短編集
@syake2547
詩心よりせし恋
私、新井恵美は大の和歌好きだった。朝夕、古典の句集を読み耽り、時に心地良い詩を心に詠んでは、四季折々の自然の景色に思いを馳せるのが日課だった。そんな私に、運命的な出会いが訪れた。
いつものように、東京大学の附属図書館でいつものように読書をしていた。そこで知的な青年・椎名旬さんと出会ったのだった。
東大の中央図書館は大学生にとって勉強の拠点でもあり、多くの学生が行き交う賑やかな場所だった。そんな中で、私は静かに和歌の古典を読み耽っていた。
そんな時、背後からの静かな声に気がついた。
「新古今和歌集か。素晴らしい歌集ですね」
振り返ると、そこには知的な雰囲気の青年がいた。しっとりとした黒髪に落ち着いた眼差しが印象的だった。
「は、はい。平安時代の名歌が多く収められていて、とても好きなんです」
思わず戸惑いを隠せずにいた。
「突然すみません、私は椎名と言います。私は紀貫之の『笥極上人集』に収められた歌も好きですね」
青年はそう言うと、私の隣に座り、名句を引用した。
"
「この歌は平安時代中期の権力者であり、歌人でもあった紀貫之が詠んだものです。『笥極上人集』は彼の代表的な歌集で、離別の悲しみや恋の情景を綴った名歌が多数収められています」
「離れ離れになった恋人に、花が咲く風景を通じて便りを伝えたい、そんな想いが綴られています。あの名句は切なくも美しい旬情が込められていますからね」
青年の饒舌な語り口に酔うように聞き入ってしまった。そして私も脳裏に浮かんだ歌を詠んだ。
「この世の憂き身をかくして、恋しかるべき命ならばや」
「すばらしい。和泉式部の名歌ですね。はかないこの身を恋に賭けようと」
椎名さんは目を輝かせながら続けた。
「清少納言の『枕草子』に、"夜を日に移し朝までし恋"とあります。情熱的な恋の様子が想像できますね」
その一節は、夜通し恋人に逢うほどの燃え上がる想いを指している。
「はい、そうですね。人間の恋する心はいつの世も変わらないのでしょう」
私も熱を込めて答えた。
そこから、椎名さんと私とは和歌の名句を交わし合うようになった。好きな作者や歌の解釈を語り合い、時に自作の歌を詠み聞かせるなど、楽しい対話が弾んだ。
ある日は私が桜の歌を引いた。
「菫咲き乱るるすえひきの 春ごとに花よりほかにわれならなくに」
「春が来れば別れが訪れる、その寂しさを源氏物語より詠んだ名句ですね。菫はあの世の花なので、別れという悲しみを表しています」
椎名さんが感心しながら説明した。
「はい。そしてその後に、"花さくらばちるものとだにしるもがな"と続きます。この世の移ろいの理を改めて感じさせられます」
私も続けて解説した。
「全くその通りです。歌の背景にも興味が湧きますね」
椎名さんは熱心に頷いた。
二人の和歌対話はだんだんと親密になり、互いの人となりにも関心が移っていった。ある日、椎名さんが年齢を尋ねてきた。
「恵美さん、そろそろ年齢を教えてもらってもよろしいでしょうか」
「あ、はい。私は17歳です」
「そうですか。私は21歳なんですよ」
椎名さんは穏やかな笑みを浮かべた。
4つも年が違うのか、と私は内心驚いた。でも椎名さんの知的な佇まいに似つかわしい年齢だと思った。
「じゃあ、椎名さんは大学生なのですね」
私はそう確認した。
「そうですね。でも、和歌が好きという点では同じ年頃の仲間のようなものです」
椎名さんは優しく答えた。
その後も、歳の離れた師弟のような間柄でありながら、互いに対等な立場で語り合えるようになっていった。
惹かれ合う男女の関係とは別に、私たち二人は和歌への愛を通して互いに同じ熱意を共有することができたのだ。
日は移り、卒業が近づいていった。
私は地方の大学へ進学し、都会を離れることになった。この場所にもう通うことができなくなるのが心残りだった。
最後の日、私は椎名さんと図書館で落ち合った。
「これは私から恵美さんへの、お別れの品です」
椎名さんはそう言って、花束を手渡してくれた。桜の花が咲き誇る中に、椅梗やあじさいの花が散りばめられていた。
「ありがとうございます。とてもきれいな花束ですね」
私は花の香りに心が洩れた。
「うつりゆくや恋の世にしおふされて」
この歌からは、恋の世界が変転してゆくものの、しおられるように癖になるという意が含まれていた。私への想いを綴ったものなのだろう。
「わかりました。きっとこの想いは変わらないと思います」
私はそう答え、胸の内に去来する想いを詠んだ。
「あかでくれぬ恋しさをかたみにおもふ」
互いに詠んだ歌に秘めた想いを確かめ、静かに頷き合った。お互いの道は離れていくが、二人の心は恒久に通い合うことだろう。
つらつらと桜の散る中を歩きながら、私はそう確認した。和歌の美しさに酔いしれた思い出が、きっとこれからの日々に望みをもたらしてくれるに違いない。
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