番外編 彼が生まれた日


 今朝、起きたらエアコンがつかなくなっていた。

 それだけじゃない。電気と、それから冷蔵庫。

 とっくに賞味期限の切れた牛乳から濃厚な発酵臭がする。


「おええ」


 男はそれらを処分することなく、冷蔵庫の扉を閉じた。

 不運なことに今日は朝から蒸し風呂のように暑く、全身の服がじっとりと身体に張り付いて気持ち悪い。

 風呂も何日か入っていないのでさすがに体臭がきつく、長く伸びた髪がベタついていた。


「めんどくせえ……」


 男は部屋着のままふらふらと外に出る。

 平日の午前九時だが、出歩いている人はほとんどいなかった。

 2021年、夏。

 新型コロナウイルス対策のための何度目かの緊急事態宣言で、みな家に引きこもっているのである。

 世の状況に対応するためにテレワークが導入された会社も多いと聞くが、フリーターとして居酒屋でアルバイトをしていた男にとっては無縁の話だった。

 地に堕ちた飲み会需要。客が少ないおかげで皿を洗う量が減って楽だなと思っていたのだが、つい先日店長にクビを言い渡されて今に至る。


 店長は決して悪い人ではなかった。男は何度か遅刻欠勤を繰り返したり、客や他の従業員とトラブルを起こしたりしていたが、それでもずっと店に置いてくれていた。

 だが、そんな店長が泣きながら男に頭を下げてきたのだ。どうしても店の経営が回らない、だから申し訳ないが辞めてほしい……と。ポケットマネーで退職金を用意してくれると言うので、ありがたく受け取って辞めることにした。これでしばらく働かずに生きていける。男にとっては願ってもない話であった。


 ネットカフェに入った男は、シャワーを浴びて個室ブースに入った。

 オンラインゲームを少しプレイするものの、ほとんどやり尽くしてしまっているので数十分で飽きてログアウト。それからYouTubeであてもなく動画を見ていると、とあるYouTuberのサムネイルが目を引いた。


〈コロナで得をした奴らがいる!? ぜんぶ実名公開します〉


 そのYouTuber曰く、連日メディアでは新型コロナウイルスの脅威や経済に与えた打撃を仰々しく報道しているが、その裏で利益を得ている組織や恩恵を受けた人物がいるという。マスクや消毒液を製造するメーカー、ワクチンを作る製薬会社。そのあたりはまあ動画を見る前から当然想像できていた。だが、YouTuberはそこから意外な内容へと矛先を変えていく。


『コロナによる不景気を口実に、従業員を解雇させて人件費を節約しようとしている経営者もいるんですよ。本当は前々から解雇したかったけど、平常時に言い出したら角が立つんでね、コロナっていう誰も文句の言えない絶好の機会を利用しているわけです』


 ……いつの間にか夜になっていた。

 そのYouTuberの上げている動画を次々と見てしまったからだ。

 決して編集や喋りの上手い配信者ではなかったが、そのチャンネル登録者はすでに一万人を超えておりそれなりにファンがついているようだった。

 男もそのうちの一人となった。

 そのYouTuberの名は、「バンデット⚔️シール」といった。


 シールは常に情報を欲していた。彼はマスメディアが報道しないような情報をリサーチして動画にすることをテーマとしていたからだ。新型コロナ騒動の裏の真実、人気芸能人の不祥事、有名配信者の裏の顔。男にはいくらでも時間があったので、ネットを駆使して情報をかき集め、彼に提供した。


〈いつもリサーチありがとう! 本当に助かる!〉


 ダイレクトメッセージで直接そう言われることが、男にとって何よりの喜びであった。

 徐々に信頼を得ていき、次の配信テーマについて事前に相談されるようなことも増えていった。

 それがますますモチベーションになり、男はシールのために必死に働いた。これまで給料をもらっていても一度も働く気が湧いたことなどなかったのに、無償でここまで頑張ろうと思えるなんて、自分でも何が起きているのか不思議でならなかった。


〈それは使命感だよ。真実に気づけるのは世の中のうちたったひと握りの選ばれた者だけなんだ。君はもう、気づけた側の人間なんだよ〉


 シールにそう言われ、すとんと腑に落ちた。

 そうか、今までの自分は、本来の自分があるべき場所を見つけられていなかっただけなのだ。だから何もかも上手くいかなかった。

 けれどそれは自分のせいではない。

 恩を売っているふりをして自分を不釣り合いな場所に閉じ込めていた、あの店長のせいだったのだ――




 「バンデット⚔️シール」の活動にのめり込んで一年。

 そろそろ貯金も尽きようかという頃、男にとって人生を変える出来事が起きた。

 シールによって裏情報を暴露された俳優が、名誉毀損で訴えてきたのだ。

 訴えられたのはシールだけではなく、シールに同調してSNS上で誹謗中傷を書き込んだ者たち、つまり男も含まれるという。

 この騒動はニュースにも取り上げられ、これまでにない数の批判がシールに殺到した。

 怯んだシールは……あろうことか、戦わずして謝罪をするという手段を選んだ。


 男は、それが許せなかった。


 自分たちは数少ない真実を知る者で、そうでないその他大勢と戦っているのではなかったのか。なのにどうして、法律なんていう多数派の言い分に従ってしまうのだ。今更犯罪者になるのが怖いって? あんたの覚悟はその程度だったのかよ、「バンデット⚔️シール」!


 シールの行動に憤ったのは男だけではなかった。

 「バンデット⚔️シール」の視聴者たちも、彼に失望していた。

 彼が蒔いた火種はすでに彼の手の届かないところまで燃え広がり、意思を持ったうねりとして息を吹き始めていたのだ。もはや、出来心の悪ふざけとしてなかったことにするのは不可能だった。


〈裁判で戦う!? 正気か!? いったいいくらかかると思ってる……!〉

〈問題ないです。カンパで金は集まったんで〉

〈なっ……〉

〈それから、オレらのことを批判してきた奴らに対しては名誉毀損でやり返してやるつもりです〉

〈ちょ、待って、マジで言ってる? そこまでやるの?〉

〈当たり前じゃないすか。オレらは何も間違ってないんだから〉


 間違っているのは、世の中の方だ。

 それを証明することが自分の使命。

 失うものなど何もないのだから、突き進むことに恐れはない。


〈でも俺は付き合わないぞ……謝罪動画だって上げた後だし……〉

〈じゃ、あんたのチャンネルください〉

〈は!?〉

〈じゃなきゃセフレのこと、本カノにバラしましょうか。困りますよね?〉

〈いつの間にそのことを……〉

〈全部あんたが始めたことですよ。勝手に終わりにしないで、ちゃんと責任取ってください。多摩川さん〉


 そののち、「バンデット⚔️シール」こと多摩川は活動終了動画をアップしたのち、別の人物にチャンネル運営を引き継いだ。


『どうも。今日からオレ、「バンデット⚔️シャーク」がこのチャンネルを運営します。早速ですが、シールさんが活動終了に追い込まれた本当の理由をお話しします……』


 男、鮫洲が引き継いでからというもの、容赦ない彼の過激なやり口はますます視聴者を惹きつけ、先代を超える勢いでチャンネル登録者数を増やしていった。

 そんな彼が数年後に都知事選に出馬することになるとは、この時はまだ誰も予想だにしていなかったが……。




〈番外編 彼が生まれた日・了〉


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東京都知事物語 乙島紅 @himawa_ri_e

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