第13話:オタクな彼女 二




 溌剌茨さんのいた世界から一日で戻ってきた僕は、電車に揺られながら漆茨さんの顔を見つめていた。


 その口の端に変化はない。目以外を見ても特に変わったところはなさそうだった。

 たった一人分笑顔が増えただけじゃ表情の平均に何の影響も及ぼせないのだろうか。それとも単にその考えが間違っていただけという話だろうか。


 まぁ、仮に予想が正しかったとしても変わらないか。

 前回だって一ヶ月ちょっとかけて何人もの漆茨さんと話をしてようやくミリ単位で上がったのだ。一人だけじゃ何も変わらないか。


「深青里君。電車に乗ってからずっと私の顔見てる。何か付いているの」


「ん? 特に何も」


「そう。ならそろそろ恥ずかしい」


「あっ、ごめん」


 慌てて目を逸らした。

 言われてしまうと僕の方も少し恥ずかしくなってくる。


「口角、やっぱり上がっていないなって思って」


「そう。心配してくれているの」


「うん、上がった時、とっても喜んでいたから」


「なら気にしなくていいわ。どっちみち自分の意志じゃ動かせないから。それよりずっと見つめられる方が落ち着かない」


「そっか、ごめん」


「えぇ、構わないけど」


 頷いた漆茨さんは目を伏せた。

 本当は惜しいと思っているのかもしれない。


 初めてなった日のテンションの上がり様は無表情かつ棒読みでもちゃんと伝わってきた。例え自分の意志でやっていた訳じゃなかったとしても表情の変化が嬉しかったのは間違いない。


 こんなこと話さなければよかった。もっと何か上手く誤魔化していれば思い出させずに済んだのに。

 ジンワリと後悔に胃が焼かれそうになる。

 そうなるより先に漆茨さんが顔を上げて僕を見てきた。


「そういえば今日から学園祭の準備が始まるわね」


「そうだったね」


 今朝起きて読んだ日記に書かれていた事を思い出す。

 僕らのクラスは昨日のホームルームで学園祭の出し物について話し合ったらしい。


 その結果決まったのがお化け屋敷だ。高校生の学園祭といえば、なんてランキングがあれば三位には食い込んでくるであろう定番。自分たちのクラスも例に漏れずそうなったみたいだ。


「楽しみ?」


「えぇ。お化けは私の専売特許。輝ける舞台だから」


「あぁ……なるほど?」


 何がどうあっても無表情を貫ける漆茨さんとお化け屋敷は確かに親和性が高いかもしれない。メイクで雰囲気を出せば暗闇の中に立っているだけで異様な不気味さを演出できそうだ。


 転校初日、初めて漆茨さんを見た時は朝だったにもかかわらずちょっと怖いと感じてしまったくらいだし。なんて思い出してしまってちょっと申し訳なくなった。


 でもその無表情を有効活用……といっていいのかわからないけど、前向きに使えるならいい事なのかもしれない。


「深青里君は楽しみじゃないの」


「もちろん楽しみだよ。学園祭準備中の非日常感は特別だよね」


「そうね」


 友達がいなかった僕からすればあまりいい意味での特別ではなかった。放課後になっても半強制的に準備はしていかなきゃいけなくて、その分の時間だけ他人の目が周りにあったから。


 僕に向けられることはほぼなかったけど、怖いと思っているものが周りでめまぐるしく動き回っているのはやっぱり良い気持ちではない。通常の授業とは違ってみんなの意識が黒板に向いていない分、余計に怖かったりしたのだ。


 蜘蛛を怖いと思っている人が、何匹もそれがいる部屋の中で平穏に過ごせないのと似ているかもしれない。蜘蛛には害を加えてくるつもりはなくてもこっちが存在を意識してしまっているせいでとてつもなく居心地が悪い、みたいな。


 けど今年は大丈夫そうだ。

 漆茨さんがいてくれるし、未だに目を見ることは出来ていないけど鞠寺君とは普通っぽく話せるようになってきた。

 もしかしたら初めて楽しいと思いながら学園祭を迎えられるかもしれない。


 心配事があるとすれば、準備期間中だろうが関係なく起こる世界移動のせいで、自分が何の準備をしているのか分からなくなりそうだという事くらいだ。世界毎にクラスの出し物は違うだろうし、同じお化け屋敷をやるとしても確実に内容も係も変わる。なんとか誤魔化し誤魔化しできるだろうか。


 そんな心配をしていると「み、深青里君」漆茨さんが僕の袖を引いた。


「気が早いかもしれないけど当日一緒に回ってくれると嬉しい」


「そう……だね。僕もそうしてくれると嬉しい。一緒に見て回ろうか」


「うん」


 漆茨さんはそっと僕の袖から手を離すと少しだけ身体を前後に揺らし始めた。

 喜んでくれているのだろうか。そうなら僕も嬉しい。


 でもおかげでもう一つ、より大きな心配事が増えた。

 学園祭当日にこの世界にいられるのかどうか。

 準備期間の世界移動なんかよりもよっぽど重大で深刻な問題だ。




   *  *  *




 学園祭前日の今日までに僕は九回世界を移動した。

 自分の声が嫌いだからと全く喋らない漆茨さんや百八十センチを超える高身長に悩む漆茨さん、親の厳しさに気分が落ち込んでいたり、配信者としての活動が上手くいっていなかったり、先生に恋してしまっている漆茨さんだったり。

