柿子
凄腕サクラ
柿子
「痩せたい」
それは柿子の口癖だ。
私と
ゴールデンタイムの番組が終わり、22時少し前。テレビでは恋愛ドラマの番宣が流れていたのだが、その映像が別のチャンネルに変わる。
私はテレビのリモコンを手にしている柿子の方を見遣った。
柿子はぽっちゃり体型だ。
いや、ぽっちゃりという言葉だと幅が広いのでもっと明確に言おう。
女性の標準体重の倍はある。悲劇の三桁台に乗ってしまったのが数ヶ月前だから、単位を変えれば0.1トンはある。
明るい茶髪にブリーチしたロングヘアは、生え際に自毛の黒が目立ってまだらな状態だ。
フリーサイズのTシャツに、ゴムで調節するタイプの綿混パンツという、家着とはいえ、ルーズな服装である。化粧っけのない顔には吹き出物ができている。
柿子の手入れの行き届かなさには、理由はあるのだが。
柿子の痩せたい思いとは裏腹に、体重が減少している様子はない。
おっとりとした性格の柿子だからか、運動も積極的ではない。
痩せた方がいいのは間違いない。内科で体重のことやコレステロール値のことを医師に指摘されていることは、私も知っている。
柿子は今、32歳だ。すぐではないが早めに痩せないと、歳を重ねるごとに人は脂肪が落ちにくくなるのだと仕事場で看護師に聞いたことがある。
やがてテレビを消したリモコンを置いて、柿子は緩慢にため息をついた。
テーブルに肘をつき、肉付きのよい頬をむにっとさせて両手で顔を覆う柿子。
「痩せたいなぁ」
柿子の口癖だが、今日はいつになく切実さがある。
「柿子が痩せたいのはいつものことだけど。どうした?」
その様子が気にかかり問いかけると、指の間からチラっと目を覗かせる。
柿子の丸っこい目が私を見て、その眉は情けなくハの字の形になった。
「
呼ばれたそれは私の名前だ。
「申し訳ないって、何が」
「それは……いや……」
ごにょごにょと言葉を濁す柿子に、うん?と首を傾げる。
申し訳ないと思われる理由。
柿子が犯した罪といえば、仕事帰りに食べるつもりで冷やしておいたプリン、週末にアニメを見ながら食べるつもりだったスナック菓子、夕飯の材料のするつもりだったウインナーなど、思い当たるのは食べ物の恨みだが――
これは、仕方がないことだと思っている。
柿子は四年前に父親を、一年前に母親を、病気で亡くした。家族の死が引き金になって、精神的な病気を患ってしまい薬の副作用で過食症状があるのだ。
彼女の生活や身なりに不精さが目立つのも、病気の影響が大きい。
薬のおかげで病気の症状自体は幾分落ち着いているが、主作用が効くと同時に副作用というものが出る。それが柿子をぶくぶくと太らせた原因でもある。
だから私も、柿子に口うるさく痩せろとは言えない。彼女の食欲は、自分ではコントロールできないものなのだから。
柿子の両親が残した一軒家に、私が同居する形で二人住まいをしている。
柿子の両親のことも知っている。柿子と出会ったきっかけでもあった。私が訪問介護ヘルパーとしてこの家に初めて入ってから、もう6年も経つのか。私は今29歳だから、当時の私は23歳だ。
初めて会った時の柿子は26歳で、少しだけぽっちゃりしていたけど今ほどではない。今のような不精さもなかったし、会社勤めもしていた。初めて会った時に、朗らかで素敵なお姉さんだなと思ったのをよく覚えている。
しばらくはヘルパーと利用者の家族としての関係だったのだが、ある時プライベートの日について聞かれて、もし空いてるなら遊びませんかと誘われて。
二つ返事でOKした。
二人で初めて出かける日、この田舎では行く場所なんて候補がなくて、映画館のある市内唯一のショッピングモールに行き、映画を見た。
ドラマチックな邦画だった。涙なしでは見られないという前評判通り、映画館を出るときには私も柿子もずるずるの泣き顔で、メイクまで落ちて、そんな互いを見て笑っているととても心地よかった。
モール内のゲームセンターでは、クレーンゲームで100円玉を何十枚も投入して成果ゼロの柿子を慰め、私はマスコットのキーホルダーを取って称賛を受けた。
最後にカフェでお茶をすると互いのことや身の回りのこと、他愛のないことも含めたくさん話した。会話や空気の波長が合うというのだろうか。
私は柿子に人としての魅力を感じた。
