自由と責任

たくさんの人と繋がりを持つセックスフレンドが妊娠する。セックスフレンドは父親を確かにせず、すべての可能性を持つ男を短時間だけの父親として家に招きながら子育てをする。

主人公はその奇妙な関係のまま、どこかで自分の子だという確信を持ちつつ「人生を固定したくない」というふんわりした理由で母子を都合よく解釈し、扱い、利用する。さらに他の女性とはあっさり家庭を築いてしまう。

また母親も自身の行いが子供にどんな影響を与えるかではなく、自分の精神の自由のために作中では十年間そんな暮らしを続けている。

評価がすごく難しくて作品の核は「親はどこまで自由であって良いのか」であると思う。墮胎よりも責任を持ち、だけど全うな子育てではない。

我が子という最も尊ぶべきもの、この作品の場合は子供にとって最も尊ぶべき親というものを両親の精神的な自由の下に奪っている。離婚という法的に認められた範疇でなく、死別という愕然とした別れでもなく、複数用意するという子供が最も混乱する方法をとりながら、父親を奪っている。

その理由としてはこの2人は心の深いところで互いに見下しているのだと感じた。主人公は結局セックスフレンドとしてのタマミの元に最も足繁く通い、そうでないタマミの元には寄り付かなかくなった。タマミも「自分が父親ではないか」という主人公に嫌な顔まで見せている。互いに深いところで軽蔑し合っている。

作中ではこの二人の態度に大きく肯定も否定も書かれてない。身勝手な男の都合の良い解釈で物語は進む。残酷なくらい淡々と進む。そこに底しれぬ狂気を感じてこの作品を優れたものにしている。

だけど出来ることならもう一歩踏み込んで主張するべきだと思った。この設定はとんでもなく優れている。だからこの話の中で作者の意図を強く主張する事ができれば何倍も優れた作品になると思う。