第7話:オタクな彼女 下
「さて、何から聞きたい? そうか、世界の文明の起源についてか! なら定番のシュメール文明? それともピラミッドの謎に関する分野の方がいいか? ふむふむ、やっぱり深青里氏はピラミッドの方がいいか。宇宙人との関わりや日本との繋がりを考えるとより身近な話題の方が興味があるというのも無理はないからな!」
「まだ何も言ってないんだけど……」
向い合って座ると漆茨さんは勝手に話を始めて進めた。
連れてこられたのは今朝と同じ小教室だった。今はちゃんと上履きを履いているから床も冷たくない。
正面の漆茨さんは「そもそもピラミッドが生まれたのはエジプトじゃなくて日本で」と爛々とした目をして早口で喋り続けている。
もしそうならそこそこ衝撃的な事実だけど信憑性はない気がする。
そんな彼女にダメ元で声をかけてみた。
「あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
すると思いの外漆茨さんは「どうした?」反応してくれた。
ただし「十六八重表菊紋やスフィンクス、狛犬を交えた話か? それともピラミッドと出雲大社の類似性について? いずれもこのあと話すから安心してくれ」と僕の頭には欠片もない情報を付け足された。
もちろんそんなこと聞きたいんじゃない。
「そうじゃなくて、朝も気になったんだけどどうして鍵をかけたの?」
「えっ?」
今回も漆茨さんは教室に入ってすぐに鍵をかけていた。
僕を逃がさないためなのかと思ったけど内側から開けられる以上簡単に逃げられるから違うだろう。時間稼ぎにはなるけどそれ以上にはならない。
だから理由が分からない。もしかしたら単に癖だというだけで特に理由はないのかもしれない。
でもなにかが刺さったらしい、漆茨さんは顔を引きつらせた。
「そそそんなことどうでもいいじゃないか! それより今どこまで話したか? 竹内文書の内容だったか? 竹内文書に日来神宮という単語が出てきてだな、これはひらみとと読むのだがピラミッドを意味しているんだ」
今までよりもさらに口を加速させて言葉を排出していく。さらに聞き取りにくくなった言葉は空気を震わせるだけ震わせて僕の頭には入らないまま溶けていった。
動揺しているのは明らかだ。
「教えてくれないなら帰ろうかな」
これまで続いていた漆茨さんの声がピタリと止まった。
空気の振動が収まり凍り始める。
今日過ごして初めての沈黙だ。
どうやら今の言葉は効くらしい。
漆茨さんは震える眉を寄せて結んだ口をもにょもにょと動かした。
それから苦々しい顔で机を睨みながらボソボソ言った。
「……使っていいか分からないんだもん」
「えぇ……。もしかして使用許可とか取ってないの?」
僕の質問に、漆茨さんは何も言わず首を縦に振った。
朝、あんなに大っぴらに勧誘をしていたからてっきり活動許可とか先生からもらっているものだと思っていた。部活を設立しようとしているならなおさらだ。
急に怒られた子供のように大人しくなった漆茨さんはいじけたように口を尖らせる。
「たまたま毎日開いていることが分かったから使っていいのかなって。でもダメだったらどうしようって思って。いる間は鍵を閉めておけば大丈夫かなって」
「何も大丈夫じゃないでしょ」
「でも部室がなきゃ部活っぽくないし活動出来ないじゃないか。部活と言ったら部室があるものだろう?」
「…………」
まだ部活じゃないし部室でもないだろうという突っ込みはやめておいた。
それよりも気になることがある。
「漆茨さんはなんで部活を作りたいの?」
鞠寺君から話を聞いた後から考えていた。
もしオカルトや都市伝説の話をしたいだけなら部活を作る必要はない。学校かネット上で同じように好きな人を探せば済む話だ。
でも漆茨さんは部活を作ろうとしている。学校よりもネット上の方がオカルト好きを探しやすいはずなのに。しかもこれまでずっとそんな兆しを見せていなかったらしいのに、今日からいきなり勧誘活動を始めている。
それとも裏ではずっと部活を作る準備をしていたのだろうか。だとしたら学校になんの相談もしていないのはおかしいだろう。
ならおそらく、突発的に部活という形で活動したい理由ができたはずだ。
「うーむ……」
漆茨さんは険しい表情で机を睨んだまま唸っている。
そんなに言いにくいことなのだろうか。
それはそれで何か裏がありそうで一層オカルト研究部に入る気はなくなる。
「話してくれなくてもいいけど、理由が分からなきゃ僕は入りたくはならないよ」
「むっ……」
理由を聞いたところで入部したくなることはないだろうけど、こういう言い方をすればきっと漆茨さんには効く。
その狙い通り漆茨さんは焦ったように目を見開いて顔を上げた。
「ま、待ってくれ。でも、それは、その……」
「その、何?」
「うぅ……」
言葉を詰まらせた漆茨さんは気まずそうに俯いて震え始めた。
