第10話:無表情な彼女の陽気な両親 上




 期末テストまで一週間、そして夏休みまで二週間。

 溌剌とした漆茨さんの世界から戻ってきてからは二度世界を移動していた。


 その両方にいる漆茨さんは今まで通り無表情ではなかった。ありがたいことにそれぞれの世界にいた漆茨さんとは両者とも上手く悩みに関して話が出来て二日で戻ってくることが出来た。

 そして今日は戻ってきたばかりだった。


「おはよう深青里君。とんでもないことが起きたの」


 欠伸を噛殺しながら開いたドアから電車に乗ると、涼しさに感動する間もなく漆茨さんがいつもの無表情で言ってきた。


「おはよう漆茨さん。とんでもないことって?」


 真っ先に言ってきたということは相当なことなんだろう。

 顔色からは全く伝わってこないけど。

 漆茨さんは背伸びまでしてその真顔を近づけてきた。

 近くなった分だけ顔が熱くなるのを感じる。


「見て、私の顔」


「み、見てるけど、顔がどうかしたの?」


「よく見て。変わったところがある」


「はぁ……」


 言われた通り漆茨さんの顔をじっと見る。

 変わったところと言われてもぱっと見よく分からない。目は綺麗な赤茶色をしているし、鼻筋は通っていて、真っ直ぐ閉じられている口は見慣れたそれだ。眉毛は細くて小さい耳が髪から控えめに覗いているのもいつも通り。


