雨を恋う

心沢 みうら

雨を恋う

 水田が乾燥で割れ始めても、村一番の巫女の祈祷きとうに効果が見られなかった。だから方法を変えることになって、今朝、木立こだち瑠璃るりが選ばれた。それだけの話だった。

 よくあるというほどではないが、数年に一度ぐらいは起きること。私だってそれを送り出したことがあるし、それで降った雨のおかげで実った作物を糧に、今生きている。だから、代わる勇気もない私が異議を唱えるのはお門違いだ。

 分かっていたから何も言えなくて、背の高い大人たちの影に隠れるようにして爪を噛む。もう少し子供だったら、きっと私、あなたのために怒れた。


 どれだけお願いしても神様が願い事を聞いてくださらないのなら、神様を怒らせて「災いの雨」を降らせるしか方法はない。


 美しく髪を結った瑠璃は、清らかな白い衣を身にまとっていた。となりに、二人の巫女が付き添っている。

 巫女というのは神様の嫁であるから未婚の女性ではなく、従ってこの儀式のにえとはなり得ない。そういう建前で、彼女らは難を逃れたらしい。

「それではみなさま、わたくしは行ってまいります」

 瑠璃は私たちにむかって、深く一礼した。

 これから彼女は、水神様の怒りを買うために、神域である山奥の小池を自らの血と臓物で穢しに行く。


 ふいに胸が苦しくなった。普通よりもいくらか色素が薄い彼女の瞳が、恐怖でふるえていることに気づいたからだと、遅れて認識する。

 そりゃあそうだ。私は思う。瑠璃は気丈に振る舞っているけれど、やっぱり怖いに決まっている。

 大人の女のような化粧をほどこされ、触るのもためらわれるような上質な衣を着せられようが、中身は私と同じ十四歳の少女のままなんだ。


 儀式が行われるとしたら、贄となるのは未婚かつ適齢の私か瑠璃だろう。そういう話は聞いていて、私たちも覚悟は決めていた。けれど、あまりにも急すぎた。


 自死するための神刀を受け取った瑠璃は、もう一度礼をして、山の方へ進みはじめた。ああ、行ってしまう。卑怯な私をおいて、最後に話もしないままに。

 一歩、二歩、三歩、四歩。瑠璃がゆっくりと、けれど確実に遠ざかっていく。五歩、六歩、七歩、八歩、九歩。しかし、瑠璃は十歩目でふりかえり。


「すみません、やはり、少しだけ時間をとっていただきたいのですが」

 と、申し訳なさそうに言った。巫女たちは顔を見合わせ、頷く。

「一刻も早い出発が望まれますので、できるだけ早く済まされますよう」

「もちろんでございます」

 そう言った瑠璃と、目があって。微笑みともいえないような瑠璃の顔の微妙な変化に、私は自分がここにいることを、この子にずっと気づかれていたことを悟った。

 笑うことはできそうになく、けれど沈んだ顔をしてみせるのもおこがましくて、私もすこしだけ、顔を笑みに似た形に歪ませながら彼女のもとへ歩いた。


「今日も暑いわね。髪が鬱陶うっとうしくて仕方ないわ」

 いつも通りかのように、瑠璃は世間話を始めようとした。しかし、後が続かない。

 瑠璃は困ったように、くしゃりと笑った。この日初めての笑顔だった。


「ねえ、手を繋いでくれない?」


 それから、そうわれる。罪悪感と共に私は頷いて、すぐに右手が結ばれた。

 瑠璃の体温は、こんなに暑いというのに死人を思わせるほどで。少し、震えていて。

 しかし、私の体温が瑠璃に移っていくにつれ、彼女の笑みは深まっていった。

決して自暴自棄ではないが、どこか吹っ切れたような笑顔。彼女らしい、と思う。

すず

「ん、わかった」

 十四年間、姉妹のようにずっと一緒にいた私たちだから、こんな時だって一言でじゅうぶんだった。

 私たちは手を繋いだまま、山頂の神域に繋がる鳥居とりいの道へと駆け出す。


「瑠璃さま、鈴も!困りますわ」


 制止する巫女に、瑠璃は先ほどまでの行儀の良さをかなぐり捨て、「鈴はすぐに戻すわ。最後に幼馴染と話してから行く自由ぐらいほしいのよ」と軽やかに言うと、衣が引っかかるのも構わず私の手を引く。


