傘を差さない君へ

落水 彩

第1話

 最近変わった客が来る。女性の客だ。俺がその人を変わった、と表現するのは雨の日に傘を差さないからである。そんなことくらいで、と思うかもしれない。確かに、そんな客はいっぱい来るだろう。たとえば、朝は雲ひとつない晴れだったのに陽が落ちるにつれ、空が不機嫌になるように雨を降らす日。まさか降るとは思っていなかったサラリーマンや、下校中の学生がビニール傘を買ったり、雨宿りをしたりしていく。よくある光景だ。


「いらっしゃいませ。」


 入店を知らせるメロディーが耳に届く。

 しかしその人は、朝から雨が降っていても傘を差さない。なぜだろう。長い黒髪から雫が絶えず滴っているのに、あまり気にしていないようだった。そしていつも買っていくのは、オープンケースに並ぶスイーツばかり。今日は新作のホイップが乗ったプリンを持ってきた。


「袋要りますか?」


女性客は首を横に振った。


「はい、一八七円です。」


 慣れた手つきでスキャナーをバーコードにかざすと、ピッと軽い電子音が鳴り、モニターに値段が表示される。スプーンはおつけしますか。もはや作業のように無感情で話す。

 その客は軽く首を横に振るだけで何も喋らない。初めて対応したときは、気味の悪さを感じて苦手だった。ただ、泥酔した状態で絡んでくる中年男性や、酒やタバコを買いにくる未成年に比べたら、可愛らしいものだった。買っていくのが毎度コンビニスイーツということもあり、最近では彼女に興味を持っていた。

 年季の入ったピンク色の財布から小銭を弾く音が止むと、水色のトレーに硬貨を並べた。


「一八七円、ちょうど頂戴します。」


 トレーを傾け、自動釣銭機にお金を入れると、ジャラジャラと音を立てながら機械に吸い込まれていった。


「レシートはよろしかったですね。」


 こくりと頷く彼女は、プリンをクレーンゲームのように上からわし掴み、雨の中退店していった。




「お疲れ様です。」


 勤務時間を終え、防水パーカーを羽織ると、正面の自動ドアから出ていく。駐車場に停まる車も、雨のせいか少なかった。

 駐輪場に置いてあった紺色の自転車のリアキャリアにリュックを乗せる。紐でくくりつけると、サークル錠の鍵を開けた。よっ、と自転車に跨ると、ペダルに足を乗せた。


「あれ。」


 漕ぎ出す直前、安全確認のために左右を見渡すと、見覚えのある女性客が憂いを帯びた顔をして立っていた。

 彼女が退店してから三十分は経っている。その間ずっとこうして立っていたのだろうか。声をかけるべきか迷った。俺が一方的に覚えているだけで、向こうはなんとも思っていないだろうし、急に話しかけられても迷惑に違いない。ずっとずぶ濡れなのは気になったが、わざわざ聞きに行くのも差し出がましい気がした。

 そんなことを考えていると、視線に気づいた彼女と不意に目が合った。しまった、気まずくなる前に帰ろうと思った時には遅かった。


「……。」


 儚げな表情に魅入られてしまった。


「……あ、どうも。」


 自転車のハンドルを握ったまま声をかけると、彼女は手にプリンを持ったまま会釈を返した。

 話しかけてしまった以上、このまま立ち去るわけにもいかず、雨ですね、と当たり障りのない言葉で間を持たす。


「……。」


 彼女は一言も言葉を発さなかった。やっぱり話しかけるんじゃなかったか。

 それでもこちらを見つめ続ける瞳は、どこか悲しげな雨の色を反射していた。

 しかし、相手から言葉が返ってくる気配はしなかった。どうしてもいたたまれなくなった俺は、じゃ、と挨拶するとフードを被り、雨の中漕ぎ出した。




 翌日も予報通りの雨が降っていた。梅雨とはいえ、この雨が何日も続くと分かっていると、二日目にして既に気分が憂鬱だった。雨が降る平日はあまり人も来ない。さらに車や自転車がないと来られないような場所にあるコンビニまで、わざわざ足を運ぶ人なんてそうそういない。アニメやゲームのコラボ商品の発売日じゃない限り、客足が遠のくのはごくごく自然なことだった。