 色んな漆茨さんと会って話したり話せなかったりしながら過ごしてきた。


 案の定、学園祭の準備では各世界で迷惑をかけてしまったけれどそれは許してほしい。

 そして今日、運がいいのか悪いのか僕は世界を移動したらしい。目覚めて日記の色が違ったからすぐに気付いた。

 明日までに元の世界に帰る事が出来れば学園祭は安心して漆茨さんと過ごせる。


 けど、もし上手く話せるような性格じゃなかったら諦めるしかなくなる。

 タチが悪いことに学園祭前日だから一日授業無しの準備日に割り当てられている。悠長にプライベートな話を、しかも悩みやなんだと突っ込んだ話をしている暇があるだろうか。


 そう考えるとちょっと厳しいかもしれない。

 やっぱり運が悪かったのだろうか。


 重くなる気分に頭を押さえつけられながら日記を手に取って開く。

 しかし昨日書かれたページを開いた瞬間、重い気持ちは全て吹き飛んで僕は思わず吹き出してしまった。 


 これなら、彼女なら大丈夫だ。話をするのはちょっと大変そうだけど間違いなく可能な相手ではある。話しやすい状況を作る事も簡単そうだ。

 でもまさかまた会う事になるなんて思わなかった。しかもこんなタイミングで。


 嬉しさを噛み締めながら日記を閉じた。

 ともかく、結局僕は運が良いらしい。

 今日はオカルト研究会の出し物の準備をしなきゃいけないのだから。




 正門から入ると校内だけ現実から切り離されたみたいなお祭りムードが漂い始めていた。学園祭用に作られたアーチが展開されていて、下駄箱も廊下も派手に飾り付けられていだ。


 一日限定のお化け屋敷やカフェの店の前を通る時に聞えてくる「間に合わないかも」なんて声も楽しげで、今なら誰もがなんにでも笑えてしまいそうな空気が満ちていた。


 その空気の中を進んだ僕は、自分のクラスに入って目を疑った。

 どうやら僕のクラスは謎解きゲームをやるようで雰囲気作りのための内装や小物類が主に置かれている。


 それは何の問題もない。学園祭の前日なのだから当り前だし、お化け屋敷ではないんだから見てギョッとするような物があったわけでもない。


 そうじゃなくて。


「おはよう深青里君。とうとう明日だな」


「うん、おはよう鞠寺君……」


「ん? どうしたんだい、そんな幽霊でも見たような顔して」


「いや、その……漆茨さんってあんな感じだったっけ?」


 話しかけてくれた鞠寺君に問いかけた。


 教室の中にいた漆茨さんは、おかっぱ頭で丸眼鏡をかけたあの漆茨さんは普通にクラスメートと話していた。早口ではなく相手の話もちゃんと聞いていて、笑い方もごく自然で、穏やかな顔をしてクラスに馴染んでいる。


 僕の記憶の中のオタク茨さんとはかけ離れていた。

 本当にここは以前来たオタク茨さんの世界で間違いないのだろうか。


 思わず口をポカンと開けながら彼女を見ていると、鞠寺君に揶揄うように笑われた。


「深青里君、今更何を言っているんだい? それとも自慢や見栄か何かかな?」


「えっ?」


「漆茨さんを変えたのは君だろう?」


「そう、なのかな……」


 鞠寺君は本気か、とでも言いたげに目を丸くして、呆れたように肩をすくめた。


「深青里君以外にいるのならぜひ教えてほしいよ。一番近くで漆茨さんと話し続けていたのは深青里君なんだから、君以外に考えられないだろう?」


「そ、そっか……」


 確かにオカルト研究会に入ることにした時、話し方や振る舞い方を直していこうと言ったけど、違和感なく教室に溶け込めるくらい普通になっているとは思わなかった。


 しかも期間はたったの四ヶ月程だ。それだけでここまで人は変われるとは。

 こっちに残った僕がちゃんと漆茨さんと向き合ってくれていたってことでもあるんだろう。


 なんというか、良かった。本当に。

 溌剌茨さんの時もそうだったけど残された僕はちゃんと僕の頼みを叶えてくれているらしい。これなら他の世界の僕も大丈夫だろう。


 大きな安堵がやってきて緩んだ口元から大きく息が漏れる。


「でも、まさかオカルト研究会に入ったのが漆茨さんを自分好みに変えるためだったとは思わなかったよ。なかなかやるね、深青里君は」


「なっ!? そ、そんなんじゃないから」


「ふぅん? よく言うよ」


「な、なんでさっ?」


 面白がる声に思わず少し声が大きくなってしまった。

 それで僕に気付いたのか、漆茨さんはこちら見て「あっ、深青里君」と手を振りながら小走りでやってきた。呼び方も深青里氏じゃなくて深青里君になっている。


「おはよう深青里君」


「う、うん、おはよう漆茨さん」


「夕方からクラスの方は抜けていいって言ってもらえたよ。オカ研の方はそれからだね」


「そっか、分かった……」


 ふんわりとした優しい笑顔をジッと見つめてしまう。見惚れているのか困惑しているのか自分でも判断できない。


 ダメだ、記憶の中のオタク茨さんと乖離しすぎている。違和感が凄い。

 初めて会った人と言っても過言じゃない。


「大丈夫? ボーッとしているけどどうかした?」


「い、いや、なんでもない」


「そっか、それならいいや。じゃあまた後でね」


 それだけ言うと漆茨さんはまた手を振ってクラスメートの元に戻っていった。

 僕は未だに呆然としながら頷いてその背中を見送った。


「ははっ、朝から羨ましいね」


 鞠寺君の揶揄うような声は気にならなかった。




 僕のクラスの準備は順調に進んでいたのか、十六時を過ぎたあたりから段々とやる事が少なくなってきた。内装にこだわる道具担当が細かいところの手直しを始めたり接客担当がよりそれらしい雰囲気を作るための演技の確認を始めたりと各々調整の段階に入っていた。