 気付いたことと言えば睫長いなぁってことくらいだけどそれは別に変わっていないだろう。


「あっ、もしかして髪切っ――


「切ってない」


「……そっか」


 凄い速さで否定された。

 当てずっぽうで言ってみたけど違うみたいだ。

 となると、なんだろう。


「……もしかしてちょっと肌が荒れちゃったとか?」


「深青里君のバカ。荒れてない。デリカシーなさ過ぎ」


「ご、ごめん……」


 漆茨さんは半目を向けてきた。おそらく睨まれている。

 女の子にとってとんでもないこと、というとそういうことなのかなと思ったけどこれも違ったらしい。


「……降参。分かんないや」


 しばらく漆茨さんの顔を観察してみたけど僕には昨日までとの違いが見つけられなかった。

 やっぱりいつも通りの無表情にしか見えない。どこぞのレストランの間違い探しよりも難易度は高いだろう。


 すると漆茨さんは両手の人差し指で口を差した。


「じゃあよく見て、私の口元」


「口元?」


 言われて彼女の唇を注視する。

 すぐ目の前にあるせいか艶やかな小さい唇を見ているとなんだかドキドキしてきた。


 綺麗なピンク色をしていてかさつきもなくみずみずしい。

 変わったところは見えないけど、とても魅力的には見えている。

 ダメだ、ずっと見ていると変な気分になりそうだ。

 邪な気持ちが強くなってきて、誤魔化すように視線を逸らしかけた。

 その時だった。


「あっ、もしかして」


「うんうん」


「少しだけ口の端が上がってる?」


 漆茨さんはうんうんと勢いよく縦に首を振った。

 本当に極々わずか、よくよく見ないと分からないレベルで、言われて初めて気付くくらいの変化でしかないけど、若干口の端が上向いている、気がした。


「そう、そうなの。凄いでしょ」


「少し笑えるようになったってこと?」


「いいえ、意図してやっているわけじゃなくて朝起きたら自然とこうなっていただけなの。でも今までこんなことなかったから驚いた。何より笑えているのが凄い」


「そっか。でも、もしかしたらこのまま表情もつけられるようになるかもしれないし、そうなったらいいね」


「うんうん」


 口調は相変わらず淡々とした棒読みだけど、内心では興奮しているのか漆茨さんは何度もブンブンと縦に首を振った。


「お父さんもお母さんもとっても喜んでくれて、今日の夕食はお赤飯になったわ」


「あはは、そうなんだ。優しいんだね」


「うんうん」


 真顔のまま首肯を繰り返す漆茨さんを見ながら頭の中に引っかかりを感じていた。

 この変化は偶然なのだろうか。

 世界移動と漆茨さんの間に何らかの関係があるという、一度浮かんだ考えがそんなことを思わせる。


 僕はこれまで他の世界の人、つまり漆茨さん達と積極的に話をするようなことはしてこなかった。それをやり始めてから、同様に初めてだという変化が漆茨さんに起こった。


 意識して話すようになってから一月程遅れているけど、僕の行動によって何かに影響が出てそれが漆茨さんの表情に結果として表れたとするならその遅れも許容範囲だろう。


 もしその二つが連動して起こったことなら、漆茨さんの表情を取り戻す要因も実は僕の世界移動の中にある可能性だって出てくる。

 流石にその考えは飛躍しすぎだろうか。


 ただ、移動先の世界にいる漆茨さん達と悩みについて話すことで元の世界に戻ってくる期間が短くなったように、僕が他の世界の彼女達と話をすることと漆茨さんの口角が上がったことには理解の及ばない関係がある可能性はある。


 そういえば、どの世界の漆茨さん達も話し終えて別れる頃にはみんな笑顔を見せてくれた。

 昨日もそうだったしそれ以前の漆茨さん達もそうだった。

 それが漆茨さんの無表情に反映されたのだとしたら。


 ……やっぱり馬鹿げている。

 もし両方が同時に僕、もしくは漆茨さんだけに起こっているなら分かるけど、無表情は漆茨さんに、世界移動は僕に、と別々の現象として発生しているのだ。

 それが繋がっているなんて到底思えない。


 いや、でも。

 否定とさらにそれに対する否定が何度も繰り返される。

 中身のない異議と空虚な弁護が頭の中で渦巻いて混迷を極めていく。

 そのうちに気付けば漆茨さんに顔を覗き込まれていた。


「深青里君、どうかした」


「……ん? あぁ、いや、別に」


「嘘。何か渋い顔して考えていた。心配事」


 鋭いな。見逃してくれそうにない。


「いや、ほら。自分で表情を変えられるわけじゃないならこの先もっと口角が上がったらずっと笑っている状態になるのかなって想像していただけ。上がりすぎたら口裂け女みたいになりそうだなって。それってなんだかシュールじゃない?」


 思考の渦に浮かんだことの一つを深刻に聞こえないように明るく言うと「…………」漆茨さんは口を半開きにしたまま黙り込んで下を向いてしまった。

 極微笑状態になったことでテンションが上がっていたせいか、あまりそのことは考えていなかったらしい。


 良い気分に水を差してしまっただろうか。

 不安になりながら見ていると「そういえば」漆茨さんは顔を上げた。


「さっき話している時に思い出したのだけど、お父さんとお母さんが深青里君に会ってみたいって」


「えっ……どこからそんな話が?」


 気を取り直すための話題転換だったのかもしれないけど、その突飛さには眉が寄った。

 なんで漆茨さんの両親が僕の事を知っているんだ。


「学校のこと、よく聞かれるの。その時に深青里君のことも少し話しているから会いたくなったんだって。だから今度うちに来て欲しい」


「そ、そうなんだ……」


 淡々とした説明に納得はしたけどこの提案はちょっと悩ましい。

 約束したところで僕は漆茨さんの家に行けるかどうか分からない。

 当日、他の世界にいたら約束した今の僕は行くことが出来なくなるから。


 もちろん、仮に僕が他の世界に移動していたとしてもこの世界に残っている僕は漆茨さんの家に行くだろう。


 でもそれは本当に約束を守っていると言っていいのだろうか。

 こんな曖昧な状態で漆茨さんと軽々しく約束を交わしたくない。


「嫌だった」


 悩んでいると漆茨さんが真っ直ぐ見つめてきた。


「そういうわけじゃないよ。なんというか驚いたんだ、僕の事を話しているって」


「私が学校でのことで話せるのは深青里君のことくらいだから」


「そ、そっか」


「それで、どう。私は来て欲しい」


 赤茶色の瞳は何の感情も映さない。

 でも今は不安と期待を向けられている。思い込みかもしれないけどそう感じた。

 そういう風に言われてしまったら「分かった」僕は断れない。


「行かせてもらおうかな。折角誘ってもらったんだし」


「やった。約束」


「……うん、約束」


 もしその日に行くのが約束した僕本人じゃなくても、漆茨さんからすれば僕が来たことに変わりはないはずだ。少なくともこれまで他の世界に行っている間も、残っている僕は違和感なく過ごしているようだからそう思っていいだろう。


