私を攫って
……明るい……
ここはどこ?
そうだ、T君の車の中! 海に来たんだっけ。
……変な夢をいろいろ見てしまった気がする。
もぞもぞ動き出すと、隣から声がかかった。
「おはよう」
ちょっと髭が濃くなったT君が、普通に挨拶をしてきた。
「おはよ〜」
うん、これが現実。
寝癖はあっても服の乱れは一切ない。
二人の関係は1ミリも変わっていない。
車中泊はやっぱり窮屈で、体のあちこちが凝り固まっている。
私たちは車外に出て、軽く体を動かした。
大きく伸びをして深呼吸をすると、ほんのり塩分の混じった、爽やかな空気が胸いっぱいに広がった。
ウミネコがミュウミュウ鳴きながら、きらきらと揺れる波間を飛び交う。
清々しい朝である。
もし、一晩停まっていた車から若い男女が降りたのを見たならば、熱い夜的な……様々な想像をするかも知れない。が、悲しいかな私たちの間では何も起きてはいない。
一生に一度きりのチャンスを逃してしまったのかなぁ。
朝日が沁みる。
——友達以上、恋人未満。
これは「フルーツジュースの呪い」?
いいや、違う。
私が何も行動を起こさなかった結果なだけ、自業自得だ。
これを私が望んだのだから、沈んでいても仕方ない。
「朝ご飯、食べに行こっか、いい所あるかな」
気を取り直してT君に声をかけると、彼は気になっていたという店を3店舗ほど挙げてくれた。
私たちはその中から「アットホームな接客の美味しい店」と評判の食堂を選び、「海鮮丼」と「ウニいくら丼」いう贅沢な朝食をとった。
お店は当たりで、鮮度抜群のお刺身は絶品。
そして、一緒についてきたカニ出汁が効いた味噌汁が最高に美味しかった。
「流石、カニ。いい出汁出てる〜。煮干しとはひと味違う」
「葉ちゃん、出汁は煮干し派?」
「うん、お母さんがカルシウムも採れるからって、ずっと煮干しにしてて。背、伸びなかったから効果はなかったと思うけど、味は好きだから私も使ってる」
「うちは、鰹節と昆布派。一人暮らしじゃ昆布は高いから俺が使うのは鰹節だけだけとね」
T君の作る味噌汁か、どんな味がするのだろう。
優しい味がするのかな。
ああ、一緒にいると心がぽかぽかする。
この人の隣にいたら、穏やかに、幸せなれるんじゃないか。
うっすらと髭が伸びて、もっさり感が出た彼と、すっぴんで寝癖のついた私。
リラックスして、味噌汁の出汁について語り合う私たちは、そこそこ似合っているのではなかろうか。
そんな風に思うのだけれど、私の口から出るのは「好き」じゃなくて……
「いくら丼、ひと口頂戴」
だった。
***
◯年後のある日。
今ではすっかり笑い話になった、あの一夜。
何かしら用事を入れるためのお出掛けなら、単なる食事、つまりその辺でラーメンとかでも充分だったのに、どうしてわざわざ遠くの海まで行ったんだろう?
私は、長年の疑問を口にした。
「だって、あの時さ。葉ちゃん『私を攫って』って感じだったから」
彼は、相変わらずの狸顔でふふっと笑った。
✼••┈┈完┈┈••✼
私を攫って 碧月 葉 @momobeko
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