第8話:溌剌な彼女 上
世界を移動しても夏は夏だ。嫌になるくらい輝く太陽に照らされ続けて、学校から一歩踏み出した瞬間に吹き出した汗はドバドバとその勢いを増していく。
駅に着いて日陰に入っても大して涼しくはない。どころか影を作ってくれる遮蔽物が熱を籠もらせているのか、余計に暑く感じる。ミンミン、ジィジィと耳を突く蝉の声も暑さを助長させる。鼓膜の振動を越えて神経を直接刺激されているようで気分が悪くなりそうだ。
早く電車が来てくれればいいんだけど。
そう吐いたため息も熱く、口内が焼かれるような感覚に全てが嫌になってくる。
嫌になるという程ではないけど、ちょっとした問題があった。
この世界にいる漆茨さんとの会話が難しそうということだ。僕自身の問題というのは半分あるけど、それだけじゃない。
漆茨さん本人は話しやすそうではあった。
溌剌としていて思っていることがすぐ顔に出るのかコロコロと表情を変わって眺めているだけでも楽しい子だ。身長は今まで見てきたどの漆茨さんよりも低くそうで、クラスメートから妹かマスコットキャラクターみたいに可愛がられている。
自覚はないかもしれないけど可愛げのある振る舞いでクラスの雰囲気を良くしているようだった。そういう意味では麗し茨さんとは別のタイプながら人気者であることに間違いない。
ただ、それが影響して常に漆茨さんの周りには人がいるから僕は入り込めそうにない。
ということで話しかけるのは無理そうなのだ
今回の検証は諦めた方がいいかもしれない。
僕が会話と世界移動が関係しているという推測を立ててから一ヶ月ほど経過した。
その間世界移動をする度になんとかそこにいる漆茨さんと会話を試みた結果、何回かは三日経たずに元の世界に戻ることがあった。
だから部分的には当たっていそうだった。
部分的には、というのは話せば確実に二日以内に帰れるようになるわけではなかったからだ。たくさん話せばいいわけでもないらしく、これだけ話したから帰れるだろうと思っても三日かかったり、一日しか話していないのに翌日には戻っていることもあった。
そうなるとただ話すだけじゃダメだということになる。
なら他の要素はなんなんだろう。そう考えて思い当たったのは話の内容だ。麗し茨さんの時もオタク茨さんの時も、そしてその後何度か会話した漆茨さん達も似たような話をした。
だからきっとそれをすればおそらく早く元の世界に帰ることが可能になる。
それを今回試したかったのだけど、話しかけられないなら残念ながら検証は出来ない。麗し茨さんの時みたいな、いかにもな偶然はそう起こらないだろう。今回は諦めて三日間ここで過ごすことになりそうだ。
考えているうちに電車がホームに滑り込んできた。これでようやく涼める。
開いたドアから入った途端、一気に冷えた空気に身体を包まれた。
その心地よさに身を委ねながら吊革を掴んで発車を待っていると、外からカツカツと地面を蹴る音と「待って~!」という溌剌とした声が聞こえてきた。
直後、小柄な女子生徒が近くのドアから電車の中に飛び込んできて「間に、合ったぁ……」僕のすぐ横で手を膝に当ててぜぇぜぇと大きく呼吸を繰り返し始めた。
見るからに苦しそうだ。そりゃあそうか、馬鹿みたいに暑い中、走ってきたみたいだから。
つい見ていたら、汗のせいなのか透けたワイシャツの下の水色が目に入って僕は目を逸らした。
もちろん怖いわけじゃないけど直視するのは申し訳ない。
でもすぐにあることに気付いてもう一度彼女を見た。
「漆茨さん?」
「ほぇ? 深青里君……って、わぁ! ど、どうしよう。なんか恥ずかしいとこ見られちゃったかもっ!」
暑さで赤くなっていた顔を上げた漆茨さんは、目が合うとさらに赤色を濃くして隠すようにタオルを顔に押し当てた。僕に背を向けて顔を額をゴシゴシと拭いている。
何とは言わないけど正面より背中の方がハッキリと水色が見えて目のやり場に困ったりもするけど気付いていないらしい。
とりあえず漆茨さんがこっちに向き直ってくるまで外を見て待った。
