【解説】詩心よりせし恋
①「雲居に別れそめにし山里は、花さそふ風の便りぞする」
紀貫之の『笥極上人集』に収められたこの歌は、遠く離れた場所に住む恋人へ、花が咲く風景を通して自分の気持ちを伝えたいという想いが詠まれています。
この歌の背景には、平安時代の貴族社会における離れ離れの恋の習わしがあります。
夫婦は必ずしも同居せず、夫は都に住み、妻は別の土地の実家で暮らすことが多かったのです。そうした環境で、自然の風物に思いを寄せ、恋しい人への気持ちを投影したと考えられています。
四季を彩る自然の移り変わりを、恋する心の喩えとして詠み込んだこの歌は、切なくも美しい旬情に溢れています。
②「この世の憂き身をかくして、恋しかるべき命ならばや」
この歌は、はかない人生ゆえに、恋に身を捧げるべきではないかと詠んだ作品です。
この歌の背景には、当時の貴族社会における恋愛観が影を落としています。一夫一婦制が当たり前ではなく、男女ともに複数の恋人を持つことが許されていました。そのため、恋に身を捧げることが是とされていたのです。
③「夜を日に移し朝までし恋」
この一節は、清少納言の『枕草子』に出てくる有名な文言です。直訳すると「夜を昼に続け、朝までした恋」という意味になります。
つまり、一夜を徹して恋人と過ごし、夜が明けるまで別れがたく恋に浸っていたという、燃え上がるような情熱的な恋愛の様子が描かれています。
平安時代の貴族社会では、夫婦は必ずしも一緒に住むことが珍しくありませんでした。夫は都に住み、妻は実家で暮らすことが一般的でした。そのため、夫婦が逢瀬を重ねる機会は限られ、そうした稀有な夜を精一杯愛し合うのが常だったのです。
④「菫咲き乱るるすえひきの 春ごとに花よりほかにわれならなくに」
この歌は、源氏物語の中で光源氏が詠んだ有名な作品です。菫(すみれ)の花が乱れ咲く春の景色を描きながら、別れの寂しさを詠んでいます。
「菫咲き乱るるすえひきの」の部分は、菫の花が乱れ咲く末籍(京の町)の景色を表しています。
そして「春ごとに花よりほかに われならなくに」は、毎年春が来れば花が咲くのに、自分は寂しく別れに身を耗らすことしかできないという意味です。
この歌の背景には、源氏と桐壺更衣の別れがあります。物語の中で、源氏は政治的な逆境から桐壺更衣と別れを余儀なくされます。春の季節を前に、菫の咲き乱れる末籍の景色を見て、この別れの歌を詠んだのです。
桐壺更衣への恋心を籠めながら、花が咲く春の景色と対比させて自身の寂しい身の上を詠んだこの名歌は、源氏物語の中でも特に秀逸な作品とされています。
⑤"花さくらばちるものとだにしるもがな"
この歌は、有名な歌人・在原業平が詠んだ和歌の一節です。直訳すると「花は咲いては散るものだと知っているが」となります。
この歌は、桜の花が咲き乱れる春の美しい景色を前に、しかしその華やかな景色もいずれ散り去ってしまうことを自覚し、世の無常を詠んだ作品です。
「花さくらば」で桜が咲く様子を述べ、「ちるものとだに」でその花が散ってしまうことを認識していると歌っています。最後の「しるもがな」は、そのことをよく知っているという自覚を表しています。
つまり、この歌は桜の一場面から、この世の有り様の移ろいやすさ、無常観を詠み込んだ作品なのです。
桜は日本人にとって大切な季節の風物詩ですが、その美しさは一時的なものです。人生もまた有り余る華やかさはなく、移ろいゆくものだという教訓が込められています。
⑥「うつりゆくや恋の世にしおふされて」
この歌は、恋することの一時的で儚い面と、それでいてその恋に深く溺れてしまう人の心情を表した表現です。
「うつりゆく」は、変わり行く、長くは続かないという意味です。
「恋の世」とは、恋するという心の営みや恋愛の世界を指しています。
そして「しおふ(しおふされて)」は、恋におぼれ、恋に取り憑かれるという意味になります。
つまり、この一句全体で言えば
「恋するということは一時的で永遠に続くものではないが、それでも人はその恋におぼれ憑かれてしまう」
ということを表しているのです。
恋愛は有り余る喜びを与えてくれますが、同時にその喜びは長くは続きません。しかし、人はその一時の恋におぼれ、その矛盾した心境に身を置いてしまうのです。この歌はそんな恋する人の心理を詠んだものです。
⑦「あかでくれぬ恋しさをかたみにおもふ」
この一句は、恋する気持ちが絶えず続いていることを表しています。
「あかでくれぬ」部分は、「あかでくれない」の意味で、決して色あせることがないという意味になります。
「恋しさ」は恋する思いの強さを表し、
「かたみに」は、一方的(今回っめ)という意味です。
つまり、この歌は「恋するその思いは決して色あせることなく、強く思い焦がれている」ということを表しています。
恋する思いが強く心に去来し、その気持ちが絶えず続くことをストレートに詠っているのがこの一句です。
一方で、「かたみに」という言葉遣いから、相手への一方的な想いも感じ取れます。つまり、相手にも同じ気持ちがあるかどうかは判然とせず、自身の強い想いを述べているのです。
この歌の背景には、相手に対する強い恋心と、それでいてその恋が成就するかどうかの不安感が込められています。
簡潔な言葉で、恋する者の心の機微が的確に表現されています。
短編集 @syake2547
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