宝石泥棒

浅里絋太

本編

 今年で七十九歳になる静江は、座椅子に座り、こたつに足を入れた体勢でテレビを観ていた。


「やだ、ぶっそうじゃないの、ちょっとケイちゃん、これ見てよ。泥棒だって」


 静江はテレビを指さして、中学生になる孫の恵一へそう言った。恵一はこたつの暖気を逃さないようにしながら体を起こして、


「気をつけなきゃね。怖いよね」


 昼のニュースでは、隣の市で起きた強盗事件について報道されていた。


 二階建ての民家にキャップ帽をかぶった男が押し入り、包丁で家人をおどかして、現金八万円程度を盗んでいったのだという。


「きょうはおれがいるから安心してよ。でもさ、普段は気をつけなきゃだめだよ。戸締まりとかさ」


 それを聞き流しながら、静江はつややかな恵一の頭髪を眺める。隣家のシェパード犬の毛並みみたいだ。それがかわいらしく、思わず触れたくなるが、そんなことはしない。


 やがて玄関を開く音が聞こえる。


 買い物袋を持って、恵一の母親の美紀子が居間へ入ってきた。


「ただいま戻りました。お夕飯、なんにするか考えたんですが、お義母さんの好きな湯豆腐にしようと思って。それにお肉も、飛騨牛が特売だったから買ってきたんです。春菊もみずみずしくって、ホラ」


 美紀子が買い物用の手提げから牛肉のパックを取り出して、うれしそうに収穫を見せびらかしてきた。そこで静江は尋ねた。


「真治はどうするって?」


「真治さんは、会社の方と食べてくるみたいです。きょうはわたしたち、三人ですね」


 静江の息子であり、美紀子の夫である真治は商社に勤めていて、付き合いが多い。真治が美紀子と結婚したのは十六年前だ。


 その美紀子の視線を、静江はときおりいまいましく思ってしまう。


 一年前に静江が肺炎で入院してから、まめに恵一を連れて尋ねてきてくれるようになったのはよいが、どうも美紀子を不気味に感じるときがある。歳のせいで疑り深くなっているだけかもしれないが。



 昨夜の湯豆腐で使った土鍋は、ぴかぴかに磨かれて台所のテーブルに置かれていた。台所と居間の中間にある大きな柱が茶色に輝いている。屋敷を支えているその柱は、近づいてとおり過ぎるときには細かな傷などがはっきりと横目に確認できた。というか、思わず目に入ってしまうのだ。


 この傷はあの人が机をぶつけてしまったときのもの。


 この傷は幼い恵一が定規を振り回したときにぶつけたもの。


 この傷は、なんだったっけ。


 四年前に夫が心臓の病気で亡くなってから、静江だけがこの屋敷の住人となっていた。……自分が屋敷の主人だとはまったく思えなかった。だから自分は住人にすぎないのだ。大きなお屋敷も老人ひとりの生活には広すぎて、思い出がありすぎて、心地よいばかりではなかった。


 いつか自分が夫の元へ旅立ったあとは、どうか多くの人で賑やかに暮らして欲しいと静江は願っていた。本当はおととしに買ったマニュアルに従って遺書でもしたためて、親族にそれぞれなにを遺すか、はっきりとしておきたい気持ちはあった。しかしまだ、なんとなく気が進まなかった。自分の背に載っているものを棚卸しするには、まだきっかけが掴めずにいた。


 そんなことを考えながら、静江は柱をとおり過ぎて、居間を玄関とは反対側に抜けて寝室へ向かった。


 鏡台の前に座ると、鏡の周りに使われている木材の年輪や、錆びた取っ手の具合が時代を感じさせた。製鉄工場の設計部で働く夫に見初められたのは、五十年以上も前のことだった。鏡台については嫁入りのときに、父が町内の家具屋を拝み倒して値切り、手に入れてきたものだった。


 その大きな鏡に、ひとりのおばあさんの姿が映る。


 ほんのすこし悲しくなるが、そんな苦みは一瞬のことで、もう自分自身とは折り合いがついていた。


 子育ても、結婚も、仕事も、別離も経験して、孫の顔も見れたし、あとはなんていったけ。


 アディショナルタイム? そう、サッカーのあれみたいなものじゃないの。


 つらいこともあったけれど、いいこともあったし、あとは幸せのおまけみたいなものよ。


 すると自然に笑顔が溢れてくる。


 安寧の中でゆっくりと、家や心の古傷を眺めて過ごすのも、悪くはない。陶芸家が作品を売る前夜に、ささいな瑕疵や焼き上がりのむらをひとつの味として納得するように、許された時間を味わうのも。


 ちなみに、誰にも言ったりなどはしないが、静江は自分の笑顔が美しいと思っていた。


「おまえはもっと、いい家に嫁げる十分な器量があったのに、よくうちにきてくれたもんだな」


 鏡の前に、夫の写真が立てかけられていた。還暦の記念旅行で長年憧れていたインドへいったときに撮ったもので、ターバンを巻いた夫とサリーをまとった静江が笑顔で並んでいる。