「んんん~」と喉を鳴らして目をキュッと閉じている。
次第に血が上ってきたのか顔が赤くなり出して、とうとうボソリと呟いた。
「……たのだ」
「えっ?」
「言われたのだ、母様に。『あなたもう高校二年生なのにこんなことで大丈夫なの? 他の子なんてみんなお化粧してお友達とカフェとか買い物に行っているんでしょ? 背伸びして大人ぶる年頃でしょ? 彼氏作ってデートするなんて日常茶飯事なんでしょ? 夏にはデートで海にも行っちゃうんでしょう? そうやって青春を謳歌しているんでしょ? それなのにあなたはいっつも引きこもって一人でネットや本に齧り付いてニヤニヤ笑っているばかり。友達の話も聞きやしない。彼氏を作れなんて言うつもりはないわ。あなたが楽しいなら今はそれでいいとも思うわ。けど、このままだと将来大変じゃない? 私は今から心配よ』って」
「そ、それは、それは……」
なんとも言えない気持ちになった。
もし家でも人の話はあまり聞かずに都市伝説の話一色なら母親がそう言いたくなるのも分かる気がする。
同時に言われた漆茨さんがちょっと可哀想だなとも思った。僕も母さんに同じように踏み込んでこられたら図星ど真ん中なだけあって余計なお世話だってイラッとしそうだ。
漆茨さんは赤い顔でボソボソと続ける。
「だから言い返したのだよ。世界が大混乱に陥って終焉を迎えかけた時、日出ずる国、つまり日本から救世主が現れるから大丈夫だ、と。そうしたら『そんな規模の大きな話はしていません。あなたが死ぬまでに世界は滅亡しません』とさらに言い返された」
「だろうね」
「分からないじゃないかと私も言い返そうとしたけどそこで気付いた。思ってしまったのだ」
耳まで赤くした漆茨さんは視線だけを僕に向けてきた。若干目が潤んでいる。
「……悔しいけど、多少なりともみんながしている青春に憧れがあるんじゃないかと。そしてこのままじゃ、つまり独りぼっちのままじゃ不味いんじゃないか、と」
「あぁ、だから部活を作ろうとしているの?」
漆茨さんは首が錆びてしまったみたいに重い動きで頷いた。
「青春といったらやはり部活動だし、人も集まるから一石二鳥だろう?」
流石にそれは安直すぎないか。
確かに部活といえば青春といってもいいかもしれないけど、青春といえば、という視点から見ると数と範囲が広すぎて部活とは言えない気がする。ベン図でいうと青春の中に部活や他の諸々が含まれている様な感じで。
それは僕がそういうものと無縁だからだろうか。
「でも、なら既存の部活に入ろうとは思わなかったの?」
「すでに出来上がっているグループの中に入り込むなんてできるわけないじゃないか。入ったところで孤立するだけなのだよ。誰もが私を避けていく。それじゃあ何の意味もない。それに得意なことなんて何もないのだぞ? 話せることも都市伝説やオカルトくらいで最近の流行とか美味しいお店とか、そんなもの知らないんだ。その私が一体どこに入ればいいというのだ。無理に入ったところで何も出来ず置いてけぼりでやっぱり孤立道一直線だ。その方が今よりもっと惨めだし虚しくなるだろう」
……確かに。
漆茨さんがどこかの集団に入っても浮いてしまうのが目に見える。
でも肯定するのは気が引ける。
「な、なんというか、難しいよね。僕も転校してきたから分かるけど新しくどこかの集団に入ろうとすると色んな気を使わなきゃいけないし」
取り繕った慰めは気休めにもならなかったのか漆茨さんはブンブンと横に首を振って机に伏せた。
「分かってはいるのだ、そもそも私がこんなんだから友達が出来ないんだって。深青里氏もドン引きしているんだろうなって。でも頑張って普通に話をしようとしても緊張して早くなっちゃうし、焦って出てくる話題も都市伝説とかオカルトとかそればかりになってしまうのだ。だから部活に入るとしてもオカルト研究部しかないけど、無いから作るしかないのだ」
「な、なるほど……」
漆茨さんの考え方は可哀想になってくるくらい素直で正直で安直だけど納得はした。
「でも一番作りたいのは部活じゃなくて友達なんだよね?」
「うん、他のみんなみたいに楽しく誰かと喋って休日には出かけて、そんな風に青春したい」
青春=部活という変な固定概念のせいで大分拗れてしまっているけど、結局のところ漆茨さんが求めているのは独りの日々を脱して楽しく過ごせる友達だ。
「その気持ち、分かるよ」
僕もそうだから。
世界移動のせいでどう考えても普通の生活なんてできなくて、人の目が怖くなって楽しい学校生活なんて送れなくなっていた。普通の高校生みたいに鞠寺君やみんなと普通に目を合わせられないで、向けてもらっている好意や誠意を無碍にしている。
だけど僕には偶然にも漆茨さんがいる。彼女にその気は無くても元の世界に戻れば無表情で迎え入れてもらえる。きっと友人と呼んでも構わない相手がいる。
けどこの世界の漆茨さんは?
