でさえ想定しない出会いということだ。


「ラス・アルミアのことは我の与ることではない。エル・ハウェが自らで解決するのだ」


「元からそのつもりです。龍の力を借りようなどとは思っていません」


 グノーモンはラスとも何か話したことがあるに違いない。エルは心算をつけて、ラスのことを聞き出そうとする。


「時に、ラスから貴方は何か聞きませんでしたか? ここにやって来た理由など……。今後の対処のヒントにしたいのですが」


 グノーモンが瞳を落として、首を鞭のように横に振る。


「我から言うことは無い。お前が自らで答を導かねばならない」


 瞼を閉じて、俯く。ラスのことが聞き出せないとあっては、これ以上話すことはない。……実を言えば、エルにはもうひとつ訊きたいことがあった。でも、”ただしいおしえ”がこの世界にあるかどうか訊こうとする思いが喉元まで出かかって、しかしこの龍に変に思われたくないとためらって何も言わずに俯いたのだ。


「では、何もござらないようでしたら私は下に戻ろうと思いますが」


 グノーモンが思案するように瞼を閉じる。少しの静寂の後、息をついたグノーモンが瞳でエルを捉える。


「お前は霧の中に走っても、出れることは無い。ここにまた戻ってくる。もし人生に再び希望を見ることがあったなら寺院の地下に赴け。そこに試練がある。もし希望を見出せないなら、命果てる時は霧に切り取られた円の空を仰ぐことになる」


 地下? 彼が首を傾げる。エルは地下への入り口を見つけていない。


「希望宿る時に心の中で念ずれば道は開かれる。案ずることは無い」


「ありがとうございます。では、失礼します」


 龍の威厳に圧されて少々浮きついたコントロールの効かない足をなんとか操りながら、後退してその空間をエルが立ち去る。








 グノーモンと会った次の日。エルが井戸から水を汲み上げて顔を洗う。目下の頭痛の種は、ラスの存在だ。何故か、エルの心が殺すことを躊躇ってしまう。ならどうすればいいか。エルは、彼女を永遠に閉じ込めておくべきと考えている。何のため? ここには法秩序なんてないし社会もない。他に尊重するべき他者が存在しない寺院で、ラスの命を留めておく理由は皆無だ。だが、エルにはもうラスを閉じ込めるしか考えが思いつかなかった。


 エルのこの気持ちは憐れみであろうか。彼女にかける情けであろうか。彼女の歩いてきた人生は最早容易に想像できたし、だからといってラスには何の思い入れも無いはずである。自分の気持ちに解をつけられないまま、エルは調理室から食物を塔に運ぶ。


「ほら」


 無造作に、果物と野菜を地面に放る。ラスはそれらを見るなり、犬が地面に這いつくのと同じような様で食物にがっつく。果物の汁が地面に染み、彼女の口は土の茶色と果物の黄で汚れた。


「へえ、餓死するより生きてた方がいいのか」


 エルの一言で自分の言動の矛盾にラスが気づく。縛られて何も口にしていない苦しみからの行動とはいえ、自らの死かエルの死を優先していたはずの彼女にとって彼の施しによる延命は目的とは真逆の行為だ。


 当然、屈辱感を募らせてラスが顔を下に下げる。醜い生物だな、というのがエルの第一感だ。


 例外を除いて人間とは概して醜い生物であるというのがエルの信じていることである。大抵の人物は自らの欲を原始的で手っ取り早い方法で満たすことしか考えない。畜生の生物とは何の変りもない、汚らわしい生物なのだ。彼は自身を、畜生とは違う例外だと信じ込んでいる。


 ふと、エルはこうも思った。ラスがこの拘束を逃れてしまった時、自分はどうなるんだろうか。エルは頷きながら苦笑して、まあ殺されてもいいかなと思った。だって、死ぬのが元々の目的なんだから。








       ◇◇◇








「なぜ生きようとする」


 エルがラスを飼い殺しにしてから五日目。


 ラスは相変わらずエルが定期的に地面にぶちまける食物を貪欲に貪っている。そうして、土で汚れ切った姿でエルを睨み返す。


「……お前に縛られたまま死ぬのは違う。やっぱりお前は殺す」


 犬のような唸り声を混ぜてラスが答える。


「そっか」


 つまらなさそうな顔で、男は自分の衣服に付着した埃を払い落とす。


「まあいいけどよ、まずはその醜い状態を何とかしなきゃな」


 笑って蔑む。


「精々頑張れよ」


 背を見せながら、エルが去る。見てろよ、とラスが心の中で呟く。






       ◇◇◇






 霧の円に切り取られた暗黒の空に星が瞬く。ラスは身体をもぞもぞと動かして懸命に縄をほどこうとする。刹那できたほんの僅かな緩みを逃さずに手首の縄を一気に解く。自由になった両手で他に巻き付けられた縄を解き、自由を手に入れる。


「よし……」


 自分の身体をそこかしこ動かして自由を確かめる。縄をきつく縛られた跡を手で擦って、少しでもと苦痛を紛らわす。不意に喉の渇きを覚えた彼女は井戸に疾走して水で喉を潤わせる。


「……たしか、あの男はあそこで寝ているはず」


 エルに気づかれる前のストーキングで、彼のいつもの行動パターンは割れている。それにエルが来る前にラスは霧の中を徹底的に調べ尽くしたから灯りを点さなくても充分行動ができる。


 調理室で包丁を手に入れ、静かにエルの寝床に立つ。


 彼の顔は酷いものだ。髭がぼうぼうに生えて、フケが大量に下りている。隈は大きく、歳不相応に皺が多い。


 この男を殺せば、襲われる恐れは無くなる。やっと、私だけの安寧を手に入れられる。


 包丁を構えて、手を高く振りかぶる。刹那、包丁を握る右腕に電流が走ったような感覚に襲われる。


 動かない。


 いつまで経っても、右腕が振り下ろされない。それどころか、ラスは右腕が石になったかと疑うほどに動かない。かと思えば、右手首から先が震え始める。左手を添えようとするが、その左手すらも小刻みの震えが激しい。


「なんで、こんなにも動けないの……」


 もし失敗したらどうしよう……。刃が逸れてしまったら殴られて、押し倒される。やだやだやだ、殺すしかない。のにどうして失敗したことを思い出すの……!


 彼女の過去からやってきた声が、呪縛のように彼女の身と心を縛る。右手から筋力が失われていって、手からずり落ちた包丁の刃が床に埋まる。


「はっ、はっ、はっ」


 不意に自由になった右手でなんとなく首を拭う。汗が、水をすくったように手の平の中に溜まる。


 つい、足を滑らせて尻餅をつく。ドズン、と大きな音がして部屋全体が揺れる。


「-お前っ!」


 エルががばっと起き上がって、ラスを怒鳴りつける。彼の姿に、過去にラスを殴りつけた男の影が被る。


「うわっ、あああああああ」


 精神が弱弱しくなったラスに抵抗を取る択は無く、エルに背を向けて一心不乱に逃走するのみだった。


 寺院の扉つき部屋に駆け込んで、内部から閂をかける。そこで、ラスがへたれこむ。


「うっ、うううぅぅぅ……」


 ラスが自分の身に爪を立てて抱きしめる。そのラスを、光の無い空間が囲い込む。


 -どうして。どうして憎き男性であるエルを刺し殺せなかったの。嫌だ、嫌だ。まだ過去に囚われてる。もう嫌、嫌、嫌……!


 闇の中から、過去の陰影が飛び出てくる。男たちに拘束されて地下に連れてかれて、醜く肥え太った男の硬い拳に殴られた血の味。木の床を背にしてただただ無力に馬乗りされるあの屈辱。もう嫌、嫌。


「いやあああああああぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーっ!」


 過去と今の入り混じった慟哭が放たれる。








       ◇◇◇








「はぁ、なんだよ。結局まだ死ねねえのかよ」


 床に刺さっている包丁が、月に照らされている。自身の首に手を当てながら、エルが舌打ちする。


「傷ひとつ無え。あいつ、俺を殺せないのか? だとしたら支離滅裂だな……」


 快眠を妨げられたエルは、胸内に暴れまわる鬱憤を懸命に押さえつけている。ともすれば、辺りの物に当たり散らかして部屋を破壊してしまいかねない。


「部屋の鍵、つけとくか……」


 そういえば、と彼が本に目を向ける。いままではなんやかんやで結局今日にいたるこの日まで本の存在を忘れていた。


 ついでに本を取り、心を鎮めるために月の光で読書を始める。


(ああ、やっぱり本を読むのは良いな。知らなかったことが知れる。本を読むごとに一つの真理が解明されるか、一つの虚構が崩れ落ちるか、それとも真理に挑む鍵を知るか、そのどれかが達成される。そうして次の未知に繋がる扉を開けていく感覚が気持ちいい。……気持ちいい?)


「まて。……今、俺は何を思った?」


 胸の中で、心から漏れ出た声を反芻する。……気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。


 自分の感情に当初、エルは信じられなかった。今まで感じたことの無い感情……のように感じて彼はすぐ撤回した。記憶の奥底に眠っていた原初の体験を今、彼は掘り起こしたのだ。


「そうか。あの頃はふたつ……。知らないことを知るという気持ちよさと世の中の不条理に対抗する気持ちのふたつがあったな」


 片や学者になろうか、片や官吏になろうか。小さいころはその二つに心が揺らめいていた。だが貧民の身にあっては学者になれない。なら官吏を目指すしかない、そう誓った日を思い出す。


 彼が頬に手をつける。指の潤いで、自分が知れず涙を流したことを知る。


(確かあの図書室に沢山の本があったな。……あの図書室で本を読みふけりながら死のう)


 月に向かって誓うように、男が微笑む。








       ◇◇◇








 引きずるような重い足取りで、ラスが回廊を進む。食料が減らない、あの調理室へ。空腹には逆らえず、自分の生への欲求には逆らえず。それでも、男への恐怖からか鼓動の音が孤独な回廊の空間に響く。昨晩とは打って変って一気に歳を取ったような顔つきになっている。




 ガタ……




「!」


 はっ、としたようにラスが顔を上げる。調理室のドアに、エルが手をかけている。向こうは目を大きくしてラスの方を向いている。


「ひ……」


 身に刻まれた男性への恐怖の記憶が鎖となってラスの身体を雁字搦めに拘束する。床にくっついてしまったかのように足が動かない。汗が腕から指へと伝い、埃だらけの床に点を作る。


 汗の行方を見届けたエルは、足を後ろに引いて、ラスとは反対側へ向く。


「あ……?」


 エルは顎をしゃくって調理室を示すと、そのまま足を進める。男とは暴虐と性欲の象徴。絶対に信用信頼できないはずの存在が、今こうしてラスに食料を譲っている。


「あ、えあ……」


 エルが食料をラスに譲った理由を知りたいと、彼女は思った。だが、身体のこわばりが声をまともに出すことを許さない。


「ど、どうして……?」


 それでも、懸命に喉と口を意識して声を絞りだす。


「……。俺は苦しんで死にたくない。だからお前との諍いは最小限にしたい。まったく、なんで昨晩は俺を楽に死なせられなんだか……」


 最後に悪態をついて、彼は足を速くする。終ぞ、環状の回廊のカーブの向こうに姿を消した。彼の発言から察するに、エルはラスとまた争うのを避けたいから自らラスの益を優先したのだろう。それでも、ラスにとっては今回の彼の態度は新鮮だった。……いや、今回だけではない。エルの命が危ないというのに、彼は自身の命を脅かすラスを殺そうとしたことさえあったのに。


「なん、で。エルは……」


 幾多ものの仮説がラスの頭を巡る。一つ。ラスを生かして慰み者にすること。一つ。下僕として働かせること。他の仮説も全て、最悪な想定だった。


 だが、それにしては立ち振る舞いが潔すぎる。まるで、彼女をどうこうしようなどと考えていないかのようだ。


(なんで、そういう態度を取れるの? なんで私の利になるような行動が取れるの? 男なのに、男なのに……)


 そこまで考えて、ラスはエルに心の主導権を握られてしまっていると感じた。勿論エルにそのような意図はないが、だからこそラスは自分自身の心をより一層恨んで、でも腹の虫に抗いきれずに調理室に入っていく。






       ◇◇◇








「む。……ラス・アルミアか」


 竜が鞭のような首をよじらせて入り口の戸を向く。黄金に埃が被って輝きを失ったかのような髪をなびかせながらラスが入ってくる。その足取りはか弱く、産まれたばかりのアヒルが母親を見失って彷徨うようだ。


「……あいつは、ここに来てないのよね?」


 異界を彷徨うような瞳がグノーモンに返される。少しばかり瞼を閉じた後、否定するように首を振る。


「来た」


 その竜の反応が、ラスをたじろかせる。


「まさか……ねぇ、私にやったのと同じ試練はやったの?」


「うむ」


 そんな、と短い悲鳴が漏れ出る。髑髏ばった醜悪な見た目、地獄から這い出てきたような目つきの男が、まさか無欲の人間だなんて、とも彼女は思った。


 思い込みすぎる節があるな、とグノーモンは心の中で印づける。彼女の過去が螺旋の鎖となって彼女の根源まで縛ってしまっている。鎖が解かれぬ限り、彼女は死ぬまで、いや死んでも永遠に地獄の針のむしろに座し続けるように苦しむだろう。上にあげた瞳を下に下ろせばそこに針の無い空いた地面があるというのに、首に巻き付いた鎖がそれを許さない。


(せめて自分で解ける時が来れば彼女は楽になるのにな)


 今にも涙の滴が出てきそうな哀しい眼差しがラスに向けられる。それを知ってか知らずか、ラスは地面に頭をくっつけて抱える。


「いやだ……胸がムカムカする。吐き出してしまいたい。胸をこじ開けて中の物を取り出してしまいたい」


 竜は何も応えない。安易な救済は却って破滅をもたらす。愚者は拙速にそれを求めるが、賢者は導きの標だけを道の上に置いて去る。竜も、彼女が初めて此処に来た時にこう言っていた。


「まずは自分自身を顧みてみるがいい」


 だが、彼女にはその意味を未だ理解できていないようだ。


(このままでは今まで寺院に入ってきた数多の骸の数にまた一つ足されるだろうな)


「お願い……ねぇ、常人には扱えない力が使えるんでしょ? あの男に会ってから私またおかしくなっちゃった。どうにかして……」


 目を見開きながら涙を流すその様はまるで破滅の間際にいるような感じを連想させる。嗚咽が混ざった声は心優しき者に涙を流させるには容易く、そうでない者の心にも充分悲しくさせることができるのであった。竜は首を横に振る。代わりに、口を開いて標を指し示す。


「男との関係において自分自身を顧みよ」


「……」


 全てを解決する力か答を期待していたラスは、がっくりと肩を落としてうなだれる。自分の力ではもう限界だ、と自分で感じているからである。丁度霧の真上を入道雲が通りかかり、其処の地面に雨の滴がポツリポツリと降り始めた頃だった。


「もう無理だよ」


 体育座りになって、頭を抱え込んだラスが弱弱しく呟く。


「無理。もう死にたい」


「では、死ぬか」


 雨の降りる音が徐々に激しさを増す。陽の光が失われて行き、湿気が場を占め始める。


 竜は動かない。女も、動かない。


「結局、神が全てを救う存在なんてのは嘘だ。でなきゃ、とっくに地上は楽園のはずだよね……」


 最早、彼女に何の決心をつける勇気も無い。そうして、神や竜のことを愚痴りながらも、心のどこかで超常の存在らに自身の代わりに何かを決めてくれないかなという、僅かで淡く縋るような気持ちを持っている。


 龍は口を開こうとしたが、しばらく瞳を宙に漂わせた後に唾を飲み込んで口を閉じる。やがて、再び開いて心配するように言った。


「風邪を引く。戻ったらどうだ」


 その言葉にも応えず、ラスは雨の滴を全身いっぱいに受けて石のように動かない。








       ◇◇◇






「知らない言語の本を読んでみたが、分からんな……。グノーモンに訊いてみるか」


 言うや否やエルは本を抱えて図書室を出る。グノーモンの居る所に通じる階段に近づいた時、エルは自分の眼を疑った。


 名彫刻家の作った像のように美しく、そして幽々しいオーラを纏う中性の見た目の人が立っていた。


 かの人に気圧されたか、エルは一瞬呼吸を忘れ、慌てて我を取り戻す。そうして、かの人がラスを抱えているのに気付いた。それに、かの人から放たれる膨大なマナが場を支配している。


「まさか、あなたは……」


 エルは、一人くらいしか心当たりが無かった。いや、一頭と言うべきだろうか。


「ご明察だな。私はグノーモン。寺院は私には狭いからね、中に入る時はヒトの形をとっている」


 グノーモンの銀の髪の先端から光が落ちて、エルは二人がずぶ濡れになっているのに気付いた。しかもラスは気を失っているようだ。


「その人をどうするつもりなのか?」


 エルやラスに関わろうとしないはずの竜が彼女をこうして抱えていることに、エルは一種の不安を心に抱いた。だが、まもなく不安は打ち破られることになる。


「目の前で死なれるのでは私の気が済まない。……この者は、気を失うまでずっと私の前に座していた」


「確かに、具合が悪そうだな。……手は出していないんだな?」


「安心してくれ。命を奪うようなことは、もう私は君たちにはしないと決めてある」


「そうか……」


「この者はここに置いておく。この者は結局、自分の心の弱きに向き合うことができなかった。……それまでだ」


 彼女の頭を手で支えて、グノーモンがラスをゆっくりと石の冷たい床に下ろす。下ろされたラスの服から雨の水が流れ出て、彼女の身体を中心に水溜まりができる。


「それで、エルよ。何用かな?」


「あ……。その、雨だったんだな」


 実は、図書室で本の世界に入っていたエルの耳には大雨の音すら届いていなかったのだ。


「グノーモン様は、その、風邪引かないか?」


「竜は雨程度で風邪を引かぬ」


「……でも、やっぱり用はまた晴れた時にするよ」


 結局、エルは人間の物差しでグノーモンの身を心配する。エルは優しいのだな、と感じてグノーモンは微笑する。


(根は善人だ。今までの尖った性格は、彼の環境や思い込みによって作られたものだ。この男は、もしかしたらあの者のようにここを出れるかもしれん。……だが)


「私はあそこに戻るよ。エルも、具合に気をつけよ」


「あ、ありがとうございます」


(今までも、エルのような者は数人かいた。だがその中で自分の心に向き合えたのは唯一人だけか。……期待はし過ぎない、ようにせんとな)


 振り返って戻っていくグノーモンの顔を影が差したようにエルは見えた。


(グノーモン……?)


 彼の視線はすぐに足元に向けられた。ラスだ。彼女が目を覚ます気配はない。


(だが、呼吸はある)


 エルが屈んで、彼女の息や脈を確かめる。その後に、ある考えが浮かぶ。


(グノーモンはここに置いておくって言ってたが、俺がまたここに来るときに死体があったら嫌だな)


 せめてどこかに運べれば良い、と思い、エルはとにかくラスを抱えようとする。だが、鍛えていない貧弱な筋肉は彼女を支えきれない。


「くそ、鍛えておけば……いや、そんな時間は無かったな」


 ロイスの体躯を思い出し、同時に妬む。……エルはその後に、あれは奴隷の身体だ、と付け足すのを忘れなかった。


 丁度、階段の横に部屋がある。仕方なく、エルはラスをそこへ引きずって運んだ。


「こいつには似つかわしくない部屋だが……まあいいか」


 この部屋は高位の者の為の部屋らしく、気が落ち着けるような広がりを持っている。部屋の窓の下には中庭があるため、もしラスがこのまま死んだら死体を突き落として下で土葬なり火葬なり出来るな、とエルは踏んだのであった。








       ◇◇◇








 寒い。寒い……。冷たい。冷たい。


 それが、気が付いたラスの第一感だ。未だ雨の降りしきる夜の中、纏まりのない頭をなんとか働かせて、身を起こす。妙に身体が重いと思い、身に纏わりつく邪魔な濡れた服を全部脱ぎ捨てる。身を震わせながら、部屋を出る。はっきりしない頭で寺院の中を、まるで幽鬼のように彷徨う。冷たい闇の中に、光が現れた。輪郭がぼんやりと見えているが、火のようだ。餓えた動物が獲物を見つけたような目をして、火に近づく。


(火、火。火火火……)


 火がラスの視界いっぱいになったところで、突如肩が何かに捕まれる。続いて、耳元に轟音が入ってくる。ラスは驚いて、思わず耳を塞ぐ。そうして、足をばたつかせて何かに抵抗しようとする。-が、力が入らず、膝から崩れ落ちる。


「……ろ! あ……! ひが……く、おま…は……」


 轟音が徐々に人の声色に変わる。ラスの瞳も、まだはっきりと物を見ることは出来ないが、其処に人がいるのだと捉えることができるようになった。


(……人……?)


 そこで初めて、其処にエルが居るのだと気付く。しかし、その驚きは脳を覚醒させるには足りなかった。元より、完全に風邪を引いてしまっているのだ。力を振り絞って逃げようと考えても身体に力が入らず、思考も逃げてしまう。纏まらない頭で、なんとか火の近くに座る。


「……こえていないのか? ったく、まあいい。くれぐれも、……でくれよ」


 その声と共に、暖かい、毛布のような感触のものが身体を包んだとラスは感じる。彼女の視界がその形を徐々に鮮明にしてくる。エルが、暖炉の火をくべて手元の本に読みふけっている。時々、火が揺らめいて彼の懸命な眼差しを輝かせる。


「お腹すいた……」


「後にしろ。どっちみち今は暗くて料理しづらい」


 そう言う彼も眠いのか、徐々に瞼が下りてくる。時折、本に顔を埋めては気が付いて上半身を跳ねさせる。


「……限界か。寝る……」


 エルは、椅子を引いて毛布を何重にも重ねてその中に包まり、地面に横たえる。温かい光を受けて、優しい寝顔が浮かび上がる。


 ラスは、自分の瞼が重くなっているのに気付かないまま眠りについた。








       ◇◇◇








 再び気が付いたラスを襲ったのは、強烈な飢餓。腹の中に巨大な空洞があると感じている。喉は水分を失って乾ききり、息をするごとに激痛が走る。口内は却って涎が大量に分泌され、瞳は食い物を求めてせわしなく明るい部屋の中を見回す。生の極限状態、余計な理性が排除されてただラスを本能のみが支配する。腕と脚に力が入らないのか、起き上がろうとしても横に倒れてしまい、失敗する。


「どこ、か……たべ、ものっ……!」


 這いずって、なんとか部屋を出ることに成功する。


「醜いな」


 声が、彼女の頭上からした。紛れもなく、エルだ。


「……危害を与えないと約束するか?」








       ◇◇◇








 何故、ラスを生かすのか。そのことについてエルは悩んで悩んで考えて考えて、答えは出なかった。出なかったけれど、取り合えず自分はラスを生かしたいのだという意識があることを受け入れた。


(なんでだろうな……)


 だが、ただで彼女を生かすわけにもいかない。生かすなら、約束が必要だ。そこまで考えて、初めてエルが口を開く。


「……危害を与えないと約束するか?」


 足下の餓えた女は、こくり、と首を下に振った。


「よし、待っていろ」


 調理室に向かいながら、エルは思案する。


(……俺の心の中に、自分の認めがたいものがある。それに触れようとすると胃酸が喉までこみ上げてきやがる……!)


 しかも、それは彼女と接するたびにエルの心に近づいていく感触がするのだった。今、エルは懸命に胃液を抑えて呼吸を整えながら調理室に向かう。


(野菜スープ……って、どう作るんだっけ)


 記憶の断片から、母と過ごした日々をなんとか拾い集めてレシピのピースを一つづつ嵌めていく。


(えーと、こう……か?)