 天井から吊るされた売り出し中のカレーパンのポスターが、エアコンの風に揺れている。それを眺めながら、今日の夕飯は何にしようかとぼーっと考えていると、入店を知らせるチャイムがなった。


「いらっしゃいませー。」


 ほぼ反射で挨拶をする。他のコンビニに行った際も、チャイムを聞くと無意識に声が出てしまいそうになることがある。もう働いて三年になるが、職業病はしっかりと染み付いていた。

 自動ドアの方に目をやると、またあの人が立っていた。白い花柄のワンピースの上にグレーのカーディガンを羽織り、水色のパンプスを履いている。特に気にしていなかったが、よくよく見ると毎回同じ服を着ていた。毎日雨なんて降らないし、シフトも毎日入るわけじゃないから、たまたまなんだと気にしていなかったが、昨日も今日も同じ服となると、いよいよ彼女から目を離せなくなった。雑誌コーナーや日用品売り場を見向きもしないで、オープンケースに向かう。今日はイチゴのショートケーキだろうか、はたまたチョコエクレアだろうか。そんな予想をしながらカウンターで待っていると、無言でキャラメルタルトを差し出された。うわ、また砂糖の塊のようなデザートを、そう思いながらスキャナーをかざす。新作スイーツが出たらとりあえず買ってみる甘党の俺でも、このタルトは喉が焼けるように甘ったるかったのを覚えている。


「二三六円です。」


 彼女の視線は俺の左後ろに釘付けになっていた。視線の先では、鼻歌を歌うゴキゲンな店長がフライヤーで唐揚げを揚げていた。


「ああ、うちの店長です。」


 店長には聞こえていないようで、少し浮いたかつらをふわふわさせながら横に揺れていた。

 そんな彼とは反対に、彼女はギロリと睨みつけるようにして背中の一点を見つめている。穴が空いてしまうんじゃないかと思うくらい鋭い眼光だった。


「店長に何か用ですか?」


 と声をかけると、瞬きをしてまたいつもの財布から小銭を取り出し、合計金額ピッタリになるようにトレーに並べると、そそくさと帰っていった。




「店長、お先に失礼します。」


「はーい、気をつけて。」


 店長は気さくでいい人だ。アルバイトになかなか受からなかった俺を拾ってくれた。初バイトで右も左もわからず、接客もしたことのない俺に優しく指導してくれた。失敗した日も、「元気だしなよ。」と言って、ジュースを奢ってくれた。俺がこのバイトを続けていられるのも、店長の人柄のおかげだ。


「あ、そうだ。」


 先ほど、女性客が買っていったキャラメルタルト、確か甘ったるかった記憶があったが、人が買っているのを見ると期待して食べたくなってしまう。目当てのスイーツを手に取ると、


「これ一個買っていきます。」


 と、店長に電子決済のバーコードを見せた。礼を言って店を出たが、降りしきる雨が止む気配は全くなかった。




「ふう、疲れた。」


 夜、一人暮らしのアパートにて、夕飯も風呂も終わらせるとソファにもたれてテレビの電源を入れた。ちょうど、夜のニュースが放送されている時間だった。冷蔵庫に冷やしてあったキャラメルタルトを取り出すと、素手で掴んでかぶりついた。歯形のついたタルトをプラスチックのトレーに戻すと、やはり喉の焼けるような甘さにむせた。


「やっぱり甘すぎるな。」


 このままだと完食が厳しいと感じた俺は、電気ケトルに水を入れ、スイッチを押した。その間にダージリンのティーバッグを取り出すと、お気に入りのマグカップに入れた。ケトルのオレンジの灯りが消えるまで、タルトには手をつけないことにした。


