第10話 エピローグ

女性を好きになると「愛してる」と言うが、それは本当だろうか?

当然、本質的に愛と恋は違う。共通している所は、相手を好きだと言う気持ち。

でも、この気持ちが大きな誤解の第一歩だと言う事に、僕は気付いた。

人を好きになる。最初は恋だと思う。好きで好きで堪らなく、抱きしめて、キスして、肌を合わせる。どれだけ、肌を重ねてもそれは恋だ。

 ならば愛は、時に相手に嫌われようと本当に事を伝える勇気や、相手を想うが故の行動や無償で何かを与えるのが愛だと思う。

 端的に言うと、恋は相手から何かを奪う、愛は相手に何かを与える。

似て非なるもの。しかし、相手が好きという時点で勘違いが起きる。

 日本人は「愛している」と言う言葉をあまり言わない。だから僕は意識して「愛してる」と言って来た。

 しかし、「愛」はそんなに乱発して使うべき言葉ではないと最近知った。

僕の勘違いは特に酷く、全く解って居なかった。

 僕が愛していると思って居たのは、実は恋で、相手から何かを奪い続け、不幸にして来た。どれだけ恋しても、恋しても、何も与えられない僕はまるで悪魔のようで、自分だけ満足し、相手から奪った何かで、どんどん太って行くが、肝心の心が成長できずに、必ずと言って良い程、最後は破綻して来た。

 こんな不毛な事を、何年も、何十年も続けてきた結果、自分すら愛せなくなっていた。「自愛」ってどうするの?この年になっても、上手く行かないことが有ると嫌になり、死にたくなる。自分を大切にするって、自分勝手とどう違うの?と解らない。

 与える事の素晴らしさ、与えることの喜びを知らない。それどころか、何かをしてあげると言う考え方は、上から目線で好きになれない。

 良く子供が可愛くて、我が子を溺愛すると言うが、それも本当は、子供から何かを奪っているのでは、ないだろうか?

子供を心配してとか言うが、子供を追い込んで居ないだろうか?

 

 僕のようなダメ人間は、近々来ると言われている大地震で起きた津波に、真っ先に巻き込まれて死ぬのだろう。政府の調査によると36万人位の犠牲者が出る試算が出ているらしい。東北の震災の時の津波で無くなった犠牲者の数が2万人弱だったことを考えたら、その被害の大きさが解るが、想像を絶する事になると思う。

 そんな大自然の淘汰が、遅くても数年以内に起こるらしい。

万が一にも、僕が生き延びてしまったとき、僕は、誰かに何かを、してあげる事が出来るのだろか。

 人に恋する以前に、人を思い愛する以前に、人は生きている。生かされている。

そんな中で、僕は生きている意味があるのだろうか、生きている価値があるのだろうか?と思う。

「生きてるだけで良い」と言う考え方もあるが、世の中の人の為になれないような僕は、生きているだけでは、いけないように感じる。

 もし、その時が来て、命があるなら全てをささげる覚悟で、何かをしようと思う。

僕の人生は、放っておいてもあと10年か20年かそれほど多くは残って居ないと思うが、残された時間の中で、出来る限り精一杯、誰かの役に立とうと思って居る。

それが僕が今迄して来た事に対する、贖罪となるのだと思う。

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