 全体でやらなきゃいけない作業はもうなさそうだ。

 時間も時間になって部活動で出し物がある人達はそちらの準備に行ってもいいという許可が下りた。


 というわけで、僕と漆茨さんも教室を抜け出してオカ研の部室……というより活動している教室へと向かった。場所は初めて活動について話したあの小教室だ。


 久しぶりに入ると様子が少し変わっていた。

 机が四つしかないのはそのままながら隅の方に積み上がっていた段ボールはなくなり、代わりに壁寄せスタンドに取り付けられた小さいモニターが置かれている。


 オカ研の活動のためにこの準備をしてくれたのかと思ったけど、部活でもない二人の活動に学校がお金をかけることはないだろうから、たまたま他の用途があって導入されただけなんだろう。

 漆茨さんは机に鞄を置いて中からパソコンと原稿用紙を取りだした。


「ごめんね、本当はもっと早く原稿と資料完成させたかったんだけど、なかなか上手くまとめられなくて今日になっちゃった」


「全部作らせちゃったのは僕の方だから漆茨さんが謝る必要なんてないよ」


「そんなことないよ。手伝ってもらうのは私だし」


 言いながらパソコンとモニターを繋いだ漆茨さんは僕の隣に座って画面を映し出した。

 肩が触れそうな程近くて身体が熱くなる。

 そういえば元々距離感がおかしかったな。

 気にしない様にモニターに目を向ける。


 パワポの表紙で『木ヶ暮市に伝わる都市伝説』と表示されている。これが明日、僕らが学校のホールで行う研究発表のテーマらしい。


「深青里君には私が原稿を読むのに合わせてスライドを進めてもらうから、今から合わせていこっか」


「う、うん……」


「……どうかした?」


「いや、気にしなくていいよ」


 そう返したものの、漆茨さんは疑うようにじーっと見つめてきた。


「今日の深青里君、よくボーッとしてるね。クラスの準備で疲れちゃったかな?」


「……もしかしたらそうかも」


 距離感以上に、相手がオタクの漆茨さんだという意識があるるせいで落ち着かない。

 でも理想通りに変われた漆茨さんに対してそんな事は言えない。


「辛かったらすぐ言うんだよ? 休みながらやるから」


「そうさせてもらうよ」


「じゃあ、読んでいくから何かおかしかったらすぐ教えてね」



「分かった」


 彼女の心配をくすぐったく感じていると、漆茨さんは一呼吸おいて手元の原稿を読み始めた。

 最初は調べられた内容に感心しながら聞いていたけど、段々と様子がおかしくなった。


「ちょっとストップ」


「市内に流れる川のうち命と引き換えに金銀財宝をもたらすとされている川と言えば……えっと、どうかした?」


 漆茨さんが顔を上げた。


「なんか読むの早くなってるよ」


「えっ、本当?」


「うん」


 落ち着いた語り口で話し始めたものの徐々に早くなって、二分ほど経った辺りからあの聞き覚えのある早口になっていた。


「うー、どうしてもなっちゃうんだよね……」


 漆茨さんは苦々しい顔で頬杖を突いた。

 早口になった自覚はなかったのか。


「緊張しているのかな?」


「それ以上に話していて楽しくなってきちゃうからかな」


「えっ……」


「そんな顔しないでよ。私の事知ってるんだから意外でも何でもないでしょ?」


「確かに、そっか……」


 言われてようやく、この漆茨さんはあのオタクの漆茨さんで間違いないんだと思えた。

 雰囲気も振る舞いも変わってしまったけど、普段はオカルトを封印しているから問題なくクラスに溶け込めているだけで根っこの部分は変わっていなかったのだ。

 それが分かるとなんだか面白くなってきてつい笑ってしまった。


「な、なんで笑うの?」


「なんか漆茨さんらしくていいなって思ってさ」


「……そんなオタクっぽいのが私らしいって言いたいの?」


 漆茨さんが赤く頬を染めて睨んできた。


「ご、ごめん……」


「デュフッ」


 焦りながらの謝罪と聞き覚えのある笑い声が重なった。


「デュフッ、フフフ。そうだよね。段々普通に喋れるようになってきたけど、全然慣れないし落ち着かない……のだよ、この喋り方は! あー! 全く、普通のJKとは難しいものだな!」


「ぶふっ、あはは」


 突然の笑顔で放たれたオタク口調に僕もつられてまた吹き出してしまった。


「変わろうとしている漆茨さんには悪いかもしれないけど、やっぱこっちの方が漆茨さんらしいね」


「デュフフ、私もこっちの方がしっくりきてならないと思っていたのだよ! 協力してくれている深青里氏に悪いと思って言えていなかったけどな!」


「そうだったんだ」


「そうだったのだ!」


「……ぶふっ!」


「……デュフッ!」


 顔を合わせるともっとおかしくなってくる。

 にらめっこみたいな見つめ合いはすぐに耐えられなくなり奇妙な声を上げる漆茨さんと笑い合った。


 お腹も痛くなるくらいひとしきり笑いあうと、漆茨さんは目の端をこすりながら「むぅ」と呻いた。


「でも、明日もこんな調子でいくわけにはいかないのだよね。ただ、深青里氏との練習のおかげで普段はなんとかなってきたのだが、都市伝説やオカルトの話になると途端にいつもの私が出てしまう癖は直らずにきてしまったな……。一体どうすればいいのだ?」