 一つでも嵌め間違えたらやり直し。まるで壊れやすい硝子に触れるような手つきで調理を進めていく。


(なにやってんだろな)


 寺院に来てから、彼がそう首を傾げるのは何度目だろう。もう十回を超えているかもしれない。自分の行動に疑問を持ちつつも、何か形容しがたいものに突き動かされて動きを止められない。


「やった……か?」


 エルの目の前には、良い香り立ち上るスープが出来上がっている。石のトレーを引き出してスープを載せ、ついでにナイフと果物を載せる。一連の作業が終わってから、ラスの元へと急ぐ。ラスは、最早瞳を半分にしている。


「おいっ、ゆっくり流し込むぞ。少しずつ、飲め」


 頭を抱え起こして、椀の縁を彼女の唇に宛がう。乾いた彼女の唇に、徐々に艶が戻る。


「っぶ、げほ、ごほっ」


 飲み込む方法をも忘れてしまったか、ラスがせき込んでスープを吐く。


「っくそ、おい、本当に僅かずつだからな。飲み込まなくていい!」


 それから長い時間、エルはラスの命をなんとか繋ごうと奮闘した。


 ようやくラスの肌色が良くなって健康そうないびきをかきはじめた頃、窓によりかかったエルは紅蓮の空に目を奪われてしまう。太陽は霧に阻まれているせいか、霧に囲まれた寺院は暗い。天の光と地の闇の境界線が、エルの視線の先の霧の壁にできている。


(あっ)


 まるで社会の縮図みたいだな、とエルは思った。地上には希望なき象徴の闇が貧民や隷属の民、天には希望ある象徴の光が王侯や貴族を表している。そうだ、俺はこんな世界を変えたくて———


(……どうして変えたかったんだろう)


 今まで生を駆け抜けていく中でいつしか忘れ去ってしまった理由。遠い遠い過去の記憶を探ろうとして、心の奥辺に手を伸ばす。


 刹那、全身が泡立つ。鼓動が加速する。


(其処に触れたくないのか、俺は……)


 俺の本能が拒否している。思い出すことを。鎖が俺の脚を捕らえて「これ以上、踏み込まないでくれ」と言っているようだった。


 踏み込んだらどうなるのか。


 そこに、自分自身が壊れてしまうような何かがあると感じ取って、エルは手を引く。


(危ない……)


 命が脅かされるわけでもない。だが、心は確実に死んでしまうだろう。——エルはそれきり、光と闇の境界線から目を逸らした。








       ◇◇◇








 ラスの瞼が、ゆっくりと押しあがる。天国のように光が眼に溢れる。光の中に人影がうっすらぼんやりと浮かび上がる。


「え……る……?」


 半ば反射的に飛び出たその名前に、人影がこちらを振り向く。


「契約は忘れていないだろうな」


 まとまりのつかない思考は契約という言葉を聞き逃して、脳の覚醒に一生懸命だ。ラスの視界が徐々に輪郭を帯びていく。光条に線が浮かび上がり、彼の姿形が明確になっていく。地面に横たわって床と平行になった視線の先にカップが下ろされる。


「飲めよ。死にたくないんだろ」


 その言葉通りにラスが上半身を起こしてカップに口をつける。


(……あれ、契約? あ、そうか)


 そこで、飢餓状態にあって意識が混濁していたときの記憶が鉄砲水の如く押し寄せてきた。大量の情報処理に頭脳が追い付かずに、ラスは頭を抱えた。


「える」


 頭の痛みに耐えつつも、儚い女性は彼の貌を見る。———それから、自分の胸に手を当てる。


(あれ、なんだかちがう……)


 違和感に、彼女が首を傾げる。彼女自身に。いつもなら男性を見ては喚起される嫌悪と憎悪の意が、今は沸き上がって来ないということ。彼の貌を、抵抗なく、手が水をすり抜けるように、見れる。


「お前のその目は初めてだな」


 彼女の側に座っている彼が、しかめ面で彼女の瞳を覗く。


「お前が覚えてるかどうか曖昧だからここでもう一回言っておく。お前と俺はお互いに危害を与えない。これはお前が意識が混濁してる時に結んだ。もう変更はない」


 保障の無い契約だが、無いよりはマシだろうというエルの心算である。約束事は、法律関係だけでなく人の心をも拘束する。精神が弱ければ弱いほど拘束されやすい。心が程よく弱っているラスなら契約が効くと踏んで結んだ。確かに契約は後々効いてくることになる。だが、エルが意図した理由からではない。


「……そうね。ちょっと風に当たってくる」


 微笑を湛えて、ラスが部屋を出ていく。出ていきざまにエルが果物を投げ渡した。


(今はこの気持ちに整理をつけたい)


 回廊を渡って礼拝堂に出る。舞い立つほこりに鼻をつまみながら扉を開けて、胸いっぱいに新鮮な風を受ける。———彼女の思考がクリアになっていく。


(ああ、そうか)


 天央に太陽が来ている。雨に濡れた雑草の大地が輝く。———世界が光に溢れている。


(男すべてが悪いわけじゃなく、すべての男を恨む必要はなかった)


 エルの行動が示していた。ラスを性消費物としてではなく、一人の人間として扱っていた。ラスには、そういう男は初めてだった。


(良かった、世界は全てが全て汚れきっているわけじゃない)


 世界の頂点から太陽が光を注ぎ込む。ラスが、光を満面に受け止めて、輝いていた。




 ドクン。




 刹那、彼女の頭の中に流れ込む記憶。それは、ラスがエルに危害を加え殺そうとしていた記憶。彼女の心臓が急に縮まり、彼女の膝が大地の泥につく。


「はっ、はっ、はっ」


 彼女自らの愚かな思い込みで罪なき彼の命が損なわれるかもしれなかった。


「……しまった」


 彼女の凄惨な過去の積み重ねがラスを盲めくらにして、知らず知らずのうちに大罪を背負う羽目になるかもしれなかった。意識の目から剥がれたヴェールは、皮肉にも彼女の愚かしさを露わにした。彼女の愚かしさは徐々に彼女の心臓を押しつぶし、精神に苦痛と拘束をもたらした。




 眩き光の下に居ることが耐えられなくなって、ラスは寺院の影に逃げる。






       ◇◇◇








(俺はこれから、どうなるんだろうか)


 気が付けば、寺院に来た当初は持っていた自殺願望は海に溶け込む墨が如く薄められていた。かといって、寺院の外に出ようなんて考えただけでも胸を掻きむしりたくなるくらいに苦しくなる。


(一生をここで過ごすしかないな)


 最初に考えていた他の自殺方法を全て棄てて、本を読みつくすまでは死ぬまいと決意を改める。


(しかし、不思議なものだな。俺という死にたがりが死にたくなくなるなんてな)


 天央の太陽の光が、まるで部屋中を満たそうととばかりに部屋に差し込んでくる。目下の悩みはといえば、相変わらずラスのことになる。エルは、その問題について一縷の望みを見出している。


「さて、契約が本当に効いたかどうかだな」


 改心までしてもらおうとは考えない。だが、考えようによっては日常の諍いごとがひとつ消えてむしろ楽しみごとがひとつ増えるかもしれないのだ。


「どうなるか、楽しみだな」


 頬杖をつきながら独り言をつぶやくエルは、これからの生活に思いを馳せて、口角を上げている。








       ◇◇◇




 回廊の壁に遠い間隔で現れる小さな窓から黄昏時の霧の壁を眺めつつ、エルは調理室へと歩く。彼の鼻を野菜スープと思われる匂いが支配しているのが、エルにとってはやや不思議である。


(もっとも、誰がやっているかは分かるけどな)


 自分の分が果たしてあるか、と淡い期待を抱くエルであった。その期待はすぐに当たることとなる。


「お、ラスが作ったのか」


 水蒸気が支配する空間に足を踏み入れたエルが、テーブルの上に置かれた料理を見下ろす。調理室の奥に、金に埃を被せたような髪の女の後ろ姿が見える。


「エル。……貴方の分もあるぞ」


 少し意外そうに目を丸めながら、エルが調理の跡に目をやる。台の一ヶ所に纏められた玉ねぎの皮、まな板に浮いている肉の脂。


「ふ、どういう風の吹き回しだ……?」


 悪戯っぽく笑みをラスに向ける。ラスのことを少々警戒しているせいか、エルは椅子の背に手をついたまま座らない。


「今までの自分、少し考えたら確かにおかしかったなって……」


 尚も背を見せたまま、ラスが言う。なんか声調が変だ。エルは試しにスープの膜に指を伸ばしてなめる。


(なんだか塩辛いな? この寺院に毒になるものは無かったが……)


 まあ、生まれ育ちの違いだろう。エルは味の違いの理由をそう結論づけて、視線をラスに戻す。


「どうした、食べないのか? 作ったのに?」


 ラスが首を回して顔だけをエルに向ける。その瞳を見た時、エルは先ほどの結論が間違っていたことに気づいて眼を大きくした。


 ラスが泣いていた。静かに目から滴を流していた。姿勢は冷静を保ち、口は一文字に結ばれている。そうして、頬に涙の流れたあとが残っている。


「……食べよ。エル」


 最後の一品をトレーに載せて、ラスが運ぶ。ラスが着席したところで、エルも着席する。座りざまにエルは、ラスの手元を確認して武器の無いことを確かめた。


「それで、今までの自分がおかしかった、というのは?」


「うん……。どうして今までの私はあなたをむやみに襲っていたんだろ」


 伏目がちのラスに対し、直視するエル。


「一体、何があったんだ? ラス・アルミア」


 次に紡ぎ出されたラスの声は弱弱しいものだ。


「昔語りになるけど、いいかな……」


「ああ。スープが冷めても構わない、話して」


 こうして、ぽつりぽつりと語り始めるのだった。








       ◇◇◇






 私は、王国の交易都市の外れで生きてきた。3人の仲間と一緒に生き延びてきた。……言うまでも無いけど3人も女よ。親の顔は知らない。確か15年前くらいに物心がついたら其処に居たって感じ。








 ……外れ、というのは娼婦街だった。交易都市に集まるのは様々な人々。商売で儲けようとする富める者、そのおこぼれに与ろうとする貧しい者。一番高い位の娼婦は富める人と対等にやり取りができる。だけど、位の低い娼婦は男にただ嬲られるだけ。そして全ての娼婦に言えるのは、男の意向ありきの商売だってこと。だから、私は男が羨ましかったし憎かった。








 自分の身体を売ったことがある。まだ腹に居る子を堕ろしたこともある。……私を買った男はみんな、酷かった。低位の娼婦だったから、いっぱい殴られたし好き勝手にされた。正直言って、男に良い思いをさして貰えたのはエルが初めてだよ。時には飯屋の棄てた残飯を漁ったり、時には盗みを働いて日銭を得たこともある。それでも、3人の仲間が心の支えになっていたから生きてこれた。








 けれども、3人の仲間たちと決定的な別れの時がきた。思い出したくない。……けど、話さなきゃね。


 ……ある日、わたしは3人とは別に行動していた。そしたら、いつも集まるはずの場所に3人は現れなかった。娼館に行って尋ねてみると、とある富豪の目の前を通ったので奴隷にされたという。








 気が付いたら、その富豪の屋敷の門を叩いていた。私も捕まって、富豪の前に突き出されて……。


 色々酷くやられてさ、終いには檻の中に入れられたよ。……。








 嫌だ……あの光景は今でも思い出したくない……。








 ああ、ごめん。でも、これだけは言わないとね。








 3人、その檻の中で息絶えてた。








 1人は舌を噛み切って自殺、あとの2人は激しく暴行された跡があった。








 激しく慟哭した。絶対、あの富豪の男がやったんだ。いや、あの富豪だけじゃない。あの男に付いていた下っ端の男どももきっと色々やっていた。いや、それ以前に男という生物が身勝手すぎる。








 この世界を、この世界に産まれついた運命を、この身が割れんばかりに呪って、叫んだ。救いなんてなかった。








 ……私は、仲間の1人が息絶える直前まで作っていた逃げ道から逃げた。その後の記憶は、霧の壁が目の前にそそり立っているのに気が付いたところまでトんでいる。








       ◇◇◇






 語り終えたラスの瞳いっぱいに涙が溢れて、今にも決壊しそうになっている。


「察しはついていたが……。それならあの頃のお前の態度も納得いく」


 想像以上の凄惨さに、エルは身を震わせる。いつしか、闇の帳がおりた外から冷たい空気が流れてくる。そうして、エルが湯気の消えた野菜スープに口をつける。


「冷めちまったな。少々手間だが俺が温めなおす」


 エルがシンクに立ってラスの分までスープを一つの 器に入れて、魔法で火を熾して温める。


「なんか、俺が邪魔しちまったな」


 語り終えて沈黙するラスに、尚も語りかけるエル。


「お前だって伝説を聞いて来ただろうな……。俺という男がやって来ちまって嫌だっただろな」


 エルが饒舌なのは、とにかく声を出して自分の気分を落ち着かせようということである。だんだんと、彼女について脳の中で整理する。


(そうか。こいつは俺に似ている)


 その日を懸命に生き抜き、上を目指していたのと富める者との対比の立場にあるという点でも共通している。———早い話が、同じ落伍者であるということだ。


 そこまで整理をつけて、彼がラスを振り返る。


「ほら、温め直したぞ」


 ラスの目の前に置かれたスープから湯気が立ちのぼっている。エルがゆっくりと、器に口をつける。


「お……スープ美味しいな」


 何気ない一言に背を押されるかのようにラスの手がスープにのびる。器を両手で柔らかくつつみ、持ち上げて縁に口をつける。温かい汁が流れ込んで、彼女の、鉄のように冷め切った身体の細胞をすり抜けて温かみがゆっくりと全体に広がってゆく。


「うん、おいしい」


 瞳のダムが温かみにとかされて、涙が決壊する。


「ううっ、う……」


 懸命にこらえながらも涙を流すラスを、エルは静かに見守る。








       ◇◇◇








 2人の和解から二日後。エルはテラスで、倦んでいる。微かな風が耳元に鳴り、僅かばかりの土が渦に舞う。


 日光を反射する瞳は、何かを見出そうと懸命に動かされている。


(どうしたものか……)


 寺院ではやることが少ない。読書も良いものだが、それだけではその日を満たすには足りない。新たな興味関心が、エルには必要なのだ。


 そうこうして倦んでいる時、彼の頭の上で新たな風が生まれた。———グノーモンが、飛翔したのだ。


 龍の翼の下に孕まれた風は剛く、しかしエルに届くころには柔くなっている。龍の飛翔は渦を巻き、天高く昇っていく。


「———あ」


 エルの中で何かが弾けた。


 そうだ。簡単なことだったのだ。この寺院は未だに謎が多い。ならば謎を解明していくのも一興ではないか。


 彼は、彼自身でも気が付いた頃には走り出していた。








「ラス、ちょっといいか……?」


 妙に息を荒くしたエルが来たので、ラスは少々困惑している。彼女は、自分が今まで身に付けていたボロボロの服を直している最中だった。


「どうしたの、エル?」


 遠慮げに漂う瞳を見て、エルはすぐに佇まいを直す。


「あ、急に駆けてきて悪かった。……ここの生活って、やること無いよな」


 本来、エルは女性との会話が苦手である。相手が少し前までいがみ合っていたラスであることも手伝ってか、少々会話の間合いを取り損ねているようである。


「そだね……」


 いけない、彼女を困惑させてしまったか、とエルがたじろう。———早速本題に入ることにしたようだ。


「この寺院のこと、調べてみないか?」


「え? あっ、そうか……。とても興味あるね」


 微かに震えつつも、光の差している眼差しがエルに向けられる。———その瞳に何か思うところがあったか、エルが目をそらす。


「で、どうやるの?」


「そうだな……。グノーモンに訊いてみるのもいいかもしれないが、折角だから自分たちで色々分析していきたい」


 ラスが、ん? と首を傾げたのは、自分たちで分析していくというところだろう。彼女には、まだその具体的方法が思いつかないのだ。


「まあ、具体的にどうするかは後で考えよう。そうだな、夕飯の時にでも」


 ラスの部屋を後にして、エルは図書室に向かう。


「そういえば、ラスの奴は文字読めたっけ……?」


 心の内に贅沢な悩みを抱えながら。静謐に歩を進める。


 ———ドクン。


「!」


 エルが、急に自分の胸を掴む。


(またかよ……)


 光と闇の境界線を見た、あの日から異常な鼓動が時々起こるようになった。物理的に胸の具合が悪いという感じではなく、精神の奥から鋭利な刃が抉ってくるようだ。


(それに)


 奥底から湧いてくるのは刃だけではない。得体のしれない、自分の精神を蝕み責めてくるようなラメントさえ聞こえてくるようでもあるのだ。


「……耐えねばな」


 脂汗をにじませながら、独り図書室に向かう。






       ◇◇◇






「読めない」


 ラスが、そう呟いた。文字の羅列を目の当たりにして混乱しているようである。


「やっぱり、か……」


 そもそも、文字が読める平民の存在など稀である。エルはその例外であって、平民は文字が分からないのが常だ。———例に漏れず、ラスもそうである。


 このことはエルの頭痛の種になっている。エルは今まで学ぶことしかやってこなかった。教える、ということが今の彼にとって困難なことに思えるのだ。


(まずは、話し言葉と書き言葉を照らし合わせるところからか?)


 寺院に残されていた書字板を取り出して、ラスの目の前に置く。


「これ、箱型の蝋燭?」


「違う。文字を書くためのものだ」


 え、とラスが声を上げる。確かに、富めぬ者にとって蝋燭とは灯を点す為の物でしかない。書字板としての用途さえ知らなくてもおかしくはない。


「蝋はキズを入れやすいだろ? だからこうして」


 小さな石を取り出して、蝋の上に本のそれと同じ文章を刻んでいく。


「あ、ほんとだ。こういう風にも使えるんだね」


 その声を聞いた時、エルは心の底から躍りたつようなメロディーが湧き出た気がした。無意識なものであったのでギョっとしたが、


(ああ、これが教える喜びってやつか)


 と、頬に笑みを浮かべる。


「そうだな、ラスはこの文章に何が書いてあると思う?」


 彼女は顔を上にあげて、うーんと唸る。


「えっと……、天才や神様にしか分からない暗号?」


「あっはっはっはっ」


 すぐにラスがそっぽを向いてしまったので、エルが慌てる。


「ああごめんごめん。別に分からなくてもいいんだよ」


「笑ったくせに」


「うっぐぅ……」


 確かに否定できない。それでもと、咳払い一つしてエルが向き直る。


「昔話の一つくらい聞いたことはあるだろう? これにはフェリグレライの伝説記が書いてあるよ」


 ラスの瞳に光が宿った気がした。


「文字、といっても大層なもんじゃあない。文章に書かれている全てのことは普段俺たちが話す言葉と同じさ」


「え、同じ……?」


 と言っても、具体的に想像することは難しいだろう。試しにと、エルはラスが持つ本の一節をなぞる。


「———其れは深きアルトゥネスの湖より出で、夜の中に妖しい輝きを放ちながら全てを誘惑する歌を歌った。その歌は船乗りの心を侵して、自らの居る湖の奥底へといざない沈めていった」


 エルの声はまるで詩を歌うように、空間に浸透していった。剛と柔を併せ持って空間を流れる彼の声に、ラスは束の間に口を開けたままでいた。


「声、凄くいいね」


 エルの手が止まる。文字に伏せた瞳をゆっくり、彼女の眼差しに向ける。……眩しい瞳だ。


「そ、そうか?」


 エルはすぐに視線を文字に伏せる。何故だろうか、彼はラスを直視すると心臓が跳ねてしまう。此処に鍵盤があれば一心に乱れ弾きたくなるくらいに、恥ずかしくなってしまうようになったのだ。


 こほん、と咳払いしてからエルが彼女に向き直る。


「とにかく、書き言葉と話し言葉の本質は同じだって分かったか?」


「うん。……言葉を形にできるって魔法みたいだね」


「魔法ではないけどな。さぁ、続けようか」




 ———この会話中、エルはどこか柔らかくて暖かい不協和音を胸に抱いていた。おそらくラスもそうだったであろう。殺伐としていた時は過ぎ、二人の間のわだかまりもすっかり消え失せている。不協和音が消えぬうちに味わっていたい。二人は同じことを思っているとも知らずに思うのだった。








       ◇◇◇








 陽が堕ちて黒の支配せしめるかと思える寺院にて、ラスが独り蝋燭の火を元に本を解読しようとしている。エル、彼の教えを基に脳内で文字と音をリピートしながら読み解いていく。


「……なんで頭痛くなるんだろ」


 頭を使うことは往々にして頭痛の元になる。いわんや使われずの頭をや。彼女は今、未知なる痛みと戦いながら解読を進める。文字をリピートするたびにエルの顔を思い出す。


「やさしいなぁ……」


 懇切丁寧。彼の教え方を一言で表すとこうなる感じだった。ラスと生殺の時を過ごしていた彼からは想像がつかなかった。


 ふと、何故彼がこの寺院にやって来たのだろうか、と彼女は考える。


(まぁ、私と似たようなもので外の世界で生きることができなくなったんだろう)


 当然の帰結。初めて寺院にやって来た頃の、妙に刺々しかった態度からも推測できる。ラスの瞳には、あの頃のエルは理不尽の巨靄を纏っているように見えていた。世の中の憂いを一身に背負って、ともすれば彼自身が不幸の化物になってしまいかねないよう。


「辛いもの、かな」


 ラスは思い出すだけで手が震えて刃を探し求めてしまいそうな自分の過去をエルに重ねる。ラスとは違うだろうが、彼にも夜の黒で全て塗りつぶしてしまいたいような過去があるのは明らか。


「……ま、いいか。どうせ触れてはいけないし触れることもないだろうし」


 頭をふるふると震わせて、続きを再開するのであった。








       ◇◇◇








 曇天の下、外郭の霧の壁を背にしてエルは寺院を眺める。悠久の時を経て、尚朽ちず。静かに幽かで、揺るぐことの無い力が其処にある。


(魔法か、設計か)


 力の正体は何だろう。外に在る一切に手出すことなく、目の前にただ力が停滞している。唯、不動の力のみが其処にある。


「此処に、何があったんだ」


 永遠の深き霧に囲まれて、無人の寺院。王立図書館にも正式な記録は無く、ただ伝説のみ。ボロボロになった布に包まれて、確かにあるはずの歴史其れ自体もホコリをかぶって朽ちかけている。


(やりがいがあるな)


 ふ、と頬を緩めて笑みを浮かべる。振り返って、霧の壁。今までに何度か試したことがあるが、結局外側に出ることは出来なかった。


(あるいは、出ようとすれば化物が口を開けて待っているのだと思っていたが)


 だが、といっても出る気は元から無い。この寺院の中に身を落ち着けているだけで本当に充分なのだ。


 指先に雨粒が弾ける。首筋を雨が伝る。最初は忍ぶように、徐々に激しく雨が打ち放たれる。エルは、その中ただ立っている。天を仰いで立っている。


(全て、洗い流される)


 心の中に潜む虻虫すらも、心の壁に張り付いた黴すらもざあっと流されていく。すみずみまで雨の水が行き渡って、零れ出ていく。


(自分の存在が、透けてゆく)


 色の淡き内に融けてゆく。そんな幻覚さえもする。現に戻らなければいけない魂を、まだ、とエルは放しておいたままにする。草葉を踏み分けながら、精神は霧と雨の灰色を泳ぐ。


(まだだ……まだ……まだ……)


 雨粒をかき分けて、魂は天の高きを目指す。100m……200m……300m……。まだ、泳いでいたい。まだ浮遊していたい。雨がエルの存在を透けさせて、彼自身の精神が浮揚しながら天の高きへと目指そうとしている。




「エル。戻らないと」


 その一言が、エルの魂を現の地上へと引き戻した。ラスだ。自分の行いに自覚を感じて、エルが驚く顔をする。それから、ばつ悪そうに顔をしたに向ける。


「悪かった。……呑み込まれていた」


 呑み込まれていた? ラスのおうむ返しの疑問に、エルが再び顔を天に上げる。


「雨って、なんか不思議な引力あるよな。こうしていると、心が、すうーーーっと天に引き上げられて昇りそうになる」


 つられて、ラスも天を仰ぐ。


「降りしきる雨の流線が俺を天に誘うんだ。俺はそれに見入って、そして魂までをも解放してしまうところだった」


 エルは顔を下げ、視線をラスに動かす。


「お前の声掛けが無ければあのまま俺は固まっていた。ありがとうな」


 ラスは少しはにかんで、エルに寺院に戻るよう促す。




       ◇◇◇




 ———寺院、夜。闇の巨棺かとも思える図書室。相も変わらずラスが本の解読に苦労している。


「ん、この本は……」


 題名が気になって、頁を開く。———都市の貧民を描いた童話だ。




 とある王国の貧しい町に、人を想う美しい女性がいた。王子は貧民の女性に惚れるが王族や側近の猛反対に遭う。王子は自らの地位を捨てて、女性と共に遠い土地へと旅に出る。




 —————……ハッピーエンドだ。




「良かったぁ、最後は幸せに終われて。私は……」


 ランタンの灯以外がどっぷり漆黒に浸っている空間を見回す。


(私は、この女性のようにはいかないけれど、せめてこの寺院の中で幸せに)