「贄になったとたん“瑠璃さま”だなんて笑っちゃうわ。それに神様を怒らせるために、どうしてこんなに清らかな衣を着る必要があるのかしら!」

 巫女たちに聞こえないほどのところまでひと息で駆け上がると、瑠璃は息を切らしながらそう笑って。

 いつの間にか彼女の白い腕の震えはおさまっていたようだった。いまだ握られたままの手から、生気のあるあたたかい体温が伝わってくる。

「ねえ、鈴。ずっと聞いてみたかったことを尋ねてみてもいい?」

「もちろん、いいよ」


 まるで、今から死にに行くという自分の運命を忘れたかのようだった。

 神域はもちろん、それに続く鳥居の道も村人にとっては禁域である。けれど私たちは親の目を盗み出しては、よくここにきてお喋りをしていた。だから、まるでこれは。

 瑠璃の声があまりにいつも通りで、これで最後なのだということが信じられなくて、けれど確かにこれは最後で。

 私も、意識して普段通りに笑った。


「あのね、鈴にとって恋はどんなものなのか教えてほしいの」

「え、恋?」

「そう。知ってるのよ、鈴は忠彦ただひこに恋をしているのでしょう」

あたしの目は誤魔化ごまかせないわよと、いたずらっぽく瑠璃が笑った。隠していたつもりだったのに、もう、この察しのいい親友ときたら。

 瑠璃は好奇でその薄い瞳を輝かせながら、私にふたたび問うた。

「あたしは恋をしたことがないから。ねえ、恋ってどんなものなの」

「どんなって言われても、困るよ。でも、忠彦のことを考えると……えっと、幸せでくるしくて苦い気持ちになる、と思う」

「なにそれ。相変わらず鈴の言ってることはよく分からないわ」

 

 けれど。しばらく考え込むように空を見上げたのち、瑠璃は吐息と共に、独り言のようにそう続けた。

「もしかしたら、あたしもう、恋を知っていたのかもしれない」

ほんとう ?誰に?

 反射的に出かけた問いを、私は口の中で慌てて殺した。瑠璃がどんな相手に恋をしていたとしても、結末はもう決まっているのだ。瑠璃の死という、最悪な結末は。


「鈴、悲しい顔をしないで。どちらにせよ叶わぬ恋だったと思うわ」


 繋がれていた手が解かれた。

 私は瑠璃を見た。瑠璃も私を見返した。


 これが本当に本当の最後だ。


「あたしの降らせた雨で、あたしの分も好きな人と幸せに生きてちょうだい」


 瑠璃は私に告げて、山頂へと登っていった。私は頷いて、それからそれをただ見ていた。彼女の足取りは、狂おしいほどしっかりしている。

 こちらから目視できなくなるまで、彼女は一度も振り返らなかった。


 私は少しだけその場に留まって、登ってきた階段をゆっくりと降りて、ふもとに戻った。彼女がもう通らない道だと思うと、悲しみともいえない、喪失そうしつ感のようなものを感じた。私は、巫女たちに瑠璃が行ったことを告げ、そのあと形式的な叱責を受けた。右耳から左耳へと抜けていくそれは、私の心には入らず、ひとかけらも残らず消えてしまった。


 雨はまだ降らなかった。一生降らなければいいのにと思う。もちろん、そうなったら村はゆるやかに全滅してしまうのだが。


 しばらくすると、巫女服を着た老婆が姿を現した。少しおぼつかない足取りに、若い巫女たちが駆け寄って支えた。雨采女あめのうねめと呼ばれる彼女は、その名の通りこの土地の水神を祀る巫女である。

 雨乞いの祈祷に効果がなかったことを白髪の彼女は詫びた。それから、こうつぶやいたのが聞こえた。聞こえてしまった。

「贄の役割を代わるだなんて、瑠璃は本当にお人好しな娘だね」


 それが、本来私が担うはずだった贄の役目を、瑠璃が貰い受けたという意味だと気づいた瞬間、私は夢中で駆け出していた。

 皆からの制止の声は気にならない。忠彦の声にだけは、少しだけ後ろ髪を引かれた。

 それでも、神域へ繋がる階段を必死にのぼる、のぼる。息が切れるのも、尖った石を踏んで痛みが走ったのも構わずひたすら駆ける。

 待ってよ、そんなのないじゃない。本当はあなたが生きるべきだったなんて。

 なんでこんなことをしたの。私もあなたも、自分のために生きてきたはずなのに。「恋を知っていたかもしれない」そう言った彼女の、寂しそうな顔が思い出された。


 間に合ったら私が死ぬことになる。それに対する恐怖心はもちろんあったが、そんなもの、瑠璃が死ぬことへの恐怖に比べたら気にもならなかった。

 疲労で重くなってきた足を無理やり動かして、ひたすら山頂を目指して。

 

 長い長い鳥居の道が終わる。

 目的地である泉はもう、ほど近い。よかった、まだ間に合う。私は安堵の息を吐いて、神域に足を踏み入れた。


 その時だった。頬にぽつりと水滴があたった。その後ほどなくして、ぽつ、ぽつと二滴目、三滴目があたる。


 それは、雨だった。


 私はぎりぎりの所で間に合わなかったのだ。そう、理解が遅れて追いついて。


 木立瑠璃は死んでしまった。私の代わりに、村の皆のために。

 水神の降らせる怒りの雨は、たちまち強くなる。夏特有のぬるい雨に、目から出た液体が混ざって、あっという間に雨に流されていく。

 雨の音に理性的な思考はかき消された。残ったのは、私も死んで、あの世で彼女に怒りたいという願いだけで。


 けれど記憶の中の彼女が、「私の代わりに幸せに生きて」と言うから、それはできないのだった。


 結局、私は泉を見にいかなかった。



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