境を構えるということについて

 今日だけ特別に公開されている社の御神体は、一枚のうつくしい青銅鏡だった。アケから順にひとりずつ、三礼、三拍手。三度目の柏手で合わせた手のひらをそのままに、じっと、見る。水面みなものように磨き上げられたその鏡面きょうめんを見上げれば、映るのは神ではなく己の姿である。


 これといって特徴のない、すっきりした顔立ちの少年がこちらを見つめ返す。いつも通りの真一文字に結ばれた口元で、しかしどこか面白そうに目を細めて、アケの瞳を覗き込む。おやと思って目を丸くした、ような感覚が顔にはあったが、鏡の中の自分は楽しげなまなざしのまま、ほんのり口の端を上げている。


 こういう場合、心の中で挨拶なり願い事なり、何かしら神に語りかけるものだが、ぽかんとしたまま時間が経ってしまった。手を合わせたまま深く一礼して、次に順番を譲る。


 神域の内側は、今日から「境内けいだい」と呼ばれるようになる。森に囲まれた社に、一見して「内」と「外」を区別する明確な線引きはない。だが、少し感覚の鋭いものならば、どこからが境内なのか、境を跨いだ瞬間にわかる。曖昧な領域に境目を与え、人から神を、そして神から人を守るのが門なのだ。


「──して、境工きょうくどの」

「ん?」


 背後の、やたら上の方から声をかけられ、アケは振り返って仰いだ。この妙に押し殺した低い声は、予想通りけんである。


「そなたの造る結界は、荒ぶる神を封じることも可能かな」

「は?」


 三拍ほどぽかんとして、アケはおずおずと言った。


「……おれ、大工だぜ?」

「謙遜も、過ぎれば嫌味になる。一般人の目なら誤魔化せるやもしれぬが、腕の立つ結界術師であることは一目瞭然」

「あ、そういうの間に合ってるんで」


 じゃ、と片手を上げて門を通り、参道に出ると、いつもの木陰に腰掛けて祭りが始まるのを待つ。出店でみせの準備はほとんど終わっているのだが、いかんせんアケが列の先頭だったものだから、ある程度の人数が参拝を終えるまで暇なのである。


「……秘技秘術を明かせとは申さぬ。ただ、手を貸してくれればいい」


 隣にしゃがみ込み、耳元でぼそぼそと囁きかけてくる見から、アケはずりずりと尻を滑らせて距離をとった。気持ち悪いなこの男。


「だから、術なんて使ってねえって」

「嘘を言うな」

「あのな、優れた朱門が境と成るのは、俺の術とか、神通力とか、そういうのじゃねえの。門そのものの構え、構造なの」

「……ほう?」


 見がほとんど吐息のような声で相槌を打ち、クイッと片眉を上げた。反応がいちいち鼻につく。アケはもう五寸ほど距離をとってから言った。


「形は、力をもつ。名もなき曲線に、線と線とのまじわりに、『ここだ』っていう唯一無二の一点を見出せるか。それが境工の腕前だ。はじめに庭の広さを決めたのはここの神で、庭の広さにふさわしい大きさに育ったのは朱木で、最後に表札をかけたのは巫女だ。俺は門を作っただけ。ただの大工。わかった?」


 畳み掛けるように言えば、見は深々と頷いた。


「わかった。都に来い、大工」

「はなし聞いてた?」


 アケはうんざりして言ったが、見は「聞き、そして理解した」とこれ見よがしに目を細めた。


「祠には傷ひとつないが、何度立てても鳥居に落雷する。そしてその度に職人が黒焦げになって死ぬ。術師を探していたが、もしや必要なのは腕の良い大工なのではないか?」


 おや、そういう話か。ならまあ、確かに必要なのは法師や呪い師じゃない。少々癪だが彼が「理解した」のを認めたアケは、腕を組んで苦笑いを浮かべた。


「あー、そういうことな。いるいる、そういう気難しい神様。丸太の鳥居だと、どうしてもなあ」

「ふむ」


 ずいっと身を乗り出してくる見から更に距離を開け、アケは続けた。


「やっぱさ、人間にゃ難しいわけ。そこの土地の主がどんだけの広さのどういう庭を欲しがってるか察するってのは。鳥居ってのはなんつうか、人でいうところの万人受けする美しい形をしてるけど、万人に好かれるからって全員に愛されるわけじゃないだろ?」

「ほう……」


 先ほどよりも偉そうでない、話に引き込まれた様子の相槌が返ってきて、アケはますます得意げな訳知り顔になった。


「その点、朱木は『その神にふさわしい形』を大地から汲み取って育つからな。例えば、ここの神は氏子に大切にされたい神だ。季節ごとに歌と舞を捧げられ、神域を掃除してもらって、その代わりに願いを叶えてやるのが楽しい。だから、朱木もそういう枝ぶりに育つ。一番美しくなるよう編んでやるだけで、自然と多くを招き入れる門構えになる」

「そうでない神もおられると」

「人間だって、静かな場所でほっとかれるのが心地いいやつもいるだろ」


 そういう社や祠の門はひどく小さい。背が低くて通りにくくて、どこか冷たい印象を受ける編み目になる。


 そこまで語って、アケは気づいた。どうやら都まで、この少々気持ち悪いおっさんとふたり、かなりの長旅をしなければならなくなったと。


「……報酬は弾んでくれるんだろうな」

「無論」


 前金とは別に、成功した暁には言い値で褒美が出るだろう。そう言った見に「旅費は?」と訊く。当然こちら持ちだ、と言われてアケはにんまりとした。


「三日三晩、祭りが続く。それが終わったら行ってやってもいい」

「恩に着る」


 見が、両手の指を組み合わせた奇妙な礼をした。全部の指の爪に真っ黒な目玉模様が描いてあるのを見てアケは眉を寄せたが、すぐに笑顔を取り戻した。「決まりだな」と言って軽やかに立ち上がり、いい香りの漂い始めた出店に向かって浮かれた足取りで駆けてゆく。


 アケは報酬のよい仕事が大好きだ。が、それ以上に彼は根っからの職人である。それも好奇心旺盛で、自分の仕事に絶対の自信を持っている類の。つまり、とんでもなく難しいものと思われる注文に、これ以上なくわくわくしているのだ。


〈了〉

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境工(きょうく) 綿野 明 @aki_wata

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