あれから6年か。長いようで、あっという間だったな。
初々しいときめきのようなものこそ薄れたが、私たちはまるで空気のような関係性になった。そばいることが当たり前になって、でも決してなくしたら生きていけないような、そんな深い関係に。
「あー、洗い物してくる」
「智代ちゃん。あ、ううん、洗い物の後でもいい」
「ん? とりあえず済ませてくるね」
私を呼び止めようとした柿子だったが、急ぎではないようなので私は台所に向かった。広い家ではないから、互いは視認できる距離だ。
柿子は椅子から立ち上がりこちらへ近づいて、戸棚を漁っている。
お菓子の入っている戸棚だ。
痩せたいと言っていたそばから、とは思うが。
柿子が戸棚から取り出したのは、先週末に二人で行ったショッピングモールの駄菓子屋の商品袋だ。茶色い紙袋に、昭和レトロな屋号のロゴが印刷されている。
駄菓子程度のカロリーなら許されるとか言いながら、大量に買い込む柿子に、数が多ければそれはもう許されざるカロリーなのよ、なんて突っ込みを入れたのは数日前のことだ。
「あのね。モール、潰れるんだって」
「え?」
思わず聞き返してしまったが、柿子の声はちゃんと聞こえた。
私たち田舎民にとっては娯楽といえばモールだった。遊びに行くのもデートをするのも買い物をするのも、大体モール。
駄菓子屋が入っているあのモールは、初めて一緒に映画を見て、一緒に泣いて、一緒に笑った場所でもある。そう思うとうら寂しい。
柿子は駄菓子屋の袋を見つめ、ため息をついている。
「ネットの地元情報で流れてきた」
「そうなんだ……」
私は洗い物を切り上げて、タオルで手を拭いた。
柿子はゆっくりとした動作でリビングの椅子に腰掛け、駄菓子屋の袋もテーブルに置くが開けようとはしなかった。
柿子の様子がなんだかおかしい。
「柿子?」
小さく名を呼ぶ。近づいて覗き込むようにして顔を見た。
「うん」
柿子は弱く笑う。
私を見て、けれど申し訳なさそうに視線を逸らした。
「どうしたの。モールが閉店するのも関係してる? それにさっき言ってた私に申し訳ないって何……?」
「ん、どう話していいかわからないけど。モールね、あそこ20年前くらいにできたの、知ってる? お父さんとお母さんともよく行った」
柿子の両親の話が出ると、私も少し落ち込んでしまう。
私を可愛がってくれた人たちだ。特に柿子のお母さんとは亡くなるまでの五年間と付き合いも長かった。
「思い出はあるよね」
「うん、思い出がある。あの時は楽しかった」
「……そっか」
あの時は、という言葉に、心苦しい思いを抱く。
柿子の言う「あの時」は、柿子も健康で、柿子の両親もいて。
今はどうだろう。柿子は病に苛まれ、近くには私しかいない。
私は、もしかして、柿子を苦しませているのかな。
柿子は幸せじゃ、ないのかな――。
私は柿子の斜め向かいの椅子に腰を下ろす。
柿子は少し視線を彷徨わせた。
「智代ちゃんと行った初めてのデートの場所だし、智代ちゃんとの思い出もとっても大切で、そんな場所がなくなるのは、なんだか思い出ごと消える気がしてとても怖い」
「そんなことは……」
柿子は俯きがちで視線は落ち、私を見ようとして、でも見ることができないような動きをして。
少しの沈黙のあと、柿子の口から出る言葉は、上擦っていた。
「そもそも……智代ちゃんは、私なんかが恋人なのは嫌じゃないのかなぁ」
泣きそうな声で、震える言葉尻の後、ひゅっと息を吸って、浅く吐く。
そんな柿子に対して様々な思いがこみ上げるが、どれも私の音にはならない。
柿子は苦しげに、絞り出すように言う。
「智代ちゃんに幸せになってほしい」
まるで別れ話のようなトーンは、私の不安を煽った。
呼吸を挟む、その一瞬が途方もなく長い時間のように感じられる。
「でもね、私は智代ちゃんがいないと生きていけない」
それは急に柿子がむき出しにした依存心だった。
重圧感が心地良くて、安堵している私がいる。
私だって同じだ。柿子に頼られているから、自分を見いだせる。
私の中に一つの答えがストンと降りてきた。
ああ。
この人は、ただただ自信がないのだ。
「嫌なわけないし、柿子とだから今がある。なんで私なんかって思うの」
「それは、だって、私こんなデブだから……!」
