わんこロボは老年寡婦の孤独を癒すか

加賀倉 創作【書く精】

わんこロボは老年寡婦の孤独を癒すか

 ここは老人ホーム『陽気な箱庭』。


 つい先日百一歳を迎えた、わたし。


 頭は冴えているが、体は動かないという何とも苦しい状態になり、身寄りもおらず、自宅から一番近いこの施設に入ることを市から勧められてから早十年。


 一日の活動はといえば……


 ひとつ、味気のない流動食を三食胃に流し込む。

 このようにちっとも楽しくない食事なぞ、ディストピア系SFの世界だけの話だと思い込んでいたが、現実に存在しているものだと理解し、わたしはひどく落胆した。


 ふたつ、尿と下痢便を垂れる。

 最近は、便意を制御できなくなった。だから二十四時間おむつ生活である。気づけば、腰回りは汚物まみれである。わたしの便意制御装置は常時エラーを起こしているが、触覚や嗅覚は現役なので、毎度えもいわれぬ不快感に襲われる。


 みっつ、呼び出しベルを押す。

 これは本当に便利な装置で、いついかなる時も、これを押せば介護職員が駆けつける。便利だが……これを使うことはつまり嫌な思いをするのが確定している、という条件付きである。いつもこれを使って呼び出した職員の顔は少し不機嫌そうなのだが、これはどうも慣れない。ゴミを見るような目なのである。だからわたしは職員の目を見ないようにしている。わたしの姿を見るのは職員だけなので、詰まるところ、わたしはこの十年間、誰とも目を合わせていないわけである。

 そして、駆けつけた職員によっておむつが取り替えられるのだが……この白い皺くちゃの紙ほど屈辱的で憎いものはない。介護職員はわたしのためによく働くが、たぶん、白い目でわたしを見ながら、粗相の始末をしているだろう。その瞬間というのは、わたしは赤ちゃん返りを強いられる。お前も将来的にはわたしのようになるのだから、せいぜい今苦労しておくんだな、と思ったりもするが、もはや舌が上手く回らないので、心の中でそう思うことしかできない。


 よっつ、目を閉じて、眠る。

 夢の中は楽しいので、進んで眠るようにしている。次に目を覚ました時にわたしの心臓は果たして動いているのか、と疑問に思ったりもするが、わたしは体は動かないくせに心臓はたいそう強いようで、実際のところ、まだ止まる気配はない。



 日々、自尊心だけは未だにすくすくと肥大してゆくが、一方で、骨は細り、体の機能は退化してゆく。



 実は、ここ『陽気な箱庭』では、入居者は一日に三〇分ほど、介護職員を一人指名して、五十音の書かれた大きなボードを使って『おはなし』をする時間を取ることができる。誰とも話さなくなってから久しく、今更誰かと意思伝達を図りたいなどと申し出るのも憚られる。


 だが本当は……


 とってもお話がしたいのだ。


 昔は、なぜ年寄りというのはああも話が長いのか、と思っていたが、今になってはよおくわかる。


 寂しいのだ。


 話したいのだ。


 己がまだ社会の歯車であると信じたいのだ。


 だがわたしがいるのは、機械仕掛けの大工場ではなく……


廃品置き場ジャンクヤード』である。



 ああ、ふと、こんなことを思い出した。



——わたしは若い頃、家政婦派遣の会社をやっていた。


 ドラマで見るようなステレオタイプ的家政婦、つまりお金持ちからの依頼で綺麗な邸宅で優雅に家事をするような例は少なく、顧客の大部分は単身の年寄りだった。


 ある時、八十ほどの一人暮らしのお婆さん……今のわたしよりも若いが、とにかくそう呼ぶことにするが、そのお婆さんが、体の節々が痛むので家事をやってほしいと、わたしの店に電話をよこした。そして。わたしはその日のうちに見積もりのためにお婆さんの自宅を訪れた。


 お婆さんの家は、可もなく不可もない狭めのワンルームのアパート。典型的なお年寄りの部屋、という雰囲気だった。


 わたしはいつも通り、どんな家事のサービスを希望するかをヒアリングして、見積書に書き込んでいると、お婆さんは突然こんなことを言い出した。



「言い忘れてましたけどね、うちにはね、わんちゃんがいるんですよ」



 わたしは、嘘をつけ、と思った。なぜなら、わたしは犬アレルギーなので、もし犬を飼っているのなら、家に上がってすぐ体調が悪化するはずだからだ。その時わたしは元気そのものだった。それに、ペット独特のにおいもしなければ、ペットのトイレやケージ、フードボウルなども見当たらない。おそらくは、ただの年寄りの妄想か、認知症の類だろうと予想した。そしてこちらは会社の人間として来ている手前、あまり疑ってかかるのもトラブルの種になりうるなので、ひとまず、お婆さんの話に乗っかってやった。