「そう、だね……」


 眉をハの字に寄せて見つめられた。

 と言われてもすぐに解決方法は思い浮かばない。

 簡単に思い付いていたら今困っていないか。


「とにかくもう少し練習してみよう。読んで慣れるしかないんだと思う」


「うーむ、それもそうだな……」


 そう息を吐いてもう一度原稿を読み始めた漆茨さんだったけど、やっぱりすぐに早くなって止めた。それから何回やっても二分経つ頃にはオタク節が炸裂してしまう。


「……一度、内容は気にせず書かれている文字を読む事だけに集中してみるのはどうかな?」


「というと?」


「ほら、話の内容が楽しくてどんどん早くなっちゃうなら、書かれていることの意味は頭に入れないようにして、文字だけを追いながら読めばそうはならないんじゃないかなって」


 話に集中し始めると途端にオタクモードに入ってしまうのなら、話そのものではなくて読む方に集中すれば上手くいくんじゃないかと思った。


 英語や国語の授業中に教科書を読む時みたいに、間違えないよう読む事のみに意識を向ければあまり内容は頭に入ってこないはずだ。


「なるほど、やってみるか!」


 納得したように手を叩いた漆茨さんはまた最初から原稿を読み始めた。

 すると今度は思ったより上手くいっているのか、早口にはならなくなった。少し早くなりかけることはあってもすぐにまた元の速さに戻ることができている。

 落ち着いた口調で淡々と文章は進んでいく。僕もそれに合わせてパワポのスライドを進めていく。


 これならきっと最後までなんとかなりそうだ。

 意識の向け方を変えるだけですぐにできてしまうなんてこの漆茨さんは相当器用なんだろう。通りでたった四ヶ月でクラスに溶け込めるまでになっていたわけだ。


 でもなんだろう。

 聞いていて、見ていて全く面白くない。

 隣にいる漆茨さんは原稿に目を落として口を動かしているだけで少し機械的に見えた。授業中みたいに終わりが来るまで読み続けていく。


 このままじゃいけない気がする。

 そう思うとパソコンを操作する手が止まっていた。


「この図を見ていただくと分かると思いますが……あれっ、深青里君? スライド、止まってるけどどうかした?」


「……ごめん、これは違う気がして」


「違うって何が? あっ、もしかしてまた早くなっちゃってた?」


「そういうわけじゃないんだけど、漆茨さん、つまらなさそうだから」


「それは……そうだけど、仕方ないって。私がうまく出来ないせいなんだから」


 間違えずに適切な速さで読むことは放送部とかには求められるかもしれないけど、これはオカルト研究会であって部活ですらない。自分たちが楽しくてやっている事だ。

 なのに、楽しそうじゃないならやっている意味はないんじゃないか。


「……明日はあえて自然に、早口で喋っちゃいけないのかな?」


「えっ?」


 教室での様子を見るに、おそらく日常生活の中ではもうほとんど問題なさそうだった。

 だから素のオタクモードになるのがオカルトや都市伝説の話をする時だけならそんなに気にしすぎる必要はないんじゃないかと僕は思う。


 もちろん漆茨さんがオカルト話をする時も含めて普通に話したいのなら話は別だけど、本人は早口になる時の方がしっくりくると言っていた。

 それならオカ研の活動中くらいは無理して普通らしくしている必要なんてない気がする。


「早口になってもパワポがあるから話にはついていけるだろうし、なによりそっちの方が漆茨さん、生き生きしていて楽しそうだから聞いている方も楽しいと思う」


「深青里君……」


「つまらないのが一番ダメだと思うんだ。話している漆茨さんも、明日聞いてくれる人にもどっちに対しても良い事なんてないんじゃないかって」


「そう、かな」


 漆茨さんが不安そうに見つめてきた。


「でも明日そんな事をしたら、私は何も変われていないんだって知られちゃう。そうなったら深青里君のおかげで普通っぽくなってきたのに、今までのことが無駄になっちゃいそうで怖いよ」


「そんなことないよ。きっと無駄になんかならない」


「本当?」


「……ごめん、絶対とは限らない」


「そ、うだよね、あはは……」


 漆茨さんは眉根を寄せて苦笑いした。

 どうなるか分からない事を軽々しく大丈夫なんていう度胸はないし無責任でいたくない。


 かといって大丈夫だと言える根拠が全くないわけでもなかった。

 僕は漆茨さんを見つめて言う。


「でも、好きな事をやる時とか極端に集中している時って誰だって変わるものだと思うんだ。気分が高揚するし楽しんでいるんだから。それに音楽家やスポーツ選手も演奏中や競技中はガラッと印象が変わる人もいるって聞くし、きっとそういうものなんだよ」