 生きていこう、という言葉を、脳内で紡ぐことができなかった。




 呪いの口が、彼女の耳で囁いたから。




 ランタンと共に火が落ちて、消える。








 今、囁かれた言葉が聞こえなかった。否、聞こえなかったことにした。———……、だ れ 。


 声色はエルのものではない。しかし、遥かな記憶の向こう側に手を伸ばせば思い出せるかもしれない。


 私の身体は凍てついた。後ろに存在するナニカが恐ろしくてたまらない。




 闇が私の心の表面を舐めるように触れる。精神が質量を持って重くなる。懸命に、テーブルにしがみついて腰を椅子に落ち着かせる。




 月の僅かな明かりしかない空間。背後から闇の手が私を絡めとろうとする。気を抜けば、あっという間に後ろに引かれて飲み込まれそう。視界は揺れて、眼球はせわしない活動する。


「だ、だれ……?」


 絞りだす、糸のようにか弱い声。


 一拍置いて、私の心が空白になった。脳裏で、盆がひっくり返って水が零れる映像を見た。




『わ す れ た の』




 瞬間、生涯の罪悪を全て搔き集めたような、毒々しくて鉛のような感情に身が染まっていく。今、いちばんやってはいけないことをしてしまった。ごめんなさい。




『か っ て に し あ わ せ に な る つ も り』




 闇の手ひとつ。私の右肩に置かれて千切らんと掴む。




『【わ た し た ち を お い て』】




 呪譜が二つに重なりて、耳元から凍土の冷気を流し込む。首から背を伝って、生きて良い実感が体温と共に冷やされ失せていく。




『【〈ひ と り だ け』】〉




 闇の中から三人分の瞳が浮かび上がる。私が見られている。恨意の目を受けている。裁定の目を受けている。胸が痛い。痛い。苦しい。なぜか、罪人の繋がれた手のように両手首がくっついて離れない。




『【〈し あ わ せ に な る ?』】〉




 仲間たちが死んでから以降、彼女らの死に触れようとしなかった。亡骸からただ背を背けてばかり。嘗ての思い出さえも捨て去って。———その事実が。罪悪が。後悔が。重責が。逃げて来た足跡を振り返る度に、自分は赦されない気持ちが堆積する。気持ちが重くなって身動きが取れなくなっていく。




〖許さない。永遠に赦されない〗




 過去の全てが眼差しを持って、私を中心に取り囲む。見ないで。目の前に、黒い私がいる。消えて。地から筵が伸びて私の足を貫く。痛い。手首は鎖に囚われている。放して。痛い。きつい。怖い。見られたくない。




〖許さない。赦さない。赦されない〗




 黒い私が徐々に近づく。怖い。いなくなって。重圧が圧し掛かる。お願いだから。悪かったから。私の貌を見まいと、瞳を下に向ける。




〖背けるな。お前———〗




 顎に手が掛かって、顔を上に上げられる。




〖私は赦されてはいけない、永遠に〗




 大罪の貌があった。




 ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんすこしだけわすれていましたごめんごめんごめんごめんごめんあああああああああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああああああああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん










 ーーー暗き檻に、呑み込まれてゆく。








       ◇◇◇




 迷わぬ者は例外。苦しまぬ者は数少なし。神たる知恵の円環に触れること能わず、人々は知らずの内に自らに楔を打つ。


 苦しむのは何故か。誰かが首を絞めようとしているのか。正体不明の病に侵されているのか。——この二人に限っては、否。エルは未だ巨大な楔に気づかず、ラスは気づかずの内に千の棘に自ら飛び込んだ。此処に神の知恵の円環は無い。救いの歌うたうものも居ない。手差し伸べる者無き寺院にて、再び悲愴の時が訪れる———




       ◇◇◇




 風が青空に通り過ぎて行って、何か大切なものが通り抜けてしまったとエルは感じた。追いかけようとするけれど、それは遥か昔から既に一番深きファロースの谷底ほどに離れてしまっているような気がして足を止めた。宙を漂う手を見つめて、握りしめる。


「なにやってんだか」


 調理室の窓枠に目を落とす。ラスがまだ来ない。スープは冷めた。


 寝てるかもしれない。それならば起こすのは無粋。そう思って、彼は廊下に足を進める。


 気分は上向いてきている。廊下の途中の埃被ったピアノに指を叩き踊りたい気分だ。


 何も気にせずに図書室に踏み入れた瞬間、重力が重くなった。


 闇が、其処に、あった。闇が、絶望が、人に……ラスに纏わりついていた。より正確に言えば、室の一番光があたらない隅っこにうずくまって、ぼさぼさの髪を更に乱して、顔を太腿の間に埋めていた。




「ラ、ス……?」




 近寄りがたく、エルは手を宙に漂わせて名前を発することしかできなかった。


「あ、エル……」


 赤く潤った眼差しがエルに向けられて、ようやくラスは顔を上げた。


 エルは、この先に踏み入れ難い彼女の心の領域が在ると直感する。ここから先は薄氷の領域で、少しでも踏み外せば暴風域と化して今までの全てが壊れる。引き返すか。その択はエルによって消された。踏み入れないままでも、彼女が壊れていく音が聞こえた。何故か、エルはその音を聞き逃しておくことをしなかった。


「ど、うした……?」


 身の冷えるような冷気が頬を掠る、そんな幻覚さえ現実に感じながらもエルは声を出す。ただ、理由なくとも彼女の為に。


「う、うん……。なんでもない」


 か弱く、砕け散りそうな声を発して、ラスは立ち上がる。足をふるふると震わせながら。


 彼に合わせるともない彼女の眼差しを、彼は懸命に見つめる。逸らしたら、激しい自分への失望の内に自分を燃やしたくなるからだろう。


「スープ、温め直すよ」


 エルは絞りだしてこれか、と自分に失望を覚える。ああ、願わくば自分が神のごとき口を持てていれば。


「いい……。作ってくれたんだ、ありがとう」


 ラスが、寄る辺なき足を地面になんとか突っ立てながら進んでゆく。その後ろ姿を見送ってから、ああクソ、とエルは彼女の後姿の幻影を追いかける。






       ◇◇◇






 夕方、黄昏の日を右頬に受けてエルは目蓋をつむる。


 ラスの異常事態。気にならない筈がない。


(此処には龍と俺しかいない。他に誰かが来た痕跡もない)


 では、彼女のあの顔は何だったのか。


(……唯一あり得るのは、後悔か)


 悲しむなら過去のことでしか悲しみようがない。


(なら、干渉すべきではない?)


 干渉しないままで解決するような類いの表情ではなかった。


(だが)


 彼女のこもる殻の割り方を間違えれば、彼女までもひび割れてしまう。そんな悲劇など招きたくない。


(ならば)


 変わらず接しよう。彼女のことを徐々に知っていこう。今はそれしかない。


(それにしても)


 何故、今の俺はこうなっているのか。いつのまにか彼女のことに取り入るようになった。なってしまった。


(自分はいったい)


 エルという名前の自分という人間は、一体何なんであろうか? 少し前と統一せぬ態度。変わりゆく自分の性格。変わっている? いや違う、まるで回帰しているような感覚。


(回帰してゆくごとに)


 何かもまた、迫りくる。ともすれば一瞬で斬り裂かれそうになる、切迫した危機感。……まただ。








 今は……まだ目を逸らしていたい。






         ◇◇◇






 冷たい石床。曇天をラスが見上げている。手すりに沿う彼女の袖の布が風にたなびく。寺院のテラスの空気は静かで、重い。


「寒いな」


 彼女の背後にてエルが身を震わせる。


「エルさん」


「最近……具合悪いのか?」


「ううん」


 彼女が一際小さな白い息遣いを出して、ゆっくりと流れていく。


「私、ひどい人間だね」


 エルは黙したまま。彼女の言をただ、待つ。


「私、思っちゃったんだ。生きたいって。でも……」


「生きるわけにはいかない、ってことか?」


 ラスが言い淀み、唇の震えるのを察してエルが先回りする。こういう時、答は大抵これに収斂する。


「うん。みんな死んじゃった。だからね」


 テラスの下をラスが見下ろす。———エルの胸を、切ない緊迫感が奔る。


 ラスはふるふると首を振るわせ、足を後ろにずらす。


「はあ。だめだ」


 儚げに右目をつむって、彼女がベンチに腰を下げる。


 エルは何か言葉をかけようと口を開き、無音のままに口を閉ざす。


「思ったんだけど」


 ラスが、ぽつり、と漏らす。開いている左の眼がエルに注がれる。








「エルって、やさしいんだね」








 ざらりとして、泥々しい嫌な感触がエルの心を撫でた。


 彼女に嫌悪感を、ではない。やさしい、という言葉にイヤなかんじがしたのだ。妙に懐かしくて、でもなんだか遠ざけていたい。なんとなく自分の手元に留め置かなければならないような気がしているが、それ以上に彼の足が彼女の紡いだ「やさしいんだね」という言葉から離れたがっている。まるで、自分が崩してしまった砂の城から目を背けるように。


 気が付けば、彼の眼前には回廊の壁があった。90度回転、回廊に沿う。急な行動に驚く彼女を置き去りにして、目から零れる涙に掌で蓋をして。




 西の空の雲が引いていく。エルの涙の眼を光と影の境界線が二分した。




「そうか……」




 彼は思い出した。かつての自分を。




「そうだった、俺は……」




 格差溢れる世に憤って勉強を始めた頃の、やさしかった自分を思い出したのだ。


 知識をつければ高みに至れると、地位を得れば力を得れると。


 頑なに信じて、走りぬいて。


 迫りくる現実に、怯えて。




「そして、俺は……」




 彼自身の手が震える。目を見開いて、手のひらを見つめて。頬が痙攣して、顔が強張る。




 頑なに信じて、走りぬいて。


 迫りくる現実に、怯えて。


 感情を擦り減らして、精神は焼き鈍された鉄のように冷めていって。


 最後には、虚構の孤高心のみを抱えた煤だらけの人形に成り果てた。


 そうしてできあがったのが、現在のエル・ハウェ。




「俺は、俺はああああああああああああああ!!!!!!!」




 彼は、彼自身の人生を嘆いた。








          ◇◇◇








 飛び降りろうとした時、私の服の首の襟を指でひっかけ引っ張られたような気がした。細くてか弱い、透き通る色のかの指。


 分かっている。仲間たちが本当に私の死を望んでいないことを。でもだからって、私が生きていくことを私が許せるとは思えない。だって、あの一瞬に仲間たちを忘れて幸せな未来を思い描いてしまったから。私の大罪が仲間の貌を伴って精神を侵食する。仲間は裏切れない。でも私の大罪は死を望んでいる。死という名の裁定を。




 白く透き通るようになってしまった指に願いを乞う。「死なせて」と。




 私の足はまだ手すりの内側にある。私の大罪は拭えない。それでも、私の首の裾を引っ張る微かな引力が私の死を望まない。


 だったら、だったら、どうすればーーー……。




「どうすれば、私が死ぬのを許してくれるかな」




 白く透き通る風が吹く。私の涙を攫って。


 徒に罪を重ねても死を許してくれる筈はない。ただ塞込んでも死を許す切欠など来る筈がない。


 なら、どうすればいいのか。


 贖罪の道の果てにしか、答はないと。




 唯一つの道に踏み出そうとする足を、黒い罪の手が引っ張っていた。








      ◇◇◇








 暗い個室の中、エルは毛布の中で泣いている。


「あ、え、ひっく、えぉう……」


 彼は、彼自身を裏切っていたことにいまさら気づいたのだ。


「あっ、うぅ、えぇ」


 在り得た道全てを閉ざし、繋げておけたはずの縁を全て絶ち切って。


「うぅあ、ああぁあぁ」


 あらゆる道の一つに過ぎない道のみを唯一つの道と断じて。


「あああぁぁぁぁぁ」


 勝手に転び、勝手に泥にまみれ、それら全てをほかのせいにして。


「えぇっ、あぅ、ううぅぅぅ」


 傷と泥だらけになって。




 傷と泥の上に虚栄と傲慢を纏って。




 虚栄と傲慢の重きに足を囚われて。




 グノーモン寺院の地に停滞して。




 今まで自分を築き上げたモノの脆きに自壊を始める。






        ◇◇◇






 私のベッドで、私は罪の手に枷かけられた足首を撫でる。


 道は見えた。だけれども、踏み出す為の資格がない。罪人に善人を導けようか。堕天使が天使導くことないのと同様に、罪人は善き人を導けない。




 違う。そうじゃない。




 本当にそうだとすれば、とうの昔から贖罪は許されざる罪として神の名のもとに禁じられているはずだ。


 贖罪は地獄への架け橋。罪人が地獄に自ら飛び込むことを許す唯一の道。自ら足を踏み出して地獄に堕ちることこそわが心への解。贖罪は私にとっての、地獄に繋がる、自分にとっての救済。


 だから、これからわたしがしようとしていることは罪に足枷かけられるようなことじゃない。


 足が軽くなる。黒い指がほどけてゆく。


 足を踏み出そう。これからわたしが歩む道は真っ白で、炎の中に入ってゆく道だから。








 日は落ち月の光さえも支配しなくなった、寺院の宿泊施設の廊下を彼女は歩く。




 カッ、コッ、カッ、コッ。




 古びた靴の裏が冷たく床を打つ。ランタンの火が闇を拓いていく。


 エル・ハウェが見せた謎の行動、私は救わねば。彼は苦しみ始めた。私が、やさしいって言った時に。




 もしかしたら。




 彼にも、絶望があるのかもしれない。或いは彼自身への失望か。


 私は、人の心を知らない。私が知っているのは、人の姿をした獣の心だけ。彼は人間で、私はその心を分からない。それでも、私はやり遂げなければならない。


 手の指先が震えて、冷える。


 彼は、何かを思い出したように目を見開いて、怯えた。獣に追われる小動物のように、彼は何かに襲われた。おそらくそれは、彼の抱える恐怖なのかもしれない。トラウマなのかもしれない。彼の精神に深く癒着して切り離せぬ過去かもしれない。


 いずれにせよ、彼が苦しむのなら私は彼を救わねばならない。


 だって彼は善人だから。


 だって彼は罪人ではないだろうから。


 罪人である私には、贖罪として彼を救う義務がある。






 「エル」


 彼のベッドの中、毛布の中にうずくまった彼がいる。枕は濡れて、敷き布団は皺だらけの歪。目に光は無く、涙がランタンの光を反射するのみ。


 怖い。彼の心に触れるのが怖い。今にも崩れそうな心に触れて、私が間違えて崩してしまうのが怖い。彼が崩れてしまうのが怖い。


 白い道は、か細い。




「エル、何かあったか、聞かせてもらえない?」




 細く脆い道を、踏み出す。








        ◇◇◇






 ……話したくない。ちょっと待ってくれ。




 ……分かった。くそっ、まだ涙が収まらない。


 


 ……ああ、なんで忘れていた。俺の最大の過ちを。


 なんで、この記憶を封印していたんだろう。


 言ってどうにかなるものじゃ…ない。


 でも、向き合わないと。だから、君に……話す。




 俺の生まれは、ラウーゴ村だ。


 俺は農奴の子、本来なら自由な身ではいられない人間。


 だけど、村の教会の先生が教育熱心な方でよ。村の子に文字を、数字を教えようとしていた。俺の村では知識ある者は領主に認められ、農奴を脱することができた。ま、年に一人読み書きできる人が出ればいい方だったがな。


 俺は好奇心旺盛で、たくさん勉強した。勉強が好きだったんだ。




 子供の頃のある日、村を災害が襲って。渦巻く暴風で作物がだめになった。




 俺も領主もふくめて、村の数人かは王城に行った。王様に税の引き下げと援助をもとめるために。




 そこで俺は見た。




 他の地域から運ばれる大量の穀物、数多くの金銀財宝に飾られた謁見室。


 王の地に、不足している物は何一つなかった。


 俺たちは訴えた。当時の王に。


 だが、受け入れられなかった。




 それどころか、唾を吐き捨てた。農奴の土で城が汚れる、と。




 俺は反発した。叫んで、じたばたして。でも謁見は終わり、俺たちは無理やり王都の壁の外に放り出された。その帰り道、先生は俺に言った。




 知識は力、悔しさは原動力になる、と。このかくも格差激しき世界で生き残りたいなら学びなさい、と。




 その時から、俺の学ぶ理由は変わった。この世界を救う為に、俺の力を捧げよう、と。




 だが、それがいけなかった。俺の義憤は義務に変わっていった。義務は使命へと。使命は俺を縛り付け、他の一切の関りを勉学から切り離した。


 俺の目には、村の同い年の友達が徐々に何知らぬ阿保共に見えてきた。俺の勉学を応援してくれた親も、寂れた村に停滞する大人に見えてきた。先生は教会の中で教えることしかしない怠惰者に、領主は体制の中でのらりくらりと生きてきた狸に。俺の目は狂っていた。……今の今まで気づいていなかった。




 そもそも、試験に落ちたのは当然だった。俺が文字を覚えたのは10歳で、その頃には貴族は高度なことを学び始める。先生が受験を止めたのは当然だったんだ……っ。


 俺は友達を罵った。親を罵倒した。先生を怒鳴った。領主に中指を突き立てた。


 友達が異質なものを怖れるような目で離れていったのを思い出した……。


 俺の前で頭を抱えてうずくまる親を忘れない……。


 先生と領主の諦観の目が焼き付く……。


 兵士として村を出てきた、俺に残された唯一の知り合いのロイスさえもここに来る前に振り払った……!




 俺は中途半端だな……。農奴にも、市民にも、貴族にもなりきれないまま、自分をこの世の誰よりも高貴な存在だと思い込んで、成りきって。




 何者にもなれなかった。俺は。全てハリボテだったんだ、俺が自分で塗り固めた自分の虚像は。




 自分の虚像の為に、俺は自分の今までの関り全てを断ち切った。




 いまのじぶんには、もう、なにもない。




 ここにいるのは、愚者だ。


 




      ◇◇◇






 私は困惑している。彼の細く訴えた言葉を脳内で反芻する。


 彼には帰ることのできる場所がある。彼を受け入れてくれる人もいる。彼を最後まで見捨てなかった人もいる。彼は帰れる。誰かがいる場所へ帰れる。


 そもそも、一つののぞみが潰えたくらいだ。誰も彼から何も奪っていない。彼は何も奪われていない。


 このグノーモンの寺院の深い霧を抜けて、馬車に乗って村まで戻って、みんなに頭下げて、帰れる居場所に帰ればいいじゃないか。


 何もなくなったわけでもないのに、彼は全て無くなったかのように嘆いている。




 でも、私は人の心を知らない。私が知るのは人の形をした獣の心だけ。だから、私は彼が悲しんで嘆いている本当の理由をわからない。




 それでも、彼の心を悲しみから救えなければいけない。




 では、彼は何故悲しんでる? 私の仲間だったらどう思うだろう。家族を、友を、恩師を捨てる気持ちはどんなものだろう。捨てたくて捨てたんじゃないのか。私の仲間ならどう考えるだろう。私は捨てたことない。私の仲間ならそんなことはしない。だから、私にはわからない。でも、彼にとっては悲しいんだ。だったら、悲しむ必要のないことを伝えればいい。あなたが思っているそれは、少なくとも私にとっては恥じることではあっても悲しむべきことじゃない。彼が希望を持てるように、固く念入りに言葉を紡いで、彼に繋がる救いの一本の糸にしよう。




「大丈夫だよ。エル、貴方は愚者じゃない」




「その、こん、きょは」




 そうだ、エルは愚者じゃない。ここに来て、彼は私に色々なことを教えてくれた。話を聞いてくれた。私を生かしてくれた。




 色々なことを教えてくれる人が愚者である筈がない。話を聞いてくれる人が愚者である筈がない。私を生かしてくれる人が愚者である筈がない。エルが愚者である理由なんてないんだ。




「仲間たちの亡骸をおいてここに逃げて来たわたしを、目に見える男がすべて敵に見えたわたしを、あなたはそれでもわたしといっしょにいることをえらんでくれた。わたしにいろいろなことをおしえてくれた。わたしのはなしをきいてくれた。わたしをいかしてくれた。わたしの目には、あなたは愚者として写っていない」




 エルはうろたえて、身体全体、そして声帯を震わす。




「で、でも、同い年のやつらの目には、親の目には、先生と領主の目には、おれは愚者として写ってるんだ。自分の分をわきまえない、自分の身の程を知らない、そして平然と自分の大事なものを捨てる莫迦として。そ……それは、俺が、愚者じゃない、というのは」




 目をうろつかせて、手は震えて、声は涙声に。未だ彼は深い悲しみの中にいる。彼は自分が神だと勘違いしたドブネズミであることに自ら気が付いた。気が付いて、彼の過去を振り返った。そこにできていたのは、自分が振りまいてきた罪と言う名の汚れが一本の道となった彼の人生だった。彼はそのことに絶望し、悲しみ、彼自身を愚者という名の監獄に押し込めようとしている。




 それでも、私は彼を救おう。彼を愚者という名の監獄から引っ張り出すのだ。




「私にとって、あなたは仲間以外の人間ではじめて私に優しくしてくれた人間。既に終わった私の人生に、それでも光を差してくれた人間。だから、あなた自身を愚者と呼ぶのはやめて」




「でも……、俺の過去は……」




 涙の量が一層あふれてくる。もう一息かもしれない。彼の罪のある過去から彼自身を解放させれば、彼は救われる。彼の罪は彼自身によって贖罪可能だと、まだ罪人の自責を脱ぎ捨ててもと居た世界に戻れると教えてあげなければいけない。


 私は彼のベッドの上に腰を落とし、彼の頭を膝にのせて抱える。彼の髪の流れに沿って撫でていく。




「……ラスぅ……」




「ね。それに、あなたの罪は、あなた自身によって償えると私は思うの。このグノーモンの寺院の深い霧を抜けて、馬車に乗って村まで戻って、みんなに頭下げて、そしたらあなたはもう罪人じゃなくなると思うの」




 そうだ。彼の罪は、まだ引き返せる罪だ。彼自身がそのことを自覚してくれればいい。




「……あたまをさげて、どうにかなる問題じゃない……」




 彼の声に少し怒気が混じっている。さっきよりも身体の震えが少し大きくなっている。




「あなたはなにも奪われていない。なにも失っていない。ただ少しの間、あなたの家族と友人と大人たちを遠ざけてしまっただけ。だから、今度はあなたが彼らに歩み寄ればいい」




 彼の涙の啜り声が止まる。私の膝をつかむ彼の手の震えが大きくなる。




「……それで、贖えると思っているのか」




 彼の精神が上向いてきている。最後の一声で、彼は完全に立ち直り明るい未来を歩めるようになる。その背中を、私が押すんだ。




「贖えるよ。あなたの思っている絶望は、あなたの思っているよりも軽い」








「……軽い?」




 頭部に強い衝撃。そのまま私は、地面に衝突。




 見上げると、エルが立っていた。泣きながら怒って。






  ◇◇◇




 


 こいつは何を言った? 俺の絶望を、軽いだと? 自らかつての大切なものを捨て去ってしまったということに気付いて自覚して俺は悲しくなった。自分が恨めしくなった。俺は自分の人生に絶望した。自分が正しいと信じて、周りが間違っていると信じて進んで来た人生の旅路が己が罪にまみれていたと気付いた時には、もう取返しはつかなくなっていた。罪の赤黒い色で家路は塗りつぶされて見えなくなり、己が足は虚栄の泥にまみれ固められて動かなくなっていた。思い出の中の誰もいない寺院の中で、俺は己が罪を一人寂しく嘆くしかない。俺の心に希望はない。あるのは絶望と後悔と罪悪感と自分への失望だけ。悲しい負の感情だけで俺は成り立っている。そんな俺を見て、ひとり嘆くしかない寂しい男の元にこいつはやってきて、俺の絶望を軽いと言った。それが今言う言葉か。俺が己が罪を悔いている姿勢をこいつは踏みにじった。俺が自ら地獄に向かうしかないと諦観したのをを無碍にした。だから許せない。赦さない。




