第12話:溌剌な彼女 二
九月になっても蝉の声は衰えず世界に暑さを届けている。
さすが夏冬花粉の三季、連日続く真夏日は一体いつまで記録を伸ばすつもりなのだろうか。
今日から二学期が始まるというのに全然そんな気がしないのはこの気温のせいだろうか。
ホームに滑り込んできた電車に乗ると、漆茨さんが吊革に掴まって立っていた。
「おはよう、深青里君。久しぶり」
「うん、おはよう。久しぶりだね」
挨拶を返しながら彼女の隣に立った。
夏休みの間、漆茨さんとは連絡こそ取っていたものの、家に泊まらせてもらった日以来会ってはいなかった。
だから顔を合わせた今、気付いた。
「あれっ、口の端、元に戻った?」
漆茨さんの無表情が最後に会った日に浮かんでいたわずかな微笑がなくなって、結ばれた口が一直線になっていた。
「えぇ、気付いたら戻っていたの」
「そっか」
「深青里君と会えなくて寂しかったからかも」
その言葉にはちょっとドキッとした。
悟られないように愛想笑いを浮かべながら、心の中で確かにと呟いた。
漆茨さんの意図とは違うだろうけど、その説は間違っていないかもしれない。
夏休み中も僕は何度も世界を移動していた。
その間、そっちの世界でも登校はなかったから漆茨さんとは会えず、話はできなかった。
漆茨さんの口角が上がった理由が、他の世界の彼女たちと話すことだったとする説が正しければ、この世界の漆茨さんの口元が元に戻ったのも納得できる。
というより、今回のことでその説の信憑性が上がった。どうして関係しているのかは依然分からないけど。
「でも、自分で笑えていた訳じゃないから別にいい。それより深青里君は少し焼けたみたい」
漆茨さんが僕の顔と腕を交互に見て言った。
「どこか行ったの」
「うん、少し山に登ってみたんだ。といっても木ヶ暮山だけど」
「そう。楽しかった」
「うーん、どうだろ。良い運動にはなったかな」
というのは半分本当で半分嘘だ。
良い運動どころか僕にとっては過酷な運動だった。
麓に建てられた第一の鳥居から山頂までは約二時間くらいかかる。その往復四時間を僕は何回か繰り返した。
段々慣れてきて良い運動程度に感じ始めたけど、登り始めたての時は脚の筋肉痛は酷くて足の裏も痛くなっていたのだ。
そうして分かったことといえば木ヶ暮神社には健康の神が祀られていること、建てられてからもう八百年ほど経過したこと、三百年程前に一度地震とそれに伴う火災で崩れて建て直されたのが今の形だということ、くらいだろうか。表情を失ったり世界を移動したりなんて話は出てこなかった。
登りながら確認した神社そのものに関しても、鳥居や頂上へと続く石段、参道や拝殿に本殿も、特に怪しいところはない普通の神社だった。
何度か通っていくうちに僕の感情表現が鈍ったということもない。
つまりは収穫ゼロ。意気込んでいったのに何も掴めずに終わってしまった。
もちろん僕だって、平行世界への入り口だとか表情筋を死滅させるレーザー光線だとか、そういうものが見つかるとは思っていなかった。それでも小さくていいから何かヒントはあって欲しかった。
つい溜め息を吐くと、聞えていたのか漆茨さんが見上げてきた。
「疲れてる」
「あぁ、疲れているというか、なんだろう。まだまだ暑いのに学校始まっちゃったなって」
「そういうこと」
適当に誤魔化して、頷いた漆茨さんと外を見た。
ギラつく太陽が晴れ渡る空の中で輝いている。
対称的に僕の心はモヤモヤしたまま二学期が始まった。
* * *
思いもよらないことが起こった。
朝起きて日記を読むと昨日書いた覚えのないことが書かれていた。
それはもう慣れたことだから驚かない。
ただそこに書かれていた最後の一行に僕は目を疑った。
『明日、漆茨さんが書き上げた小説を読ませてもらうことになった。楽しみだ』
小説を書き上げた?
漆茨さんが?