 むしろ常に何をやる時もどんな時もずっと変わらない人の方が異常だ。それこそ無表情の漆茨さんの様に超常現象に悩まされているでもない限りは。


 その漆茨さんだって、表情こそ変わらないもののなんとなく嬉しそうな時はあるし恥ずかしそうな時も悲しそうな時もある。


 もしも本当の意味で一切変わる事のない人がいるのだとすれば、その人にはきっと心がない。表現する以前に感情そのものがなくなってしまっている。

 けど感情表現が出来ない漆茨さんにもオタクの漆茨さんにも心はあるし感情は動いている。


 だったら好きな事をやる時くらい、オカルトや都市伝説について話す時くらい、感情を爆発させて早口になったっていいはずだ。


「そう、かも。うん、言われてみればそんな気がしてきた」


 噛み締めるように呟いた漆茨さんは小さく口の端で笑みを作って見つめ返してきた。


「でも、もし他の人から見放されちゃったら、それでも深青里君は今までと同じように私といてくれる?」


「うん、もちろんだよ。僕は漆茨さんの事をよく知っているはずだから」


 これまで漆茨さんと一緒にいて支えてきた僕ならこれからも変わらずそうしてくれるはずだ。だから断言できる。


「そっか、そうだよね。なら心配する必要なんてないか。ありがとう、これからもよろしくね深青里君」


 はにかんだ漆茨さんの表情は愛らしくて眩しかった。

 でもなぜだか違和感というか忌避感というか、そういうものが僕の胸を掠めていった。わずかについたかすり傷からじわりと何かが僕の中に広がっていく。

 なんなんだろう、この気持ちは。


「ならば深青里氏! 一度何も考えず話してみるから聞いてくれないか!」


 考える前にかけられた漆茨さんの嬉々とした声で嫌な感覚は紛れた。

 頷き返すと漆茨さんは最初から全開のマシンガントークを繰り出してきた。

 懐かしさと安堵、そしてパワポがあるおかげで今日のマシンガンの弾は面白いくらいに僕に当たってくる。


 漆茨さんの口から流れていく木ヶ暮市に伝わる都市伝説の数々は僕は一つも聞いた事がなかったし信憑性があるとも思えなかったけど、楽しそうな漆茨さんを見ていたら真実だろうと作り話だろうとどっちでもいいと思える。

 その早口に合わせて僕もスライドを進めていく。

 原稿もいよいよ残りわずか、最後の項目になった時だった。


「最後に木ヶ暮山における平行世界の伝説を語っていくのだ!」


「へっ……?」


 僕の意識は強く惹き付けられた。

 動揺する僕に気付かないまま漆茨さんは言葉をばらまき、その全てを僕の耳は拾っていく。


「かつて、まだ周辺が村で構成されていた頃の木ヶ暮山ではよく人がいなくなっていたのだ。大人の場合もあったそうだが、特に子供の失踪が相次いで発生してな、そのほとんどは行方不明のままだったらしい。まるで神隠しにでもあったかのように次から次へと子供が消えていったことからこの山は子供が隠れる山、すなわち『子隠れ山』と言われ恐れるようになったのだ! その名称、漢字が変更されて今の木ヶ暮山になるわけだな!」


「…………」


 背筋を冷たいものが駆け上がって凍り付く。

 名前に不吉な印象を与えるものであったり再開発される事で市や町の名前が変更される事があると聞いた事がある。けど木ヶ暮市もそうだったとは知らなかった。

 そして名称の元になった子隠れという現象について心当たりがある。


「子供の失踪は神の怒りが引き起こしているのだと考えた人々はそれを沈めるために山中に神社を建てて祈るようになった。それが現在の木ヶ暮神社であり、子隠れ神社である! 故に木ヶ暮神社は特定の神を祀るために作られたのではなく、神がいると仮定してその怒りを鎮めてもらうために儀式的に建てられた神社と言っていい! とはいえ、あまり効果はなかったみたいだがな!」


 その神社へと登っている間に小さい頃の僕と漆茨さんは迷子になった。

 もしかしたら僕らはあのまま神隠しに遭っていたかもしれないということなのだろうか。


 いや、本当は一度神隠しに遭って、何らかの力を押しつけられて解放されたのだとしたら。


「しかしある時失踪していたと思われていた子供の一人が戻ってきて妙な事を口にしたのだ! 曰く、自分は三本が寄り合うようにして立っていた木の前の光る祠に吸い込まれていた。そこはどこを見ても真っ白な世界で、キラキラ光る巨大な岩といくつもの木の扉だけがあった。試しに木の扉の一つをくぐったら似ているようで違う世界にたどり着いた。今までその世界で生活していたけどなんとか戻って来れた。ということだ!」



「はっ?」

 開いた口がふさがらない。

 流れ込んでくる情報が脳を揺さぶって、奥底に仕舞い込まれた記憶を刺激してくる。


 その衝撃に頭がガンガンしてくる。

 白い世界、巨大な光る岩、木の扉。

 それは僕が時々見る夢の話じゃないのか。

 なんでそれが都市伝説になっているんだ。


 いや違う、逆だ。

 一度目は夢なんかじゃなかったんだ。

 実際に迷子になった時に、僕はその世界に入った。

 でもあまりにも現実離れしすぎていて僕はそれを夢だと思っていた。そしてその時の記憶が時折夢に出てきて、完全に夢での出来事に過ぎないと思い込んでしまっていたんだ。


 ということはあの世界は木ヶ暮山の中に存在しているのか。

 そしてその入り口は祠。

 三本寄り合った木の前にある、祠……。

 脳の中で暴れ続ける情報の波が記憶を覆っている歳月を取り払っていく。

 そうだ、確かにあった。森の中で僕は絡み合った大きな木を見た。


 そのすぐ近くで木製の観音開きの扉が付いた祠を確かに見た。

 その扉は確か開いていた。開いていたから中の鏡が光っているのが見えた。

 僕はその光に吸い込まれて……?


