サクラに狂わされる

サクラに狂わされる

　ふと、桜の樹の下を掘ってみた。

　どこかの動画サイトの企画でもないし、梶井基次郎や坂口安吾の文学作品の影響でもない。

　高校二年生の春だった。

　何かを埋めたんだ。この桜の下に。いつだったか、何を埋めたかも忘れてしまったけれど。得体の知れない恐怖を好奇心が押さえつけた。

　ザクザクと無我夢中に掘り進める。と、少女が1人、静かに横たわっていた。

「は、え？　死体……？」

「失敬な！　起きてるわっ」

　少女はガバッと飛び起きる。身にまとっている桜色の着物には、何故か土が一切ついていない。

　 僕が落としたシャベルから泥が跳ね、少女の着物を汚そうとした。そこに物質なんてないように土は彼女を無視して地面の一部となった。

「もー、やっと掘り出してくれたわね。めちゃくちゃ遅いけど、まぁ起こされることはもうないのかしらって思ってたから、許してあげる」

　汚れなんてついていないのに、少女は立ち上がってぱんっ、ぱんっと着物をはたく。彼女は腰に手を置き、胸を張る。そして、真っ直ぐ僕の瞳を捉えた。

ㅤその出で立ちに、僕は思わず言葉を失った。

　彼女は、紛れもない僕の理想だった。

　大きな目にくっきりとした二重。陶器のような白く滑らかな肌に、ぷっくりとした桜色の唇がちょこんと乗っている。風に靡く黒い髪の毛は、腰に届くまで長く艶があった。あまりに美しくて、人と言うよりも腕のいい職人によって作られた精巧な芸術品のようだった。

ㅤ美しすぎて、眩しくて。羨ましいな、なんて。心臓がなんだか、きゅっと握られた心地がした。

「さぁさぁ、せっかくのいいお天気なのだから、お花見でもしましょう！　ほら、そんなぼーっとしてないで」

　彼女が小さな手をパンっと叩いて、彼女に奪われた心が戻ってきた。しんと頭が冷えていく。

「いや、待って！　救急車……？　スマホ持ってない……警察の方がいい？　え？　どういうこと？　君は、何？」

　僕がしどろもどろとした態度をとったからか、彼女は口に手を当てくすくすと笑った。

「埋められてはいたけど、起こしてもらえたんだからもうどうでもいいわ。ほら行きましょう！」

　彼女に手を引かれて、僕らは駆け出した。

🌸

　彼女が埋まっていた桜の樹から少し離れた公園は花見客でごった返しており、桜の花びら一枚も入る隙間がないほどだった。

「んーっ、人がいっぱいいすぎてやあね。でも私がさっき埋まっていたところはなんだかこうね、嫌だわ。桜も一本だけだし。見応えがないわ」

　彼女は僕の手を離さずににキョロキョロしている。

「花を見るだけなら、あそこでも良くない？」

　ガヤガヤしている中でも届くように少しだけ声を大きくして彼女に提案してみた。すると彼女は振り返って何か言った。周りがうるさすぎてあんまり聞こえなかったが、彼女の表情は曇っていた。けれど、少し考えるような素振りをとって、シャボン玉が弾けたように急にパッとした明るい表情になって

「まぁいいわ、あなたがいいなら！」

と叫んで反対方向に走り始めた。

　僕は必死に彼女に着いていく。彼女の黒髪が風と踊る。あまりにも美しすぎる。それなのに、周りの花見客は彼女を一切見ない。いないものとして扱っているようだ。やっぱり彼女はただの人とは到底思えない。

　僕の目の前に突如現れた彼女は、何者なのか。

🌸

「結局ここに戻ってくるなら、走った意味なかったわね。あっ、団子でも買ってくれば良かった。あなたってずんだ団子好きよね。もちろん私も好きだけど、買ってくる？」

　彼女は僕が何かを見つけるために掘った穴を埋めるように、下駄で土を集めながら言った。

「いや、いいよ。それに、なんで決めつけるの？　僕はみたらしの方がよく食べるよ」

　彼女は美しく、僕の心臓を跳ねさせるが、天真爛漫に僕を振り回すので、少しだけ落ち着いて話せるようになった。外見だけは桜に攫われそうなほど儚いが、性格は桜を追いかけ回すような人である。