「俺のことを何も知らないでそうほざくか、この愚者が!」




 ラスは呆然とした目つきで俺を見る。なんだその目は。人の心を土足で踏み荒らすのが悪い。


 涙をぬぐいながら、俺はこみ上げる怒りを口に吐いた。




「その目は何だ」




「え、その」




「人が苦しみ悲しんでいるときに、軽い絶望と言うのはなんだ、なんだ、なんだ!」




 身体の衝動を抑えきれず、部屋の卓上にあった本を掴んで地面にたたきつける。俺の手をラスの首へと近づける。




「なぜだなぜだなぜ言ったなぜ言ったお前は俺よりも偉いのかああああ!」




 ガシ、と彼女の首を掴んで締めようとする。締め付ける力を徐々に強めていって、彼女がか細い呻き声をあげる。




「俺の悲しみは、俺の絶望は、重い! この世界の何よりもな!」




 と、ラスの足の裏が俺の腹に触れていることに気が付いた。力強く蹴りだされて俺は首から手を離し、冷たい地面に背中をぶつけた。背中の痛みをこらえながら立ち上がると、彼女の姿は無くなっていた。




「俺の気持ちを軽いとのたまうだけでなく、俺を傷めつけやがって……ああ、なんだよおおおおおお!!!!!」




 怒りが爆発し、机を倒し、枕を投げ、シーツをビリビリに破り、壁に拳をぶつけた。怒りが収まらず、破壊が加速する。机の脚を折り、枕を爪で裂き、破ったシーツを部屋中に散らし、破れた壁の穴を抉る。叫びながら壊す。壊す壊す壊す。


 怒りが収まった頃には、空は一等星が位置を変えていた。一時間ほどくらい経ったのだろうか。破れて読めない本、抉れて羽毛が飛び出て眠れないベッド、外から暑さ寒さを呼ぶ壁の大穴。もう役目を果たせない机。全て、俺の怒りが壊した。


 そうだ。この破壊は俺の怒りそのものだ。俺の悲しみそのものだ。ラス・アルミアが余計なことをしたから。俺の心を踏みにじったから。だから、結局はあいつも俺の世界には要らない―――。




『い ら な い ?』




 何かが耳元で囁いた。同時に心臓が痛くなって、思わず跪く。驚いて振り返るが、誰も居ない。




 いや、ちがう。




 おれが、ここにいるじゃないか。




『そ う や っ て い ま ま で も す て て き た』




 ……ちがう。あれは、ラスが俺の心を踏みにじったのが……




『父 は? 母 は? 友は?お隣の人たちは?先生は領主はロイスは』




 ちがう。いや、ちがうのがちがう。おれはまたおなじことを……




 心臓が、こころが、いたい。




『ラ ス ア ル ミ ア も』




 こころがこわれそうでいたい。……おれ、は……




 ラスの首を絞めた時、彼女は泣いていた。




『ま た す て た ね』




 おれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいラスごめんごめんおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいラスアルミアごめんおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれラスごめんラスごめんラスごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ




 ——再び重ねた罪が、瞳の光を消す。








       ◇◇◇




 負の感情の黒色に塗れた精神が、暗く冷たい湖の底に重く沈んだ。男は今や重ねた罪を自覚し、自分の首に枷かけられた鎖が地獄まで続いていることに気が付いた。全てを救うべく天を目指す上り坂を歩いていたつもりが、世の中のこと何一つ見えぬ愚者だと自覚して初めて自分仕掛けの色眼鏡をとったとき、彼は下り坂を歩いていて後ろには罪の足跡が続いていた。そして、彼はもう自分の内に正しさと希望を見出すのを止めた。


 自分を罪人だと決めつけた女は在りもしない贖罪の道を歩き出して踏み外して、そして地獄に転落する錯覚をする。彼女の脳内の瞳に映るのは、死と言う名の処刑台への道。たった一つの、しかし彼女にとって大きな事件が今だに尾を引いて彼女に錯覚と幻覚を見せ続けている。仲間たちの死の事実が、彼女に罪と死の幻を見せ続けて歩かせ続け、人生と命の断崖へと彼女を導いている。








 あれからどれほど泣いただろうか。気が付けば、日は既に高く昇っていた。今日の太陽は全く隠れていないにもかかわらず、輝きが足りないような気がする。もう涙は出ない。泣こうとも思わない。俺の人生が急に平坦になって、あとは崖に飛び込むだけのような気がする。元々死ぬために寺院に来たのだが、あの時でさえこんな感じはしなかった。自分の中で解は既に自分は罪人の一つだけで、他の思考など無駄な気がする。




 死のう。




 もう死のう。




 せめて罪人のつとめとして彼女に一言謝ってから死のう。




       ◇◇◇




 泣いて、神に祈り、懺悔した。彼に蹴られて拒否されて、私は礼拝室に駆け込んだ。ひし形の黄金を見た時、私はあれに懺悔しなきゃと思った。贖罪は失敗した。私に残された道など一本もない。泣いて、泣いて泣いて泣いて、神と仲間に謝って謝って謝った。涙と喉が枯れて私が立ち上がったとき、私が入ってきたとき開けたドアから風が吹いてドアがはためいていた。あそこが、私の死への転落の道。それは道と呼べる代物ではなく、奈落そのものと思える。何故だろう、死へと向かう時、私の魂と身体が軽い。




 さあ死のう。




 この世界には何も残されていない。




 エルに拒否された。みんないない。だれもいない。今までの罪の分を背負って死のう。




       ◇◇◇




 アーチ状の弧を描いた回廊。エルは、ラスが踏みしめた埃の足跡を辿って礼拝室に向かう。途中で、ラスの足跡が二つになった。礼拝堂とは逆の方向で、それは階段に向かっていた。階段を駆け上がって、三階に向かう。テラスの手すりに近づくラスの後姿がみえた。


 「ラス。俺は、あなたに謝らなくてはならない」


 エルは下に伏せがちな瞳を震わせながら上に上げて、眼差しをラスに向けて逸らさないようにする。自分は罪人だから、これは義務だからと自分に言い聞かせて強制してその場に彼自身を立たせている。


 「あなたは自分を救おうとしてくれたにも拘わらず、俺はあなたを拒絶した。あなたの言葉を否定した。俺はあなたの救いを振り払った」


 ラスは振り返らない。何も答えない。埃被った黄金の髪がなびくだけ。


 「以上だ。そして、俺はこの世界から永久に離れる」


 黄金の髪が一際強く揺れる。その横をエルが横切って、手すりに上ろうと右足をかける。


 「……なに、やってるの?」


 そこで、はじめてラスの声がでた。驚きと、戸惑いの声。


 エルは答えない。手すりに両手でつかまって、もう片方の足を床から手すりにあげようとする。


 ラスが走り出して、エルを抱え、後ろに引き戻す。手すりから引き戻されたエルの身体が宙を舞って、ラスを押しつぶす。


 「がっ……ぐあぁ……」


 エルの身体に潰されて、ラスが呻き出す。


 「なぜ……なぜ俺を死なせなかった……?」


 ラスは答えない。代わりに、痛む身体をおして立ち上がり、フラフラと手すりに近づく。


 「何をしようとしてるんだ、ラス?」


 ラスが手すりに右足をかける。エルが走り出す。


 「あなたは駄目だあああああああああ!!」


 彼女の腕を引っ張って、腰に手を回して引き戻す。


 「駄目だ……駄目なんだ……」


 「どうして……どうして? エル……」


 戸惑い、パニックになり、涙を流すラス・アルミア。


 エルは、自身の罪悪感の筵の中でこう考えていた。


 (ラス・アルミアは善き人間。罪なき人間。その者の自殺の背を押してしまったなら、俺は引き戻さなければならない。この世界に必要なのは、俺のような罪人ではなく彼女のような善人なのだから)


 「あなたは、善い人間です。でも、俺はそんなあなたを拒絶してしまった。死ぬべきは……俺なのです」


 腕の中からラスを離してやり、手すりに近づくエル。その腕を、ラスが両手で捕まえる。


 「——違う! 私が罪人なの! 仲間をあの世に置き去りにして、あなたの心を壊れるまでに傷つけた! あなたは人に何かを与えることができる人間。この世界に居るべきは、あなた。私じゃない!」


 そして彼女は乞う。


「わたしを死なせて!」


 そして彼は願う。


「あなたは生きてください。そして、俺を死なせてください」


 背筋を伸ばしてエルが手すりに近づこうとする。ラスの彼を捕まえる力がより一層強く増し、しかし未だ弱い全力のままで彼を引き戻そうとする。


 「放してください。……俺は、現世にも、天国にも、煉獄にも、地獄にも、浄土にも、輪廻にさえも、いていい場所は無いんです。あなたが慈悲をかけてくださっているのは嬉しいのですが……俺は、慈悲を受けていい人間じゃない」


 微かにしか抑揚のつかない、感情の無い平坦な声。


(私は、あなたを止める為にはどうすればいいのかな……)


 死を決意して揺るがないエル・ハウェ。彼を生かすためには、今、何が必要なのだろうか。彼女は思案する。


(力では解決しない。どのみち、私は弱い。……)


 たった一つの、しかし既に失敗した案しか思いつかなかった。


(言葉じゃ無理だ……。私は彼を傷つけた……)


 他の案は? 彼を止める為には、どうすれば——




 彼の死よりも、彼にとって大事なものはないのだろうか。……全てを捨てて無くした彼にとっては、もう本当にないのだろうか?




 いや。




 いや……。




(違う)




 違う。




(ここに……まだ、私がいる)




 そう、ラス・アルミアがいる。




(……なんで……?)




 エル・ハウェを止める為の唯一の手掛かりが、彼と同じく死を決意したラス・アルミア。彼女は、その結論に辿り着いた。唯一の正解、崖っぷちに落ちていた命綱を拾い上げた。


 だが、その辿り着いた結論にラス・アルミアは瞳を震わせる。歯を噛みしめて、動機を抑えようとする。自分で心臓を掴んでいるような苦しさを感じている。


 「……なぜ……」


 彼女の瞳が潤う。罪人である自分が生きていいはずはないのに、よりにもよって罪人の存在だけが彼を救う唯一の手掛かり、という皮肉。


(……なら、こうすればいい)


 彼を、騙す。


 彼を騙して、罪に正直でいる。


「だったら、あなたが死んだら私も死ぬ。その代わり、あなたが生きてこの寺院を出るなら私も生きて出る」


 早口でまくしたてる。エルが彼女を引き離そうとりきむ力が緩む。


(嘘だ。エルが寺院を出るとき、彼の背中を霧の向こう側へと押し出して私はここに残る。ここに残って死ぬ)


 ラスは、光沢のない瞳をエルに向ける。




 エル・ハウェは絶望した。


(しなせてくれない)


 死ぬしかない罪人に、ラス・アルミアは枷をかけた。エル・ハウェはもう死ぬことができない。彼女が生きている限り、彼女を自殺させないように生きる必要がある。でも、それは……。


(不要な延命……。ただいたずらに罪から逃れるという罪を重ねるだけ……)


 太陽の輝きが、妙に足りない。心臓の位置する部位がちくちくと痛む。呼吸が荒いような気がする。エルは、精神と連動した身体の不調の発露を感じる。


(でも、それでも彼女の命は俺が罪を重ねるに値する……)


 彼女は正しい存在で、死んではいけない存在。心の根底にそう刻み込んだエルは、鈍く重い口を開ける。


「わかった。お前を死なせない為に俺も生きる」


(そして、俺はお前と別れた瞬間に人知れず死ぬ)


 エル・ハウェは、彼女の人生から彼自身がいなくなった時に、彼女からかけられた枷をといて自ら死のうと決心した。




 死の未来しか見えていなかった二人。だけれどもお互いの存在が枷となって、崖から墜落するのを許さない。それぞれの存在はこの誰も来ない寺院の中で時間を過ごすうちに大切になっていって、いつしかそれぞれの我が望みよりも優先すべき宝物になっていたのだ。宝物は枷となりて、お互いの首を繋ぎ、離れさせなくしていた。








 黄金に灰を被せたような髪の女が階段を上がる。脚を無造作に上げて階段を昇り、足音を響かせている。 


「グノーモン様」


 階段を上がり終えた先に、銀色の龍が鎮座している。


「グノーモン様……。試練への道をお示しください」


 冷たくてざらりとしている石床に膝をついて、ラス・アルミアは跪く。


 しばし、静寂。


 グノーモンが、琥珀色の眼差しで彼女の瞳を見る。


 


 輝きが無い。




 グノーモンは、太く長い竜の首を繰り返し横に振る。


「希望無き者に道は開かれぬ。瞳に光なき者に道を踏み出す資格は無し」


「そう、ですか」


 彼女の気持ちが地の底に落ち込む。ラスが落胆し、瞳をぶるぶると震わせているのがありありとわかる。


「希望。希望。希望」


 しきりに呟き、彼女は希望が何なのか、何なら希望たり得るかと一生懸命頭からひり出そうとしている。


 希望の定義とはなんだろう。あいまいな希望の定義が彼女の頭を混乱させる。一日の銭だっただろうか。彼女のかつての仲間に手がかりがあるのか。希望とは、抱くものなのか、手放してしまうものなのか? いくら過去のことを考えても、彼女の暗雲たる記憶の中からは光を見出せなかった。


 「希望、希望、希望……」


 希望について思いを馳せる度に、自らが希望とは縁遠い存在だと叩きのめされる。寺院に来る前の彼女の人生は仲間こそあれど、闇の中を、小石にかじりついてでも這うような生であった。そこに光はなかった。仲間死んで自らが罪人となった今、どこにも光などない。彼女の人生には一片の光もない。彼女は、そんなふうに考えていた。


(ちがう)


(わたしの人生に、一片の光もない? 違うでしょ、今ここに、光がある。この寺院に、光がいる)


 その光とは、エル・ハウェ。わたしに知識と温かさを与えてくれた存在。彼こそが、私の希望。だから、彼はこの世界に在るべきなのだ。


 「いました……。希望が。エル・ハウェさんが」


 一滴の泪を落として、ラスが希望を口にする。だが、グノーモンにはその瞳には依然として闇と陰りがある様に見えた。




(……まだ不完全。不安定。ラスの口にする希望は、彼女にとって不確かで、そして彼女自身が救われない)




 グノーモンはその思考を口に出すべきか、悩んでいる。今まで数え切れぬ人に介入しては、その死を見送って来た。何百ものの人間が試練に挑戦しては成功することができず、自分の信じた希望に失望して嘆き、死んでいった。この寺院を出れた唯一人の人間を除いて。


(あの人も、私の声など必要とせずにこの寺院を出た。今回も、私は口をつぐもう)


「グノーモン様。私は、エル・ハウェさん、彼を希望にして試練に挑みます。彼にはこの世界に生きて欲しいから」


「そうか。……試練は、時として人の魂を壊す。気を付けるのだぞ」


 竜が今まで見て来た何百人のなかで、試練の間を出た途端に、心を亡くした者がままいた。試練にて襲い掛かってくるのは、人間の昏く蓋をした心そのもの。




 グノーモンの白い翼が広がり、飛翔体勢に入る。光を透通す翼膜に幾多ものの細い血管が映えて、白い翼膜に幾何学的な模様を浮かび上がらせる。翼は真っすぐに羽ばたき、翼の内側の硬質な空気の塊が押し出されてラス・アルミアの身体に押し寄せてくる。羽ばたくごとに押し出された空気が床と衝突して、四方へと広がる。竜の身体がひと羽ばたきごとに浮かび上がっていき、ラス・アルミアの真上に滞空する。竜が口を開き、喉が大きく膨らむ。刹那、音に聞こえぬほどの咆哮が響き渡る。鼓膜が痛くなって、ラス・アルミアが耳を塞いで顔をしかめる。そうしていると、床の中央にある六芒星の紋様が青白い光を纏い始め、光が集まって浮かび上がり、光の球となる。


「ラス・アルミア。その光についていけ。その先に試練への入り口がある」


 ラス・アルミアが空を見上げ、憂いのある瞳で降りて来る竜を見つめる。


「ありがとうございます。 ……私の最後になすべきことを手引きしてくれてありがとうございます」


 深々とした一礼のあと、ラス・アルミアは動き出した光球について階段を降りる。ラス・アルミアが影の中へと完全に隠れた後、竜はしばらくの間、階段の影から瞳を外すことはできなかった。




 光球に導かれてラス・アルミアは一階に降り、昇り階段のすぐ横の壁の前に立つ。球が壁の中へスゥーッと入って消える。煉瓦状の壁が、ガコン、と音を立てて光球が入ったところを中心として人一人通れそうな縦長の長方形の溝が輪郭と成して浮かび上がる。そうして隠し扉が現れると、扉はひとりでに内側に開く。ラス・アルミアが扉の内側へと足を踏み入れると、一人通るのがやっとな窮屈で陰気な下り階段が果てしなく長く続き、はるか下にある漆黒に浸かっているように見える。




「試練は、この先……」




 明かりの無い階段を、松明を手に、慎重に、一段づつ降りていく。試練はこの先なのに、既に自分が試されているような感触をラス・アルミアは感じている。足元を照らしながら、確かめながら、一歩、一歩、降りていく。


「ひっ」


 手に持った松明の火の暴れるのに、ラス・アルミアが怖気づく。至って自然な現象に怯えてしまうほどに闇は深く、試練に向かう気持ちは萎縮していた。それでも、エル・ハウェを救わなければならないという気持ちのみが足を下へ、下へと進ませる。




 隠し扉が遠くなり日の光の差さぬ完全な闇に沈んでしばらく経った頃、ラス・アルミアはついに試練の入り口らしきものに相まみえる。闇の中に、くっきりとした黄色の線が複数浮かびあがっていて、どうやら壁やら床やらに刻まれているようである。ラス・アルミアに対面する壁には複数の横線が上から下へと順序だった距離で並んでおり、それを一本の縦線がまっすぐ貫いている。縦線は天井と床それぞれの円の線に繋がっている。天井と床それぞれの円は同じ大きさであり、人一人が入れそうな広さである。


「これが……入口なの?」


 ラス・アルミアはおそるおそる、円の中へと足を踏み入れる。片足。何も反応は起きない。両足を踏み入れた途端、ラス・アルミアは身体が重くなるのを感じた。


「うっ、ぷ……」


 それだけではなく、気分も気持ち悪くなった。彼女は今、喉元に何かがこみ上げてきそうな気持ち悪さを感じて口元を抑える。彼女の精神に何かが侵食しているような感じにラス・アルミアは苛まれ、頭痛ができては次第に痛みを増していき、意識が明瞭ではなくなっていく。


「いっ、ぐうぅぅぅ……あああぁぁっ!」


 頭を抱えて、地面にうずくまる。苦しんで悶える彼女は気づかないが、天井と床の円から霧のようなものが発生し、やがてその場を包み始める。ラス・アルミアはうずくまりながら、その場で霧に包まれて見えなくなった。






    ◇◇◇








 「……ス……」




 ねむい。なんだかあたたかい。




 「……ラ…………」




 ねむい。ほっといてよ。




 「ラスー!」




 「うおっ!?」




 何者かが私の名前を呼びながらを強く揺さぶり、私のさっきまでの強烈な眠気が飛んでいった。驚いてすぐに起き上がり、おんぼろな木の板の壁を正面に向く。




 「って……」




 見覚えのある景色。ところどころ破損していて隙間から陽光が入ってくる、気休めの雨凌ぎにしかならないおんぼろ掘立小屋。そして、さっきのは聞き覚えのある声。




 まさか。




 ありえない。




 私の心は最初、驚きと戸惑いで凍り付いた。それから徐々に、心の奥から温かいなにかがこみ上げてきて心を溶かし、瞳の底から涙がこみあげてくる。




 おそるおそる、声のする方へと顔を向ける。




 「どしたん、悪い夢かー?」




 そこにいたのは、もうこの世にいるはずのない、私の掛け替えのない仲間たち。アル。ミリーシャ。リーテ。最年少で元気活発なアル。おっとりして落ち着きのあるミリーシャ。よく私と喧嘩したリーテ。




 「どうして」




 涙が頬を這いながら、声が口から漏れた。




 「んー?」




 私を起こしたリーテが疑問そうな顔で私を見つめてくる。




 「おまえ、変なもの食べたんだろー」




 「そんなわけないでしょ」




 リーテの憎まれっ口に、つい口が反応してしまう。リーテはぽかんとしたような表情になった。




 「うーん。本当にどうしたのねぇ、ラスちゃん。言葉と表情が合ってないよ」




 ミリーシャが、おっとりとした怪訝な表情で私を心配する。




 「んん……腹減ってるのか? 私の食うか?」




 アルが硬くてボソボソとしたパンの食いかけを私によこしてくる。




 なんだ、これは。私は寺院にいたはず。試練の入り口に立って、気分が悪くなって、それから……。




 いや、この状況は本当なのだろうか。頬をつねる。




 いたい。




 わたしは、ずっとわるいゆめをみていた?




 アルが、ミリーシャが、リーテが、あのひせまいおりのなかでのうをさらけだしてちょうがまろびでて、まだあたたかいからだのまましんでいたのはゆめだったのか。




 わたしひとりだけにげだして、やみよなにもみえぬもりをさまよって、くさとえだにいっぱいぶつかってきりきずをかさねて、いつしかおおきなきりのまえにたっていた、あれはゆめだったのか。




 じいんのなかでひとりのおとこにであって、なにもしらなかったわたしにいろいろなことをおしえてくれて、でもわたしはそんなおとこをきずつけた、あれはゆめだったのか。




「いままでのは、ゆめ……?」




 涙が溢れる。鼻と喉がつらくなる。よかった。いきてた。いままでのは、ゆめだったんだ。ありもしない日々だったんだ。いま、わたしはいきているなかまを目の当たりにしている。やばい。どうしよう。涙が多すぎて瞼を閉じてしまった。それでも涙は溢れ、顔は上を向いてしまう。嬉しくて、安堵して、なにより心が温かい。


 泣き止まない私を、アル、ミリーシャ、リーテはしばらくの間そっとしていた。




「ごめんね。……ずっと、めざめのない悪夢をみていたみたい」




 泣き止んだ私は、やっとみんなの顔を直視することができた。しょうじき、顔を見ただけで涙が出そう。うっ。ほら、またもう一筋の涙が流れた。




「そっか。まあ、ラスはここんとこよく働いてたし、半日くらいは休んでもいいかもね」


 リーテに優しい言葉をかけられてしまう。そんなに心配させてたのか。ミリーシャからパンを貰おうとして、左肩が痛み出した。服を半脱ぎにして肌を露出させると、紫色の痣が左肩にあった。


「いたっ……」


「昨日の客、最悪だったよねー」


 昨日の客? いったいいつのことだろう。長くて目の覚めない夢のせいで、昨日と言うものの時間が記憶の中のどこなのかよくわからない。


「そ、そうだね」


 適当に相槌をうつ。娼館の客のことだろう。……そういえば、今日はいつだ?


「今日って、いつだったかしら……?」


「もう、今日のラス姉、変! 天夜暦229年の5月22日だよー」




「……え?」


 心がきゅっとなった。……みんなが死ぬ日の、一日前だからだ。みんな、あしたしぬ。




 ぶんぶんと頭を振る。ちがうの。ありえないの。だっていままでのできごとはゆめ。アルから聞いた日付が今日だとしてもおかしいところはない。わたしは、ゆめからさめて本来の人生を歩むだけ。




 ……本当にそうだろうか? 私の罪なんて、元からなかったのだろうか? 夢にしては生々しかった記憶が頭にこびりついて、離れない。








 アルとリーテが働きに出かけ、わたしたちの小屋でミリーシャとふたりきりになる。私は、未だに身体に力が入らない。ずっと眠っていたような気がして、立ち上がるのも億劫だ。




「それにしても変ね。いままでだってこんなことは無かったし、本当に何か病気でも貰ったんじゃない?」




 ミリーシャが未だに私の身体の心配をする。




「平気だって。夢見が悪すぎただけ。あと少ししたら動けるようになるから……そしたら、稼ぎに出るよ」




 気丈にふるまう。だってなにもなかったんだから、私はすぐに元気にならなくちゃ。




「うーん……、話したくないならいいけど、どんな夢をみたの?」




 全ては夢という名前の嘘偽りの記憶なのだから、まぁ、いいか。




 私は、ファルネスの大霧までへと彷徨い、グノーモンの寺院で一人の男と出会い、色々あったことを話した。……三人が殺されたということは伏せて、心配かけまいと多少は脚色して。




 でも、話の途中でミリーシャは怪訝な顔になったり。少し驚いたように瞳を大きくしたり。私が一通り話し終えたのちに、ミリーシャがこう言った。




「……うーん、なにか言ってないことがあったのね。きっと」




 私が夢の内容を多少捻じ曲げて話してることを、ミリーシャは見抜いちゃう。もともと、ミリーシャは人の嘘や隠し事にはすぐ気づいちゃう。




「今話したので全部だよ、ミリちゃん」




 目を伏しがちにして、あえて隠し事のあるオーラを伝える。こういうところにも、ミリーシャは敏感なのだ。




「わかったわ。んーと、寝てばっかりもあれだから少し歩きましょうか」




 ミリーシャが立って、私に手を差し伸べる。私はその手を掴み、立ち上がる。掘立小屋のガタついたドアを叩き開けて、生ごみや吐瀉物などがそこかしこに散乱されている薄汚いスラムの細道を歩く。




「こういうときはね、なにもかんがえないでおひさまのしたを歩くのが一番いいのよ」




 気にかけてくれている。ミリーシャはやっぱりミリーシャのままだ。




「ありがと、ミリちゃん。少しずつだけど、元気がでてきた」




 もうすこしでスラムを抜けて、交易都市のはずれの森林地帯にでる。草や木々の葉がゆれて、心地いい音を奏でる。朝露の水滴が映えて、世界を光の粒々の反射で染め上げる。ああ、もう大丈夫だ。




 ……だいじょうぶ?