真っ先に夏休み前、カフェで話した溌剌とした漆茨さんが頭を過った。
でもすぐにあの漆茨さんじゃないだろうと首を振る。
僕は今まで一度来たことのある世界を再訪したことはなかった。小さい頃は気付かなかっただけかもしれないけど、高校生になってからは毎朝日記を読み返して世界移動を確認していたからそれは間違いない。
ということは今回偶然、元から小説を書いていてたまたま僕と仲が良い漆茨さんがいる世界に移動してきたということになる。
……いや、そんなことあるだろうか。
小説を書いているところまでは百歩譲っていいとしても、僕と仲良くなっているというのは稀すぎる。今の僕ならまだしも、無表情の漆茨さんと会っていないこの世界にいた僕が誰かと仲良くなるとは考えにくい。
実際、今までどの世界に行っても特別仲のいい人はいないようだったから。
それに、これまで各世界毎に近しい性格をしている漆茨さんは存在していなかった。おかしいくらいに全員、全く違う漆茨さんとしてそこにいた。
じゃあ僕は再び溌剌茨さんのいる世界に来たという事か?
呆然としているとスマホが鳴った。
開いた画面には漆茨さんからのラインが映し出された。
『今日、放課後よろしくね! 十七時だよ!』
『場所はもちろんいつものカフェ!』
その下にグッドサインを作ったパンダのスタンプが添えられていた。
いつものカフェ。
その単語から連想されるのも、あの日溌剌茨さんと行ったカフェだけだ。
困惑したままとりあえず『うん、分かった』とだけ返して息を吐く。
いや、落ち着け。
頭の中にあの漆茨さんを思い浮かべているからカフェと言われてあそこしか思い浮かばないんじゃないか。この世界の僕と漆茨さんは他のカフェを『いつものカフェ』にしている可能性だってある。
「あっ、そうだ」
過去の日記を手に取りページを遡る。
もしここが以前来たことのある世界だったらその時僕が書いたページがあるはずだ。
一字一句は覚えていないけど、あの日は話した事が事だっただけに長々と書き綴ったから内容は分かる。
それが出てきたら僕は溌剌茨さんがいる世界に再びやってきたということになる。
逆になければあの時とは無関係の、偶然似通った世界に来ただけということだ。
「……これだ」
たった一ヶ月半しか経っていないから探しているページはすぐに見つかった。普段は一ページ分しか書かないのに、その日は四ページに渡って綴られていた。
漆茨さんの悩みとそれに対して僕が言ったこと、そしてその日から彼女が小説を書き始めると決めたこととそれを読むのを楽しみにしていて欲しいということ。
書いた記憶のある文章がそこにはあった。ということはやっぱりここはあの漆茨さんがいる世界だ。
一度来た世界にまた移動する事があるのか。
でもなんでまたここに来たんだろう。
また漆茨さんは悩んでいるのだろうか。
分からない事ばかりだけど一人で考えていても答えは出ない。
ひとまず学校に行った方がいい。漆茨さんと会って話せばまた分かる事があるかもしれない。
そう思って登校すると、すでに教室には見覚えのある溌剌とした漆茨さんがクラスメートと話していた。
しばらく見つめていると向こうも気付いたのか、照れくさそうに手を振ってきた。僕も頷いて手を振り返した。
はにかんだ表情も雰囲気もやっぱりあの時の漆茨さんだった。
放課後になって僕はカフェに来ていた。
薄れていた記憶を頼りに歩いていくと見覚えのあるログハウスチックな建物が現れた。
入って正面のカウンターの中では、備品の整理中なのかあの恰幅の良いおばさんがしゃがんでがさごそ手を動かしていた。音で僕が入店した事に気付いたのかカウンターから顔だけ出した。
目が合うと、おばさんはにこやかに笑いかけてきた。
「あらあら、今日も来てくれたのね、嬉しいわ」
「こんにちは。今日もお邪魔します」
「もぅ、深青里君で邪魔なんて言ったら私はどうなっちゃうのよ。体積的に存在が悪になっちゃうじゃない」
「は、はぁ……」
「奥の席、空いているから座ってちょっと待っててね」
そう言って中に頭を引っ込めた。
店の奥に目を向けると前回来た時に座った席が空いていた。