 なら、漆茨さんの求めているようにしてあげたい。

 もしこの僕の意識が行けなかったとして、約束を守れなかった気になって勝手に罪悪感を抱いたとしても、それは彼女には関係ないことだから。


 それに約束の日にこの世界にいればいいのだ。

 現状こっちから移動する日を選ぶことは出来ないけど、戻ってくる日は少し操作できるようになってきた。


 それを使って上手く調整しつつ、当日この世界に留まっていることを祈っていればなんとかなってくれるだろう。

 楽観的かつ浅はかかもしれないけど僕にはそれくらいしかできることがない。


「いつがいい。テスト終わって夏休みに入ってからの方がいい」


「そうだね。落ち着いてからにしようか」


「分かった。二人にはそう伝える」


 そう何度も頷いた漆茨さんはどことなく嬉しそうに見えた。

 わずかながら口の端が上がっているからだろうか。

 どちらにせよ、本当に喜んでくれているなら僕はそれでいい。




   *  *  *




 普段とは反対方向の電車に乗った。

 夕刻を過ぎても衰えることのない蝉の声はドアが閉じると共にピタリと止んで、代わりに走行音が徐々に大きくなっていく。


 空いている席に座って到着を待つ。

 そわそわして全く落ち着かない。電車の加速に合わせるように鼓動も速く、強くなっていく。ちょっとの揺れにも敏感になっているから、強くガタンと揺れた拍子には心臓が飛び出そうになってしまう。


 今日が漆茨さんとの約束の日、目的地は彼女の家だった。

 テスト期間中に世界移動は起こらず、僕も漆茨さんも補習に駆り出されることなく無事夏休みを迎えた。そして今日までに二度、他の世界に飛ばされたものの、幸いなことに今日までに帰ってこられた。おかげで今、漆茨さんの家に向かえている。


 嬉しさ半分疑念半分で、今朝は起きてから思わず何度も日記を読み返して移動していないか確かめてしまったくらいだ。

 そこまでしてようやく移動していないと確信して疑念は全て喜びに変わった。


 ただ、そうなると今度は嬉しさだとか喜びは全てまるっと緊張に変換された。

 抱いていた懸念が全て杞憂に終わってくれたことは本当に安心しているし良かったと思っているけど、いざ彼女の家に向かうとなると緊張して落ち着かなくなってきた。


 ずっと世界移動の方に気を張っていたせいで、今日までに感じるはずだった緊張が今になって一気に流れ込んできているみたいだ。

 ただでさえ僕からすれば女の子の家に行くという時点で異様なことなのに、今日は両親と顔合わせまである。

 そこに深い意味はなくても変に意識してしまっても仕方ない、というか当然か。


 それにしても漆茨さんの両親は一体どんな人達なんだろうか。

 話を聞く分には優しくて良い人そうだけど、ちょっと不安になる。良い人と言っても色んなタイプがいるから僕でもなんとか上手く喋れる方々であって欲しい。


 漆茨さんはよく僕の話をしているようだし、実際の僕よりも良いイメージが出来上がっているかもしれない。そうならそのイメージを壊したくない。折角呼んでもらったのにがっかりさせたくない。


 そんなことを起きてからずっと考えている。

 落ち着かないままスマホを触ったり電光掲示板を見上げてみたり、過ぎ去っていく外の住宅街を眺めてみたり、代わる代わる視線を彷徨わせていると、降りる駅の名前がアナウンスされた。