「——昨日、◯◯県▲▲市の山奥で、女性の遺体が発見されました。警察によりますと——」


 聞き馴染みのある市名に、思わず顔を上げた。


「え、すぐ近くだ。」


 青々とした山が画面いっぱいに映し出されると、手元にあったリモコンでテレビの音量を上げた。


「遺体は口に粘着テープが貼り付けられ、手足を縛られた状態で発見されたとのことです。また、司法解剖の結果、死因は首を圧迫されたことによる窒息死で、腹部には複数の刺し傷があったことが確認されています。遺体は死後十日以上が経過しており、警察は死体遺棄事件とみて、捜査を進める予定です。続いてのニュースです——」


 テレビの音を掻き消すようにボコボコと沸騰音がすると、カチンっとお湯が沸く合図が鳴った。




「おはようございまーす。」


 今日も雨が降っている。昨日のニュースのこともあり、なんとなく晴れない気持ちでバイト先の扉を開けた。


「おはよう。」


 タブレットで発注作業をする店長は、手を止めて挨拶を返してくれた。

 荷物をロッカーにしまっていると、カタカタと画面上のキーボードを打つ音が聞こえてきた。簡易更衣室のカーテンを閉め、パーカーを脱いで、バイト用のシャツに袖を通しながら、ふと気になってニュースのことを聞いてみる。


「あ、店長。昨日のニュース見ました? 近くの山で死体が見つかったそうですよ。」


「死体? 物騒だね。」


「なんてったって見つかったの女性だそうですよ。かわいそうですよね。」


 着替え終わるとカーテンを開けた。


「そうだねぇ。」


 店長の声はどこか落ち着いていた。関心がない、というわけではなさそうだったが、未だに取り扱いに慣れない電子機器を前に、眉をひそめている。ぶつぶつと数字を呟く店長が目に入ると、それ以降は言葉を返せなかった。




 番重に入った大量の惣菜パンを陳列していると、視線を感じて後ろを振り返った。


「ああ、どうも。」


 今日も女性客は、ポタポタと雫を垂らしている。茫然と立ち尽くす彼女は、何かを訴えたそうに困った顔をしていた。昨日コンビニの軒下で見せたのと同じ表情に、思わず立ち上がって向き合った。よく見ると、シュークリームを手にしていた。


「……。」


「ええと、」


 反応に困っていると、彼女はチラリとレジの方を向いた。


「あ、お会計ですか?」


 彼女は一瞬顔をしかめたが、すぐにこくりと頷いた。別の要件だったのか聞こうとしたときには、ワンピースの裾を揺らしながら、歩き出していた。

 店長はもうとっくに発注を終わらせ、表に出てきていたはずだけど。まあ、なんとなく求められているようで気分は良かったので、陳列作業を中断し、レジカウンターへ向かった。


「レシートはよろしかったですね。」


 いつもなら首を縦に振る彼女が、まっすぐに手を伸ばし、手のひらが見えるように広げていた。今まで対応して、レシートを求められるのは初めてだった。その様子にまごつくも、表情を変えることなく、出てきたレシートを両手で渡した。




「あの人、なんで傘差さないんですかね?」


 店長に声をかけると、


「え、そんな人いる?」


「いますよ。見たことありませんか?」


 あんなに特徴的なのに知らなかった店長に驚いたが、失礼だけどびっくりするくらい影が薄いから仕方ないのか、と陳列作業に戻った。




「ねぇ、小林くん。君の見た変わった女性ってさ、どんな見た目なの?」


 勤務時間が終わり、バックヤードで私服に着替えていると、店長に声をかけられた。

 彼女の見た目を一通り説明すると、


「うーん、そんなお客さん、知らないね。」


 それっきり会話が続かなかった。俺は人間観察が好きだから、特別人のことを見ているだけかもしれない。普通の人ならば気に……するよな。

 少し疑問に思ったが、ここ最近雨も続いていることだし、濡れた客なんて珍しくもないか。店長が表にいるのは、基本混雑する時間帯だから、いちいち客の顔を覚えている余裕はなさそうだった。