 なのに、まだおもい。




 私にはなにか果たさなければならないことがあるような気がする。




 ちがう。そんなものはない。全て夢だったのだから。




「ねぇ、やっぱり訊きたいことがあるの」




 ミリーシャが私を背にしたまま立ち止まる。なんだろう。




「私ね、驚いてることがあるの。……男のこと、前向きに話せる子だったの、ラスちゃん?」




 それを言われた時、私は凍り付いた。指の先に血が通っていないような感じがして、それでも動けなかった。頭が冷えて、痛くなった。息がろくにできなくなって、それでも唇はあまり動かない。私だけが急に凍土に放り込まれたかのように。




 ……何故かは分からない。あれ? 私って男のことを前向きに話してたっけ? 夢の中にしか存在しない、エル・ハウェのことを前向きに? そうか、夢の中の存在だからいいんだ。




「夢の中だけの存在だから、かな」




 ……




 ……




 ……




 どうして、私はいま、わざわざ『夢の中”だけ”』と強調した?








 やばい。急に後ろめたくなってきた。足が重くなって、今にも地面に沈みそうだ。もうほんの少しでも手を動かすことができない。明るく光り輝いていたはずの世界が徐々に光度を下げていき、やがて視界は青白いモノトーンにそまる。






 私はこわい。






 私の首を、もう一人の私がつかんではなさない。そのわたしは、わたしにこういう。






『わたしの罪をわすれるな。エル・ハウェをわすれるな。あのひ、脳が露出したアルを。殴打されまくって痣だらけの血まみれのまま死んだリーテを。腸がまろびでて血まみれだったミリーシャをわすれるな。そして、すべてせおって地獄へと身を投げ捨てに行くんだ』


 






 そう囁いてくるもう一人の私は私の身体に溶け込む。思考が、侵食される。夢ではもう済ませられない。夢なのに。夢じゃない。夢じゃ在り得ない。




 ここは”試練”で、覆ることのない現実の地続きだ。グノーモンの寺院も、エル・ハウェも、ぜんぶ真実で。ここは、”試練”が見せる幻の世界。




 泣きたくなったが、既に涙は泣ききって涸れている。取り戻した元気が抜けていって、天地が横に回転する。柔らかい草花が私の側頭部を受け止めて、潰れる。




 柔らかったはずの草花の大地が固く、冷たくなっていく。青空は暗く窮屈な石の天井に変わり、限りなく解放されていた空間は岩の壁に囲まれた狭く淀んだ空間に変わる。辺り一面を照らしていた日光が松明の火に置き換わり、少しの範囲しか照らさない。この狭い空間の中で、更に檻に囚われていることに気が付く。


 ———目の前に立っていたミリーシャがどさりと倒れる。




「ミリー、シャ?」




 絶望に奪われていた力がその時だけは身体に戻って、すぐに倒れたミリーシャの元に駆け付ける。ミリーシャは伏せたような恰好になっていて、様子が詳しくは分からない。……でも、しっているきがする。


 喉奥に強烈な異物感を感じて、熱くて気持ち悪い液を吐いた。 




 ミリーシャをひっくりかえしたら、ちょうがまろびでていた。




 ふりかえると、アルがのうをさらけだしていた。




 アルのそばでリーテがあなをほったかっこうのままちをながしてうごかなくなっている。






 よくみるとさんにんのふくがだれかにひっぱられたかのようにのびていたぬがされそうになったんだそれでひっしにていこうしてとじこめられてころされて




 ここでしんだんだ




 あの日、わたしは富豪につかまってここに押し込まれたんだ。それで、檻に閉じ込められてすぐ、みんなが死んでるのを見てわたしはにげた。手を合わせもしないで、ただおどろいておびえてなきわめいて。こころがぐちゃぐちゃになってあたまがまっしろになって、それでなにもしないままにげたんだ。




 あのあと、なかまたちはどうなった? からだは、どうなった? いまもここにねむっている……?




 わたしがほっといたのがわるい。なかまだったのに、死体さえもたすけられない私がわるい。たすけようとすら思いつきもしなかったわたしがわるい。




 まだ気持ち悪い液がついたままの歯で無意識のうちに腕を噛みしめて血を流す。


 


 どうして、わたしだけいきてるんだろう……








 刹那、空間が”切り替わった”。




 仲間の死体と陰湿な地下室が嘘のように消えて、今は水滴を人が入れるような大きさにした中身のような空間の中にいる。




 何の仕業かはわかっている。


『ラス・アルミア。ようこそ、試練の間へ』


 振り返る。少し距離を置いたところに、ある日覗いた川の水面に映る自分の姿と同じ姿をした人間がそこにいた。


「あなたが、さっきの様子を見せたのか」


 拳が怒りに震えて仕方ない。私の目つきは激情に尖り、喉仏からは憤怒のあまりの呻き声が漏れる。


「気分、良くないんだけど」


『……すまなかった。だが”あれ”は試練に挑む者の自覚に足りないものを補うための助け船のようなもので、”試練”に備わっている機能なのだ』


 つまり、さっきの様子の中に私の心に足りないものがあるとこいつはいいたいのか。正直、怒りと悲しみで溢れそうになって仕方ないが、ここはこらえざるをえないだろう。 


『それでは、ラス・アルミア。貴女に試練を問おう』


 エル・ハウェの為に、ここはもう下がれない。


『”生”とは何なりや』


 刹那、思考が凍り付いた。”生”。”生”? まず”生”の何を答えればいい? ”生”をどう答えればいい? あまりにも取っ掛かりが無さすぎて分からない。あまりにも漠然で曖昧とした、巨大すぎるテーマを突き付けられて答えろと言われてもどうしようもない。


「あ、え、ええと……」


 問いの訳の分からなさと自分の頭の足りなさに時折呻いてしまう。視線が空を泳いでしまう。幾ら思考を巡らせても、ただの一つの言葉さえも出てこない。浮かむ瀬無き思考の果てに、答を掴めるはずがない。


『最後の助け舟を出そう』


 私と同じような姿をした”ソレ”は私を見かねてのことなのか、口を開く。


『先ほどの問いに関してだが、”試練”はなにも絶対の答を求めているわけではない。その答えを通じて、回答者その人の生き様や生に対する姿勢を見極めるのだ』


 私を形どった貌にはめ込まれた、私のものではないような瞳が威圧の刃を私に突き付ける。手足が一瞬にして凍ったような錯覚に陥り、胃の中に何かが溜まって吐きたくなるような苦しみを覚える。


「生き様……?」


 ようやくおうむ返しにするその言葉に思考を巡らせる。……”アレ”が言ったことを察するに、私は私の人生を通じて答をいわなきゃならない。


 私の人生? 地べたを這うような生活、それさえも仲間か死に、私一人だけその後の意味のない生を送って、何もない人生から何を答えろというのか。意味のない答で、”試練”が満足するわけがない。


 今までの人生を思い起こす。……物心ついたときは薄汚い孤児院にいて、あまりにも虐待がひどかったから一人逃げ出して、仲間たちと出会ってあの小屋に住み始めて、でも稼げる腕が無かったから身体を売って、仲間が死んで一人に戻って、仲間を見捨てて彷徨い、ここに辿り着いた。……誰一人救えていない。善行などただひとつもしていない。私の生き様なんて、塵芥ほどの価値もない生だ。


 ここの”試練”は、私などのような者には門前払い程度のものだったのだ。もうあきらめよう。


「私の生は、身体を売って稼ぎ、常に強者に媚びへつらうか逃げるかしかない、善行をただひとつもできなかった、何もいいところがない生でした」


 言った。自分の生を正直に述べた時、自分の心を表面の荒い石で擦りつけるような感じがした。汚点だらけの生を述べなければならなくて、自分の心は正直滅入った。


 私と同じような姿をした”ソレ”は、呆れたように溜息をついた。


『当然、それでは不合格だ』


「ほかにどう説明できましょう?」


 暫しの間、沈黙が流れる。”ソレ”は憐れむような目つきで私の瞳をじっと見てくる。それが耐えられなくて、ただひたすらに視線をそらす。


『何回でも挑める。今はただ考える時間がいるだろう』


 考える時間? 意味のない時間だ。自分の心の中で、何かが終わる。思考は闇そのものになり、ただ目の前にある現実すべてがどうでもいいものになる。無意味、無価値。ああ、私はなんでここに来てたんだろ。ただ一人の人間すら救えない。私の生が無意味で無価値だから、エル・ハウェも、誰も救えないんだ。




 ……いい加減、終わりにしよう。




「ここから出させて」








       ◇◇◇






「作戦を練っている間に、ラスが入ったのか」


 光宿さない瞳で、エルは試練に続く隠し扉を見ながら独り言ちる。日は沈んで、彼の持つ松明と満月しか明かりはない。


 「……ん?」


 足音が、闇の底から聞こえてくる。上がってきている音。おそらくはラス・アルミアが上がってくる音。


 闇から彼女の顔が現れる。彼の頬に冷や汗が一滴。


「どうだった?」


 答の分かり切っている問いを出す。彼女の、もはや空虚としか言合せられないような無表情を見れば答なんて分かりきっているものを。


「失格。それ以外に何もない」


 それきりエルから視線を外して彼女は彼を横切り、二階へとつづく階段を昇る。——その彼女の腕を、エルは、ほぼ直感で、ほぼ反射で、掴む。彼女が危ういと感じたから。階段の中腹で、エルがラスを止めている。


「どこに行くんだ……?」


 日は沈んで、彼の持つ松明と満月しか明かりはない。


「高いところ」


 早口で答え終わるより早く、ラス・アルミアは掴まれた腕を振りほどこうとする。階段を上がる脚に力を入れて、腕を左右にできるだけ強く振る。彼女が階段を1つの段上がろうとしたとき、エルは引っ張られて足の安定を失い、階段を踏み外す。彼は転倒し、掴んだ腕と松明を放す。松明は階段を転がり落ち、石の床に激突して明かりが消える。ここぞとばかりにラス・アルミアは階段を一気に駆け上がる。


「まってくれ……」


 痛みに耐えて情けないぐらい弱い声を振り絞りながら、エルは立ち直って階段を駆け上り、彼女の足音を頼りにラスを追う。暗い中で壁にぶつかり、歩くたびに転倒した足が軋んで激痛が響きながらも、エルは耐えて彼女を追う。三階へと繋がる階段を見つけ、昇り、長い回廊を走り、天まで届きそうな狭い階段を四肢を活用して獣のように駆けあがり、また長い回廊を息が途切れ途切れながらも突っ走り、体重の全てをかけて重い重い扉を開ける。


 ……風が吹いている。冷たい風が吹いている。天井は無く壁はところどころ崩落しており、石の床が広がる、月の光が眩い空間の中、ラス・アルミアは正に崩落した壁の隙間、石の地面の端に立っている。その先に床は無い宙で、踏み外せば墜落するしかない。


 龍は、ただラス・アルミアの方を見て佇んでいるのみ。動く気配はない。




 風が吹いている。いつもなら落ち着いて聞こえただろう風音が、この時だけはやかましい。そう感じながら、エルは足を引き摺ってラス・アルミアに近づく。一歩、一歩。それでも、彼女との距離はまだ遠い。ふと、エルは彼女を止めない竜が気になった。


「グノーモン様っ、なぜ止めないのですかっ」


 龍の視線が彼の方に動く。


「私は他の者にあまり干渉しない。命をどうするかは、その者の決断に因るのみ」


 その眼差しは、どこかしおらしく、龍という伝説には相応しくないくらい無力だった。


 一歩、一歩、怪我していない右足で左足を引き摺りながらも彼女に近づく。それでもエルとラスの距離は、まだ手が届かない。


「ラス、やめるんだ」


 自分が言えた義理じゃないと自覚しながらも、エルは彼女に呼びかける。


「自殺なんて、君には相応しくないマネはやめてくれ」


「そこで止まって」


 エルの足が止まり、彼女に向けて伸ばそうとした腕も止まる。


 静かだ。凪いでいる。満月に見下ろされて、彼と彼女は向き合っている。


「俺は、君が死ぬべきだとは思わないんだ。いや、むしろ、死んじゃだめだ」


「なんで?」


 ラス・アルミアの瞳は、もうエルを捉えてなんかいない。ただ彼女自身の足元を、生と死を分ける、石の床が途切れているところを見つめるだけだった。


「仲間がみんな死んだらそりゃ、悲しくなって死にたくなるかもしれないけど。でも、君は俺なんかよりずっと善人で、だからむしろ生きるべきだと思うんだ」


「資格がないのに?」


 ラスが、彼女自身を突き放すように言う。彼女の眉間に皺がたまり、彼女の身体全体が震えている。——そして、今まで堰き止めていたものが溢れ出す。


「私は仲間を見捨てた。仲間の遺体をあの場所からどうしようと考えず、ただ私だけが私自身の自分勝手な恐怖に従って、おめおめと今日まで生きてしまったんだ!!!!」


 初めての、怒りの告白。


「だから、だから。私は、そんな自分の罪を、こんなに重い罪を背負ってまで生きていようとは思えない。私は、私の罪によって死ぬべきなんだ!!」


 あまりの苛烈さに、エルがたじろぐ。その隙に、ラスは荒れた呼吸を整えようと、乱れた髪を直しながら深呼吸する。


「さようなら」


 訣別の言葉と共に、ラス・アルミアの片足が何もない宙へとずれようとする。


 エルが、足の痛みを忘れてラスのもとへ駆け寄ろうとする。その一瞬だけ、エルの頭が全部真っ白になって、たったひとつの疑問だけが真っ白な世界にくっきりと刻まれている。—そして、頭から口に流れ込み、口から迸り出ようとする。




「貴女は今日にいたるまで」




 片足がもうつま先から後ろは宙に浮いた頃に、エルが叫ぶ。




「何の罪も犯していないじゃないか!」




 —そして片足が完全に宙にずれて重心が外側にずれ、ラスの身体が落ち始める。








       ◇◇◇








  「さようなら」


 訣別の言葉と共に、私の片足が何もない宙へとずれようとする。


 これで全て終わり。私の罪と私の苦悩は、少なくともこの世界からは消え去り、私の魂と共に地獄へと堕ち去るのだ。


「貴女は今日にいたるまで」


 エルが、顔を赤くして、傷付いた足を踏んばって、叫ぶ。


「何の罪も犯していないじゃないか!」


 その言葉が耳から流れて頭の中で言葉になったとき、心臓を縛り付けた鎖が矢で貫かれ砕かれた、と感じた。自分への罪悪感と怒りで煮えていた心に冷たいものが流れてきて、奇妙な温度差に気持ち悪さを感じ、吐きたくなった。




 —そして片足が完全に宙にずれて重心が外側にずれ、私は落ち始める。床を踏んでいた片足は傾き、かかとを軸に身体が床と平行になって、私の頭が床より下になった。真上に満月が見える。私の死を見届けている。愚かな罪人の自らによる死刑を見届けているんだ。まだ地面と衝突しないのかなと思った直後に、例えて言い表すならば巨人に体当たりされたような衝撃を感じた。不思議と痛みは無かった。視線が地面と平行になって、視界の半分を草の森が邪魔して、もう半分は、遠くに寺院の中庭の景色が見える。首が動かない。いつもなら簡単に首を起こせるのに、できない。手が、腕さえも、いつの日か寝相が悪くて自らの腕の血管を締めてしまった時と同じような感覚で、どこにあるかわからない。足もどこにあるかわからない。胴体も、どうなっているかわからない。なにもきこえない。温かさや冷たさも感じない。今こうして草が鼻に触れているのに、青臭い匂いも感じない。直感で、ああ、もう終わったと感じた。私の中でまだ視界だけが生きているけれど、それも終わりを告げる。視界がぼやけて、緑色は何だったのか分からなくなってきた。ボヤけにボヤけて色も分からなくなったころに、何かが動いた気がしたけれども、もう知るすべはない。そのうちにまっくろになった。まっくろな世界の中で、それでもなお、私の心の中だけは、熱く煮えたぎったものと冷たいものが突然混ざったような、まだ冷め切っていない奇妙な温度差のせいで気持ち悪かった。でも、もうすぐ私は死ぬ。そうしたら、この気持ちもなくなる。








 ラス・アルミアという一人の罪人は、寺院の高層から転落し、寺院の中庭で草花に囲まれて息絶える。








 ——まっくろな世界の中で溶けゆく自らの意識のなかで、彼女はそう感じた。






     ◇◇◇






 ラス・アルミアは中庭の石敷の歩道の端に落ちて顔が草花の生い茂る方を向いたまま気を失っている。頭から血を流して、石敷の歩道のあみだの溝を流れる。


「ラス、アルミアっ……!」


 あしひき足を引き摺りながら、俺は中庭を降りる。彼女を見つけるや否や、転倒して這ってラスの元にたどり着く。石敷の歩道の溝に血が流れているのを見て瞳に涙が溜まり、手を彼女の口元にかざして呼吸を確かめて生きていることを確認し、一息の安堵をつく。ふたたび溝を流れる血に目が行き、緊迫感を覚える。服の袖を破り、彼女の頭に巻き付ける。勉強していたはずの応急処置の知識が記憶の大地にとっつらかって、思い出したいのに思い出せない自分にいらだって爪が食い込むほどに手を強く握りしめる。


「生きてくれ。申し訳なかったから、生きてくれ」


 現在進行形で、俺の胴に胸に穴が拡がっているような気がする。俺の皮膚や神経系は穴の端っこに、振り絞られるような感じで追いやられているようで、辛い。そうして、この穴の拡がりはラス・アルミアの命の灯と同じなのだと気付いた。彼女が死んだときが穴が拡がりきるときで、そのとき俺は壊れてしまうだろう。いや、俺のことはどうでもいい。彼女は、とにかく助からなければいけない。俺の罪で、誰かが死ぬなんてことはあってはいけないから。


「止まってくれ、血が流れてこないでくれ……」


 鼻水で息を詰まらせながらも、服を裂いた切れ端でラスの頭の傷を圧迫して、彼女の命がこの地上に留まるように願う。




「お願いです、お星さま。神様。俺を地獄に沈める代わりにラス・アルミアの命を留まらせてください……」




 信じてもいない神に、らしくなくも縋る。




 その時、俺の横を、透き通るような、細くてか弱い、風のような何かが吹いていった。








     ◇◇◇






 真っ暗闇の世界、手首に目をやると大きくて重い鉛の枷がかけられている。足首も同じ。繋がれている鎖は暗闇の無限のはるか向こうへと繋がっているように見える。そうか、ラス・アルミアという一人の罪人はもう地獄にいるんだ、と私は思った。伝承や宗教の地獄とは違って何も見えないけど、きっとこれが真の姿なのかもしれない。


 と、辺りの風景に違和感を覚える。完全な闇じゃなくなっている。いろがかわっている。かたちがかわっている。空間の実像そのものが変化しているように見える。ああ、暗闇は地獄じゃなくて、変わりゆく先の世界こそが地獄なのかな、と思った。


 無限は石の壁と檻に囲まれた有限に、闇は壁に掛けられた松明のまとうダークオレンジへと、変化してゆく。世界が変化してゆくごとに、瞼をつむりたくなってくる。どうして。何故かはわからないけど、世界が変わりゆくごとに、吐き気が強くなる。


 目をつむり、体育座りで膝を強く抱きしめて引き寄せ、脚の内側に顔を強く押し寄せる。いやだ、いやだ、いやだ。耐えきれなくなって、喉奥から熱くて苦い液がせりあがる。口の奥にまで来る。うっ。喉から口へ中身が溢れる。げええっ。喉に苦しい液が染みこんで灼ける。舌を熱い液が伝って、とても苦い。太ももが酸っぱくてまずい匂いになる。はぁ、はぁっ。身体全体が小刻みにふるえる。心がさむい。無意識に手が胸元に行く。胸に爪を突き立てて、抉るようにかきむしる。強く、ゆっくりと、指先の半分が入るような溝を作りながら、血の出るのを躊躇いもしないで、ただ気をそらして紛らわせるためだけに、かきむしる。


 景色は完全に変わったのだろうか。目をつむって太ももに顔を埋めているから変わったかどうかはしらない。




 けれども、ここが地獄ではないことは確からしい。




 だって、ここは。




 みんなが死んだ、あの地下室。




 太ももに冷たいものが伝う。ああ、私、泣いている。この世界に神がいるかどうか、分からないけれど。死や魂をコントロールできる存在がこの世にいるなら、私はソイツを恨む。私の魂の永遠を、私の最悪の思い出の場所に閉じ込めるんだからな‼




 でも、これも私の罪のせいかもしれない。ここは、私の罪が生まれた場所。激しくなった呼吸を、苦しいながらも整えようとする。罪が理由ならば、私は荒れたりしてはいけない。ここで、私の永遠を私の罪と一緒に過ごすんだ。








 「ごめんね」








 え?




 私の声じゃない。




 誰かの声だ。




 背筋が凍る。




 だって、この声は————




 苦しい体育座りから、顔を上げる。






 リーテだ……。




 リーテが起きて、うごいてる……。




 怪我だらけで血だらけだけど、こっちを覗き込んでいる……。




 リーテ……。




「りーて……いきてだのぉ……?」




 鼻が鼻水でぐしゃぐしゃになる。泣いちゃう。抱きつきそうになって、リーテが血まみれの怪我だらけということを思い出して、寸前でとめる。




「りーてぇ、いだくないのぉ……?」




 私の腕の裾で、リーテの血を拭く。いきてた。いきてだよぉ。




「いきてたぁりーてぇ、でもこんないたくなっちゃってぇ、まってねいまおうきゅうしょちしてやすもうよぉりーてぇ」




 よかった。よかったよかったいきてたリーテけがをなおしてわたしといっしょにいきようリーテ




「あのね」




 一心不乱に半ば正気を失いながらリーテの血を拭く私の肩を、リーテが強くつかむ。驚いて、血を拭く腕をとめる。




「あ、あ……いたかったの? ごめんね、でも」




「わたしはもう死んでるよ」




「え?」




 ありえない。だっていまリーテがめのまえで




「もう一度言うよ? 私は死んだの」




「あ……ああ……」




 そういうことか、そういうことなんだ……




「じゃあ、わたし、しんだからこっちきたんだぁ。そっかぁ。ふへへ。ここどこ?」




 しんじゃったけど再会できてうれし。アルとミリーシャはどこだろ。




「そんで、ラス、おまえはまだ生きてる」




「え?」




 素っ頓狂な声が出た。だってありえないんだもの。




「ありえないよ、リーテ。わたし、おっこちてしんじゃったもん」




「落っこちたけど生きてるって言ってんの。な、アル、ミリーシャ」




 リーテの言葉を合図にしたかのように、リーテの背後でふたりがおきあがる。アル、まだ脳みそが見えてる。ミリーシャ、お腹に手を当てながら起き上がって来てる。




「ラス姉、リーテ姉のいう通りだよ。私たちは死んだけど、ラス姉は生きてる」




「それにしても、私たちをこんなにしたアイツはないわね。生きてたらグーパンひとつ、いや、うんと痛い目に合わしてやりたかったのにね、ね、リーテ」




「はは、ミリちゃんもそんなこというんだね……、でも同感だよ」




 三人が会話してる。いきてるのに、しんでる? こんらんする。




「あ、えーっと……ラス。単刀直入にいうと、ここはおまえの精神世界だな」




 あたりをみまわす。ここはみんなが息絶えていた地下室。たしかに、精神世界とかじゃなければ、私がここにいる説明がつかない。でも、なんでみんなは?