「――だから?」
それがどうした?とばかりに聞き返すと、柿子は困惑したように私をじっと凝視した。
「み、醜いし、こんなぶよぶよの体だし。心の病気だし、お世話をしてもらって、お仕事も智代ちゃんだけ頑張ってて、こんな私になんの魅力もないし……私、ちゃんと智代ちゃんの彼女ができてない」
卑下を重ねる柿子に私は笑う。
「それでも彼女なんでしょ」
「え」
「困ったときはお互い様。柿子が困ってるから私は彼女として支えてるつもりでいる。恋人が弱ってる時に求めるものなんて、甘えてほしいってことくらいだよ」
「……あ、あ……ありがとう」
柿子は眉をハの字の形にして、ぐすんと鼻を啜り、やがて弱く笑った。
「でも、なんで急にそんなこと考えたの」
駄菓子屋の袋の中を物色しながら私は問いかける。
19時台のバラエティ番組を見ていた時は楽しそうに笑っていた、いつもの柿子だった気がするけれど。
「それは……恋愛ドラマみたいに智代ちゃんをキュンってさせたり、ドキッとさせたりできないから」
ああ、そういえば恋愛ドラマの番宣中にテレビのチャンネルを変えられた気がする。
あれがきっかけで自己嫌悪に陥ったのか。
納得して、駄菓子の中からチョイスし、ポン菓子を差し出した。
「野菜でも食べな」
「やったー、にんじん。豚さんはにんじん好きだからいくらでも食べれちゃう」
こういうおデブネタも板についてきている柿子。
それはスルーしながら、私は彼女の抱く不安に対して少しだけ言及する。
「でもさ、柿子。恋愛ドラマみたいなキュンもドキッも私たちはやってきて今があるんでしょ。私は覚えてるよ。柿子との出会いも、初デートも、告白も」
「私から告白したんだよね。あの時も智代ちゃんが好きでたまらなかった。でも振られる気だったよ。彼氏がいると思ってたから」
柿子からの告白も、自信がなさそうだった。
おっとりした性格の柿子だからかなり勇気を出してくれたんだろう。
「無理ならいいから」「ごめんね」「困るよね」って、気を使って。
柿子はそういう優しいところも含めて、憧れのお姉さんだった。
「テンパって一旦保留にして、ずっと意識して頭ぐるぐるして、付き合うことにした。恋愛に性別は関係なかったね」
「ふふ」
柿子は微笑む。
そんな笑みを見ていると少し照れくさくなってくる。
照れついでに言ってしまおう。
「柿子は抱き心地がいい。お肉がふわふわしてて柔らかくて」
「智代ちゃん? それって褒めてる?」
「褒めてる!」
慌てて肯定すると、柿子が笑い、なんだかおかしくて顔を見合わせて二人で笑った。
私たちが互いの一挙一動にキュンとしたりドキドキしたり、情熱を胸に燃やしたその段階を恋と呼ぶのなら、今の私たちは静かで安定した愛情の中にあるのだと思う。
互いを思いやり、それでいて多くを求めない。互いを知って尚、幻滅をしない。
この地味な日々が、幸せなのだと気づく。
「智代ちゃん。またモールに連れて行ってほしい」
「うん。閉店する前に行こう。……と、そろそろ明日の仕事の準備しなきゃ」
「じゃあ、私は先にお風呂に入ってくるね。水かさ減らしちゃうな」
そうして日常に戻っていく中で、仕事の準備に取り掛かろうとしてふと気づく。
私の鍵につけたキーホルダーは、初デートの日にゲーセンで取ったマスコットだ。
あの場所はなくなっても思い出は消えない、と。
柿子に伝えたくて、キーホルダーを持って脱衣所に近づいた。
「痩せたい……」
悲痛な声が聞こえてくる。
あれはおそらく、体重計に乗って残念な現実を見てしまった柿子の声だ。
そこまではいつもの調子だったが、私がタイミングを逃していると続く言葉があった。
「痩せたい。ううん、痩せる。ちゃんとして智代ちゃんにふさわしい人になる」
そんな決意に似た響き。
柿子は、今のままでもいいんだけどな。
本人が決意しているのだから、私はこっそり応援しよう。
邪魔立てはするまいと、柿子に気づかれぬようにその場を後にした。
―終―
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柿子 凄腕サクラ @sakura_sugoude
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