きっとそこだろうとテーブルに着いてメニューを手にとると、すぐにおばさんがコップを運んできた。お冷やかと思ったけどすでにアイスコーヒーが注がれていた。
「はい、コーヒーね。あと今日のおまけはバニラアイス。今日も暑いから三杯までなら新しいの持ってくるからね」
「あ、ありがとうございます……」
当り前のように持ってきたコーヒーとアイスをテーブルに置いてから、おばさんは手を振ってカウンターに戻っていった。と思ったら途中で引き返してきて伝票を置いてまた戻っていった。
さも当然のようなおばさんの振る舞いに驚いた。
想像していた以上にここはいつものカフェとして定着しているらしい。
困惑しながらもコーヒーを啜ってスマホを見る。時計の表示は十六時四十五分。
約束の時間は十七時だから漆茨さんももう来るだろう。
アイスを食べてボンヤリとスマホでニュースを眺めていると「ご、ごめん、遅くなっちゃった!」漆茨さんが来た。額が汗で濡れている。
時間を見てもまだ十七時から十分しか過ぎていない。
「全然遅くないよ僕もさっき来たばっかだし」
「えへへ、ありがとう」
はにかんだ漆茨さんが座るとすぐに、おばさんがオレンジジュースとパフェ、あとは僕用におかわりのアイスを運んできた。あまりに来るのが早いから僕が来た段階で用意していたのかもしれない。
「本当はもうちょっと早く着いていたんだけど、呼んでもらうって思うとドキドキー! ってしちゃってなかなか入れなかったんだ。ごめんね」
「そうなんだ。外、暑かったでしょ」
「うーん、暑かったけど緊張の方が強いから大丈夫だったかな」
「それは大丈夫って言えるのかな……」
「えへっ、分かんないや」
苦笑した漆茨さんはパフェを口に運んで嬉しそうに頬を緩めた。
笑顔で食べる漆茨さんがあまりにも幸せそうで、ついしばらく見つめていたら「って、そうじゃなくて!」漆茨さんがスプーンの動きを止めた。
それから自分の鞄に手を入れて「あの、これ! 読んで!」取り出した分厚い紙の束を渡してきた。
わざわざ印刷してくれたんだ、と思いながら受け取る。
横向きに印刷された紙の下にはページ番号が割り振られていた。何枚あるんだろうと思って一番下の番号を見てみると表示は一八九。結構な枚数だ。
パッと見たところ行数からして一枚が見開き一ページ分っぽい。
となるとこれは三七八ページにもなる。
「……凄い量だね」
「ごめんね長くなっちゃって……」
「そういうことじゃなくてさ、よくこんな長いものを書いたなって。僕は読書感想文とかでも相当苦労したから、ここまで書けるなんて凄いなって」
「そう? えへへ、ありがと」
漆茨さんは髪を触りながらはにかんだ。
改めて手元の小説に目を落として驚く。
夏休みだったとはいえ一ヶ月程度でこれを仕上げてきた。
小説を書いた事がない僕はどれだけ時間がかかるのかは分からないけど、二、三日で書き終えるようなものじゃない事くらいは分かる。
前話した時は書いた事がないから、と自信なさげにしていたあの漆茨さんがやったとは思えない。一体どれだけの気力をかけたのだろうか。
「……読むの時間かかっちゃうけどいいかな。僕、あんまり読むの速くないから」
真っ直ぐ見つめて言うと、漆茨さんも同じように見つめ返してきた。
「うん、読み終わるまで待ってる。その代わりゆっくりでいいからちゃんと読んでほしいな」
「もちろんそのつもりだよ」
「う、うん、ありがと」
「……じゃあ、読ませてもらうね」
「お、お願いします」
お互いぎこちなく頷きあって、僕は本文に目を通し始めた。
タイトルは未定となっている。
中身はファンタジー系みたいだ。
主人公の男子高校生、
身長も体重も試験もスポーツテストも、カラオケやボーリングなどの娯楽に至るまで全て平均値ピッタリの点数しか出す事が出来ない、良くも悪くも安定した生活を送っていた。
最初はどう足掻いたって赤点にはならないから楽でいいと思っていた礼二は、次第にその日々を退屈だと思うようになる。
どれだけ本気を出してやっても手を抜いてやっても出てくる結果は平均点だけなんて、自分の実力なんてあってないようなものだ。
そんなある日、彼の前に世界を統べる神の遣いである