 一際強く心臓が跳ね上がりその勢いで立ち上がる。

 停車して開いたドアから降りて改札を抜けると漆茨さんが壁を背にして立っていた。なんだか今日はやけに眩しく見える。

 緊張しながらその横顔に声をかける。


「おはよう、でいいのかな。今日も良い笑顔だね」


「お、おはよう」


 驚かせてしまったのか、バッと勢いよく僕の方を見た漆茨さんは「えぇ、ありがとう」と頷いた。

 その口の端は夏休みに入る前よりもさらに少しだけ上がっていて、まだ無表情に近いながらも微笑んでいるようにも見えるようになった。

 その顔でしばらく上目遣いに僕を見つめてくる。


「どうかした?」


 聞いてみると漆茨さんは一度目を見開いて「……なんでもない」半目になると俯いた。

 えーっと、なんだろう。

 多分、というか絶対今、僕は言うことを間違えた。

 それだけは分かった。

 漆茨さんは何が言いたいんだろう。


 どうすればいいか分からず目の前で佇む漆茨さんを見つめていると、少しもじもじしていることに気が付いた。落ち着きなさそうに指でスカートやシャツの胸元を摘まんではチラチラと僕を見てくる。


 しばらくその様子を見ていてようやく求められている言葉が分かった。

 今日は私服なんだ。

 漆茨さんが身につけているのは光沢のあるアイボリーがかった白いロングスカートに、上は袖口の広い真っ白なTシャツ、そして足には少しヒールの入った白い紐のサンダルを履いている。上から下まで白で統一されていた。

 やけに眩しく見えたのはそのせいか。


 ……いや、それだけじゃないか。


 清潔感と純真さを纏ったようなシンプルな格好は、漆茨さんの整った無表情と相まって草原に佇むエルフとか妖精みたいに幻想的な魅力が映えている。

 そして見慣れた制服姿とは違うせいか、意識した途端にドキドキしてくる。


 やっと求められている言葉が浮かんできた。けどそれを言おうとするにも緊張がこみ上げて口が震えてしまう。

 今日は朝から緊張しっぱなしでおかしくなりそうだ。


「……か、可愛いと思う、よ」


 それでもなんとか言葉にすると、漆茨さんは彷徨わせていた視線を素早く僕に合わせてしばし口を半開きにした後「そ、そう。ありがと」ボソッと言ってまた下を向いてしまった。


 合っていると思ったけどどうなんだろう。若干微笑んでいるようにも見える漆茨さんの表情からは分からない。

 もしかして言い方が悪かったのかな。堂々と言うとか何でもなさそうに言うとか、どう可愛いか伝えた方がよかったのかとか。


 だとしても僕にはさっきのが限界だ。心臓の高鳴りが酷くてサラッとなんて口にできそうにないし、服にも詳しくないから具体的に言うこともできない。

 お互い向い合ったまま何も言えずに視線を彷徨わせる。


「と、とにかく行こう。ここ、暑いから」


 気まずさに耐えられなくなったのか、漆茨さんが僕に背中を向けて歩き出した。

 う、うん、と頷きながら僕もその隣に並んで歩き出す。


「そういえば深青里君、揚げ物は食べられる」


「うん、嫌いなものはないし揚げ物は好きな方だよ」


「そう、良かった。私のお母さん、揚げ物が得意だから今日は張り切って作っているの」


「そうなんだ、楽しみだね」


「それとお父さんも張り切っているわ。仕事休んで昨日から部屋の飾り付けしたりして」


「へ、部屋の飾り付け?」


 何のことかと思って隣を見ると漆茨さんはコクリと頷いていた。

 どうやら間違いじゃないらしい。


 僕が行くというだけなのに掃除だけじゃなくてわざわざ装飾までしてくれているというのか。まるでパーティーでもするみたいだ。しかも仕事休んでまでって、それは大丈夫なのだろうか。


「でもなんでまた?」


「深青里君への感謝祭をするからって」


「か、感謝祭……?」


「えぇ。私の両親、とても元気だからちょっとのことでも盛り上がろうとするの」


「そ、そっか。愉快な親なんだ」


「えぇ」


 娘の友人を迎え入れるためにそこまでするだなんて本当に一体どんな人達なんだろう、漆茨さんの親は。

 なんとなく所謂陽キャとか体育会系と言われているタイプな気がする。フットワークの軽さといい、ちょっとのことでも盛り上がれる明るさといい、僕とは正反対の位置にいそうだ。


 そうなると全面的に僕が悪いけど合わない性格かもしれない。

 考えるだけでもさらに不安になってくる。

 というか祭って何だろう?