 それから鏡台の右下に備えた扉をあけて、宝石箱を取り出した。


 白く塗られた真鍮製で、装飾はすこし色あせている。小さな宝箱みたいなそれをゆっくりと開けると、大粒のルビーの指輪を右手の指先でつまんだ。そうして、鏡に映る皺だらけの顔の前にかざした。ルビーの赤い輝きはずっと変わることがなかった。


 夫は古風なわりにロマンチストだった。結婚三十周年に贈ってくれたこの指輪も、映画の影響だった。


 そのほかにも、宝石箱には人生の折々で手に入れた輝きが詰まっていた。ダイヤモンドの婚約指輪。親友にもらった真珠のイヤリング。そんな宝石箱をあけるのが、静江の楽しみだった。


 その中にひとつ、風変わりな石が入っていた。


「おばあちゃんにあげるね。さっきお父さんと河原にいったときに、拾ってきたんだよ」


 突き出された恵一の手の平には、くすんだ青土色をした奇妙な形の石が乗っていた。それは平たい涙の形をしていた。


 河原や土手で遊ぶのが好きだった恵一は、今では思春期まっただなかの、一番危なっかしい時期に差し掛かっている。家族の前では大人しく振る舞ってはいるけれど、静江にはなんとなく彼の性向が分かってしまう。



 美紀子はパン工場のパートの仕事が終わると、静江の家へ向かった。自分でも分かるくらいにパンの甘い匂いが車内に充満している。助手席のビニール袋には、社員に配られる形の悪い菓子パンなどが詰まっていた。美紀子はそんな車中で、パートの時間をもっと増やすべきかを考えていた。夫の収入だけで生活費や恵一の学費をまかなうのは困難だった。


 静江の家に入って一緒に暮らすのも悪くはないが、どことなく静江がそれを拒んでいる気配があって、切り出せずにいる。


 できるだけこまめに様子を見に行くのは、一年前に肺炎が悪化して、しばらく入院した静江のことが心配だったからだ。しかし、鏡台にしまってある宝石箱の中身や、土地の価格について考えないわけではない。


 少し前に静江が遺言の話をしていたことを考えると、なにかしらの準備を考えていることは想像できた。


 静江の信頼を得られれば、全部とは言わなくとも、ある程度の財産は遺されるだろうし、それが自然な成り行きであるはずだ。


 気になるのは新潟に暮らす、静江の長男の存在だった。彼にも資産が相続されることだろう。けれど、自分たちはこんなに近くで静江の面倒を見ているのだから、その分の配慮があってしかるべきだ。


 そうよ、死臭を嗅ぎ付けたハゲタカなんかじゃなくて、自然な親切心で様子を見に行っているんだから。その結果『信頼』を得るのだとしても、わざわざ拒む必要はないじゃない。