そして彼女は礼二にキスをして告げる。
今までの礼二は全ての可能性を持った彼が重なった状態だったこと、今のキスはその重なりの解除であること、そして今の礼二はもう重なりのない本来の彼である事を。
半信半疑の礼二は試しに切姫と共にカラオケに行く。すると彼女の話の通り、礼二はもう平均点を取れなくなっていた。
けど、このまましばらくするとまた礼二は重なりを持った状態に戻ってしまうらしい。それを防ぐには根本の原因を排除する必要があり、その原因は今の世界ではなく、平行世界にいる礼二が引き起こしている可能性が高いという。そこにいる彼を止める事が出来れば、礼二はもう重なりに悩む必要はなくなる。
どうする、と切姫に問いかけられた礼二は、彼女と共に他の世界を旅する事に決めた。
その後、数々の平行世界を渡り歩きながら礼二は様々な自分自身と出会って成長していく。
気が合う自分もいれば意見が食い違う自分もいる。色んな自分たちと時に友情を築いて、時に争いながら、礼二は努力や生きる目的、意志の強さを知っていった。
世界を経るごとに少しずつ変わっていく礼二を隣で見ていた切姫は神の遣いの身でありながら段々と彼に惹かれていく。
そしてとうとたどり着いた最後の世界。そこにいたのは取り柄のない、何をやってもダメなレイジだった。
偶然手に入った装置で自身に重なりを持たせて平均になろうとしたら、何の因果か別の世界にいた主人公の礼二に重なりが集約してしまったという。
そんなレイジを見て、礼二は平均値を失った直後の自分を見ている気分になる。
だからこそ礼二は目の前の弱い自分と言葉を交わした。しかし和解に至らず対立し、最後は拳を交えて、それまでの旅で学んできた事を伝えることで自分自身を説き伏せた。
しかしそこで問題が発生してしまう。機械が突然暴走を始めたのだ。
このままでは阿部礼二という人間のみならず世界の全ての生命が彼に重なりを持つようになる。そうなったらとてもじゃないが礼二は人として生きられなくなってしまう。
不幸な事に機械を起動させたレイジは止め方を知らず、調べて構造を理解するだけの頭もなかった。旅をして成長した礼二でも止める術は思い浮かばない。
万事休すかというところで、切姫が自らの命と引き換えにして神の力を発揮すれば破壊する事が出来ると提案する。それはダメだと礼二は彼女を止めようとするが、その前に切姫は彼を元の世界に送り飛ばして機械を破壊した。
その一年後、礼二は自分の力で難関大学の受験を突破して学生生活を送っていた。
でも自分を助けた少女の事は忘れられず失意に沈んだまま、意味もなく重ね着や本を積み重ねて無駄に時間を過ごした。
そして二年生になる前の春、礼二の元に消えたはずの切姫が現れて話は終わった。
読み終わると思わず息が漏れた。
気付いたら三時間過ぎていた。その割には疲れは感じていなかった。
「ど、どうだった?」
読んでいる間ずっと姿勢を正して僕を見ていた漆茨さんは、僕が最後の一枚を机に置くなり不安と期待の入り混じったような顔をして震える声で聞いてきた。
「そう、だね……」
色んな衝撃が心に突き刺さって感情が揺さぶられている。
頭が痺れるくらい僕は驚いていた。物語そのものに対してもそうだし、僕の個人的な事に関しても同じように。
それでも漆茨さんに伝えるべき事は純粋に一つだけだ。
「驚いた。面白かったよ、凄く。初めて書いたとは思えないくらい良かった」
僕漆茨さんの表情がぱぁっと明るく光って弾けた。
「ひゃー! ほ、本当!? 芥川賞とか取れちゃうかな!?」
「そ、それは分からないけど……」
僕の苦笑も興奮していて気にならないのか、漆茨さんはテーブルに身を乗り出してきた。
「ど、どこが良かった?」
「そうだね、平均を出せなくなって思うように物事が出来なくなってもがいている礼二を応援したくなったよ。平行世界での旅を始めてからどんどん成長していくのがいいし、それを見守って人間味が出ていく切姫も可愛いかった。何よりそんな二人が最後に再開できて本当に良かったし安心した。でもただ無理にハッピーエンドにするんじゃなくて切姫が生き返る伏線もちゃんと張られていたのが凄いよ。漆茨さん、きっと才能あるよ」