 僕の中で渦巻く不安は膨らみ続けるばかりだった。



 十分程住宅街を並んで歩くと、漆茨さんは「ここ、入って」と言いながら二階建ての家の門を開けた。見たところ周りの家と遜色ないごく普通の一般的な建物だった。僕の家よりは少し広いかもしれない。


 漆茨さんの後に続いて僕も門をくぐり、招かれるまま玄関に入った。

 薄暗い廊下を抜けて「ただいま」と言う漆茨さんと一緒に「お、お邪魔します」リビングに入った瞬間。


 パンパンパンッ!!


 乾いた音が三発鳴って、僕は思わず「わっ!」声を上げてしまった。

 真っ白くなりかけた頭で前を見ると、こちらに打った直後のクラッカーを向けた細身の男性と同じく細身の女性が立っていた。


 男性の方は白い半袖のTシャツとグレーのチノパン、その上に黒いヒッコリーストライプのシャツを羽織り、天然なのかパーマがかった髪を短く揃えていた。下がった目尻が優しそうな雰囲気を醸し出している。


 女性の方は長い髪を首の後ろで一つに縛っていて、スッキリとしたシルエットの黒いワンピースに身を包んでいる。漆茨さんに似た綺麗な容姿をしていて年齢は見た目からじゃ判断できない。

 手の中のクラッカーを見るに音の正体はこの二人だろう。

 そして十中八九漆茨さんの両親だ。


「ようこそ深青里君、会えて本当に嬉しいよ。私は漆茨恵太、樹の父親だ。よろしく」


 思った通り父親である恵太さんは満面の笑みを浮かべて握手を求めるように手を差し伸べてきた。


「は、はい、深青里柊一郎です。こちらこそお会いできて光栄です」


 手を握り返しながら言うと「自分の家だと思ってくつろいでくれて構わないからね」穏やかな口調のままいきなり引き寄せられて軽いハグを交わされた。

 突然の出来事に呆気にとられている内に彼の手と身体が離れ、今度は僕の目の前で母親が恭しくお辞儀した。


「樹の母の結です。深青里君の話はいつも聞いているわ。今日は来てくれてありがとう」


「あっ、い、いえ、僕の方こそお招きいただきありがとうございます」


 ゆったりとした喋り方に、僕もつられてお辞儀を返すると結さんは「ふふっ、そんなに畏まらなくていいのよ」と目を細めた。

 直視は出来ないけどその目は赤茶色で、漆茨さんの瞳の色は母親譲りだろうと分かった。

 結さんはその同じ色の瞳を漆茨さんに向けた。


「そういえば樹ちゃん、服は褒めてもらえた?」


「うん」


「そう、良かったわね」


 漆茨さんが頷くと、ホッとしたように顔をほころばせた結さんは僕に笑いかけてくる。


「実は樹ちゃんね、深青里君はどんなのが好きなんだろうって、深青里君が来るって決まった日からずっと悩んでいたの。今日も家を出る直前まで何回もおかしくないかなって聞いてきてね」


「そ、そうなんですか?」


 つい漆茨さんを見ると、彼女は「お、お母さん、そういうことは言わないで」僕から目を逸らして半目を結さんに向けていた。

 結さんは楽しそうに微笑みながら「うふっ、教えてあげた方がいいかなって」僕にウインクを飛ばしてきた。とりあえず愛想笑いを返すしか出来なかった。


 気が利く人なら、通りでやけに可愛いと思ったんですよ、とか、とか言えちゃうのだろうか。

 やっぱり、僕には言えそうにない。

 そんなことを思って苦笑していると、ふと部屋の様子が気になった。


 リビングとダイニングはそのまま繋がっていて、その壁全体にまるで誕生日会でも開くみたいなキラキラと光る飾りがつけられていた。一部はクリスマス用の物が使われているのかプレゼントの箱を模した物や星や丸い鈴の飾りがちらほら見える。