「あの、君に聞きたいことが沢山あるんだけど、いい？　えーと、名前は？　なんで埋まってたの？　君なんなの？」

「そんな焦らないで一個ずつ聞いてったらいいじゃない。あと名乗らせるなら先に名乗りなさい」

　彼女はすとんと袂を翻して地面に座った。隣をポンポン叩きながら僕をじいと見つめるので、僕もそれに倣って座る。草が尻にささってチクッとした。

「僕の名前は……良太。良いの良に太郎の太だよ。君は？」

「私はねー、……うん。やっぱり名乗れない。というか、知ってるはずよ。もし思い出せないならあなたが付けてくれて構わないわ」

　腰に手を当て、堂々と彼女は言った。知らない人に名前を教えたくないのだろうか。しかし初対面の人に名前を決めろと言うのはなかなか難易度が高いんじゃないか？

「えー……じゃあいいや、名前はとりあえず保留。じゃあさ、どうして埋まってたの？　穴、そんなに浅くなかったはずだけど。事件？」

「事件ではない！ㅤかといって、自分で好きで埋まったわけじゃないけどね。何年か前に埋められたの。で、今日掘り起こされたってわけ」

「何年か前？　嘘でしょ？」

「いーえ真実よ。身に覚えないの？」

「犯人僕なの！？　知らないよ！」

　彼女は口を閉ざす。つまらなそうな顔をして見つめていた花弁を彼女ははらりと落とした。膝の上に落ちたそれはまたも彼女の着物を貫通した。それを確かに目撃した僕は恐る恐る尋ねる。

「君は人じゃないの？」 

「いいえ？　私は立派な人よ。ただちょっと実体がないだけ」

「それもよく分からないけど……」

　彼女が嘘をついているようには見えない。気づけば彼女はこちらを見つめている。絵画の中から出てきたような彼女の瞳の中には僕がいて、それがどうにも嫌で目を逸らした。沈黙が気まずい。

「さっき僕がずんだ好きって言ったけど、なんで知ってるの？」

「え？　だって昔よく食べてたし、私はずんだが1番好きだもの。みたらしはよく食べるだけでしょ？」

　桜って綺麗だよねって言うのと同じテンションで、当たり前のように彼女は話す。僕のことを知っているのかと背筋がヒヤリと冷たくなった。

「懐かしいわね〜。あっそうか。おばあちゃんが作ったずんだが一番好きだから、お店のはちょっと違うのね」

　彼女は言い当てる。僕は今どんな表情をしているのだろうか。

「君はなんなの？　僕をどこまで知ってるの？」

「全部知ってるわよ。あなたの苦悩も、なにもかもね」

　にやり、と彼女は妖艶に笑う。江戸時代の人々は桜を恐れたらしい。その気持ちが少しだけわかった気がした。これは狂う。狂わされてしまう。

　僕が吸うはずの空気が桜に攫われてしまったのか、息が吸えなくなった。ひゅ、というか細い音が喉から鳴る。 

 　もしかしたら彼女は桜の精で、僕を攫おうとしているのではないかという馬鹿な考えが浮かんだ。そんなはずない。

ㅤとにかく会話を逸らそうと質問を投げてみる。

「さっき、人混みの中で呟いた言葉……君が言ったこと聞き取れなかったんだけど、なんて言ったの？」

 　彼女は桜の絨毯に目を落とし、ぼそりと答えた。

「あなたは墓場でお花見ができるの？　って言ったの」

「は？　墓場？ㅤ墓場って」

　思考が止まる。

「誰の？」

「私の」

ㅤ彼女は己の小さな鼻を指さした。意地悪く口角を上げている。

「じゃあ君、死んでるの？　桜の樹の下には死体が埋まってるっていうけど……」

「死んでません〜！ㅤ瀕死の状態ではあったけど、この通り生き返りました。まぁ、私はここを墓場だと思ってないわよ。その逆なの。あなたよ。あなたがここを墓場だと言ったのよ。まったく、本当に酷い話よね」