僕にとっての漆茨さんみたいに平気で話せる相手がいるのだろうか。
いないから今こんなことをしているんだ。
入部してくれ、なんて分かりにくい婉曲表現を使って彼女なりに友達になってくださいと言っているんだ。
それが可哀想だと思った。本人が原因のところはあるのかもしれないし、僕が偉そうに同情できる立場じゃないけど、こっちが悲しくなるくらい、可哀想に思えてくる。
そんな彼女のことを知ってしまったら、僕は。
「……入るよ」
溜め息を吐いてから、告げた。
「えっ?」と漆茨さんは顔を上げた。涙が眼鏡のレンズを濡らしている。
そのレンズの向こう側で潤む目を見据えて、もう一度告げた。
「入るよ、オカルト研究部……まだ研究会にもなってないか」
オカルトや都市伝説には興味なんてないし周りから腫れ物扱いされそうなのは嫌だけど、色々話してくれたこの漆茨さんを放っておくなんてしたくない。こんな僕でも力になれるならなってあげたい。
こっちの世界の元の僕も同じ経験をしてきて同じ思考回路をしているのなら分かってくれるはずだ。そう考えるのはそれこそ安直で傲慢だろうか。
漆茨さんは瞬きを繰り返しながら鼻を啜ってぐずついた声を漏らした。
「み、深青里氏ぃ……」
じわりと滲んだ涙に思わず苦笑した。
「でも条件があるよ」
「な、何でも言ってくれ、深青里氏! 私に出来ることなら頑張るから!」
漆茨さんは赤くなった目元を袖でゴシゴシと擦って背筋を伸ばした。
僕は遠慮無く言っていく。
「じゃあまずはその深青里氏っていうの、止めてほしい」
「うぐっ!」
「早口も直した方がいいよ」
「あぎっ!?」
「あと都市伝説とかオカルトの話をいきなり話すのも控えて」
「むぐっ……」
「そして人の話もちゃんと聞けるようにならなきゃね」
「……あぃ、善処します」
どんどん漆茨さんの声は小さく萎んでいった。伸ばした背筋もどんどん丸まっていき、最後はバタンと音を立てて机に突っ伏した。額が痛そうだった。
でも絵に描いたようなオタクっぽさを消していかないといわゆる普通の女子高生っぽくはなれないだろう。
僕とオカルト研究会として活動を始めてもそれで終わりじゃいけないし、二人目三人目と漆茨さんに友達が出来るようになるならそれに越したことはない。
僕としてもずっと漆茨さんに都市伝説のマシンガントークをされたく無い。
どっちのためにもなるのだからウィンウィンな条件だ。
「けど、本当に助かるのだ。これからよろしく、深青里氏……君?」
顔を上げた漆茨さんは奥歯に物が引っかかったような顔をして首を捻った。
「うん、僕はそれでいいよ」
「そ、そうか、良かった。デュフッ、デュフフ……」
頷いて見せると安心したように漆茨さんははにかんだ。
けど、それもちょっと気になった。
「さっきは言い忘れたけど、その笑い方もなんとかした方がいいかもしれない、かな」
「なぬっ!? 本当か!?」
笑い声に関しては無自覚だったらしい。それとも僕の気にしすぎだろうか。
でも僕が不気味に聞こえてしまうから、きっと他にも同じように感じる人はいるだろう。
「む、むぅ。やっぱり難しいな、普通っぽくなるのは……」
「そうだね、僕もそう思う」
いじけるように口を尖らせた漆茨さんに僕は肩をすくめて笑いかけた。
つられたように漆茨さんも「デュッ……」いつも通り笑いかけて「は、あは、あはは、は?」頬をヒクヒクさせながらぎこちなく笑い直した。
その様子がおかしくて、たまらず僕らはまた顔を合わせて吹き出した。
そうやって笑っている内にふと頭の中に無表情の漆茨さんの顔が浮かんできた。
もし彼女が普通に笑えるようになったら最初はこんな風にぎこちないのだろうか。
想像しようとして、上手くできなかった。
あの無表情には笑顔も拒絶も、どんな感情も重ねられない。
だからこそ僕も安心できるわけで、救われてもいる。
でも、もし彼女が笑って怒って泣いて驚いて。感情を言葉だけじゃなくて顔でも表現できるようになったら僕は今までみたいに彼女の目を見られるのだろうか。