 その隙間に「ようこそ」や「ウェルカム」「ありがとう」など、色んなメッセージが書かれたカードも貼られている。


 そして極めつけは『深青里柊一郎君 感謝祭』とでかでか書かれた看板。

 白地に書道の墨で書いたような横長の看板が食卓から見える壁に掛けられていた。


 華やかすぎるというか仰々しいというか、僕を呼ぶだけにしては力が入りすぎていて圧倒されてしまう。この空間に自分の名前があることが場違いに思えてくるくらいだ。

 そんな過度とも思える内装を見回していると、恵太さんが隣で照れるように笑った。


「私なりに色々やってみたんだけどね。気に入ってもらえたかな?」


「は、はい。まさかここまでされているとは思っていなかったのでとても驚きました。なんだか申し訳なくなりますけど嬉しいです」


「ははは、そうかそうか、それはよかった。頑張ってみて良かったよ」


 満足そうに笑った恵太さんは「さぁ」と漆茨さんにもにこやかに呼びかけた。


「そろそろご飯にしようか。このために昼を抜いたから、お父さんもうお腹ペコペコなんだ」


「うん。深青里君も行こう」


 そう連れてこられた四人掛のダイニングテーブルにはそれぞれの席にネームプレートが置かれていた。僕の隣に漆茨さんが、正面には恵太さんと来て斜め向かいが結さんの席になっている。


 そして僕のネームプレートにだけ「本日の主役」と書かれている。こんなところまで徹底して用意してくれたらしい。


 いつの間にかキッチンに移動して料理をしていた結さんの「もうすぐ出来るわ」という嬉々とした声に漆茨さんは淡々と、恵太さんは楽しそうに「おぉー」と歓声を上げて食器や料理を運んだりと準備を始めた。


 僕も手伝おうとしたけど「主役なんだから座って待っていてくれればいいよ」と恵太さんに笑顔で言われて大人しくそうすることにした。

 待つこと数分、和やかに準備は進められて四人全員食卓に着いた。


 目の前にはとにかく揚げ物が並んでいる。

 鶏の唐揚げに竜田揚げ、エビフライ、アジフライに牡蠣フライ、メンチカツにコロッケ。それぞれが皿に盛られて食卓を埋め尽くしていた。野菜サラダとご飯、あとは刺身まで用意してくれているけど卓上全体の二割に満たない。


 圧倒的に茶色い景色、とてもじゃないけど四人前とは思えない量だ。

 見た目に反して漆茨さん達は大食漢なのだろうか。


「うふふ、つい張り切って作り過ぎちゃったわ。食べ切れるかしら」


「ははっ、今日は揚げ物祭だな!」


 結さんと恵太さんは笑い合っている。漆茨さんは僕の隣で「わー」と控えめに拍手していた。

 なんとなくだけどみんな大食いではない様な気がする。けど楽しそうだからいいのかもしれない。というかこれも祭なのか。


「じゃあ遠慮なくたくさん食べてね」という結さんの言葉に続いていただきます、と声を合わせて食事が始まった。

 まずは一番自信があるという鶏の唐揚げをいただくことにした。

 取り皿にもらって一つ頬張ると「お、美味しい……」何も考えず呟いていた。


 一個だけで僕はその美味しさに惹き付けられた。カリッと揚げられた衣はほんのりとしょっぱく、中の柔らかくパサつきのない肉の味を引き立たせているのに加えてご飯を進ませる。大きさも一口サイズと食べやすいからいくらでも入りそうだ。

