短歌というジャンルについていつも思うことがある。
短歌ってのは長歌などと併せて「昔の歌」はぜんぶ「和歌」で、長歌短歌併せて「勅撰和歌集」とか言って「天皇陛下に頼まれたからお抱えの歌人らを集めて歌集を編む」という歴史がありチョー体制的なゲージツなのではないかということである。
もはや権力者の手のひらのゲージツ。これがホントの卓上ゲージツ(日本画家鏑木清方が晩年に志したアレ)である。
それで反体制的だったり弱者の味方をしたりするような政治詠をすること、それって矛盾じゃないのかと私は思うのである。
マジで色んな意見があると思う。
「ゴーシチゴ、シチシチ」という型はできるだけそのままで短歌の「諸刃の剣」(伝統は武器にもなれば呪いにもなる)を振るって自己の思想を詠むってのは結構難しいのではないかと思うのである。
氏は堂々と自己の思うところを短歌の定型にするのである。
和歌のオトクイであった「借景」とかなんとか言われるアレゴリィを利用せず、思うところを述べるのである。
「ゴーシチゴ、シチシチ」の定型を利用したスローガンのごとくである。
「逃げるは恥だが役に立つ」は八音プラス五音であった。カクのゴトく散文的なる叙述に定型のリズムを乗っけるのである。
「うるせえよ面白ければ許される」ギロチン楽しむ市民のようね
↑お笑い芸人松本某のことのごとく思うのである。
そもそも政治詠なんぞ言うものの、政治的でない言説なんぞ存在しないのである(ジュリア・クリステヴァ)。
だから本当は「政治性を自己言及するテクストとイデオロギーを隠蔽しつつ上手いこと権力にオモネろうとするテクスト」があるだけなのである。
プラスにもマイナスにも取れるアレゴリィではどうにもならぬ勝負がある。
直球勝負である。
思ったことをそのまま詠む。それでいいのだ。
連作のタイトルが『ぐちゃぐちゃのどろどろ』。
読んでみました。
確かに、作者様のぐちゃぐちゃした感情や、闇のどろどろした部分が駄々洩れになっている作品たちです。
ただね、私はこの作品たちにとてもパッションを感じました。
作者様の感情が素直に現れていて、読んでいてとても考えさせられ、そして感銘を受ける。
こういうのって、パッションが大切だと思うんですよ。
どんなに巧く詠まれていても、そこに感情が乗っていなければとてもチープなものに感じてしまいます。
荒ぶる感情を素直に吐き出したこの連作、お見事ですとしか言いようがありません!