「どうして、みんながいるの?」




 リーテが、アルとミリーシャに目配せをして、三人が一斉にいう。




「おまえを」


「ラス姉を」


「ラスちゃんを」








「「「たすけにきた」」」








 たすけにきた? もしかして、死んだみんなの魂が?


「まだ信じられないような顔だな、ラス。ま、この世界は時間がいっぱいあるみたいだから腰を落ち着けて話そうか」


 と、立ち上がっていたみんなが私のそばまで来て、地べたに座ろうとする。——スカートを整えようとして腹から手を放したミリーシャの腹の穴から腸がこぼれた。


「こぼれちゃう!」


 急に心がきゅってなって、反射でミリーシャの腸を腹の穴に戻して、穴を手で塞ぐ。


「こぼれちゃダメ! ……ダメなんだから……」


 脳裏に浮かぶのは、みんなが息絶えて死んだ姿。落ち着きかけていた呼吸がどんどん加速して、息が苦しくなる。ヒュッ、ヒュッ。全身が震える。それにまた気持ちが悪くなってきてる。うぅ、きもちわる……。




「大丈夫だって」




 は、となって後ろを振り向く。リーテが私を抱いている。もう死んだはずの身体から温かさが伝わる。気持ち悪いのが引いて、身体の震えは収まってきている。呼吸が落ち着いてきた……。


「ミリ姉、私の服破るから穴塞いで」


「私からもお願いするよ、ラスがこれ以上怯える姿は見たくないんだ」


 アルが服を裂いた布でミリーシャが腹の穴を塞いで、私に向き直る。


「ごめんね、ラスちゃん。注意が足りなかった。それと、ありがとう」


「いや、ミリちゃんが謝ることじゃないよ……」


 ミリーシャの塞いだ腹の穴を見ながら、思う。これは私の罪なのだ、と。あの日、みんなの死体を前にして何もしなかった私の罪なのだ。……仲間たちが私を助けるといっても、私には罪があるのだから、助けられてはいけないのだろうな。


 みんなのあの日の怪我そのままの姿を見回してから、私は両膝を地面につく。


「私から、言わなければならないことがあります」


 死んだ三人が座って、私を見つめる。視線がいたい。


「私は、5月23日、あの日に、この地下室に連れられてきました。そして、みんなが息絶えてるところを見ました。……うっ」


 口を押えて、こみ上げる吐き気をなんとかこらえる。リーテが心配そうに手を差し伸べようとしたけど、ミリーシャが止めた。


「ごめん。……みんなの死んだ姿を見て、私は頭が真っ白になって、気が付いたら抜け道から逃げ出していました。私は、みんなに対して何もしませんでした。仲間だったのに、家族も同然のみんなだったのに、私は、見捨ててしまいました。それが私の罪です。ごめんなさい」


 頭を地面まで下げて、私の罪を謝罪する。赦されないのだから。




「えぇ? 悪くないわよ、ラスちゃんは」




 悪くないはずがない。




「私は、みんなが死んだのにのうのうと生きて……こんなの良くないよね」


「いや、良いよ良い、生きてろよおまえは」


「ラス姉は思いつめすぎだよ」


「でも」


「はい、ストップ」




 リーテが私の口を塞ぐ。


「もうこれ以上は言わせないよ、ラス」




 私の口を塞ぐ手をどかそうとして、はたと私の手が止まる。果たして、私がリーテに抵抗する資格などあるのだろうか?




「単刀直入に言うけどさ、」


 リーテが唇をなめ、唾を飲み込む。








「お前、自分の絶望を自分の罪に置き換えて自殺を正当化してんだろ」








 ……え?


 そうか?


 そうだったのだろうか?


 いやでも、これは私の赦されない罪。


 ……それならば、私に何ができたというのだろう。


 あの時あの場で、何かできることはあった……はず……


 ……考えれば……考えるほど……


 ……確かに、私は何を考えていたんだろう。


 


 刹那、白い矢が私の頭を貫いて私の古い凝り固まった思考が砕け散っていく、そんなイメージが私の頭を貫いた。そうだ、私は……








     ◇◇◇




 




 みんなが死んだあの日、喉が渇ききっておぼろげな意識のまま、棒のような足を引き摺りながら私はみんなで一緒にすごした掘立小屋に辿り着いていた。陽は完全に堕ち、月明かりだけが帰路を照らしていた。死んだみんなを触った血だらけの手が煤を被り、埃まみれのものをどけて、転んで泥にまみれて、元が赤かったのか分からないくらいぐっちゃぐっちゃの黄土色と茶色の模様になっていた。


「アル?」


 空っぽの心から飛び出た最初の声が、仲間の名前だった。


「ミリーシャ?」


 私は探していた。寝るために身体にかける藁を除けて、そこに仲間の寝姿をみようとした。。


「リーテ?」


 いつもならこの時間に誰も居ないはずがない。急用でもできたのかな、と思っていた。無意識に。そうして、みんなの分の明日の朝の飯がないことに気付く。


「アル、お腹空かしちゃうなぁ」


 私の足は、その日は限界を迎えていた。みんなを探して屈んで膝を床板につけていた足をあげようとして、私は足がもつれて前のめりに転んだ。


「あ……」




 自分が転んで、床に手をつく。手が目につく。ぐっちゃぐっちゃの模様になった手だ。




「……ちがう。ちがうちがう。みんなは、もうとっくに……」




 フラッシュバック。あのせまい牢屋の中で、みんなは死んだ。




「嫌あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」




 現実の奔流が、どうしようもない私を飲み込む。違う違う違う、と何度否定しても、私は現実に抗えなかった。私の思考は現実で塗りつぶされて、もはや、仲間たちが死んでいないという虚構をしんじることはできなくなった。たまらず、既に限界だったはずの足を無理やり立たせて、迫りくる絶望の衝動だけに背中を突き押されて、私は走った。




 暗い森の中、衝動は収まって、過去になった運命という名の現実の揺るがなさの前に無力を感じて、もう動かない事実を前に、私は、静かになった絶望に沈んでいた。そして、生物なら抗うことのできない生理である睡眠に落ちる。


 目が覚めると、朝だった。太陽が地平線から顔を出して、空をトロイメライの橙色に焼く。木々の葉々の交わり合う無数の小さな隙間から光がこぼれ、土の大地に摩訶不思議大量の模様を照らして作る。でも、私には、そんな模様たちなど見えなかった。夢など見なかった。瞼を開ける前、意識が戻ったとき私は、もはや目覚めても私のいきるべき世界は無いのだと感じていた。目が覚めても、暗い森のまま。目の前にうつる世界が、私には世界だと感じることができなかった。世界そのものが設置されたオブジェクトでしかなかった。太陽も、森の木々も、地べたを走り回る栗鼠も、ただそこにあるだけのオブジェクトにしか感じられなかった。ありていに言えば、その時の私の精神は死んでいたようなものだった。背中を木に預けて、その日は動かなかった。かつての仲間たちとの生活を思い出しては咽び泣き、無表情に宙を見つめるだけだった。




 次の日また目覚めると、私は立った。私の脳裏には、仲間たちを殺した男の顔がまざまざと浮かんでいた。私の心は完全に黒くなって、憎悪と憤怒でいっぱいだった。それだけじゃない。私たちを抑圧したものすべてが憎い。男が憎い。いつもそうだった。私たち女は抑圧されていた。娼館のおかみはいつも兵士に強請られて払うべき金の3倍をいつも払わなければならなかった。だからおかみは壊れて私たちを酷使する羽目になった。わたしを買った客は大抵らんぼうで、何度死にかけたか。挙句の果てには、富豪が私たちの仲間を、一銭も払わずに、その命を蹂躙した。私が大好きだったものと私をいつもいじめているのは奴らだ。男どもだ。口から涎がでて、私はその時だけは自分のことを復讐に餓えた獣だと思い込んだ。


 その時、背後から音がした。罠を確認しに来た猟師、男だ。私は石を拾い上げようとして、男と目が合った。視線が繋がって、私は恐怖した。頭を殴られた記憶が、胴を殴られた記憶が、腹を蹴られた記憶が、腕をねじ伏せられた記憶が、棒で脚を打たれた記憶が、暴力の記憶が、一斉に、痛みを伴って、身体と精神に再生された。耐えきれなくなって、吐きそうになって、寸前でこらえて、私は走った。男に背を向けて、走った。




 気が付けば、私は森があけて足元が崖になっているところまで来ていた。遠くに、巨きな霧の柱が見える。足元の崖に目を見やる。かなり深く、落ちてしまえば死は免れないように見える。———私は崖の下を見ると、ほっとした。もし今落ちれば、重くて暑苦しい憎悪の感情も、仲間に対して何もできなかった後悔も、全て脱ぎ棄てて楽になれると思ったから。崖の下に私の落下する軌跡を見出すと、心の底から安心したような気持ちになれた。ならば、答はひとつしかない。嬉々として花園に足を踏み出すように私は、崖の先に向かって右足を上げた。


 上げた右足で、私は後退っていた。どういう理屈で右足がなぜ下がったかは知らない。崖の下を覗く。急に心臓がきゅうってなって、目を逸らしたくなった。どうして。どうして。


 それは、本能からの応答だった。魂の奥底からの叫びだった。私を形作る精神の心髄は、”生きたい”と、確かに言っていた。


 そっか。


 そうなんだね。


 私はまだ、私を死なせてくれない。


 ……でも。私は、こんなにも死にたい。


 仲間が死んで、今の私には金も力も希望も、すべてが無い。心の底で絶望と悲しみと怒りがわだかまっていて、今わたしがここに生きているだけで精神が削れて辛い。


 私は泣きながら、歩いた。胸の中に絶望を抱えたまま、生きたいと叫ぶ心を抑えながら歩いた。極限状態の私の中で、生きたい想いと死にたい願望が鬩ぎ合う。その鬩ぎ合いの余波が私の身体と心を削っていた。生きたいと願うたびに心臓が締まり、死にたいと思うたびに心が悲鳴を上げた。私は泣きながら、歩いた。生への希求と死への甘い誘いが鬩ぎ合って、私の精神は削れて行った。もはや言葉すら覚束ない精神の中で、何かが芽生えた。


 そうだ、私は悪い……。


 不意に、その言葉が口をついて出た。


 あの時何もしなかったんだ。私は罪人なんだな。


 在りもしないはずの罪が、私の中で大きくなっていた。死にたいという絶望が、私の精神を歪めて、私の中に罪の萌芽をつくった。




 ファルネスの大霧に彷徨いこみ、エル・ハウェと出会う中でも、罪の意識は確実に私の精神を蝕み、罪のつぼみは次第に大きくなって、とうとう私のすべてを飲み干して満開に咲いた。




      ◇◇◇






「そうだったんだ」


 いま初めて、自分の心の中にある異物に気が付いた。本来ならば在り得ないはずの罪の意識。


「わたしは、死ぬ必要があったんじゃない。ただそこに、死にたい気持ちと生きたい気持ちがあっただけだったんだ……」


 世界の全てを呪い拒絶しながら死に向かう気持ちが私を支配する中で、僅かに残った『生存欲求』がしぶとく抗った。その中で『絶望』は『生存欲求』を断絶するために、罪を使った。


「死にたかったから罪を作ったんだ、私。気付かなかった……」


 不思議な感覚だ。それまで私の心に張り付いてしつこく離れなかった死への義務感が、ベリベリと音を立てて気持ちよく剥がれていく。私の心が、身体が軽くなっていく。私の手や足を拘束していた、重苦しい鉛の鎖にひびが入って、あっけなく砕けていく。




 周囲の景色があの日みんなが死んだ冷たい牢屋から、お日様の差し込む温かい私たちの家に変わる。みんなの見た目から怪我が消えて、まだ生きていた頃の健康な姿になっていった。


「思い出したか? ラス」


 リーテが、ようやく気付いた私を察して声を掛けて来た。


「うん」


 温かい日差しの中、木調の床に数滴の水滴が零れ落ちる。微かな嗚咽が漏れ出る。さっきまで冷め切っていた身体に熱が戻る。ずっとしていなかった、生きている実感が今になって思い出されている。私の喉や胃、腕や足などが私の身体の一部として確かに繋がれているという実感が温かみを帯びて感じられる。私のこころが全身に行き渡って末端までも動かしている。私は生の実感を噛みしめながら、そこにしばらく座する。手を握り、つま先を動かして、鼓動を感じる。仲間たちは私を囲んで、私を見守っている。


 温かい沈黙の中で、私は口を開く。


「ねえ、みんな」


 アル、ミリーシャ、リーテの顔を見回す。


「私、生きようと思うんだ」


 巨大な絶望に懸命に抗った魂は、ようやく日の目をみる。闇の残骸から生存欲求の私は這い出て、ようやく光あふれる大地を踏みしめる。


「よかったぁ。生きてね、ラス姉ちゃん」


 とアル。ミリーシャは私の手を握って、私の顔をみる。


「私たちは死んだ。もっと生きたかったけれど、もうどうにもならない。だから、私たちの願いの分だけ、ラスちゃんには生きてて欲しい」


 私はミリーシャに返す。


「うん。私はこれから自分勝手に生きようと思うけど、それでもいいなら」


 ミリーシャは涙を流しながら大きくうなずいた。リーテは何も言わずに、ただそっと私を抱きしめる。私も何も言わず、ただお互いの心の温かさだけを交わす。言葉を伝えなくても、この抱擁だけでリーテの気持ちが伝わってくる。私も、この抱擁でリーテに気持ちを伝える。お互いに顔を見つめ合って頷き合い、抱擁をほどく。


「さて」


 今になって、後悔した。あの時、どうして私は飛び降りてしまったんだろう。そのおかげで、この精神世界から目覚める術が分からない。


「どうしよ」


 現実世界に帰る方法に悩み始めた私に、リーテが言う。


「そりゃあ、まだギリギリお前は生きてるからな。あとは、あのエルって奴とグノーモン?っていう龍が何とかしてくれるのを待つしかねえんじゃね」


 リーテの言葉に、一縷の望みを見つける。


「グノーモン様。そうだ、あの龍なら」


 全てを超越した存在なら、きっと私の魂からの呼びかけに気付いてくれるかもしれない。だから、私は魂の底から精いっぱい叫ぼう。みんなのお家の掘立小屋から表に出る。スラムの狭い小路には、ただのゴミ一つも落ちていない。私たちのほかには何もいない。頭上に燦然と輝く太陽を見上げて、私は力の限り叫ぶ。


「生きたいから、蘇らせて!!!!!!!!!!!!」






      ◇◇◇




 寺院4F。私の第六感が、ラス・アルミアの叫びを聞いた。はっとして、私は四肢を走らせて崩落した壁の崖の下を見る。エル・ハウェが泣きながらラス・アルミアに応急処置を施している。ぐったりとして何の反応も示さないラス・アルミアの魂の色が、飛び降りる時まではくすんでいた灰色だったのに、今は光り輝いてみえる。死の間際で、ようやく彼女がポジティブな感情を持てたのだ。今、彼女は生きたいと叫んでいる。


 彼女を助けなければ、と4つの足が走り出す。四枚翼の銀翼を羽ばたかせる。剛翼は強き風を孕み、風が床と衝突し、円状に空気の波が広がってゆく。月を背にして、私は空へと上がってゆく。


 息を吸って、吐く。私がこれからするのは、極大の回復魔法だ。死に瀕した人間を甦らせる。飛んだ跡に私の魔力の線を引こう。銀翼を羽ばたかせて、空に円を描く。今度は円の中に六芒星を描く。最後に、円と六芒星の中央で滞空。息を吸う。吸う。吸う。吸う。肺の許すかぎり沢山吸って、息を止める。エル・ハウェが心配そうな目つきで見上げている。心配するな。ラス・アルミアは助かるぞ。


 ——咆哮。龍の言葉で呪文を唱えながら魔法陣を活性化させる。魔力の跡で描かれた魔法陣は光り輝いて徐々に宙を降りていき、ラス・アルミアを中心として地上に降りる。陣の内側が緑色の光に満たされる。


「気持ちいい……」


 エル・ハウェが呟いた。魔法陣から発生した小さな光の玉が無数に舞っては2人の肌に触れて吸収され、怪我が癒されてゆく。地にこぼれたラスの血を光の玉が集めて元あるべき体内へと押し戻してゆく。エルは自らの足に触れ、立つ。捻挫していたはずの足を不思議そうに触り、振る。ラスはすっかり傷は癒えたが、依然として眠ったままだ。




 魔法陣の輝きが鈍くなり、光の玉も少なくなる。魔法が終わる。


「エルよ」


 遥か遠い眼下にいるエルに声を掛ける。きょとんとした顔のエルがこちらを見上げる。


「その者の心の叫びを、私は聞いた。その者は生きたいと叫んでいる。あとは任せたぞ、エル・ハウェ」


「! 分かりました、グノーモン様」


 やけに素直になって、エルは彼女に向き合う。その後ろ姿を見届けて、私は寺院の4Fの崩落したホールに戻る。


「久々に疲れたな……」


 満月の光の下、龍はとてもひさしぶりに満足した顔で眠った。








      ◇◇◇








 精神世界の色が薄くなっていく。様々なものの輪郭がとけてゆく。


「ラス。もう行く時間だ」


 リーテがささやく。うん、と私は頷いてみんなといた掘立小屋をでる。そこは私たちの過ごしていたスラムとよく似ていたけど、ゴミ一つない綺麗な白い世界だ。みんなも掘立小屋からでてきて、私の背中を押してくれる。


「もう、私たちのいない世界でも大丈夫ね?」


 ミリーシャの心配そうな顔に、私はこう答える。


「うん。生き抜いてみせる!」


 でも、このときミリーシャにはもう大丈夫だよと言うような表情をみせたつもりだったけど、もしかしたらふりきれていない顔を見せてしまったのかも。


「ラス姉、これもってって」


 アルは、花の冠を私に差し出してきた。


「ありがとう」


 きれい。いい匂い。私は花の冠を被って、しっかりと前を見る。もはやほとんどの建物が白に消えて、一本の細い道の先の白い空間のなかに傷ついて眠っている私の身体だけがある。


「じゃあ」


 私はいちど振りかえって、


「わたし、いってくるね!」


 元気な声でさけんで、細い道を走って、私の身体にふれる。———刹那、わたしの身体や意識さえも光に包まれてとけていった。




      ◇◇◇




 見慣れた、石造りの天井だ。暖かい。布団に入っているみたいだ。元気になるくらい明るい。風が気持ちいい……窓があいている。膝に重さを感じる。上半身を起こすと、エルが私の膝元の布団に突っ伏している。いびきをかいているのが、膝で感じてわかる。どうしたのだろうと思って、記憶をたぐる。


 ああ、そうだった。わたしは落ちたんだ。4Fから落ちて、でも生きている。両手を確かめる。見たことのない傷痕がついていた。腹をたくし上げ脚までも確かめてみると、全身に傷痕がついていた。でもそれだけといえばそれだけで、身体は痛いところがないし血も出ていない。じゃあ、私は助かったんだ……。


 死にたいという気持ちはない。今の心はむしろ晴れ晴れとしていて、身体に羽が生えたように軽い。私のベッドに突っ伏しているエルをほっといて廊下に出る。そのまま宿泊施設を出る。草を踏む柔らかい心地。石の道を踏む固くて冷たい心地。ああ、生きている。寺院に入る。環状の通路は相変わらず暗い。決まった距離で甲冑が置かれていてこわい。甲冑のよこを通る時に心がすこしキュッとなるのも、今私がここにいるから。礼拝室だ。ひし形の偶像が大きな空間の真ん中に立っていて、威圧感を感じる。図書室だ。光の差さない部屋の中で厳かに本が並んでてかっこいい。4Fの崩れたホール、あそこにはいつもグノーモン様がいる。重い扉は、前にエルが開けたきりのままだった。開いた扉を通り、命の恩人と対面する。銀色の眼差しが、やさしく見つめてくれる。


「ラス・アルミアか。おぬしの魂の叫び、きこえておったぞ」


「グノーモン様。あなたが助けてくれたんですね」


「私にできるのはここまでだ。それに、今のお前は良い目をしておる。あとの人生は、もはやお前のものだ」


「はい! ありがとうございました!」


 傷痕を擦りながら頭を下げて感謝をのべる。龍は微笑んで、それからとぐろをまく。その場を後にして、寺院を取り巻く防壁の上の通路に上る。霧の壁が眼前に広がり、風が気持ちいい。


「確か、ここの階段でエルに石を投げられたっけ」


 ついこの前のことのはずなのに、もう遠い過去みたい。


 通路の上に仰向けになって、快晴の青を見上げる。ああ、濃くて明るい青が視界いっぱいに広がっている。


 空を見上げてしばらくして、目の端っこから涙が一滴流れ落ちる。その涙をきっかけに、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。




 リフューズド・ブルー、拒絶された青。私がかつて拒絶したはずの、世界の空の青さが今も変わらずそこにあった。




 私は、みんなが死んでしまった絶望で死を望んだ。死を望むということは、この青い空の下で生きることを拒むということ。


「あ、あああっ、あっ……ご、ごごめ……うっああああん……うあああっ」


 とめどなく溢れてくる涙をぬぐいながら、まともに動かない口を動かして謝罪の言葉を紡ごうとする。私はいちどこの空を裏切った。誰に対しても平等なはずの空の下を生きることを拒んだ。申し訳がたたない。きっと空の青は何も思わないだろう。ただただ、私のほうが申し訳ないのだ。だから、許しを乞う言葉を紡ごう。


「ごめっ、なさいいい。つっ、つぎはいき、るからぁ。あああぁあ……。こんどは、うらぎらないっ」


 一時間ほどだろうか。私はそこで泣きながら空に対して謝った。流す涙が尽きて気持ちも落ち着いた頃に見上げる空も、やはり青かった。




      ◇◇◇




 ここは水滴に閉じ込められたような世界の中。”試練の間”の中、目の前には私と同じ姿をした”試練”の意思が立っている。


「また来たか、ラス・アルミア。こんどは何を答えるか、聞かせてもらおう」


 私は口を開く。私は今までのことを話す。家族がいなくて仲間たちと過ごしていたこと。仲間たちが死んで、私が死を望んだこと。それでも生きたくて、在りもしない罪を作ってまで死のうとしたこと。……そして、亡くなった仲間たちの魂と、グノーモン様とエル・ハウェに救ってもらったこと。そして、次の言葉で締めくくる。


「今までの私の人生の積み重ねの上に立って、私は私の生を勝手に生きる。それが、私なりの”生”の答えだよ!」


 今の私の顔はどうなっているんだろう。答えきったとき、私の心は限りなく広がる青い空のように清々しく晴れ渡った。私と同じ姿をしている”試練”の頬がすこし、ほころんだ。


「受け取ったぞ、あなたの答え。あなたは試練に合格した、これより自由だ」


 水滴のような空間がひび割れ、光に満ちた扉が開かれる。


「以降、寺院の出入りは自由です。また悩める時も来ていただいて構いません」


 試練の意思はそれだけ言い置くと、霧となって消えた。


「じゃ、寺院に帰りますか」




 光に満ちた空間を抜け出して、元の狭くて暗い隠し階段に出る。


 信じられないな。もう、私は自由に寺院を出れる身なんだな。一見して何の変化も無い自分の身体を手で確かめながら、階段を上がる。———その先に、エル・ハウェがいた。




       ◇◇◇




 ラスが階段を上ってきた。その眼差しに、もはや一片の曇りは無い。彼女の髪はもはや灰を被っていない、眩い黄金に見える。———この俺とは、まさしく対極にいる人間になった。