次の駅のアナウンスが聞こえてくる頃、ようやく落ち着いてきたのか漆茨さんは火照りの残った顔でこっちを向いた。
後ろの髪が跳ねている以外は無表情の漆茨さんと髪型はほとんど同じで、今まで会ってきた彼女たちの中では一番似ている。
身長は僕の肩のすぐ横に頭頂部がくるくらい低く、つり革には届かないのか手すりに掴まっている。無表情の彼女よりも十センチ近くは小さそうだ。
「え、えへへ。ごめんね、恥ずかしいところ見せちゃって」
「ぜ、全然。そんなことなかったよ。誰だってああなるって」
「そ、そっか。じゃあいっか。でも、もう本当に暑くって困っちゃうよね、メラメラギラギラ~って日差し凄いんだもん。日焼け止めが効いてるのか心配になっちゃうよ」
漆茨さんは言いながら恥ずかしそうにパタパタと手で顔を扇いだ。まだ額からは汗が垂れて頬を伝っている。
「そうだね。七月でこれだと八月はどうなるんだろうね」
「うわぁ、考えたくないや。補講とか行かなきゃいけなくなったら地獄だよぉ……」
漆茨さんはくしゃっと露骨に嫌そうな顔をして肩を落とした。
「でも、ということは深青里君が来てからもう四ヶ月か。こっちの生活には慣れた?」
かと思えばハッと思い付いたように顔を上げて聞いてきた。
「そう、だね。結構慣れてきたかな。もしかしたら漆茨さんのおかげかも」
「えっ、私? 何かしたっけ?」
「漆茨さんがクラスの雰囲気を明るくしていくれているから過ごしやすいんだよ。すぐに慣れられたのはきっとそのおかげだと思う」
実際のところは分からないけどこの世界でのクラスを見ていると、この世界の僕はそう感じていてもおかしくないと思えた。実際今日一日だけでも居心地がいいと思えるクラスだった。鞠寺君は元の世界の彼と似ていたし、漆茨さんがクラスに微笑ましさを振りまくから心中穏やかでいられたのは確かだ。
「えへへ。深青里君、そんな風に思ってくれてたんだ。嬉しいこと言ってくれるんだね」
「きっとみんなも思っているよ」
「そうかな、えへへ」
握った小さな手を口元に当ててはにかむ漆茨さんはずっと見ていたくなるくらい可愛いかった。小さいこともあって小動物的な可愛らしさと庇護欲を刺激する可憐さがある。
えへへぇ、と嬉しそうにも恥ずかしそうにも微笑む漆茨さんを眺めながら、ちょっと前までの僕ならきっと言えなかったんだろうなと思った。無表情の漆茨さんのおかげで話すことに慣れてハッキリ言えるようになったのかもしれない。
「あっ、そういえばもう少しで期末試験だけど深青里君はどう? 私はちょっと……というかすっごくヤバいかもなんだぁ」
思い出したように言いながら漆茨さんは嘆息を漏らした。
そういえばあと二週間も経たずに期末テストが来る。
それが終われば夏休み、かと思いきやその前に先日配られた進路希望を元にした個別面談がある。提出期限は試験前までだったからそっちも気にしなきゃいけない。
「僕は得意な科目はないけどそこまで苦手なものもないから赤点は回避できそうかな」
「えー羨ましい。現代文は楽しいから大丈夫でしょ? 暗記科目はうぉぉって覚えればいいだけだけだからそっちもなんとかなるからいいけど、古文や英語は見ていてボンヤリしてくるし数学は頭グルグルしてきちゃうしで全然ダメなんだよぉ」
「難しいよね、数学。公式とか色々出てくるけど結局何を使えばいいのかよく分からないし。僕は毎回勘で当てはめてなんとかなってる感じかな」
「それでも出来てるならいいじゃん。私なんて勘でやっても分からないから毎回一問は白紙のまま出しちゃうし」
ぶー、と唇を尖らせた漆茨さんはムッとした表情のまま頬を小さく膨らせた。
「ちなみに赤点とって追試になるとここから出しますよってプリント配られるんだけど、それだけピャーッと覚えればいいだけだから追試では優等生なんだ、私。先生には最初から本気でやれっていっつも言われるんだけど、そうじゃないんですーって言いたくなっちゃう! テスト本番もテキストでやったのと同じ問題だけ出してくれれば高得点取れるのにそうしてくれないでしょ? もう嫌になっちゃうよね!」