できもしない想像をして、心の隙間から不安が滲んできた。
* * *
「……また?」
頭の中が白くなった。
起きて日記を読んで、その書いた覚えのない文章の羅列に、しばらく何が書かれているのか分からなかった。
でもすぐに何が起こったのか分かった。
僕は世界を移動していた、つまり元の世界に戻ってきていたのだ。
でもまだ昨日の世界に移動してから三日経っていない。麗し茨さんの時以来、それまでと同じように三日という期間は変わらなかったのに。
しかも今回は麗し茨さんの時よりもさらに短くてたった一日で戻された。
そんなにオタクの漆茨さんと話がしたいわけではないし日記にはまた話した内容を書いておいたから問題ないと思うけど、単純にどうして滞在時間が短縮されたのだろうかと気になる。
麗し茨さんの時と今回、何か変わったことや他と違うことがあっただろうか。
世界移動のルールを変えてしまうような特別なことを、その二つの世界でやっただろうか。
「あっ……」
大したことではないけど一つ共通点が思い浮かんた。
あの二人とだけは、僕にしてはたくさん話をした。
どう関連するのかはおいておいて、僕個人の行動として他の世界でやっていなかったのはそれくらいだろう。
ということは僕は移動先の漆茨さんとたくさん話をすることで短期間で戻ってこれるようになるのだろうか。いや、漆茨さんじゃなくてもいいのかもしれないか。
だとしてもそれが正しかったとしたらどうしてだろう。
本来いるべきじゃない存在がその世界に大きく干渉しようとすると悪影響を与えることになるから強制的に戻されるのだろうか。
いや、それならそもそも世界線を跨がせるなという話になるか。
けど思い当たる僕の行動はそれくらいだ。
……それくらいなら確かめてみた方がいいかもしれない。
今までは世界移動の原因が分からないまま仕方ないと諦めてそれに従うしかなかった。
でも、少しずつ世界移動について分かっていけばそれをとっかかりにして原因を解明出来るかもしれない。移動先の世界にいる日数を短縮できるなら無くすことだって出来るようになる可能性がある。
もし本当にそうなって二度と絶対に世界を移動しないと分かって安心できれば、僕は漆茨さん以外の人とも顔を合わせて話せるようになるかもしれない。こんな僕を放っておかない鞠寺君にだってもう少し自分から歩み寄れるようになるかもしれない。
やっぱり世界移動をし続けるなんて僕は嫌だ。
今は多少気持ちが楽になっているけど、いつまでも漆茨さんがいてくれるわけじゃない。もし高校を卒業して彼女と別れたら、その先はきっとまた憂鬱な日々に戻ってしまう。そうなる前になんとかできるならしたい。
移動先の世界で話をするなんて無駄なあがきだったとしても、このまま何も理解しようとせずに世界を移動し続けるよりはマシだろう。世界移動なんて訳が分からない規模の現象に対して、話をする程度のことはなんのリスクもなく取れる行動でしかない。
けどそこには致命的な問題がある。
そんなノーリスクの行動すらも自分から話しかけられず目をまともに見られない僕にとっては高すぎる壁なのだ。ただでさえ話をするのが得意ではないのに、世界を移動した直後で人間関係が分からない状況で、三日しか猶予が無い中どこまで他人と喋ることができるだろうか。
唯一なんとかなりそうなのは漆茨さんだけだけど、自分から喋りかけられるかというとそれもまた別問題だ。
麗し茨さんの時は偶然話せる状況に巡り会っただけだし、昨日はオタク茨さんの方から執拗に話しかけてきてくれたおかげで話せていただけだ。自分から二人に声をかけられたかというとそんなことはなかった。
ダメだ、自分でも悲しくなるくらい話をするビジョンが見えない。小学生の頃からそうしてきたんだから仕方ないか。
……いや、そうやって逃げ続けているからダメなんじゃないか。
現状に屈して諦めて、何も理解しようとしなくなったから今みたいな僕になったんだ。
オタク茨さんと笑い合った時に生まれた不安を思い出す。