 　僕の頭の上に無数の疑問符が乗っかているのを感じる。彼女が何を言っているのかがさっぱり分からない。彼女は何者だ？　僕が桜に狂わされているだけなのか？

「もう少し、あなたとお喋りしたかったけど、そろそろ答え合わせをしようかしらね」

ㅤ彼女はいたずらが成功した時の子供みたいな笑みをたたえていた。心底楽しそうで、嬉しそうだった。

「何故あなたは、今日私を掘り出したのか思い出してみて？　あなたが今日記入しようとしたものはなに？」

　僕が、今日記入しようとしたもの？

　僕が記入しようとしたもの。それは春休み前に配られた進路希望の紙だった。そこで

「性別記入欄で手が止まった。で、怖くなったんでしょ。僕はこのまま生きていくのか？ㅤって。それで、無我夢中で走り出した。行先なんて決めずに、我武者羅に。そしてここを発見して今に至ると。でしょ？」

　彼女は僕に続々と思い出させる。なんで忘れていたんだ。違う。忘れたかったんだ。僕が埋めてしまったんだ。

「なんで分かるかって？　そりゃ分かるわよ。私はあなたの理想だもの。ね？」

　風が花弁を踊らせる。彼女は儚くゆったりと笑った。ただただ綺麗だった。

「家族も先生も、あなたが私になるのを認めなかった。でもおばあちゃんだけが肯定してくれた。この綺麗な桜色の着物は、おばあちゃんが作ってくれた物よ。覚えてる？ㅤ丁寧に、丁寧に、隣で縫ってくれたのを」

　僕の理想は淡々と喋り続ける。ひらりと、自慢気に袂を揺らして見せた。

「中学2年生の時だったわ。おばあちゃんが死んだの。それから、周りの目は一層厳しくなった。だから、あなたは私という存在を殺して、埋めたのよ。おばあちゃんと一緒に、毎年お花見に来ていたここに。『ここは、僕の理想の墓だ』って言ってさ」

　僕の理想は桜の樹に寄りかかった。慈愛が込められた眼差しが僕を貫く。

ㅤ僕は、いや。私は、何もできない。

「ねぇ、見て」

　私の理想は桜と一緒にひらりひらりと舞い踊る。この世で一番、綺麗だと思った。

「あなたの理想、とっても綺麗でしょ？　人を、あなたを狂わせられるくらい、美しいのよ！ㅤ ほら、もっともっと咲かせてよ！　誇ってよ！」

　あぁ、そうだ、思い出した。私の名前。

　おばあちゃんにつけてもらった理想の名前。

「さくら……、咲良！」

　私は、私の理想の名前を叫んだ。

　私の理想は、綺麗な微笑みを私に魅せて、一陣の風と共に桜に攫われた。彼女のいたところには、おばあちゃんが作ってくれた桜色の着物がはらりと花弁とともに落ちていた。土は一切ついてない。今、ひらりはらりと飛び舞っている花弁のように美しいままだった。

　私は静かに、最初におばあちゃんが着せてくれた時と同じように着物に袖を通してみた。

　そして、私の理想は蘇り、再び芽吹き始めた。

🌸

　私が桜に狂わされてから数十年。桜色の着物を身につけて、自慢の長い黒髪を括って、毎日着物を作っている。誰かの、理想の着物を。

　私の作った着物に袖を通したお客様は、理想の美しさに魅せられて、口を揃えてこう言った。

ㅤㅤㅤㅤㅤ「サクラに狂わされる」と。