 自己完結させると、店長に挨拶をして先に店を出た。




 アルバイト先は、家から自転車で十分ほどの場所にある。駅まで歩くよりは遠いが、週二日以上の勤務で良かったので、なかなかの好条件だった。居酒屋、カフェ、ファーストフード店、洋服屋……どこも採用されず、自己嫌悪に陥り挫けそうだった五社目の面接。


「——うん、うちにおいで。」


 店長のその言葉が嬉しすぎて、当時何を話したかは覚えていない。ただ、心がじんと温かくなったあの感覚だけは、昨日のことのように思い出せる。


「いい人に会えたな。」


 独り言を呟いてみたが、誰に届くでもなく、雨に溶けていった。




 自転車を漕いでいると、顔に直撃する雨が優しくなった気がして、思わず自転車を止めて空を見てみた。相変わらず気が滅入りそうな雲の厚さだが、心なしか明るくなったように感じた。そのまま視線を正面に戻す途中に、大きな山が目に入った。いつもならなんとも思わないのに、今日に限っては昨日見たニュースのせいで意識せざるを得なかった。


「確か、あの山だよな。」


 好奇心に逆らえなかった俺は、帰路とは反対方向にハンドルを切った。


 警察の現場検証もすっかり終わり、規制はとっくに解除された様子で、麓に人気はなかった。水分を含んだ土の臭いや、カエルが轢かれた後のような生臭さが辺りに充満していた。濡れた葉に足を取られないよう、気をつけながら山に登った。

 間伐材でできた階段は、ところどころ腐っていて、その機能を果たしていなかった。勢いでここまで来たはいいものの、そもそも事件がどこで起こったのかはわからなかった。テレビに一瞬映っていたが、山の中の景色なんてどれも同じに見えて、諦めるように足を止めた。怖いもの見たさで山に入るんじゃなかったと、大きなため息をつく。気温が高くじめじめしていたため、防水効果のあるパーカーの中は汗だくだった。


「ふぅー、帰るか。」


 思い切り息を吸い込んで伸びをすると、目の端に白い影が映った。

 木の影から覗くその人は、よく見たことのある人だった。白いワンピースを身につけた彼女は、当たり前のように傘を差していなかった。彼女に手を振ると、逃げるように木に隠れてしまった。

 小走りで木まで近づいてみたが、彼女の姿はどこにもなかった。あたりを見回しても、それらしい人影は見つからない。この短時間で他に隠れられそうな場所はなかった。

 忽然と姿を消した彼女を探そうにも、辺りがだんだん暗くなってきたため、それ以上の捜索はしなかった。




 二日後、午前中で終わる講義の後に、いつものバイト先へ向かった。


「おはようございます。」


「おはよう。」


「どうでした? 昨日も雨でしたけど、彼女来ました?」


 どうしても気になったので、着替える前に店長に聞いてみた。


「いいや。小林くんがそういうから意識してお客さん見てたけど、それらしい人はいなかったよ。」


 はて? 雨の日に必ず来店すると思っていたが、来ない日もあるのか。それもそうか、正直コンビニに毎日用事なんてないもんな。


「いらっしゃいませー。」


 社員証を下げたままやってくる中年男性、金髪のロングヘアに真っ黒のジャージとショッキングピンクのサンダルを履いた大学生、持ち手の紐が切れてしまいそうなくらいパンパンのカバンを肩にかけた高校生。その中に、あの人は紛れていないだろうかと注意して見ていたが、それらしい人物は見当たらなかった。




「ありがとうございましたー。」


 一時間くらい経った。出て行く客と入れ違うように、一人の女性客が店内に足を踏み入れた。


「あ、例の人来ましたよ。」


 バックヤードに向かって声をかけると、他の客のレジ対応をしながら、女性客が来るのを待った。

 ぽたぽたとカウンターに水滴が落ちて水玉模様を作る。差し出されたスイーツは、宝石のような栗の甘露煮の乗ったモンブランだった。


「またお待ちしてますー。」


 見えなくなるまで彼女を見届けていると、


「小林くん、君はさっきから誰と話しているんだい?」


 恐怖と驚きが混ざったような、掠れた声だった。




 帰宅すると、今日の出来事について整理することにした。あの人は店長には見えていないのだろうか? いや、逆に俺にしか見えていない可能性もある? うんうんと頭を悩ませてみても、何もわからなかった。

 仮に見えてないとしたらなんなんだ、幽霊?