漆茨さんが表情を取り戻す時がくるかもしれない。僕が一度、急に世界移動が起きなくなったのと同じように漆茨さんが急に表情を作れるようになる可能性はある。
そうなると今のままの僕は目を合わせられなくなってしまうかもしれない。
そんなのは嫌だ。実際はそんな日が来なかったとしても、その不安を抱え続けるのも同じように嫌だ。
だから何かの拍子にいつそうなってもいいように、変な不安は取り除ける可能性があるならやるべきだ。
それに、オタク茨さんには変わることを強要したくせにその僕がちょっと勇気を出して話しかけることを拒むだなんて卑怯にも程があるだろう。どの口がと怒られてしまう。
だったらせめて、漆茨さん相手には頑張って自分から声をかけるべきだ。あとは出来れば鞠寺君にも。
大丈夫、話さえ始まればいつも普通に話せている。これからその始まりが僕になるだけだ。
だから、きっと大丈夫。
何度も自分に言い聞かせながら、僕は部屋を出た。
「お、おはようっ」
正面で止まった電車の扉が開くと目の前に無表情の漆茨さんが現れた。
乗り込みながら、僕は初めて自分から挨拶を切り出した。たったそれだけでも情けなく声が震えて大きくなってしまった。
驚かせてしまったのか、漆茨さんは瞬きを繰り返して「……おはよう、深青里君」その分だけ遅れて小さく返してきた。
「なんだか今日は元気がある。どうしたの」
「話をするのが苦手だけどちょっと頑張ってみようかなって」
「そうなの。私はあまりそう感じないけど」
「そう?」
目を見て話せないし自分からも話しかけられないし話を盛り上げることもできない。
まさに苦手な要素がてんこ盛りだ。
なのにどうしてそう感じられないんだろう……って、当たり前か。
「それは僕にとって漆茨さんが特別だからだよ。漆茨さんの目は怖くないし一緒にいて安心するから普通に話せるんだ」
毎回漆茨さんの方から話しかけてくれるし目だって見られるのだから彼女に対しての苦手意識は極端に薄くなっている。
だから漆茨さんからすれば会話が下手とは感じないのかもしれない。
「でも僕から声をかけたり他の人とはあんまり……って、漆茨さん?」
「……」
いつの間にか漆茨さんは僕を見たまま口をパクパクさせていた。
餌待ちの金魚みたいな反応だ。
「どうかした?」
「……深青里くんって平気でそういうこと言うわよね」
「そういうことって?」
「おかげで本心を口にしない人の気持ちが最近分かってきた」
「えっと……そうなんだ。良かったのかな?」
「……知らない」
「えぇ……」
漆茨さんはぷいっとそっぽを向いた。
いまいち言いたいことが分からないし話も読めない。
何か変なことを言ってしまったんだろうか。
そういえば最近、漆茨さんは前より口籠もる回数が増えたりハッキリ言うことを避けたりするようになってきた。無表情と相まって余計に分からなくなる。
言った通り本心を口にしない理由が分かってきたからなのか、もしかしたら僕に気を使って言葉を選んでくれているからかもしれない。
気を使われたなら僕は今酷いことを言われかけたことになる。
やっぱりなんでか分からない。
「それで頑張るっていうのは」
悩んでいたら漆茨さんが見上げてきた。
「まずは自分から話しかけることに慣れていくことかな」
「そういうこと。確かに毎回あんな勢いだと驚くわ」
「そうだよね。話し始めさえすればなんとかなりそうなんだけど、そのハードルが僕には高いんだ」
「そう。頑張って」
「うん、ありがとう。なんとか漆茨さん以外の人とも上手く話せるようになればいいんだけど」
「……そう」
自嘲気味に笑ってみたつもりだけど、何かいけなかったのか漆茨さんは俯いた。
「えっと、どうかした?」
「いいえ、別に」
「だったらいいんだけど……」
大丈夫という割には俯いたまま動かない。何かは分からないけど考えているみたいだ。
普段話している時、漆茨さんは基本的に真っ直ぐ前か僕を見ているから何かはあるのだろう。今日はさっきからなんだか様子がおかしいし。
僕から変に声をかけてしまったせいで調子を崩してしまったのだろうか。