 呟いたのが聞こえていたのか結さんは「うふふ、良かった」と嬉しそうに笑った。


「あの、本当に凄く美味しいです、驚くくらい。お店とかでも出てきても不思議じゃないくらいです」


「そんなに褒めてもらえると照れちゃうわ。どんどん食べてね」


 なんとなく恥ずかしくて言い直すと一層笑みを明るくさせた。

 他も美味しいんだろうなと思いながら全種類、まずは一つずつ自分の皿に盛ると、タイミングを見計らっていたのか恵太さんが聞いてきた。


「そういえば深青里君。普段樹は学校でどんな様子なのかな?」


「……そうですね」


 考えながら喋ろうとしたところで「お父さん」と漆茨さんが口を挟んできた。


「学校でのことならいつも私が話しているでしょ。だから深青里君に聞かなくてもいい」


「ははは、いいじゃないか。本人の口から聞くのと他の人から聞くのじゃまた違うだろう?」


「そうだけど……」


 言い返せないのか漆茨さんは僕を見てきた。

 余計なことは喋るなということだろうか。

 とはいえ別に学校での漆茨さんに変なところはないし、変わったエピソードも特に思い付かない。漆茨さんは良い意味で普通だ。


「いつも真面目ですし授業もちゃんと受けていますよ。……時々寝ていますけど」


 思い付いて言ってみると「そ、それは深青里君も同じでしょ」漆茨さんは言い訳するように付け足した。

 恵太さんは楽しそうに声を上げて笑った。


「あはは、そうか、時々寝ているのか。樹、初耳だぞ?」


「話すようなことじゃないから」


「体育の後か午後の古文と英語はみんな寝ているんです。あればかりは仕方ないなって」


 疲れて眠くなっているところにパッと理解できない言語や文章を目にすると頭がボンヤリしてきてしまう。それに加えて古文の年配の教員は喋り方が静かで遅いのだ。それが絶妙な睡眠導入音声みたいになっているらしく、気付いたら意識が落ちている。


 しかも優しさなのか単に気付いていないのか、それとも放置されているだけなのか寝ていても特に何も言われないから余計に安心してみんな寝てしまうのだ。


 だからその間ちゃんと起きて授業を受けているクラスメートのノートは重宝されて時々コピーが出回っている。かく言う僕も時々漆茨さんか鞠寺君を頼ってしまっている。逆もまたしかりだ。


「うふふ、そうなのね。私も学生の頃、授業はよく寝ていたわ。眠り姫って呼ばれたくらい」


「お母さん、それは誇ることじゃない」


「あら、そう?」


「そう」


「樹ちゃんは真面目ね。良かったわ、恵太さんに似てくれて」


 結さんはクツクツと喉を鳴らして続けた。


「深青里君は学校、楽しい?」


「は、はい。漆茨さんのおかげでとても。学校に慣れたのも漆茨さんがいたからだと思います」


 言いながらちょっと照れてしまった。

 けどその甲斐あってか結さんは驚いたように目を見開いて「あらあら」掌を口に当ててにっこりと……いや、ニンマリと微笑んだ。


「樹ちゃん聞いた? 深青里君、樹ちゃんのおかげで楽しいんだって。良かったわね」


「聞こえてるから」


「あっはっは、そう言ってくれると私たちも嬉しいね。これからもずっと、深青里君には樹と仲良くしてもらいたいよ」


「僕の方こそお願いしたいです」


 するとまた結さんは手を口に当ててニヤニヤと笑った。


「あらあらあらあら、樹ちゃん聞いた? 深青里君も同じ気持ちなんだって。うふふ、良かったわね」


「だ、だから聞こえてるって」


 俯いた漆茨さんはチラリと僕に目を向けてきた。

 なんてリアクションすればいいのか分からず肩をすくめてみせると、漆茨さんはコホンと咳払いした。


「と、とりあえず早く食べないと。冷めたら勿体ない」


 そう言ってまだまだ全然減っていない揚げ物を勢いよく口に入れ始めた。

 笑顔で見守っていた両親も楽しそうに取り分けていく。


 そんな様子を眺めながら僕も夕食をいただいた。どの揚げ物も唐揚げに負けず劣らず美味しかった。

 食べながら視界に入っていた結さんと恵太さんはずっと微笑んでいるような気がした。




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