 俺は見たことないものは信じない。幽霊とか宇宙人とか、きっと誰かの見間違いが話に尾鰭をつけて伝わった。そういうものだろうと思っていた。だがしかし、実際に自分自身がそんな超常現象に出くわすとは思わなかった。

 本当に幽霊だったとして、自分にだけ見える理由がわからない。生前恨まれるようなことでもしたのだろうか、心当たりは全くないが、人をよく見る癖があるから、不快な思いをさせていたらどうしよう。それとも、何か伝えようとしてる?

 ——傘を差さない、スイーツばかり買う、言葉を発さない、他の人に見えない、あとは……。

 彼女の挙動を思い返していると、店長の背中をじっと見つめていたときのことを思い出した。


「いやでも店長見えてなさそうだったし、」


 そこでふと、あの山で彼女を見かけたときのことを思い出した。急に姿が消えたのも、よくよく考えてみれば常人にできる芸当ではなかった。


「山で殺されたのがあの人で、たまたま雨が降っていたから雨の日にだけ来店する。濡れるのに頓着しないのは人間じゃないからで、スイーツばかり買っていくのは店長の名前が佐藤だから。」


 なーんてな。そもそも店長と彼女のつながりもなさそうだし、ここまでの推理を全部繋げただけのお粗末な妄想だ。妄想なのだが。

 

「——ねぇ、小林くん。君の見た傘を差さない女性ってさ、どんな見た目なの?」

 

 ——俺、店長に女性客って言ったっけ。

 おもむろにスマートフォンを手に取ると、山で起こった事件について調べた。


「まだ犯人は捕まってないんだな。」


 テレビで報道されてないような詳細が、ネットニュースにはごろごろと転がっていた。

 被害者女性の特徴、交友関係、発見時の様子、死因。


「あ。」


スクロールする指が止まったのは、一枚の写真が目に入ったから。

 そこにはよく見たことのある女性が映っていた。

 さらに調べて行くと、生前に男女間のトラブルで揉めていたらしいことがわかった。ただ、友人から聞いた話であり、具体的な内容はわからず、携帯電話などもまだ見つかっていないらしかった。