 静江がいつもの体勢で、こたつに足を突っ込みながら座椅子に腰かけていると、美紀子が腰を屈めて話しかけてきた。


「お夕食は召し上がりましたの?」


「そうね、まだだけど、夕方ころにお土産にもらった草餅を食べたら、おなかいっぱいになっちゃってね」


 こたつの上には、蓋のあいたパックの中に食べかけの草餅が転がっていた。それに、白くてごつごつした湯呑の脇に宝石箱がある。


「あら、今日はどうしたんですの? 珍しいですね」


 美紀子の瞳の中に、白い真鍮の輝きが映っているのが見える。美紀子の視線が宝石箱へと釘付けとなっていたが、静江はそんなことに気づきたくなかった。


「なんだかね、いろいろ思い出しちゃってね」


 美紀子は同情するようになんどかうなずく。


「分かります。アクセサリーとかって、ひとつひとつが物語ですもんね」


 三文芝居みたいなセリフね、と静江は思ったが、否定する気持ちはなかった。むしろまったくそのとおりだとも思った。


 静江は宝石箱をためいきまじりにひらく。


「これはね、真治がはじめてボーナスをもらったときに、プレゼントしてくれたのよ。あなたと結婚する、ずっと前のことね。なんどか見せたかもしれないけど」


 静江は手を延ばして、真珠の埋めこまれた銀縁のブローチを取った。美紀子の手に載せてやると、目を細めながら真珠を電灯にかざしはじめた。


「とってもきれいですね。真治さんって、女の趣味がよく分かってるんですよね。きっと」


 美紀子はずっとブローチを眺めまわしていた。その様子を見る静江は不安になりはじめる。返す気がないんじゃないか。


 静江はそんなおぞましい気持ちに襲われたが、ひったくるわけにもいかず、気分を落ち着けようと湯呑に残った冷めた茶をすすった。


「あら、温かいのを淹れてきましょうか?」


 ブローチを宝石箱に戻して、美紀子が立ち上がりかけた。静江はほっとしてうなずいた。


「ありがとう。せっかくだからお願いできるかしら」



 それから一週間後の金曜の夜。


 世の中には気づいた方が幸せなことと、気づかない方が幸せなことと、両方あることを静江は改めて考えていた。


 体が固まってしまって、今が夜中の何時なのかを確かめることもできないでいる。


 というよりも、体を動かしたときの衣擦れが泥棒に伝わって、自分が目覚めていることに気づかれでもしたら危険だ。最悪、命を奪われるかもしれない。


 秒針はこつこつと懸命に時間を伝えようとしてくれるのに、ちょっと首を動かすだけの勇気が、静江には持てなかった。


 五分くらい前だろうか、玄関の方からぎしぎしと軋む音がして目覚めてしまった。家の前で誰かが故障した車でも修理しているのかと思ったが、そうではなく、きわめてゆっくりと『誰か』が玄関の扉を開けているようだった。


 その証拠に、音が止んでから夜風が家の中に吹きこんでくる感じがしたのだ。


 静江は目をつむりながら、廊下を進んでくる足音に耳を澄ませた。靴を脱ぐ気配はしなかった。ゴム底の靴なのか、磨かれた床をぎゅ、ぎゅ、とこすりながら、台所の方へ足音が向かう。


 『誰か』は台所には金目のものがないことに気づいたのか、足音が寝室へと向かいはじめる。


 静江は宝石箱のことを考えていた。足もとの鏡台にしまったそれを、『誰か』が見つけたら間違いなく盗んでいってしまうだろう。


 それはそれで悲しいが、あの宝石箱のほかに値打ちのあるものなど、この家にあるだろうか。


 やがて寝室の引き戸があいて、『誰か』の気配が入り込んできた。ゴム底が畳を擦る音がする。


 静江は目覚めていることを悟られないように、ゆっくりと、ゆっくりと呼吸した。穏やかな寝顔に見えるように、わざとらしくないくらいに微笑まじりの、現実の些事なんか忘れて眠りに落ちているような表情をつくった。


 『誰か』は静江の横を過ぎてタンスの前に立ち、下から順番に物色しはじめたが、一番上までいっても収穫はないはずだった。


 静江はだんだん、早く鏡台の宝石箱に気がついてほしいとさえ思いはじめていた。


 やがて『誰か』に願いが通じたのか、足音が鏡台へと向かった。上の引き出しが開く音がするが、そこにはずっと使っていないパーマ用のカーラーが入っているだけのはずだ。


 やがて下段にある木製の扉が軋む音がする。


 『誰か』が感嘆のため息を漏らした。きっと宝石箱を見つけたのだ。静江の足元に重たい塊が置かれる音がして、しばらくすると、石がぶつかる硬い音や、金属がぶつかる甲高い音がした。


 さあ、早くそれを持って帰ってちょうだい。静江はそう願っていた。ところがふいに、『誰か』が灯す光が目元を直撃してきて、静江は短い悲鳴をあげてしまう。『誰か』の影がゆっくりと迫ってくる。


「いいかい、そこで、静かにしていなさい」


 ずいぶんと落ち着いた口調だった。駆け出しの泥棒というよりも、熟練者の余裕さえ感じさせるものだった。カーテンの隙間からほんのわずかに漏れてくる光で、静江は『誰か』の輪郭を視線でなぞった。


 年齢を感じさせる低い声に、細身のシルエット。手拭いをふわりと頭にかぶせ、目元や頬を隠している。そのとき不思議なことに、どことなく懐かしい感じがした。


 『誰か』は口元に指を立てて、しっ、と空気を吐くと、「静かに」そう言って颯爽と立ち上がった。手にはしっかりと宝石箱を抱えていた。それから開閉が面倒な玄関を嫌ったのか、寝室の窓から出ていった。


 静江は『誰か』と目があった瞬間のことを、モノクロ写真みたいに鮮明に記憶していた。


 『誰か』が出て行っても、電灯をつけることもせず、うろたえて通報することもせず、そのモノクロ写真が昔から心の中にあったような気持ちを抱いて、胸に手を当てた。


 そして、夫と二人で撮った写真の方をやぶにらみにしてから、布団に寝転んで眠りについた。



「えっ! 泥棒ですか? 大丈夫だったんですか?」


 翌日に美紀子がやってくると、目を見開いて、口元に手を当ててそう言った。居間で座る静江はその顔を見上げていた。


 美紀子は騒々しく家の中を歩き廻った。それを見守る静江は、あの泥棒がいかに静かだったかを思った。


 そのうち美紀子はまた、やかましい足音をたてて居間へと戻ってきた。


「ほ、宝石箱が、盗られたんですね!」


 静江はその言葉を聞くと、これ以上なく真剣な表情を作り、眉をしかめて答えた。


「そうね、ほんとうに。まったく残念ね」

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