「エル! 待っててくれたんだ」


 俺を見つけるなりラスが笑顔になって駆けよってくる。俺はひるんでしまって、二歩くらい後退る。この俺には、彼女に触れていい道理はないのだ。


「おめでとう、ラス・アルミア。死ぬのを思いとどまってくれて、生きることを選んでくれてありがとう」


 俺のせいで死ななくて良かった、と心の中で付け加える。


「私はもう、何にも縛られない。死んだ仲間の願いの分だけ、私の心の底から望む分だけ、好きに生きてやる」


 満面の笑顔でラスが言い放つ。———彼女がそう言うということは……


「何にも縛られない、ということは……俺にも縛られない、ということか?」


「そうだね。私は、もう自分の生死や行動をほかのせいにしない。なるべく自分の意思で決めるさ」


「ということは、この前の発言も取り消すというのか」


 お互いの自殺を止め合ったあの昼。その時の彼女の言葉を思い出しながら訊く。


「そだね。取り消すよ」


 笑顔で返される。ついに俺は安堵した。この罪人に生きるべき道理はなくなった。


「では、見送ろう。貴女の新たな人生の船出に幸あらん」


「え、何言ってんの」


 ラスがきょとんとした顔になる。


「え? そうだったか、出るのは後と言うことか」


 早とちりしてしまった。彼女には彼女のタイミングというものがある。自分はせめて目苦しい自分の死体を見せないよう、見送ってから死ぬとしよう。


「ねえ、エルはいつ試練に挑むのさ」


「自分が試練に挑む道理はありません。罪人の身なれば、外の世界に出ていいわけがありません」


 彼女が俺に縛られないならば、もう正直な心の内を話してしまってもいいだろう。


「自分に関わる全ての人を苦しめ、あまつさえ貴女を死に瀕させようとした俺の居場所など、どこにもないのですから。……それに、貴女はもう私には縛られないとおっしゃった」


 それを聞いたラスは少し沈黙して、それからうなずいた。


「じゃあ、私もでなーい」


 太陽のような屈託のない笑顔で、彼女が言い放つ。


「え?」


「貴方がここを出ないのなら、私もでなーい。ここを出るなら、貴方と一緒にでる!」


 なんでだ。もう俺には縛られないんじゃなかったか。嘘ついたのか。


「ふふ、嘘をついたわけじゃないよ。これは私の決断。私の人生には貴方がいて欲しいと思ったから」


 駄目だ。そう言おうとして口を開いたが衝撃のあまり声が出ず、開いた口が塞がらないままだった。


「死んだ仲間たちには私の人生に居て欲しかったように、貴方も私の人生に居て欲しい。確かに貴方はひどいことをしたかもしれないけれど、それ以上に私にとっては与えられたもののほうが多かった。これからの新たな仲間としていて欲しいんだ、エル」


 優しく目を細めて、ラスが手を差し伸べてくる。だが、この手はとれない。なぜなら。


「無理だ。一片の汚れもなき貴女と、罪に塗れて汚れた俺とじゃ釣り合いが合わない」


 差し伸べられた手を避けるように後退る。彼女の汚れなき手を自らの手で汚してしまうわけにはいかない。


「大丈夫だって、エル」


 ラスが一歩二歩進んで、俺の手を掴む。


「わたしはね、優しい心を持ったエルに居て欲しいの。だから、何度でも貴方に手を差し伸べるよ」


「で、でも、俺は優しくなんて……」


「あら、貴方の言う”一片の汚れなき私”が言ってるんだから大丈夫よ」


 そのとき一瞬だけ俺の鼓動が激しくなって、風が凪いだかのようにラスの息遣い以外が意識に入らなくなった。頭の中でも思うように言葉が紡げず、硬直したように動けなくなってしまった。彼女はいたずらっぽく笑って、それから真面目な顔をして俺に向かい合う。


「この寺院ではじめてであったころ、私と貴方は敵同士だった。でも時間を重ねていくうちに、私たちは仲間になったんだ。私は貴方から教えられ、お互いに自分の思いをぶつけ合ってお互いを救い合おうとした。私たちは色々あった。その中で私は貴方の中に優しい心を見つけた。その優しい貴方は私にとって救いになったの。生きる活力になったの。だから、私は貴方にいかなる罪があろうとも、やさしい貴方を救いたい。そして仲間である貴方と一緒にこれからを生きていきたいと思うようになったの。あなたが本当に悪い人ならわたしは一緒にいることを望まないよ。……これは私からのお願い。もう、貴方の心を罪の中に閉じ込めておかないで」


 そのとき、彼女が俺の心に触れたような気がした。現実の彼女の手は俺の手を掴んだままだというのに。罪で凝り固まった心を、やさしく撫でてくれている気がする。まるで、子供のころに手を繋いだ母親の手のように暖かい。ああ、こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。……でも。


「そ、それでも」


 反論しようとして、ラスに手で口を塞がれる。光差す眼差しでラスが俺に言う。


「逃げないで。お願いだから」


 逃げないで、という言葉が耳を通ったとき、一瞬だけ足場が揺らいだ。


「逃げる……? 違います、これは罪贖えぬなりの贖罪なのです」


「違うよ。そっちに進んでも何一つ罪は贖えないし、世界が良くなるわけじゃない」


「で、でもっ」


「何か根拠があって、君は君自身に罪を押し付けているの?」


 ラスの眼が鋭くなって、俺は狼狽えた。だが、根拠ならある。根拠があるから、俺は罪を贖う道を選んだんだ。


「俺の過去の話を聞いただろう? 故郷の皆にひどいことをして、捨てて来たんだ」


 それを聞いた彼女は少し間をおいて、俺に手を差し伸べて来た。


「じゃあ、謝りに行こう。一緒に」


 俺は驚いて、目を見開いた。一瞬だけ、こっちの道の方が眩しいと思った。心が震える。だけれども……。


「今更、なにも」


「あのね、エル。君は人を殺したわけでも、誰かを殺されたわけでもない。ただ、人との接し方を間違えただけ」


 彼女が言葉を紡ぐたびに、俺が本当は間違っていたんじゃないかという気持ちが芽生えてくる。彼女が俺に歩み寄ってくるたびに、彼女の踏んだ道が輝いて見えてくる。ただ、それでも大きな罪の感覚は残っている。


「じゃあ教えてくれ。俺に圧し掛かる、この大きな罪の感覚はなんなんだ? 大きく大きく膨れ上がって、どうしようもないんだ。これが小さな罪だとは思えないんだ!」


 滲んだ涙と鼻水と唾をまき散らして、整理のつかない感情をラスにぶつける。


「それは、たぶん後悔なんじゃないかな。私も経験あるもの。ずっと私が悪いって自分を責めていたことが、きちんと向き合ったら何でもないことだったってことがあった」


 ラスの眼差しが優しくなる。


「でも、エルはその気持ちを解決する方法を今までずっと知らなかったんだね」


「あ……ああ……」


 ラスが、彼女が、両手を俺の脇下に通して抱きしめてくる。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」


 こん、こん……と背中を手のひらで心地良くたたいてくる。それから、陽だまりのような声で彼女はこう言った。




「エルの罪は、エルが思っているほど大きくないよ」




 ずっと苦しかった。誰も俺を理解してくれていない気がしていた。世界に疑問を持ったあの日から、俺の視線とみんなの視線がすこしずれているような気がして、周りの人々に反発した。さいしょは些細な事だったかもしれない。でも、俺は周りに理解してもらう努力を怠けていて、自分勝手に辛くなっていたんだ。こんなに単純なことだとラス・アルミアに言われるまで気づかなかった。俺には、俺に向き合う勇気が足りなかったんだ。みんなと向き合っても理解されなくても構わないという覚悟が足りなかったんだ。勇気と覚悟、このふたつを諦め続けたせいで俺はこんなところまで来てしまった———。




 年甲斐も無く、俺は泣き喚いた。




 彼女は、ただ俺を抱きしめて撫で続けた。






       ◇◇◇




 エル・ハウェはあれから私の胸元で一日中泣き続けて、そのあと眠った。彼に必要な言葉は、ただ単純で核心をついた言葉なのだった。きっと彼は、ずーーーっとそんな言葉を誰かから投げかけられたかったのかもしれない。彼の思想を、彼の性格を認められたうえで本心をぶつけて欲しかったのかもしれない。でもたまたまそうはならなくて、今日まで引き摺ってきてしまったのかもしれない。


「でも、こんなに泣いたんだからもう大丈夫だよね」


 すー…すー…と呼気を立てていびきするエル。その表情には、どこか安らぎを感じる。彼の頭を撫でて、鼻先を指でちょんとする。








 いつしか私も眠っていたらしい。野菜スープの香りにつられて、瞼をあける。


「える。おはよおー」


「おはよう」


 私はベッドに運ばれていたらしい。ひんやりとした石壁の狭い室内で、ふたりいっしょにスープを啜る。


「ねぇ、エル。もう大丈夫そ?」


 彼の表情を覗き込んで、投げかけてみる。


「ああ。大丈夫……だと思う。しょうじき言って、まだ自分の罪が本当に取り返しのつくものなのか、まだ納得いかないところはあって……本当に君に言われたことが全てなのかわからない……でも、少なくとも、俺はもう逃げない」


 まだ怯えているような表情だ。でも、その瞳の奥底にはしっかりと光が宿っている。私は微笑んで、野菜スープを啜る。




       ◇◇◇




 夜、寺院の草むらに風で撫でられながら月を見上げる。ラス・アルミアが俺に言ってくれた言葉が今も心に溶け込んでいる。彼女は聖女だ。あんなに死にたかった俺を言葉で蘇らせてくれた。俺は、彼女に気付かされた。俺の罪の正体は、人間関係のズレから生じた臆病と怠慢だったのだと。これからの俺はもう、ひとと自分がちがうことに怖れない。向こうからくるのを待つんじゃない、こっちから踏み出してゆくんだ。そう誓って、草むらの中を一歩一歩、力強く踏みしめる。




 ……だが、草むらから石敷の道へと踏み込むところで、突然として足の力を弱めた。———引っ掛かったのだ。俺はまだ解決していない。もうひとつの問題がある。




 俺は、やっぱり、”正しい答”を諦めきれない。




 又不安になる。心臓の鼓動が加速する。あの日王都で感じた、世界への違和感。どの宗教を漁っても納得できなかった、”絶対の教え”。それを、今一度、追い求めたい自分がいる。でも大丈夫か? また前の自分に元通りになってしまわないか? 追いかけることでまた失うのならば、いっそここで足を止めて永遠に追わない方がいいのでは?


「そもそも、”正しい答”そのものは一体どういうものなんだ……? ただ宗教や道徳を追えば得られるものなのか? それとも思考の果てに辿り着く……? 俺が追い求めているものって何なんだろうか……?」


 途端に怖くなった。ここでまた追い求めてしまったら、ラスに、彼女にさえ見捨てられるんじゃないかって。でもこの気持ちを諦めきれないなら、また人を捨て……


「違う!!」


 それは違う。”正しい答”を諦めきれない。でも、やっと得た彼女との繋がりも捨てない。彼女に理解してもらうのを怠けたくない。ラスに理解されないことを怖れたくない。自分が今抱いている気持ちを彼女と共有したい。脚が震える。過去を思い出す。みんなに酷いことを言って捨てて来た過去を。でもこれからは違う。ちゃんと人と向き合って、答を追い求めよう。




 自分自身に襲い掛かる臆病と怠慢の萌芽を振り払いながら、俺は寺院に踏み入る。さあ今ここから、長きにわたる俺の人生のひとつの問いに決着をつけよう。








 朝になってラスが起きる。


「あ、エル。おはよーよぉ……。試練は、まだだっけ?」


 寝ぐせであらぬ方向へと伸びきっている髪を揺らしながら訊いてくる。


「いや……。申し訳ないけど、試練に挑むのはもう当分かかると思う」


「あぁ……まだ整理ついてないかんじ?」


「いや、それはすこし違う。……聞いて欲しい、俺が子供のころから思っていたことを。俺の人生の根っこに根付いた問題を」


 椅子を引いて座る。深呼吸してから、話を始める。


「俺は、”正しい答”を知りたいんだ。ひとがどうあるべきでひとがどうするべきかという問いの解を見つけたいんだ」


 ラスがすこし考えて、首を傾げる。


「よくわからないけど……アメル教とかの教えみたいな感じ?」


「近いかもしれない。でも、俺はもうアメル教を信じられない。ラス、孤児院にシスターがいたんだろ。その人から宗教の教えを初めて聞いた時、どう感じた?」


「ああ……。うーん」


 ラスが、脳の奥底に埋もれてしまった記憶を発掘しようと沈黙し、思い出したかのように顔を上げる。その頬には、一筋の涙が伝っている。


「ああ、そうだった。身がしびれた。この世界には神がいて神が様々なことをお決めになったと聞いていた。シスターが神の教えだといって教えていたことば全てに全能感がのっていて特別に聞こえた。守っていれば救われる。信じていれば正しくあれると。まるで超常の力に温かく包むように守られているとさえ感じた。でもほどなくしてシスターが壊れてからは信じる気持ちは消え失せたけどね」


 ラスが最後に紡いだ言葉とは裏腹に、彼女の涙の光が、まだ信じたい気持ちがあることを証明するように光っていた。


「それなんだよ、それ。俺もかつてはアメル教を信じていた。でもアメル教が腐っていたのを、俺はこの眼で見た。だからアメル教が信じられなくなって、他の宗教に縋ろうとした。でも調べれば調べるほど、どの宗教にも後ろ暗い歴史があって完璧には思えなかった。きっと俺は、この世界に、完璧な”ただしいおしえ”があってほしいんだ。おれは、子供の時感じた、あの衝動を、今でも追いかけている」


 そう言い切ったとき、俺の瞳は子供のように澄み切っていた。この話を聞いた彼女は、少し頭の中を整理して、うなずいた。


「いいじゃん、エル。でも少しだけね」


 彼女にも見たい世界がある。あまりこちらの都合でここに長居は出来ない。——でも、とにかく許しは得られた。


「ありがとう」


 と感謝の言葉を紡いでお辞儀をする。——このお辞儀、いつぶりにやったんだろう。まるで身体が昨日までとは別のように、生まれ変わったみたいに清々しい。


「どういたしまして、エル」


 彼女が光あふれる笑顔で返す。ああ、そうだ。俺たちは生まれ変わった。だから新しい器の身体に入れ替わったかのように気持ちよい。さあ、あとは俺の問題に決着をつけよう。








 といっても、何から手を付ければいいのかわからない。”ただしいこたえ”の探求を最後にやったのは、官僚試験への勉強が本格的に始まる少し前だった。あの頃の俺はとても荒れていた。俺が歴史や宗教に造詣の深いことを利用して教会や国立の図書館になんとか入り込み、文献を色々読み漁っていた。どこにも感動する教えは無かった。細かい理屈をこねまわしたものだったり、頭を空にして偶像を崇拝したものだったり、文献には色々書かれていたけれど、”ただしいおしえ”はどこにも見つけられなかった。だから俺は咽び泣き、大いに暴れてロイスを困らせ、最後に縋る道として世直しも兼ねて偉い人に会う為に官僚試験を目指したんだった。偉い人に会えば何かが手に入るかもしれないと信じていた。今となってはもう叶わない。……でも、この寺院に入って、グノーモン様やラス・アルミアと交流を重ねていく中で無意識にひとつの仮説が浮かび上がった。今なら仮説を言語化できる。ひとり長い回廊を歩きながら、つぶやく。


「”ただしいおしえ”って、自分の中にあるのかな」


 なんでこう思ったのだろう。


「死の淵から蘇ったラス・アルミアは聖女のように眩しく、清らかだった。彼女の様子を根拠にするなら、”ただしいおしえ”は自分と向き合うことで得られるものかな?」


 思考を口に出して、頭の中を整理する。


「でも、”ただしいおしえ”は自分一人だけのものじゃない。そうあるべきじゃない。俺自身の答えはもういい。自分にもう言い訳しないんだから。でもここまでじゃ答にはまだ足りない」


 窓から吹く風で髪がふわりと舞い上がる。


「彼女が聖女に見えたのは、俺に手を差し伸べてくれたから。忘れられない。”ただしいおしえ”のことを俺は今まで唯一視してきたけれど、もしかしたら人間の数ほどあるのかもしれない」


 頭を横に振り、先ほどの言葉に疑問符をつける。


「いや、そんなに沢山あるものじゃないかもしれない。それには絶対性がないとだめだ。そうじゃなきゃ理想には程遠い」


 立ち止まって、昇り階段を見やる。


「複雑だけれど単純で美しいものなのかな、答は」


 真理に近づいているかは分からない。どこから探ればいいのか分からない。ならば、ひとつひとつ片付けていこう。図書室に入り、執筆室に入る。埃だらけの机を手で払い、引き出しを引っ張る。羊皮紙がたくさんある。本来ならば無駄遣いしたくなかったのだが、まあ必要なことに使うんだからいいだろう。ペン先をインクに浸し、羊皮紙の真っ新な生地に筆先を入れる。”ただしいおしえ”に必要な要素とは何なのか。それを書き出してゆく。最初は2つしか思い浮かばなかった。人の罪と義務。でも不意に手が動いて、紙の中のツリーがどんどん繋がって大きくなっていった。いつしか、羊皮紙5枚全て埋めてしまっていた。


「紙があるのとないのとでは違うな」


 紙に書いた言葉の中で、最も多くの要素と繋がった言葉、それは”基準”だった。


「悪人となるも、善人となるも、あらゆる教えの中には基準があり、それを超えるか超えないかで決まる……」


 例えば貧しい者に施しをすれば善人だとか、義務さえ果たせれば天国に行けるとか、些細なことが地獄に堕ちる悪行だったりとか。”基準”の次に多くの要素と繋がったものは、”救い”。一定の基準さえ超えれば、あらゆる多くの教えでは善人には善いことがあると教えられている。”救い”の内容は死後の世界だとか神からの祝福だとか抽象的な表現が多い。———このふたつを総合すると、一定の基準さえ超えれば善人となり救いが与えられるということだ。


「だが、何かしっくりと来ない。救われる為に善人になるのか?」


 それでは目の前に人参をぶら下げられた馬だ。”救い”という報酬の代わりに人々に善人になる事を求めている。道徳も倫理も似たようなもので、良い人にしていれば良いことがあるとなんとなく言われている。いい人にしていれば良いことがあるという幻想ばかりがある。けど、”ただしいおしえ”とはそんなものじゃないような気がする。


 そこまで考えて、ハッとする。ーーーそうなのだ。俺は宗教や倫理に”ただしいおしえ”を求めて探究していたのだが、実際は逆だったのかもしれない。


 考えてみれば当然だった。~~すれば救われるとか、〜〜しなければ地獄に落ちないとか、そういう教えは単純で人々に分かりやすく、かつ簡単に救いが得られるものだった。言い方を変えれば、人々にとって都合の良い教えが歴史を生き残ってきたのだ。一見戒律が厳しそうな宗教でも、”ルールを守りさえすれば救われる”という点に変わりはない。


 俺が求めているのはそんな教えじゃない。俺はそこに救いがなくても良かった。ただ、人間が人間として美しくあるにはどうしたらいいかを知りたかっただけなのだ。


 そうだ。俺は清く正しく美しい人間を求めていた。自分もそうなりたいと願っていた。歴史上に伝え聞く聖人君主のようになりたかった。ーーー自分の足で立ち、自らの考えを以て人々に生き方を教えた彼らのように。


 不意に、涙が紙に溢れる。ああ、頭をクリアにして考えてみれば単純なことだったのだ。美しい人間を目指すことそのものが救いであり、美しい理想の世界こそが神なのだから。


 その”答”は普遍的にして、宗教や倫理を超えた先にあるものだった。究極の理想を追い求めること。その”答”を自覚出来るものは数少ない。その”答”に向かってゆける者はもっと少ない。


「……そうか。神とは、”答”とは……」


 不意に、心の中の奥深くから光が溢れた気がした。人々の心の中に”神”はいる。”神”とは人間の思い描いた理想の存在、理想の世界なのだから。それぞれの思い描く”神”に近づく為に足掻く、それこそが俺の見出した”答”。


「俺にとっての”神”、それは……」


 子供の頃から抱き続けてきたイメージ、それは人間としての穢れが一切なく立ち振舞全てが美しい人間。いかなる問題にも正しい姿勢で立ち向かい、どんな苦労をも厭わない存在。正に聖人と呼ぶべき存在。


「そうか、だから俺は今まで随分遠回りをしたのか……」


 ”神”に近づきたかった少年は、その存在に近い者を探し求めたかった。”神”になるために方法を求めた。いつしか”神”を忘れてただ虚栄心のみが心を支配してしまったかつての少年、それがエル・ハウェ。それが俺。


「……思い出せた。これで、ちゃんと立てる。これからはもう忘れない。ちゃんと背筋を伸ばして歩いていくさ」


 自分に誓うように独り言ちる。涙はいつしか止まり、涙で濡れた紙面を陽光が照らしている。








「待たせたな、ラス。明日、試練に挑むよ」


 ろうそくの明かりを頼りに晩御飯を摂りながら、目の前のラスにそう告げる。


「もう? 早いね。……でもエルの顔を見れば、もう大丈夫だって思える。いつになくニコニコしてるもん!」


「そうか? ……そうだな、今日は本当にいい日だよ」


「ねえねえ、”ただしい答”ってなにー? 教えてほしいな」


「それはまたあと。試練が終わったら教えるさ」


「……ふふ。待ってるよ」








 翌日、俺は試練の入口につながる深い階段を下りて入口に立ち、”試練”に入る。一度意識を失い、目覚めると身体が小さくなっていた。周りには懐かしい景色が広がっていた。ーーー村の教会の中だ。


「ようこそ、エルくん。今日もお祈りとお勉強をしていきましょう」


 神父さんが俺に向かって微笑んでいる。懐かしい笑顔。ーーーどうやら俺の子供時代を再現しているらしい。つまり、俺が捨てた世界を再現しているのだ。今更ながら、罪悪感が募る。


「そうか。そういうことか。……神父様、ひとつだけ聞きたいことがあります」


「なんだね? 言ってご覧」


 かつて俺が裏切った人の面影を前にして、口の動きが重くなる。つばを飲み込んで、その先の言葉を紡ぐ。


「今からでも、やり直すことが赦されるでしょうか?」


 神父さんはキョトンとした様な顔をして考え込み、ーーーそして、体の輪郭が薄れていく。


「どうやら、今のあなたに過去を振り返らせる必要はないようだな」


 神父さん、だったものは今や俺と同じ姿に変わっている。俺の身体も、もとの大人の姿にもどっている。周囲の景色は一変し、廃城のような場所に変わっている。太陽は上っているのか沈んでいるのかどっちなのかは知らないが地平線から少しだけはみ出ている


「ということは、もう答を持ってきているんだろ? 聞かせてくれ」


 眼の前にいる存在はそのへんの瓦礫に腰掛けて、俺の瞳を見つめてくる。ーーーその瞳は、すべてを見通しそうなほどに深い。


「……どこから話すか」


 少し考えて、話の筋道を立てる。


「まず。俺は傲慢さと虚栄心を抱えてしまったせいで家族を、友達を、恩師を、自ら捨ててしまった。これはたしかに悪い。でも、ラス・アルミアが教えてくれたんだ。ーーーまだ、立ち直れると。まだ人生に絶望するほどじゃないと。俺は、これからはお互いに理解し合うことを恐れない、躊躇わない。相手に歩み寄るということを大切にしていこうと思う。この寺院を出たら、まずはみんなに謝りに行こうと思っているんだ」


「……いい顔になった。充分合格だよ。でも、まだあるんだろう?」


 はは、と少し微笑んで、顔がこわばる。


「そこまでお見通しか。元々話すつもりだったし、いいでしょう」


 舌なめずりをし、目の前の俺の姿をした”試練”に顔を向ける。大丈夫だ、今の俺には神に向かう道が見えている。ーーー胸が開く感覚がする。


「……ずいぶん遠回りをした」


 ほう、と”試練”が首を傾ける。


「……小さい頃の俺は親に連れられてよく教会に通っていたんだ。俺はそれが毎回楽しみでならなかった。ーーー俺は神父さんに会い、その言葉とその動作とを頭の中に焼き付けていたかった。何故なら、その頃の俺の世界の中で一番美しく見えた人間が神父さんだったから」


 日が昇る。”試練”が続きを聞きたいと言わんばかりに前のめりになり、目を大きくして向けてくる。


「僕はただ美しくて正しい人間を追い求めたかった。罪を犯さず、ただひたすら誠実に、酒にも薬にも溺れることなくみんなを照らす存在だった、あの神父さんのような人になりたかった。ーーーこの気持ちは子供の頃からずうっと抱えてた。でも、自覚できたのはつい昨日のことなんだ」