 見つからないということは、まだ犯人が持ってるのだろうか。それか別の場所に捨てられていてわらないのだろうか。

 探偵にもなった気分で画面を眺めていると、急に振動と共に着信音が鳴り響いた。

 急な出来事でびくっとしたが、よく知っている連絡先が表示されていた。それを見て安心すると、応答のボタンをタップした。


「はい店長、どうされました?」


『ああ、小林くん、今いいかい。』


「いいですよ。」


 こういうときの電話は大体、「今からヘルプできてくれないか。」という趣旨のものだ。スマホを耳と肩の間に挟むと、靴下を履きながら話を聞いた。


『今日入るはずだった子が体調不良で来れなくなっちゃって、今からお店来てくれないかな。』


「あ、はいすぐ行きます。」


 特に断る理由はなかった。さっさと身支度を整えると、玄関の鍵を閉めていつものアルバイト先に向かった。じめじめしていたが、雨は降っていなかった。




「おはようございます。」


 正面入り口から、挨拶をしながら入ると店内は少し賑わっていた。レジ対応に追われる顔見知りのバイト仲間はこちらに目を向ける余裕もなさそうだった。

 横を抜けてバックヤードに入ったが、人はいなかった。私服のまま表をチラリと覗いてみても、先ほど挨拶をした店員が一人いるだけだった。


「あれ、店長は?」


 こっそり声をかけると、「え、ごめんわかんない。外かな。」と返ってきた。

 もう一度、退店のチャイムと共に外に出た。夜風が生ぬるく気持ち悪かった。


「店長ー。」


 呼びかけても返事はない。ぐるりと裏に回ってみても人影はなかった。あれ、と首を傾げた瞬間、頭部に強い衝撃を受けた。鈍い音が脳内に鳴り響くと、声も出せずに倒れ込んだ。腹を強く打ったため、一瞬息が止まる。二、三度咳き込むと、自身の浅い呼吸音がひどくうるさく感じた。頭が熱くズキズキと心臓の鼓動に合わせて痛んだ。何が起きたかわからず、背後を確認するために立ちあがろうとしてもう一度、似たような衝撃に襲われると、目の前が真っ暗になった。




「あ、れ。ここは。」


 いまだにズキズキと頭が痛む不快感に顔を歪ませながら、状況を把握しようと顔を上げた。ベニヤ板、角材、鉄骨が無造作に置かれている。埃とカビが混ざった体育館倉庫のような匂いがした。人の気配はなかった。

 ふと、体の自由が利かないことに気づいて自分の体を確認すると、パイプ椅子に座らせられ、椅子ごと後ろ手で縛られて固定されていた。


「え、へ? なに。」


 やっと状況が理解できると、急に焦りと恐怖で額にじわりと汗が滲んだ。


「起きたかい。」


 聞こえてきたのはよく知る声だった。優しくて温かくて、安心する声。いつものような気さくなテンションで、おはようと言うように俺の心を落ち着かせる声。なのに、今日に限っては、その声を聞いても心臓が早鐘を打つばかりだった。

 コツコツと後ろから足音が聞こえて、目の前で止まった。


「なんで。」


 ゆっくり顔を上げると、そこには今一番会いたくない人間が立っていた。


「店長……。」


「君が気づいてしまったから。」


 店長は眉尻を下げて悲しそうな顔をしていた。


「俺は、何も知らないです。なんの話ですか。」


 変な緊張感に吐き気がした。


「君が話していた女性。発見当時はグレーのカーディガンは身につけていなかったようだよ。」


「え、あ。」


「その情報はどう調べても出てこないはずだ。事件当時を知るもの以外な。」


「ちょっと、ま、待ってください、なんのことか本当に、本当にわからないです。」


 痛む頭に構っていられる余裕はなかった。声の出る限り叫んだ。何も信じたくなくて、何も話してほしくなかった。


「君は全部見ていたんだろう、あの日。知っていて俺を揶揄うようなことを言ったんだな。どこで見ていたんだ?」


 店長はポケットから果物ナイフを取り出した。レザーケースを床に落とすと、ゆっくりと近づいてきた。


「ちがう、本当に俺は、しらな、店長こそ、冗談やめてくださいよ。」


 パイプ椅子がカタカタと小刻みに震えて音を立てる。嫌な汗が背中を伝う感覚が気持ち悪かった。


「はあ、君は優秀な人材だった。こんなところで亡くすとは、惜しいなぁ。」


「え、本当に、店長が、こ、ころ、」


 ゆっくりと近づく店長に頭を掴まれると、冷たく鋭い痛みが腹部を襲った。

 今まで出したことのない、血を吐くような悲痛な叫び声が倉庫内に響き渡った。キーンと耳鳴りが聞こえると、次第に頭がぼうっとしてきた。

 やがて重さに耐えられなくなった頭ががくりと垂れた。白いシャツには鮮血がどんどん広がっていく。その様子をただじっと見つめることしかできなかった。

 知らないと突き通せば、結果は違ったかもしれない。なのに調べたことや、立てた仮説がどうにも脳裏にちらついて仕方がなかった。一度知ってしまうと、知る前にはどうしても戻れなかった。