「察するにだが彼が迷い込んだ祠の中に広がる白い世界は全ての平行世界を繋いでいる中継地点で、そこにあった木の扉こそが別の世界にある他の祠と繋がる扉だったのだろうな! 巨大な岩に関しては、白い世界が祠の中だったのならまず御神体で間違いない! 木ヶ暮神社そのものに神はいなくとも、あの山には確かに神がいたんだ! もっとも、何を司る神なのかは調べても分からなかったのだがね!」


 あの白い世界を介して、僕は別の世界移動するようになったって事なのか?

 でも、じゃあ漆茨さんは? 漆茨さんはなんで感情表現ができなくなったんだ?

 待て、そういえばあの時、あの世界には僕以外に女の子がいた。

 その子は、つまり。


「ここからは私の妄想だが最初は白い世界の中には木の扉はなかったんじゃないかと私は思っているのだよ。ただ、祠の中に迷い込んだ子供達の帰りたい、という願いをそこにいた神は平行世界に帰す、という歪んだ形で叶え、その出口として扉を作った。それを迷い込んだ子供の数だけ続けた結果、いくつもの扉が生まれてしまったのだと思う! 神は気まぐれに、過度に、あるいは歪んだ形で願いを叶えてしまうものなのだからな! ただそこには必ずしも悪意があるわけじゃない。神と人とじゃ基準が違うせいだ! もちろん場合によっては悪意で行う場合もあるのだがね」


「…………」


 そしてとうとう、ズルリという吐き気を伴う音とともにそこにあった記憶が全て蘇った。


「漆茨さん……」


 引きずり出された記憶がそう告げていた。


「ん? どうした、深青里氏?」


「漆茨さんだったんだ……」


「んんん? 私がいきなりどうしたのだ? というか深青里氏こそどうしたんだ!? 全然スライドが切り替わってないじゃないか!」


 あの時の女の子の顔が、目の前にいる漆茨さんと重なっている。

 いや違う、目の前にいる漆茨さんじゃない。

 今まで会ってきたどの漆茨さんとも似ているし、違っても見える。

 無表情の漆茨さんが、あの時一緒にいた女の子だったんだから。


 そして僕はあの時になんて彼女に言っただろう。

 あの時彼女に何を言われただろう。


「まさか……」


 神は気まぐれに、過度に、あるいは歪んだ形で願いを叶えてしまう。

 その言葉が心臓を握りつぶそうとしてくる。


 僕は迷子になって泣いている漆茨さんに、戦隊ヒーローの真似をして辛い事は笑顔で塗り潰せると言った。辛くなったらまた来ると言った。

 漆茨さんは僕に辛い事があっても笑うと言った。

 お互いに、そう約束した。

 約束してしまった。


 それを神が聞き届けてしまっていたとしたら。

 僕らの願いと受け取って歪んだ形で叶えてしまっていたとしたら。

 僕は他の世界にいる漆茨さんが辛いと思う度に、その彼女の元に駆けつけるようにその世界に跳ばされるようになった。


 そして色んな世界にいる漆茨さんの悲しい顔は笑顔で、笑顔は悲しい顔で塗り潰し合い相殺されて、元の世界の漆茨さんの顔に重ね合わされている。そのせいで悲しさや辛さの表情が塗り潰されるのと引き換えに、彼女の意志で感情を表現する事が出来なくなってしまった。


 だから僕の世界移動と漆茨さんの無表情は繋がっていたんだ。

 そしてつまり、それは、こんな理不尽と思える今があるのは。


「僕のせいだったんだ……」


 吐き気がこみ上げてくる。胸と頭が痛い。黒板を引っ掻いたような幻聴が止まらない。

 呼吸が荒くなって苦しい。酸素が上手く吸えていない。

 最初から全て、僕が軽々しく口にした事から始まっていたんだ。

 格好つけて余計な事を言ったからこんなことになってしまったんだ。


 漆茨さんが苦しんできたのも、僕が世界移動をして勝手に傷付いたのも全部全部僕のせいだったんだ。

 僕が漆茨さんをずっと苦しませてきたんだ。

 僕が、この僕が。


「だ、大丈夫、深青里君? とっても顔青いよ?」


「あ、あぁ……」


「とりあえず保健室行く? 立てそう?」


 漆茨さんが心配そうに顔を覗き込んできた。


「漆茨さん……」


 僕はその両肩を掴んだ。


「もし神に祈ってしまって、その願いが歪んだ形で叶えられたとしたら、それを取り消す事はできるのかな?」


「えっ? ど、どうしたのいきなり? この手の話に興味を持ってくれるのは嬉しいけど、それより今は深青里君の体調の方が」


「大切な事なんだ」


「そうなの……?」


 困ったように漆茨さんは眉間にしわを寄せて言うのを躊躇うように見つめ返してきた。

 その目を見続けていると、とうとう観念したように戸惑いがちに口を開いた。


「申し訳ないけど私はあまり神話には造詣が深くないから確かな事は言えないんだ。だから妄想になっちゃうけど、神は酒が好きだから、酒を献上して頭を下げればもしかしたら一度してしまった願いを取り消す事が出来るかもしれない、かな。もう神の奇跡がなくても平気だって、祈りは自分の力で叶えるって、そう素直に誤解されないくらい強く自分自身で伝えるしかないと思う」