「確かにやったことある問題ばっか出してくれれば数学も英語も楽なんだけどね」
漆茨さんは共感されたことが嬉しいのかブンブンと首を縦に振った。
「うんうん! 複雑な数式とか見るとギャーッてなる! 何次方程式とか微分積分とか使う文章題とか睡魔を呼び出す呪文みたいだよね! すぐ眠くなって瞼が落ちてくるもん!」
「あはは、そうかも」
言い方が面白くて笑ってしまった。
ありがちな不満ながら問題文が呪文に見えるなんて発想はなかった。
この世界の漆茨さんの喋り方は感情をそのまま口に出しているみたいに賑やかだ。子供っぽいともいえるけど話していて楽しくなってくる。こういうところもみんなから好かれている理由なんだろう。
「それに今回はテストだけじゃなくて進路希望の提出もあるから余計に大変だよね。僕は将来のこととかまだ何も考えていないから困っているんだ。漆茨さんはどう?」
会話の流れで何気なく聞いたつもりだった。
でも漆茨さんは「えっ……?」と虚を突かれたように目を見開いて硬直した。
その顔には明らかな困惑と動揺が広がっていて、逆にこっちが不安になってくる。
「えっと……どうかした?」
顔を覗き込むと漆茨さんは「あはっ、あはは? なんでもないよ?」片言の震えた声で笑った。引きつったわざとらしい笑いで何でもないわけがない。
それを見てピンときた。
この世界の漆茨さんとの会話の条件はこれかもしれない。
「もしかして進路で悩んでる? 結構深刻に」
他世界にいる期間を短くするための話の要素は、悩んでいることについてだと僕は思っている。
麗し茨さんはパスケースを見つけることと取り繕わずにいたいという願いがあったし、オタク茨さんは普通の女子高生みたいに過ごしたいということで悩んでいた。
他の世界で出会って話した漆茨さん達もそれぞれ何かを抱えていて、その話を打ち明けてくれた世界からは二日以内に戻ることが出来ていた。
だから今回の漆茨さんにも何かしら深刻な悩みがあって、それについて話せれば早く帰れるんじゃないかと考えていた。
今回はそれを聞くのも難しそうだと思っていたけど、もしかしたら今、そこに触れられるかもしれない。
そう思って問いかけると「なっ……」漆茨さんはギクッという音が聞こえてきそうな程、肩を跳ねさせて喉の奥を鳴らした。
そして顔の前でブンブンと手を振りながら捲し立てた。
「悩みだなんてまたまた大袈裟だよ~。確かに私もどうしようかなぁって考えているけど、どうしよっかなー、みんなどうするのかなー、私ってどうなるのかなーとか、そういうことを漠然とどうしよっかなぁって思うだけで、ボケーッとグデーッとダラーッと生きているだけの私にそんな、悩みなんてないって~、あははぁ?」
面白いくらい分かりやすい。誤魔化すのも下手すぎる。
思いっきり視線は逸らされたし顔は引きつって口はグニャグニャと歪んでいるし、早口になっているし何回もどうしよっかなって言っているし。
ジーッと見ていると、漆茨さんは「あ、あははー?」目を合わせないままわざとらしく笑うだけだった。
これならちょっと話してみれば僕でも何かすぐに分かるかもしれない。
「……そうなんだ。僕は悩んでいるから漆茨さんもそうなのかなって思ったけど」
「あはっ?」
「将来の夢はないし、きっと大学進学って書くことになるけど、その場合は希望大学も書かなきゃいけないでしょ? 僕にはそれもないからどう書こうかなって思っていてさ。漆茨さんは将来の夢とか大学の希望とかあるの?」
「うぇっ、そ、それは……わ、私もあんまり考えてなくてね~。な、何書こうね~、あは、あははー……」
誤魔化そうとする声も分かりやすい程に震えていてどんどん萎んでいく。
確実にこの手のことで悩んでいるのは明らかだ。
ただ具体的には分からないからここからの踏み込み様がない。
自分から聞いておいてなんだけど、相談をされたとしても上手な乗り方を僕は知らない。
そもそも大して仲良くないであろう僕だから話したくないのかもしれない。そうなら僕にはどうにも出来ない問題だ。
恥ずかしいことに今更ながらこの辺りの距離感も僕は上手く掴めていない。
