ムーンライト(Version-α)

うみべひろた

ムーンライト

 ドビュッシーの「月の光」。その最後の一音を弾き終えた瞬間、

 ばーん! と物凄い音を立てて扉が開いた。


「トリック・オア・とりーーぃと! 私は甘いものを求めています!」


 光あふれる月夜から突然現実に引き戻されて、心臓が跳ね上がる。


「篠塚さん、いつもだけど声大きいよ……せめて入る時くらいは静かにして」

 そう言った私に。

 やたらと大きく見える鞄の向こう、やはり篠塚さんの声は大きい。


「月がきれいですねっ!!」


「は?」

 一体なにごと。


「だから、月がきれいですねっ!!」


 いや、意味わかって言ってんのか君は。


「月なんて出てないじゃん、まだ4時だよ」

 ドビュッシーの世界から戻って見える空は青い。


「そんなん知ってますよ! そうじゃなくて!」

 篠塚さんは私に体当たりをする勢いで駆け寄ってくる。

「ドビュッシーですよ、演奏を邪魔しちゃ悪いかなって思って、ドアの向こうでこっそり聞いてました凄いですお菓子ください頭撫でてください」


 やっぱり分かってなかった。


「せめて10秒は余韻が欲しかったし、感想よりも要求のほうが多いのは何故」


 どうぞって私に頭を差し出してくるから、仕方なく頭を撫でる。


「んー。やっぱり雪乃先輩の手、すべすべしてて気持ちいー。私だけのものにしたーい。だから私の頭以外触らないでくださいね」

「うん。ピアノ奏者には無理な相談だね」

「無生物なら許します。生物ならば私だけ。これでどうだ」

 どうだって何だ。


 篠塚さんは目を閉じて、「んー。このまま寝たい」

「寝ないで。立ったまま寝たら大変なことになるから」

「先輩が支えてくれるから大丈夫です」

「私は楽譜より重いものを持たないようにしてるんだ」

「ピアノくらいは持てるようになるのが音楽部のたしなみですよ?」

「運動部でも世界を目指せるレベルだね」

「目標のメダルは金色ですよ」


 いつまで撫でてればいいんだこれ。


「ちがーう!」私の腕の中で突然叫ぶ篠塚さん。

 また心臓が跳ねる。


「せめて至近距離で喋る時は腹式呼吸やめようよ」

「ボーカリストから腹式呼吸を取ったら肺式呼吸しか残らないじゃないですか!」

「うん、多分ボーカリスト以外でも、誰でもそうだね」

「あと皮膚呼吸……じゃなーい! 話がそれまくりです!」

「私のせいみたいに言わないで」


「トリックオアトリート、先輩の手作りお菓子! 早くください!」

「何故、音楽部で手作りお菓子がもらえるなんて思ったの」

「美人の先輩は手作りお菓子! 部活の後輩には手作りお菓子! 可愛い子には手作りお菓子! どうだ」


「どうだって何……だいたい私はお菓子なんて作ったことないよ」

「そうなんですか?」

「5歳の頃から土日も放課後もずーっとピアノだし」


「なるほど、分かりました」むーっと頬を膨らませる篠塚さん。「先輩はトリートじゃなくてトリックをご所望なんですね」

「いや、必要ならコンビニで買って明日渡すから……」

「ハロウィン当日だから意味があるんですよ! イベントごとを大事にしないと彼女に怒られますよ! トリートミートゥデイ!」


 なぜ彼女、なんて口を挟める余地はない。


「私は先輩を大切に思ってるんですよ? だからこれどうぞ」

 持っていた鞄をごそごそやって、

 絶対に適当なところで買ってきた量産品のクッキー。


「何これ」

「知らないです? 森永のムーンライト。マリーとかチョイスよりおいしいですよ」

「いや、見れば分かるけど。ちょっとイオンで買ってきましたみたいなやつを何故」

「もらったんですよ」

「はぁ」

「クラスの男子からトリックオアトリートって。ハロウィンはそういうんじゃないでしょって、死ぬほどテンション下がって」

「同じことを私にやるんだ」

「違いますよ。その記憶を雪乃先輩が上書きしてくれたら嬉しいって思ったんです」


 一体どうしろと。

 答えに困る私を見て、篠塚さんはにっこりと笑う。

「トリートの内容、別にお菓子じゃなくてもいいですよ」


「そう? 何が欲しいの」

「先輩のピアノで歌いたい」

「そんなのいつもやってるでしょ」


「分かってないなぁ先輩」

 もう一度にっこりと笑って、「イベントは当日だから意味があるんですよ。彼女に怒られますよ?」




「月の光」って2作品ある。

 ドビュッシーのピアノ曲ともう一つ、ピアノとボーカルが奏でるフォーレの歌曲。

 篠塚さんはそれを歌いたいと言った。


 悲しげなピアノの旋律と透き通ったボーカルが絡み合う曲。

 月の光は悲しいだけでもない。透明なだけでもない。二つ重なってこそ美しい。


 お互いの目を見て、ゆっくり頷いて、ふぅ、と息を吐いて。

 この瞬間、いつも心臓がどきどきと高鳴る。


 ”――あなたの心の中はとびきりの景色”