「…………」


 ということはもう一度あの祠に行く事ができれば全て元に戻せるかもしれない。漆茨さんの苦しみを本当の意味で取り払う事が出来るかもしれない。

 いや、そうじゃないだろう。

 やらなきゃいけないんだ。

 自分で始めたこの理不尽を、僕は自分の手で終わらせなきゃいけないんだ。


「……ありがとう、漆茨さん。おかげで楽になった。ごめんね、途中で止めちゃって」


「そ、そう? まだ顔青いけど保健室に行かなくていい?」


「うん。それよりもう一度読み直そう、凄くいい感じだったから」


「わ、分かった……。けど少し休んでからにしよっか。私も喉渇いちゃって」


 漆茨さんはどこか不安げに僕の顔を覗いながらそう言った。

 僕は努めて笑いながら頷き返して背もたれに体重を預けた。

 そうしていないと膨れ上がっていく罪悪感と負い目に押し潰されて座っていられそうになかった。




 それから何度も読み合わせを繰り返していく度に落ち着いていき、それにつれて顔色も戻ったのだろう、漆茨さんも僕への心配を薄れさせていった。

 爆発的に膨れ上がって身を焼いた罪悪感も沈下され、今は腹の底の方に溜まって心と身体を蝕んでいる。


 その激動があった反動なのか、今は感情の振れが最小限に抑え込まれて頭がクリアになっていた。澄み渡った頭の中で、純粋な自責の念だけが繰り返されていく。

 それでもすぐ隣で繰り広げられる早口マシンガントークに合わせながらパワポのスライドを進める作業は問題なく行えた。

 何回目かの木ヶ暮市に伝わる都市伝説を語り終えて、漆茨さんは息を吐いた。


「どうだった?」


「……凄く良くなったと思うよ。やっぱり素のまま喋った方が漆茨さんはいいね」


「そ、そう? あはは、ありがとう。深青里君のおかげだよ」


 嬉しそうな笑顔に合わせて僕も笑って「こちらこそありがとう」そう口にした。

 感謝の言葉はやけに虚しく感じた。

 なんでこんな僕が感謝されているんだろうか。問いが頭の中を跳ね回る。


「これなら明日は大丈夫そう! 安心して頑張れるよ!」


「それはよかった。頑張ってね」


「もう、深青里君にも手伝ってもらうんだけど?」


 隣に座る漆茨さんは頬を膨らませて見上げてきた。

 でもすぐにその息を解放して、口元をほころばせた。


「でも、本当に良かった。心の底からそう思うんだ」


「何が?」


 聞いた僕の腕に温かい感触が絡みついた。

 驚いて見ると漆茨さんは僕の腕を抱きしめてもたれかかってきた。


「深青里君を好きになって。深青里君に好きになってもらえて。おかげでこんな時間を過ごせているんだもん。ちょっと前まで考えられなかったよ」


「…………」


 腕に感じていた温かさが消失して背筋を凍り付かせる不快感に変わった。

 腹の底で静かにしていた罪悪感が再び震え出した。鼓動に合わせて全身を這い回り全身が切り刻まれていく。


 頭に満ちた純度の高い罪悪感はすぐに答えを教えてくれた。


 そうか、読み合わせの途中で生まれた違和感と忌避感はそういうことだったんだ。

 この漆茨さんの言葉と気持ちは僕に向けられたものじゃないからなんだ。


 深青里柊一郎へ向けられたものだけど、それは僕じゃなくて本来この世界にいる僕が、この世界で四ヶ月間、漆茨さんに寄添って支えて気持ちを通わせたこの世界の僕こそが伝えられるべき想いだ。


 なのにこの漆茨さんはそれを彼じゃなくて僕に言ってしまった。

 好きな人と似て非なる僕に、よりにもよってこんな状況を作った僕に言ってしまったから苦しいんだ。


 こんなの、あっちゃいけない。この子は今の僕に言っちゃいけなかったし、僕は聞いちゃいけなかった。

 無表情の漆茨さんにも、この世界の漆茨さんにも、そしてこの世界の僕にも、その全員に失礼な誰も救われない最悪の行為だ。


 なのに僕が世界を移動してしまったから。移動した先の世界で色んな漆茨さんと話して関係を持ってしまったから。

 だからこんな風に間違って僕に大切な気持ちと言葉が送られてしまうんだ。


 僕が移動しなければ起こらなかったのに。移動しても話をしなければその世界にいる僕は漆茨さん達と仲良くならずに終わっていたはずなのに。あの日、僕が変な約束を取り付けさえしなければこんなことにはならなかったのに。