「……やっぱり言うわ」
漆茨さんは真っ直ぐ僕を見てきた。
「ちょっと気になったの」
「何が?」
「寂しくなるかもしれないなって」
「それまたどうして? 僕が喋れるようになると寂しくなるの?」
「……」
純粋に分からない。今の話のどこから寂しさが出てくるのだろうか。
それとも揶揄われているのだろうか。深青里君には無理でしょ、みたいな。
考えていたら漆茨さんは半目になった。
本人曰く傷付いた時や機嫌が悪くなった時の意思表示だそうだ。
今回の意図は汲み取れない。
「え、えっとなんだろう、その目は」
「緊張を返して欲しい目」
「な、なかなか難しい目をするね」
「……深青里君って結構バカよね」
「えっ、いきなり酷い……」
頭が良くない自覚はあるけどこうもバッサリ言われるとちょっと胸に来る。
「会話が苦手なのも分かる気がする」
「な、なんで?」
「……」
また半目で見てきた。
今度はどんな目だろう。
気になったけど聞くのはやめておいた。なんとなくショックを受けそうだったから。
漆茨さんと教室に入るとクラスメートがチラリと視線を向けて何人かは「おはよう」と声をかけてくる。それに対して僕も控えめに挨拶を返しながら席に着く。
それがいつもの流れだけど、これからは少しずつ変えていかなきゃいけない。
漆茨さんから「頑張って」背中を押された。
その言葉から勇気が流れ込んでくる。覚悟が引き締まっていく。漆茨さんが心配して支えてくれている。それだけで頑張れる気がした。
一度深呼吸して自分の席に向かう。その途中、僕は本を読んでいる鞠寺君の席の横で立ち止まった。
いつもなら素通りして声をかけられてから振り向いている。でも今日は顔を上げた彼より先に声を絞り出した。
「ぉ、おはようっ」
漆茨さんの時程じゃないけど声が上擦った。でもそこまで不自然じゃなかったはずだ。
そんな僕を見た鞠寺君は一瞬だけ驚いたような顔をしてすぐに笑った。
「うん、おはよう深青里君。今日は元気そうだね」
「あ、あはは……」
どうやら僕から挨拶するとそう思われるらしい。
無理もないか。今まで自分から声をかけなかった奴がいきなり挨拶したらテンションが高いと思われたって。
「ふふっ、ちょっと安心したよ」
「安心?」
「実はね、嫌われているかもしれないと思っていたんだ」
「えっ、そうな……んだ」
聞きかけて、麗し茨さんにも言われたことを思い出した。
周囲から見れば僕の人付き合いの仕方はそう見えてしまうのだろう。
「でも、全然、そういうわけじゃないから。全然、嫌いじゃないから」
そう言いながらもまだ目を合わせようとしないから説得力はないかもしれない。
だからこそちゃんと言葉を伝えないといけない。それこそ漆茨さんみたいに。
大丈夫だ。
確かに鞠寺君には色んな世界の彼が重なって見えている。どの鞠寺君がこの鞠寺君の自然体なのかちゃんとは分からない。
けど、少なくとも目の前にいる鞠寺くんは間違いなく僕に笑って挨拶を返してくれる正義感のある優しい鞠寺君だ。
それが分かっているなら他の世界でどれだけ違う性格や振る舞いをしていたって、その影が重なって見えてしまっていたって、裏にどんな性格が隠れているのか分からなくなっていたって別にいい。
目の前に映っている鞠寺君だけを意識して向き合えば怖くないはずだ。
「む、むしろいつも優しくしてくれる鞠寺君には感謝しているし、仲良くしたいと思っているんだ。本当に。その、言うの、遅くなっちゃったけど……」
やっぱり目は合わせられない。
それでも言葉は信じてくれたのか、鞠寺君はうんうん、と頷いて手を掲げてきた。
「そうか、それは嬉しいね。朝からとても良いことを聞けたよ。ありがとう、深青里君」
「う、うん、こちらこそありがとう」
伸ばされた手に、今日、僕は自分の手を打ち付けた。
パチンと小気味良い音がした。
心地のいい痺れが掌に走った。
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