これまで行った世界で色々話を聞けたのは完全に運だったし、そこにいた漆茨さんがみんないい人だったからというだけなのだ。
どうしよう。
僕は僕で悩んでしまう。
「僕も色々悩んでてさ。進路のこともそうだけど、それ以前に会話があんまり得意じゃなくて、今も正直ちょっと不安なんだ。上手く話せているかなとか、変なこと言っていないかなとか、距離感間違えていないかなとか。情けないよね」
「…………」
僕も悩んでいることを伝えれば漆茨さんも口にしやすいかと思って言ってみたけど露骨すぎただろうか。
それとも、そんなこと知らないよ、と引かれただろうか。
漆茨さんは握った拳を胸に当てて身体を小さくしてしまった。
まずい、これは良くない反応かもしれない。
拒絶されているのかいきなり踏み込まれて怖がられているのか、圧倒的に嫌われたのか。
だとしたら謝らなきゃいけないけどどう謝ろう。なんて言えば許してもらえるだろう。
涼しくて心地よかったはずの車内が凍える程寒く感じ始めた。冷や汗が背中をジンワリと濡らして思わず震える。
何か言わないとと、ゴクリと喉を鳴らして口を開こうとした時だった。
「えへへ、なんだか深青里君には見透かされているみたいでちょっと怖いや」
先に漆茨さんがポツリと言った。
やっぱり不味い展開だこれ。
さらに焦りと言い訳を紡ぎ出そうとする思考回路が加速していった。
「どうして私が結構真面目に悩んでるって思ったの?」
「ごめんちょと出過ぎた真似をしたしいきなりそんなこと聞かれたら気持ち悪……えっ?」
けど、見上げてきた漆茨さんは諦めたように笑っていた。
少なくとも拒絶するような顔ではないし言葉通りには怖がられてもいないみたいだ。
思ってもいなかった表情を向けられて良かったはずなのに逆に驚いて固まってしまった。
今度は可笑しそうに漆茨さんは笑った。
「一応私が聞いているんだよ?」
「あぁ、うん、そうだね……」
どうしてと聞かれてもちょっと困る。
今まで訪れた世界で漆茨さんには悩みがあった。
もちろん人である以上大小関わらず悩みがあるのは当然だけど、例えば人間関係とか自分自身の在り方とか、大きい部類の悩みを漆茨さんたちは抱えていた。
だから今目の前にいる漆茨さんもまた、同じように何か抱えているんじゃないかなって思った。
というのが本音だけど、もちろんそんなことは言えない。
かといって進路について悩んでいると知ったのはついさっき偶然だから、深刻に悩んでいると思ったのか、という質問の答えとしては適切じゃない。
加速した後しばらく空転していた思考回路を利用してそれっぽい答えを紡ぎ出す。
「な、なんとなくだけど、進路希望調査表を配られた時、漆茨さんの様子がちょっとおかしいような気がしたから、そうなんじゃないかって」
「そっか、よく見てくれているんだね、私のこと」
「……そんなこと、ないと思うけど」
しみじみと言われてちょっと申し訳なくなった。
けど納得はしてくれたらしく、漆茨さんは「はぁ~、気付かれちゃったかぁ」と悔しそうに笑いながら溜め息を吐いた。
そしてうーん、と唇に指を当てて唸った。
「深青里君、口固い?」
「うん、自分では固いとは思っているよ。それに僕には誰にも話せないよ。さっきも言ったけど、話をするのは得意じゃないから」
「えへへ、そっか」
僕なりにおどけて言うと漆茨さんは失笑した。
「ちょっとカフェに寄らない?」
「いいけど、どこの?」
聞くと丁度電車が止まってドアが開いた。
山と田舎を繋ぐ駅にしては珍しく、カフェや飲食店、本屋や中古ショップが近くにある駅だった。
「ここの近くのとこでいい? うちの最寄り駅なんだけど」
「うん、いいよ」
「じゃあ行こっか」
はにかんだ漆茨さんは僕の手を引いて開いたドアから降りた。
直後、うだるような暑さに迎えられて「うぎゃー!」と漆茨さんは悲鳴を上げて顔をしかめた。
そんな溌剌とした姿が面白くて可愛らしかった。
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