 ”――魅力的な仮面とおしゃれな衣装が行き交う”


 確か150cm。こんなに小さな身体から、こんなに芯の通った美しいソプラノ。

 篠塚さんは月みたい。夜を切り裂いて宇宙を照らす光。


 ”――だが自らの幸せを信じることはない”

 ”――歌声は溶けていく。月の光の中へ”


 月がきれいですね。

 私もそう思う。


 私も溶けていく。こんなきれいな月だから。

 あなたと向き合ってピアノを弾きながら。


 ”――噴水は陶然とすすり泣く”

 ”――大理石のやさしく吹き上げる噴水は月の光の中で”


 ピアノとボーカル。

 本当に呼吸が合ったなら。

 二人でどこまでも行ける気がするんだ。そう。たった二人だけでだよ。

 月がきれいな夜だね。

 だからもっと明るくて暖かい場所。ずっと遠くへ。

 ふたりの考え、生命のリズムとピアノフォルテ、すべての呼吸の強さ深さ。

 向き合う。重なる。溶けていく。


 ピアノは夜。篠塚さんは光。


 余計なものだらけだった世界の中、

 ふたり、ぴったりくっついて。

 そして全部溶ける。


 それがあまりにも、

 暖かく、熱く、


 ”――私はすすり泣くみたいに”




「月がきれい」

 私の言葉に篠塚さんが笑う。

「まだ4時半ですよ。月はもう少し先です」

 したり顔で笑う篠塚さんに、手元のクッキーをぱたぱたと見せる。

「ムーンライト。まるで満月」


 そんなの。って篠塚さんは笑う。

「1枚10円とかですよ。それで満足しちゃうなんて、先輩はそんな安い女だったんですか」


 違うよ。って私は言う。

「あなたがくれたものだから。全部きれい」


「やっぱり安いですよ」

 だって私だもん。って。

 私の横まで歩いてくる。ゆっくりと。


「月がきれいだとしたら。きっと夜が溶かしてくれるから。月はそんなに強く輝けません」


 ねえ、先輩。

 篠塚さんは言った。


「気が変わりました。トリックオアトリート。お菓子をくれない先輩を、私はやっぱり許さない」




 篠塚さんの顔が近づく。

 その速度はアレグレット。ぼーっと見ていたら重なっているBPM96の鼓動。


 あぁ、これがキスなのか。


 だけど別に。

 演奏してた時のほうがよっぽど私たちは深くつながっていた。

 何だか今さらみたい。だけど。


 息が苦しくて唇を開くと、向こうも同じタイミングで開いた。

 私は夜。篠塚さんは光。


 ”——あなたの心の中はとびきりの景色”


 キスはほとんど音楽だよね。

 BPM120で跳ねる音符、

 二人の間のBフラットマイナー。


 あなたとふたりだから、

 そこに光が見える。

 

 二人でぎゅっと触れ合っている。他の誰にもさわれない。

 唇。鼻。頬。体温。

 心、感情、

 今まで生きた時間すべて。

 これから生きたい時間すべて。

 私はあなたの全部に触れている。


 夜の光はアレグレット。宇宙を駆けるにはひどくゆっくりで、どこか甘くて。


 ”――すすり泣く噴水の甘い湧き水は、

 月の光の中で”




「先輩のクッキー、半分ください」

 突然手を伸ばしてきた篠塚さんにムーンライトを半分奪われた。

 袋を破って、ぱきっと半分に割って。

「結局自分で食べるんだね……」

 篠塚さんに振り回されて息切れした私に。

「先輩、残りの半分食べてみてください」

 小さくぱくつきながら、にこにこと言ってくる。


 仕方なくかじりついた私に、篠塚さんは笑って言った。

「キスのほうが甘かったですね。先輩の勝ちー」


「ムーンライトに勝って嬉しいかな……」

 そんなことしか言えない私に、


「でも、ほら」

 篠塚さんは窓の外を指さした。

「月は、とてもきれいですねっ!」


 意味わかって言ってんのか君は。

 だけど私にはわかる。


「そうだね、とてもきれい」


 10月も終わり。

 もう明るくなっている月は、まだ半月にもなっていない。

 これからもっと大きくなる。

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ムーンライト(Version-α) うみべひろた @beable47

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