 でも、そしたら彼女はどうなる? 俺が見て見ぬ振りをして誰にも気づいてもらえなかったら、一生事件が未解決のままこの世を彷徨ったのかもしれない。

 それは、かわいそうだ。

 こんな状況でも自分のことより他人の心配をしてしまう。しかも相手はもう死んでいるのに。いや、死んでいるからこそ放っておけなかった。


「知らなければ死ぬことはなかったのに。」


 そう言って店長は身動きの取れない俺の胸部にナイフを突きつけ——


「動くな!」


 耳をつんざくような怒号が鳴り響いた。すんでのところで店長の動きが止まると、


「警察だ。武器を捨てなさい。」


 紺色の制服を身につけた数人の警察官が、俺たちを中心にするように囲み、店長を床に押さえつけた。




 そこからのことは覚えていなかった。気がついたら病院のベッドで眠っていた。

 遠方から駆けつけた家族に心配そうに見つめられていたのが、目が覚めて初めて見た光景だった。




 どうやら店長はネットで知り合った女性にストーカー行為をしていたらしい。殺されてしまったあの人も、被害に悩む一人だったらしい。一方的な好意を押し付けるも、相手にされないことに逆上し、殺してしまったそうだ。

 俺の知る店長は、優しくて、気さくで、来るもの拒まず拾うような心の広い人だった。

 自分の知りたくなかった一面が、店長の人物像をボロボロと壊していく。


「そういえば、どうしてあの場所わかったんですか?」


 あの資材置き場はコンビニから十キロほど離れていたらしい。すぐに通報がないと、あの短時間で突き止めるのは不可能だ。面会に来た警察に尋ねてみると、


「ああ、一本の電話があってね。何も声を発さないからいたずら電話だと思ったんだけど、誘拐の場合は声を出せない状況もあるから、逆探知で割り出したんだ。」


「え、でも俺電話なんてして。」


「それが、ずっと見つからなかった被害者女性のスマートフォンからかけられていたんだ。」


 どうやらスマホは資材置き場に落ちていたらしく、その端末内には店長とのやりとりも残っていたようだ。俺はなんとなくあの人が助けてくれた気がして嬉しくなった。欲を言えば刺される前に、いや、殴られる前に警察に来て欲しかったけど、解決したんだからよかった。俺も生きてるし。


 ……俺は生きてるけど。


 彼女は浮かばれただろうか。軒下で見せた表情をした日や、何かを訴えるようにシュークリームを持ってきたあの日。あれは事件のことに気づいて欲しくて俺の前に現れたんじゃないだろうか。俺が刺された日以降、彼女には会っていない。そもそもコンビニにすら行けないので会えるはずもなかったが。

 雨が降っても、彼女が姿を見せることはなかった。

 窓の外を見ると、すっかり梅雨も明け、青空が広がっていた。少し空いた窓から流れてくる柔らかい風がカーテンを揺らした。




「んー、すっかり夏だな。」


 退院した俺は一ヶ月ぶりに一人暮らしのアパートに帰ってきた。両親に実家に帰ってこないかと提案されたが、これ以上大学を休むわけにもいかなかった。入り口にある郵便受けには、自分のところにだけ溢れんばかりのチラシが詰まっていた。ダイアル式の鍵を開け、中身を両手に抱えた。パンパンに詰められていた光沢紙はところどころ折れており、すでに読む気が失せるものばかりだった。


「もっとこう、丁寧に入れてほしいよな。」


 郵便受けの扉を閉めると、抱えた紙束の隙間から、一枚の紙切れがヒラヒラと落ちるのが目に入った。ため息を吐きながらしゃがむと、まだ刺された部分がちくりと痛んだ。何もしなければ痛みは感じないが、皮膚を伸縮させるような動きをすると、まだ焼けるような感覚が襲う。すっかり忘れていたと反省して紙切れを拾った。


「あれ、これレシート? なんでポストに。」


 不思議に思って購入内容を確認すると、「ダブルカスタードのしっとりシュー」と書かれていた。さらに目線を動かすと、今から一ヶ月も前の日付が記されていた。忘れもしない、その日。霊の彼女がレシートを受け取った最初で最後の日だった。

 そのまま流し見ると、余白に爪で引っ掻いたような「アリガトウ」の文字が記されていた。

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