 暖かい風が俺の頬を撫でる。新緑の葉が空を舞う。今まで俺の心の奥深くに仕舞っていたものをさらけ出す、胸が開くような感覚が心地良い。


「でも、みんなで王に嘆願しに行ったあの時、頭を地面に擦り付けて王に泣きながら嘆願した神父さんを見て俺は、勝手に失望したんだ。これは情けない姿だ、と思って。はは、笑えるよな。自分の中で出来上がった理想の像と違うだけでキレるなんて俺は勝手だったな。……俺の落伍が始まったのは、その時からだ。自覚はなかったが、他に自分の理想となるべき人や偶像を探し求めていた。周りの人々は理想足り得ないから拒絶した。本当は自分の心の中にずうっと”神”はいたのにな」


「それで、今のお前にとってその神父はどんな人なんだ?」


 ”試練”の問いに俺は微笑む。


「俺の目指すべき人で、俺の”神”だ。良く考えたら、みんなのために頭を下げられるってとてもかっこいいことなんだな。あの頃の俺は目が節穴だったな」


 ”試練”が頬を緩ませて、こっくりと頷く。


「そうか。……だけど私はここの”試練”でね。君の考えていること、感じていることは分かっちゃうんだ。ーーー君の”神”は、いや、君の目指したい”神の世界”は、まだ余白が残っている」


「分かるか、”試練”。そうなんだ。あの時、俺は心の底から神父さんのような人を尊敬した。だけど、同時にこうも思った。ーーー神父さん以外にも素晴らしい人間がいるんじゃないか。まだ見ぬこの広い世界に多様な人間が生きていて、もしかしたら神父さんとは違うタイプの素晴らしい人間がたくさんいるかもしれない。……、もし、それぞれの素晴らしい人たちの素晴らしいところを集めていけば、理想郷ができるんじゃないかって俺は、たしかに、無意識のうちに、あのときに、ーーー夢想した」


 俺の頭の中には、心が美しい聖人君主の人々だけが住まう世界、ーーー美しい島の景色が浮かんでいる。


「俺が夢想した、神々の住まう世界をこう名付けよう。”浄世界”と」


 周囲に差し込む日光が、焼け付くほどの眩しさになって輝く。遠くに見える木々は闇の不気味さを脱して青々しい姿を表してゆく。


「……浄世界、か。だが、難しいのではないか? いや、不可能と言えるのではないかな、その世界を目指すのは」


「”試練”の言いたいことはわかる。この世には数多の人間がそれぞれの性格に基づき、それぞれの感情を抱いて生きているのだから。それぞれお互いを損ないながら生きている者も未だ多い。また、人は生来の欲がこびりついていて容易には変われない。この俺でさえ、まだ心の何処かに前みたいな黒い気持ちが仕舞われているのだから。ーーーだが、人類は知っている。まだ言葉のない混沌の時代から今に至るまで人類が発展してきたことを。この城だってそうだ。目に眩き麗城を築けるほどまでに発展してきた。はるか昔には想像もつかなかったことだ。想像できなかったことさえをも叶える人類だ。胸の内に抱く夢想の世界を叶えられないわけがないだろう」


 俺の背中で太陽が昇る。おのが影は狭まり、暖かい風が木の葉を乗せて流れてゆく。


「……信じているんだな、人類を」


「ああ。千万年かかるだろうけども、それでも目指すさ」


 ”試練”に対して、とびきりの笑顔になって言ってやった。最低でも千万年はかかるだろう。下手をすると千万年よりも長い、途方もない時間がかかるかもしれない。当然俺は生きてはいまい。それでも、誰かが思いを受け継げば、夢への道はきっと閉じないだろう。太陽ははるか遠い。だが、いつかきっとあそこに人類が辿り着く日もくるだろう。


 ああ、清らかな気分だ。ーーーそう思っていると、”試練”が不意に言葉を漏らす。


「やっと、話せたな。エル・ハウェ」


「……え?」


 最初は”試練”が何を言わんとしているのか分からなかった。それでも、胸の奥から暖かいものが込み上げてくるのを感じる。自分が今立っている石造りの地面に数滴の涙の染みができる。


「……ん? なん、でっ……」


 視界が滲む。鼻から水が出る。ひっく、と喉が鳴る。何で俺は泣いてる?


「ずっと、小さい頃から心の真ん中にあったものをようやく話せたんだ。そうもなろう」


「”試練”……ッッ。あ、こんなッ、ところ見せて、ごめん、な……ッッッ!」


 声が溢れる。涙が滝のように流れる。そうか。俺は今までずっとこの思いを誰にも、本当の意味で明かしていなかった。自分の心を明かす、というのはこんなにも嬉しいことなんだ。




 涙が止まり、喉が乾く。やっとまともに”試練”を見れるようになる。


「泣いているところを見せてすまなかったな」


 ”試練”は微笑み、俺に最後の念押しの言葉をかける。


「今のお前は、前のような傲慢と虚栄心にまみれた男に戻らないと言えるか?」


「ああ、戻らないと誓う。人はお互いに話し合い、尊重し合わなければいけない。まずは他人に歩み寄り、分かり合う努力をする。今までの罪を贖う。自分の”浄世界”の理想は、今は後回しだ」


 目の前の俺と同じ瞳を真っすぐ見つめて、答える。俺と同じ瞳が微笑む。


「おかげでいい話が聞けた。こんなこと、今まで数多の者が挑んできた”試練”の中でも初めてだ。……エル・ハウェ。お前はこれで出入りが自由だ。霧の中を真っ直ぐ進むと良い。また、何かあればいつでもここに帰ってきて良いぞ。ーーー寺院は、悟りし者にこそ開放される」


 刹那、”試練”の世界が光に溢れる。周囲の景色が光に融けて、ただ太陽のみが白い空間の中に浮かぶ。その太陽も終いには融け、ーーー全てが白になった。








 気がつけば、真っ暗闇な階段の一番下に突っ立っていた。俺は階段の上を仰ぐ。階段の段に足をかける。ゆっくり、ゆっくりと一段ずつ上る。一段ずつ、一段ずつ、ゆっくりと、我が理想へと近づこう。




        ◇◇◇




 彼女の足跡は地獄に連なる道を逸れた。彼は見失っていたはずの道に戻り、天を仰いだ。死の気配はもうない。それぞれ、おのが心の奥深くに仕舞われていた真実の思いを見つけ出して、前に進むことを選んだ。この二人は哀しき歴史の連理を脱したのだ。ーーー彼らの進む道の先には、光溢れる世界が待っている。




        ◇◇◇




 エルが細長い階段を上り切ると、いきなりラスが抱きつく。そのとき、エルの目に蘇芳色の光が差す。


「おつかれさま、エル。もう夕方だし、晩御飯にしよっ」


「ああ。腹が減った。ご飯にしよう」








 夕餉に、エルは”試練”であったことと自分の思いを全てラスに話した。


「”浄世界”……。確かに、千万年ぐらいかけないと難しそうだね」


「ああ。人の根っこに根付いた欲望はかなり取り除きにくいからな。だが、俺はやる。目指さないと始まらないからな」


 エルが、ふっ、と微笑む。その一瞬を見逃さなかったラスは満面の笑顔で彼を見つめる。


「それで、これからどうしようかな? 私は、ここを出たら外の広い世界を知りたい。それで不幸のうちにある人を救うために私にできることを考えるんだ。」


 エルは、スープの湯気を通して見るラスの笑顔がなんだか眩しく見えた。目を細めながら彼女に返事する。


「俺は学びたい。自分の理想に近づくためにも。様々な知識に触れて、自分がどうあるべきかを追究したい。……君と一緒に旅をして学ぶというのも良いな」


「んぐ、んぐ……ぷはっ。そうすると、お金どうしよかな。……私、貯金ないんだよね。あんな暮らししてたし」


 ラスがスープを飲み干し、口を手の甲で拭う。二人が長い心の苦しみを脱したあとには、現実的な悩みが待っていた。


「そうだよなあ。……また魔女の下でバイトするかな。キツいけど魔法が学べて給料もいいんだよな」


「私も手伝いたいなぁ。……金が溜まったらどこにいこうかな、エル?」


「湖の中でも世界一深いとされるアルトゥネス湖に行こうか、隣国アレキザルドにあるヴェー教最大の礼拝堂アールシュトウム見に行くか……悩むな」


 隣国、の言葉にラスの耳が動く。


「ん? 隣国? アレキザルド語はできるよ」


 ラスの意外な特技の告白に、エルが瞳を丸める。


「おいおい、本当にできるのか? 俺は書く方ならそれなりにできるが……」


「本当にできるって。 ーーー【基本コースは300パルク。追加オプションは600パルクになります】。……あ、前の仕事の口癖で言っちゃった」


 口からつい出た言葉に後悔してか、ラスが目を覆う。無理もない。ラスが外国語を使う機会といえば、”そういう仕事”をするときだったのだから。


「気に病む必要はない、ラス。それに……すごいな。俺は字に書くのは得意だが、話す方はさっぱりだから、君に話し言葉を教えてもらいたいな」


 エルがラスの手を取り、彼女の目を見つめる。ラスの頬が紅潮して、思わず視線をそらす。それから彼女は歯を食いしばってなんとかエルと視線があうようにする。


「……あのさ、エル。私たち、色々あったけど今はこうして卓を囲めてるじゃん。……私、貴方に会ってから色々なことを感じるようになったの。最初は敵に見えて憎くて仕方なかったけど……。い、いまは……ッ」


 言い淀むラス。その様子を見て、エルはついに悟る。それと同時に、彼の心の中でひとつの答えが出る。ーーーもはや彼女の人生と俺の人生は連理であり、俺もそれを望んでいると。


「エル、私には貴方が必要なの。あなたが試練に挑んでいる間はあなたがいなくて寂しくなって、あなたが帰って来てくれて嬉しいの。……好きになっちゃったの、エルのこと」


 ラスが言い切ったときエルが席を立ち、彼女を抱き締める。


「俺達は色々あった。だが、この寺院で積み重ねた体験が俺達を引き合わせてくれた。ーーー俺からも応えるよ、ラス。好きだ、俺の人生にいてくれ」


「うん。だからあなたも私の人生にいてね、エル」


 二人は熱いハグを交わす。食べ終わった食器は重ねられている。




 その夜、ふたりは同じ部屋の同じベッドの上で一緒に眠りに就いた。






 夜明け。エルが起きる。隣には、昨夜を共に過ごしたラスがまだ寝息を立てている。窓から外を見やる。巨大な霧の壁が今も聳え立っている。


「……そろそろ、ここを出る踏ん切りをつけないとな……」


「なに? エル……」


 薄目を開けたラスがベッドを這ってエルの膝に頭を置く。


「ああ、起きたか。ここを出るのは明日にしようかな、と思ってさ」


「急なんだね。ま、出ようと思ったらすぐに出たほうがいいもんね。後回しにしたら出るに出られなくなっちゃうし……うん、明日だね」


 ラスがエルに膝枕をしてもらいながら微笑む。その日の二人は荷物を整えたり、寺院の中の思い出の場所を巡ったりした。彼らが明日出ることをグノーモンに告げると、グノーモンは喉を鳴らし、寂し気に目を細めた。




 その夜、エルとラスは宿泊施設の浴室に入る。


「エル、これ何……?」


 目の前の湯気に怯えてか、ラスがエルの背中に隠れて服のすそを引っ張る。


「知らんのか。まぁこういうのは身分高い人の特権だからな。風呂だよ、風呂。お湯に浸かって身体を清めるの。明日出るんだし、身なりは綺麗なほうがいいだろ?」


「そっか。……清め方、教えて」


 エルは書物で学んだ風呂の入り方をラスに教え、二人で身を清める。風呂から上がったエルは髭をすっかりそり落として髪を整え、精悍な好青年の見た目になる。ラスは灰を被ったような髪の色味がすっかり抜けて、穢れ無き金色の髪を輝かせている。


「風呂って凄いね。身も心もあったまった」


「ああ。俺もここまで素晴らしいものだとは思わなかった」


 その後、二人はお互いの風呂上がりの温かさを忘れないうちに眠った。




 翌日の早朝、調理室。エルが簡単な料理をして、二人で朝食を摂る。


「そういえば、君と初めて顔を合わせたのはここだったな」


「思い出さないでよ。今となっては少し……恥ずかしいから」


 遠い目をするエルとは反対にラスは顔を赤め、椀に顔を隠そうとする。


「そうか。ラスと出会えた今なら、あれもいい思い出だ。……ヒヤッとしてたのは事実だが」


「うぅ、もう……。そんなこと言ってないで、さっさと食器洗ったら出るよ!」


 食べ終えたラスが強引に会話を打ち切り、食器を洗って荷物を手に調理室を出る。


「……今のは俺が悪かったか。さて、俺も行くか」


 エルも後片付けをし、手元の荷物を確かめる。当分の保存食と、寺院に来たときに手元に余った金。寺院からは少々の保存食を拝借しただけであり、他のものには手を付けていない。エルが調理室を出ようとしたとき、包丁が目に留まる。エルはしまい忘れた包丁を戻そうとして、初めてラスと会ったときのことをまた思い出す。


「あの時、俺はこれを抜いたんだっけか」


 感慨深そうに手元の包丁を眺める。


「エルーっ、そろそろ行かないと」


 ラスが彼を呼びに調理室に顔を出す。その顔を見てエルは、おう、と返事をして包丁を元あったところに仕舞った。


「さて、行くか。……いや、戻ろう。俺たちの現実に」


 二人が廊下に出る。


「グノーモンさんのところに挨拶にいこっ」


「ああ。……ん?」


 龍の咆哮が聞こえる。だが、今回の咆哮は4Fからではなかった。


「ねぇ、エル。これって、門のほうだよね?」


「ああ。わざわざ降りてきてくれたのかもしれない。……門の方に行こう」


 寺院の中を通り、門に一番近い礼拝堂の中に出る。エルがひし形の偶像を振り返る。寺院の中で初めて目に入った特徴的なオブジェクトだ。エルはそれについ手を伸ばす。


「じゃあな。また来るかもしれん」


 偶像に別れを告げ、エルはラスの後についてって礼拝堂を出る。




 霧の壁の手前でグノーモンが鎮座している。


「あ、いたいた。グノーモンさまー!」


 ラスが大きく手を振りながら龍に駆け付ける。そのまま抱きついて、彼女の笑顔が龍を見上げる。


「グノーモン様、本当に今までありがとう! あなたのおかげで私、私の過ちに気付けて……生きていられて……」


 彼女の声が徐々に鼻声になる。


「だから……だから……ほんとうに、ありがとう、ございました……!!」


 ラスの顔を涙と鼻水が流れる。その後は何も言えなくなってただただ、枯れぬ限り嗚咽する。




 彼女の涙が枯れて、龍から離れる。エルが龍を見上げる。


「グノーモン様。あなたが道を差し伸べてくださったことは忘れません。ラスを助けてくださったことも、様々な知識を授けてくださったことも忘れません。あなたは、何にも代えがたい我々の恩人です……!」


 エルはラスと違って泣かなかったが、瞳に熱いものが込み上げてきているのを抑えるのに必死だ。


「二人の想い、しかと受け取った。我も二人が立ち直れて嬉しいぞ」


 龍の目には、二人の姿が輝いて見えた。髪舞うラスの姿は天使のごとし、エルの顔つきは神話の若き英雄が如し。


「本当に、立派になった」


 龍の目にこみ上げてくるものを誤魔化すために、グノーモンの首が霧の方に向く。


「二人で手を繋いだまま離すことなく霧を出るのだ。そうすれば、二人一緒に外の世界に戻れるぞ」


 門の外側に聳え立って、円筒状に寺院を囲うファルネスの大霧。二人を逃さず、外の世界の者の侵入を拒んだ巨壁。今や、その霧が二人に外の世界へと通じることを許している。


「さあ、旅たちのときだ。行くが良い」


 龍の言葉に背中を押されてエル・ハウェとラス・アルミアがお互いの手を取り合う。


「グノーモン様、機会があればまたここに顔を出してきます。……では、さようなら」


「グノーモン様、私、あなたに生かしてもらった命を大切にするね。……ばいばい、またね」


 二人は真っ直ぐに霧の壁を見据える。歩幅を揃えて、ゆっくりと、怯むことなく進んで。




 ーーー霧に入った。








「霧が濃くて君の顔が見えないな。さっさと出よう」


 エルがラスの手を強く握る。


「うん。ーーーあ、なんとなくだけど霧が薄くなってきてるかも。……ちょっと待って」


 ラスが制止をかけ、二人が立ち止まる。エルがラスの次の言葉を待っていると、ーーーすぅ、ーーーはぁ、といった深呼吸の音が聞こえた。


「やっぱり緊張するなあ。……私が諦めていた世界に帰ろうというのだから、かな」


 その言葉にエルは間を置いてかけるべき言葉を考える。今までのことを思い返し、かけるべき言葉をかける。


「過去は無くならない。絶望の日々を過ごしたことも忘れられない。だけれども、未来はずっといつだって俺達を待っている。ーーーさあ、これから築く未来を信じて受け入れよう」


 エルの手に引っ張られて、ラスが再び歩み始める。霧が薄れていき、徐々に周囲が明るくなる。最後の一歩を踏み出したとき、二人は気付く。長くて辛い霧を抜けたのだ、と。






 ーーー回生せし二人は、希望に身を照らす。
















 エルの生まれ故郷であるラウーゴ村を囲う柵の外で、山の方から吹き下ろす清々しい風を感じながらラス・アルミアはひとり石を重ねる遊びをして退屈を紛らわしている。


「あ、今の風はとても気持ちよく感じる……。うん、私、生きてる」


 重ねた石が崩れたりまた積み直したりやっているうちに、エルが柵の門から出てくる。


「あ、エル。村のみんなはどうだった?」


 彼が現れるや、ラスは手に持っていた石を置いて彼に駆け付ける。エルは視線を地面に落とし、唇を固く結んでいる。少しして、涙が数滴零れ落ちる。


「駄目だった。父さん母さんは絶縁だって、領主さんは門前払い、神父さんにもけっこう怒られたよ……。もうこの村に帰ってこれる場所がねえ」


 固く結んだ唇が緩んだ瞬間、嗚咽が出る。涙を流して咳込むエルをラスはそっと優しく抱き締める。彼女は何も言わず、ただただ彼の嗚咽と気持ちを受け止める。




 やがてエルが泣き止んだ時、ちょうど旅の馬車がやってくる。二人はそれに乗り込む。次の目的地までの道中、エルがぽつりとささやき出す。


「……神父さん、あんなに怒ってたけど、でも最後にこう言ってくれたんだ。”罪はなくならない。でもそれは徳を積み重ねなくていい理由にはならない”だって」


 空を見上げるエル。その視線の先には神父さんがいるのかな、とラスは思った。


「俺、これからは周りの人々のためにも頑張りたい」


 エルは彼の神の言葉を脳内で反芻し心の中へ落とし込む。その様を見て、ラスはほっとしたような表情を浮かべる。


 




 次に訪れたのは交易都市の外れ、ラスがかつて仲間たちと過ごしていた地。幸いにも教会の牧師さんがお金のことは気にしなくていい、と墓地にラスのかつての仲間たちとラスの堕ろし子の簡易的な墓を立ててくれた。その墓の前で二人は手を合わせている。エルは真剣な顔つきで、ラスは瞳から涙を流しながら。


「これからは俺がラスを守り、支えていく。だからどうか安らかに眠ってくれ」


「仲間たちのみんな、私はもう大丈夫。だからみんなももう私のことを気にしなくていいよ。もし後の世があるなら、みんなが幸せに過ごせますように。……子供たち、堕としてごめん。後の世があって私がそこに逝ったら、いっぱい怒って。でもママはまだこの世でやるべきことを探したいから、待っててほしい。本当にごめん」


 二人が手を合わせ終え、墓地を去ろうとしたときに通りすがった他人どうしの会話が二人の耳に届く。


「……この都市の領主、若い女性の連続誘拐、凌辱殺人事件が明るみに出て失脚したらしいわよ」


「聞いたよ。今は王立騎士団に捕まって裁判を待つ身らしいね。宗教との兼ね合いもあって十中八九、死刑になるだろうと聞いてる」


 その会話を聞いたラスが立ち止まる。遅れてエルも立ち止まり、ようやくラスの内心を察する。


「……今の会話、もしかしてラスの仲間を殺した人のことか?」


 表情の固くなったラスが、こくり、と頷く。


「そうか、あいつ、死ぬんだ」


「……大丈夫か?」


 エルが彼女の肩に手を置く。その肩は最初は震えていたが、徐々に落ち着きを取り戻す。


「本当なら、私の手で裁きを与えてやりたかった。……でも、あいつがどこか他所でその大罪にふさわしい重罰を受けるならそれでいい。私は私の人生を生きるって決めたんだ、あいつみたいな奴に構う道理なんてないんだから」


 その表情はまだ固いままだったが、瞳を見れば心がすでに決まっていることがわかる。


「そうか。では王都に向かおう」


 






 二人が王都に辿り着いて数日後。王都外れの道をエル・ハウェとラス・アルミアの二人に加えてもう一人が一緒に歩いている。


「うおおおおおーーー、俺はお前が生きてくれて嬉しいよおおー〜!」


 その声の主はロイスである。エル・ハウェからはすでに謝罪を受け、彼を許している。ーーーそれどころか、エルが生きていることに感銘して毎日嬉し泣きをする始末である。


「そのセリフ、何度目だよ。それに今はラスと一緒に魔女に面接に行くの。お前までついてこなくていいから!」


「だって、だって……、もうお前から目を離すのが怖いんだよ!」


 エルとロイスの会話をラスは温かい目で見守っている。かつての仲間たちと過ごした日々を思い出し、友と一緒にいられることの尊さを身に沁みて感じているからである。


「もう魔女の工房の前まで来たぞ! もう散々たくさん話したからいいだろ!」


「……わかった、俺は仕事に戻る。俺の家は好きに使っていいからなー!」


「俺たちは魔女の元に住み込みで働くつもりだって何度言えばわかるんだ! もうお前におんぶにだっこしないって何度も言ってるんだ!」


 ロイスが人混みの向こうへと離れていき、仕事に戻っていく。


「うるさいやつが消えたな。……さて、ラス、一緒に行くぞ」


「うんっ。エルと働けるの、楽しみ」


 二人一緒に扉に手をかけ、未来への道を拓くーーー
















 龍が歌う。寺院4F、天井が崩落して開けたホールで、祝福の言葉を歌に乗せて歌っている。


『やってるな、グノーモン。良い歌だ』


 そこに現れたのは、輪郭の定まらない人影。グノーモンが歌を中断して、人影の方へ首を動かす。


「”試練”か。ここまでやってくるのは珍しいな」


『まあな。あの二人が脱出に成功したんで、ちょいと話したくなった』


「エル・ハウェとラス・アルミアか。……あの二人は自分の内に答があった。ただ、絶望に暮れていたうちには見つからなかった。ーーー生きる希望というのは、前を向こうとしない限り湧いてこないものだな」


『ああ。よくあの殺し合っていた二人がまさか夫婦になるとは思わなんだ。それに、か弱いはずの魂が三つもラスの後を追いかけて飛んできたのにも驚いたな。……グノーモン、さっきまで歌っていた歌は良い歌だが、どういう歌だ?』


 グノーモンが喉を鳴らし、天を仰ぐ。


「祝福の歌だ。エルとラスの回生する様子に触発されて歌い始めた。……だが、ただ二人のみに捧げる歌ではない。ーーー私は元より全ての人類を憂いていた。でも気づいた。ただただ憂うばかりではいけないと。だから霧の外を出れぬ身にできることをと考えて、全ての人類に捧げる祝福の祈りの歌を歌うことにしたのだ。既に死した者にも、罪に塗れた者にも、幸せの中にある者にも、徳を積みし者にも、全ての人類に捧ぐ祈りの歌を」


『そうか。……続きを聞きたい。歌ってくれないか』


 龍が歌う。龍より全ての人類に捧げられしは祝福の歌。”試練”は心地よく聞き入り、暖かい陽光が辺り一面に差し込む。新緑の葉が舞い、鳥も共に歌う。歌の終わりを、龍は次の言葉で締めくくる。








             我が祝福を、あなたにも捧げる。




                ーーーfinーーー

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落伍者、孤独に身を翳る 観測者エルネード @kansokusya

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