「ほぇぇ……」
漆茨さんは頬に両手を当てて机に突っ伏すと、声にならない声を上げながらバタバタと高速で床を踏み鳴らした。
たっぷり二十秒はそうしていただろうか。
ピタッと音が止むと漆茨さんは顔を上げて蕩けそうなくらいほころばせた。
「良かったぁ……。一作目は読めたもんじゃないーって言われてすっごい落ち込んだからさ、ガーンって。だから怖かったんだぁ……」
「えっ、そんなこと誰に言われたの?」
「深青里君でしょ!」
「えっ? ぼ、僕? そんな事言っちゃったっけ……」
「むー、覚えてないの?」
「ご、ごめん……」
ぷくっと頬を膨らませた漆茨さんに睨まれる。
覚えていない。というか知らない。
でもそこまで言ったということは相当良くなかったのだろう。
とはいえ申し訳なくなっていると、ふすーと漆茨さんはため込んでいた空気を吐き出した。
「……まぁそこまで強く言われてないけどさ。擬音が多い独特な文章だから難解だねって」
「あはは、なるほど……」
かなり表現はマイルドにしていたみたいだけど確かに主張としては近そうだ。
というか、そんな会話があったという事は、漆茨さんは一月に一作じゃなくて二作書いていたってことか。
そう思うと今手元にあるこの作品からより強く執念が伝わってきた。
でも、漆茨さんには申し訳ないけど僕が一番驚いたのはそこじゃない。
他人事とは思えない設定からそこに付与された考えもしなかった要素が僕の頭の中で弾け回っている。その振動が僕の胸をざわつかせた。
勝手に僕がこの話と自分を重ねているだけだろうなと思いながら、その半面、僕と表情が固定されてしまった漆茨さんの話をされたみたいな気分になっている。
平行世界。重なり。平均。
例えば、の話だ。
漆茨さんの表情は他の世界にいる漆茨さん達の表情が重なり合った平均値だったとしたら。
無理矢理物語に落とし込んだ飛躍した解釈だとは分かっているけど、もしそうなら説明できる事もある。
全平行世界にいる漆茨さんは楽しそうにしている彼女もいれば悲しんでいる彼女もいる。その全ての表情が重なる事で顔に出る感情がならされて真顔に見えるようになる。
漆茨さんの口角が少し上がったのは、この世界の漆茨さんが小説を書くと決めて前向きに笑えるようになった事を含め、それまで訪れていた世界の彼女たちの悩みについて話す事で気持ちが楽になり笑顔が増え、それによって表情の平均値が若干笑顔に傾いたから。
逆に夏休み明け、漆茨さんの口角が元に戻ったのは一ヶ月の間、他世界の彼女と会わなかったことで悩みを口にする事ができず、そうしているうちに下向きの気持ちの割合が増えたことで再び笑顔と悲しい顔が釣り合ったから。
それが正しければ、他の世界にいる漆茨さんの表情が元の世界にいる漆茨さんの表情に影響を与えているという説は通る。僕が他の世界の彼女たちと関わり始めたことと無表情だった漆茨さんの顔に変化が起こったのが同時期だった事の説明がつく。
ならそうしているもの、つまり世界を繋いで漆茨さんの表情を重ね合わせているものはなんだろう。
それがどんなものなのかは分からないけどどこにあるかの想像はつく。
木ヶ暮山のどこかだ。
小学生に入る前、山に登って迷子になった漆茨さんは、そのどこかで世界を重ね合わせてしまうような何かを見つけてその影響を受けてしまった。
いや、漆茨さんだけじゃない。僕もそれを見つけたはずだ。
だからそこで僕は世界を移動する現象に、漆茨さんは表情が平均になる現象に巻き込まれる事になった。
こんなのは馬鹿げた妄想としか言えない。でっち上げた証拠を強引につなぎ合わせたお粗末な考察でしかない。納得するために作り上げられた二次創作と言ったっていい。
それなのに直感的に間違っていないと感じる。
でも、仮にこの無茶苦茶な説が正しければ、世界を結び付けている何かは木ヶ暮山のどこにあったんだろうか。
何度も登ったつもりだけど僕は見つける事が出来なかった。神の力が働いているのならそれこそ木ヶ暮神社にヒントがあっても良かったはずなのにその片鱗も掴めていない。
なら神以外の何か?