 純度を増した自責の念が頭の中を満たして心にこぼれ落ちていく。

 すぐに満たされた心はそれでもまだ足りないみたいに痛みを欲する。

 罰を渇望して五感で感じるもの全てを苦痛に変えようとしている。


「どうしたの、固まっちゃって? やっぱり体調悪いんじゃないの?」


 至近距離から向けられる漆茨さんの心配が罪悪感と結びついて心を締め上げる。

 でもまだ足りない。こんなんじゃダメだ。


「ううん、そうじゃないよ。いきなり嬉しい事言われたから驚いちゃって」


 どの口でこんなこと言っているんだ。僕に向けられた訳じゃない気持ちに、僕は誰のつもりになって応えているんだ。


 紡ぎ出される空虚な言葉の一音一音が胸を突き刺してくる。

 出来た穴から体温が抜けていく。心が冷えきっていく。

 不意にこぼれそうになった涙を僕は唇を噛んで堪えた。

 泣く権利なんて僕にはない。


 本当は泣きたいはずなのに、泣けないのは漆茨さんなんだから。

 そういう風にしてしまったのが僕なんだから。


「あはは、深青里君って結構照れ屋だもんね」


「そうかも」


 笑いかけると漆茨さんは安心したように笑って僕に寄添ってきた。

 温かく柔らかい感覚が、冷たく鋭い痛みとして僕に届く。

 僕はこの腕を振り解きたかった。今すぐにでも振り解いて突き飛ばして逃げたかった。


 でもこれは罰だ。僕が負うべき痛みと苦しみだ。

 決して笑顔なんかじゃ塗り潰せない、拭い切れちゃいけない悲傷だ。

 噛み締めて、僕は身体を触れさせて微笑む漆茨さんに笑顔を向ける。


 きっとこの世界の漆茨さんは悩みは晴れた。彼女を蝕んでいたであろう自意識のギャップはあるべきギャップとして受け入れる事で乗り越えられる。


 だから僕は明日の朝起きたら元の世界に戻っているはずだ。

 でもそこに戻れた僕はどんな顔をして無表情の彼女と会えばいいのだろう。

 どんな気持ちで漆茨さんと向き合えばいいんだろう。




   *  *  *




 それは夢じゃなかった。


 木ヶ暮山に登っている時、茂みの奥の方から「助けて」と呼ぶ女の子の声が聞えたような気がしたから、僕は森の中に踏み入ったんだった。


 怖かったけど気のせいかもしれない声を頼りに僕は草木をかき分けながら進んで、そして獣道にたどり着いた。すると女の子の声はハッキリ聞えるようになった。どうやら泣いているみたいだったから、一層強く行かなきゃいけないと思った。


 戦隊のレッドだったら絶対に助けに行くから僕もそうしたかったんだ。

 きっとそういうヒーローに憧れていた。小さい男の子なら誰もが抱くようなヒーロー願望が同じように僕にもあって、あの頃はまだそうなれたらいいと思えていたはずだ。


 だから僕は細くて肌寒く感じる獣道を進んだ。泣き声に引き寄せられるように突き進んだ。

 やがて開けた場所に出ると、三本の木が絡み合って出来たような大木が目の前に現れた。


 そしてその正面に祠があった。

 観音開きの木の扉がつけられた祠だった。

 手入れが全くされていないのか、片方の扉は中途半端に開いたまま外れかかっていて、紙垂のついた注連縄は片側が外れている。 


 そんな状態の祠でも得体の知れない荘厳さがあった。扉の中から漏れ出ている光のせいかもしれない。

 さらに不思議な事に女の子の泣き声は祠の中から聞えてきていた。

 歩み寄って中を覗いてみると、祠の中には一つのゴツゴツ尖った石と鏡があって、鏡の方は新品みたいに綺麗で光り輝いていた。


 その光に吸い寄せられるように僕は鏡に手を伸ばしていた。

 そして指先が鏡に触れた瞬間、光に包まれたかと思ったら白い世界に入り込んでいた。


 そこで僕は女の子と、漆茨さんと出会って言葉と約束を交わした。

 そのせいで漆茨さんは無表情になって、僕は他の世界にいる漆茨さんの元に駆けつけなきゃいけなくなった。


 そんな事も知らずに、僕らは祠の外に出て獣道をたどって元の場所へと戻っていった。

 それが現実で、僕らの全てだった。

 僕が引き起こした、最悪の結果だった。




   *  *  *




「おはよう深青里君」


「おはよう、漆茨さん」


 学園祭当日、朝起きると案の定僕は元の世界に戻っていた。

 そして電車に乗るといつも通り無表情の漆茨さんがいて、挨拶を交わした。

 それが堪らなく苦痛に感じた。


「今日、楽しみ」


 僕が作った無表情が僕の方を向いた。

 本当は笑っているはずなのに。


「……うん」


 巣くった罪悪感が疼いて返事が遅れた。

 そのせいか漆茨さんが顔を覗き込まれた。


「深青里君、どうかした」


「……別に、なんでもないよ」


 その顔が見たくなくて僕は視線を逸らした。


「ほら、僕も今日が楽しみでさなかなか眠れなかったんだ。そのせいでちょっと眠いんだ」


「……そう。本当」


「うん、本当だよ」


「…………」


 納得いっていないのか、漆茨さんはジーッと僕を見たまま動かない。

 誤魔化したくて僕は無理矢理笑って聞いた。


「そういえば、漆茨さんは木ヶ暮山の祠について何か知っている?」


「えっ……祠。本殿にあるの」


「うん、祠。どこにあるのかは分からないんだけど、山の中にはあるみたいなんだ」


「……どうしていきなりそんなこと」


「昨日、なかなか眠れなかったからネットの記事を読んでいたんだけど、そこでたまたま見つけたんだ。木ヶ暮山に秘密の祠があるんだって」


「そう。悪いけど私は知らない」


 漆茨さんは覚えていないのか。

 もし場所が分かるなら話が早かったけど流石にそんなに上手くはいかないらしい。

 あの祠は僕が自分で地道に探すしかない。


「そっか。ごめんねいきなり変な事聞いて」


「えぇ、私は構わないけど……」


 漆茨さんは僕を見たまま言葉を濁した。

 訪れた沈黙は痛かった。


 彼女の無表情も言葉を交わせない事も、交わせる事も、漆茨さんといる以上はどうあっても僕の心は苦しむんだと思う。


 でも、だから僕は痛くても笑う。

 これ以上漆茨さんを傷つけないために。


「今日、楽しみだね」


 これくらいは言わなきゃいけない。




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