科学的な話?
いや、それこそあり得ないだろう。
「どうしたの、深青里君?」
つい思考に耽っていると不思議そうに漆茨さんが顔を覗き込んできた。
「あぁ、ごめん。この話、本当に凄く良かったからさ、どうやって書いたのかなって不思議で」
誤魔化すと漆茨さんは「えへへ」と照れたように頬を染めた。
「頭にね、ぽわわーんって浮かんできたシーンをバババーって並べて、ピシーって繋げてみたんだ。あとはそれをシュバババーって書いただけ。今回は文章をちゃんと考えたからちょっと時間かかっちゃったけど」
「そ、そっか……」
全く伝わってこなかった。
もしかしたら一作目は全体的に今みたいな文章だったのかもしれない。擬音の多い独特な文章だと僕が言葉を濁すのも頷ける。
それが今回、素直に感心してしまうくらいのものに仕上がっていたのだから凄い。
それを成し遂げた漆茨さんは恥じ入るように微笑んで、同時に噛み締めるように言った。
「実は礼二君はね……えっと、切姫と出会って重なりがなくなった後の礼二君は私なんだ。今の私とこれから頑張って弱い自分自身を倒せるようになる私」
「そうだったんだ」
「私、なれるかな」
赤茶色の瞳が不安そうに揺れる。
これからも小説を書き続けていけるのか、書き続けた先で何かになれるのか。
もしかしたら漆茨さんはまだ悩んでいるのかもしれない。
いや、僕がもう一度ここに来たという事はそういうことなのだろう。
だから、
「なれるよ、漆茨さんなら」
きっぱりと伝えると、漆茨さんは驚いたように目を丸くした。
「そう、かな?」
「うん、大丈夫だよきっと」
「……そうだよね。というか、ならなきゃいけないよね。うん、折角深青里君のおかげで私なりにがんばりたいなぁって思う事に出会えたんだもん! うんうん、そうだよ、頑張らなきゃ嘘だよね! よーし、これからもバシッとやっちゃうよ!」
自分に言い聞かせるように口を開いた漆茨さんは、言い終わる頃には溌剌と笑っていた。
やっぱりこの漆茨さんにはこの笑顔が似合う。
「応援しているよ」
「えへへ、ありがと」
愛らしい笑みを浮かべた漆茨さんは、「ふぁ~……」と欠伸をして溶けるように机に倒れ込んだ。
「でも、本当に不安だったんだぁ、読んでもらうの。夏休み全部使ったから、またダメって言われたら、立ち直れなかったよぉ……。本当に、本当、に……良かっ、た…………ぐぅ」
「……えっ、もしかして寝てる?」
段々と声から力が抜けていったと思ったら寝息が聞えてきた。
緊張の糸が切れた事で疲れがどっと出たのかもしれない。
一ヶ月で二作書き上げたのだから疲れが溜まっていて当然か。もしかしたら不安で眠れていなかった可能性すらある。
だからしばらくはこのまま寝かせてあげよう。
僕は安心したような顔で眠る漆茨さんを眺めた。
明日にはきっと、僕は元の世界に戻っているはずだ。
そして、もう二度とこの世界には来れない気がする。きっとこの漆茨さんはもう、悩んでも溌剌とした笑顔で越えていけるだろうから。
それに、僕個人としてもやっぱり世界移動は止めたいものだから、来られない方がいい。
そう思うと途端に寂しくなってきた。
また会えるとは思っていなかったから一度目の時は何も思わなかったけど、不意にもう一度会ってしまうと今度はちょっと別れるのが惜しくなる。
「ありがとう、漆茨さん」
僕は聞えないだろうからこそ静かに言った。
今まで何も掴めていなかった手の中に妄想レベルとはいえヒントらしきものは得られた。
現実的に、理屈的に解決させる力はなくとも、行き詰まって落ち込みかけていた心を奮い立たせる事ができた。
僕はもう一度、ありがとう、と伝えて満足そうな寝顔を目に焼き付けることにした。
それから元の世界では絶対に読む事の出来ない渾身の作品にもう一度目を通して頭と心に刻み込んだ。
漆茨さんが目を覚ます、その時まで。
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