「そうだったんですか。わんちゃん、いいですね。犬種は何なんです?」


 本当は、お婆さんの戯言にも人様の犬にも、わたしは興味は一切なかったが、これも仕事だと思って、そう尋ねた。


 すると、お婆さんはこう言った。


「それなら見せてあげますよ。キャンディちゃんって言うんですけどね、今連れて来ますから」


 お婆さんはゆっくりとベッドの方に向かうと、ふわっとかけられた掛け布団の中から、あるものを取り出した。


 犬のロボットだった。


 わたしは、お婆さんにあらぬ疑いをかけたことを反省した。


 そしてわたしは犬のロボットを前にして、なんと言うべきか迷ったが、言葉を選んでこう言った。


「可愛いわんちゃんですね。女の子ですか?」


 そう、ここは本物の犬と同じように接するべきだ、と判断したわけである。


「ええ、女の子なの、まだ一才だけど」


 お婆さんは、ゴツゴツとした金属塊のキャンディちゃんを胸に抱き、その頭を撫でてやっている。


 わたしは、このお婆さんにとってキャンディちゃんは、大事な家族であり、話し相手であるのだと、しかと理解した。


 また、少なくともわたしから見て、お婆さんは『孤独』に見えなかった。


「にしてもあなた、よくわかったわね。そんなあなたに、特別にキャンディちゃんの芸を見せてあげるわ。キャンディちゃん、飛んで! ほら、キャンディちゃん、飛んで!」


 力強い、ジャンプ。


 からの、宙返り。


 キャンディちゃんは、お婆さんの声に反応して、くるっと、バック宙を決めてみせた。


「キャンディちゃん、偉い偉い。あなたは本当にすごいわ」


 お婆さんは、再び愛犬の頭を優しく撫でる。


 すると、キャンディちゃんは、ゴロンと寝転んで仰向けになり、さらなる愛撫を求めた。


 お婆さんがそれに応じて、何度も何度も、キャンディちゃんの全身を撫で回す。


 キャンキャン、と泣くキャンディちゃん。


 キャンディちゃんの、飼い主のお婆さんを楽しませる姿は、本物の犬も顔負けだった。


 彼女らの姿は、もはや家族であり、お婆さんがキャンディちゃんに投げかける言葉のひとつひとつは、自己満足でべらべらと御託を並べる年寄りのそれとは、まるで違った。


 わたしは、彼女らを見て、思わず涙が出た。理由はうまく説明できないが、とにかく自分の見ている光景を、尊いものだと、脳が認識したのだろう——




 そんなことも、あったなぁ。


 脳という記憶媒体は偉大である。


 わたしは、百一年分の思い出の引き出しの中から、当時の感情を抽出し、噛み締めた。


 そして、まだ遅くない、と思った。


 呼び出しボタンを押す。


 すると、いつものように、不機嫌な表情の介護職員がすぐに駆けつける。


「どうされましたか? トイレですか?」


 介護職員は皆、年寄りのプライドを思いやって『おむつ交換』などとは呼称せずに、そう『トイレ』と呼ぶが、今回は、トイレではない。


 わたしはいつも糞尿を処理してくれる介護職員の目を見つめた。


「あら、初めて目を合わせてくれたんじゃありませんか?」


 そう言う職員の表情は、なんとなく、いつもより柔らかい感じがする。


 そしてわたしは口元に手を持っていって、グー、パー、グー、パーと手を開いたり閉じたりを繰り返した。


 「おはなし」を求めるジェスチャーである。


「わかりました、私、今暇なので、お相手しますね」


 職員はすぐに、ひらがなが書かれたボードを取り出してくれた。


「じゃあ、文字を指さしてみてください」


 職員がボードをわたしの方に近づける。


 まずは右上の方から。


「い」


 次は左へみっつ、下へひとつ。


「つ」


 左へみっつ、下へふたつ。


「も」


 右上に戻って、


「あ」


 左上から、右下へひとつ。


「り」


 右上の「あ」に戻って、左にひとつ。


「か」


 そのあとでボードを二回、カチカチと叩く。


「が」


 右下の「お」へいって、左へみっつ。


「と」


 「お」に戻って、上にふたつ。


「う」


 介護職員の目を見ると……


 潤んでいる。


 そして、


 わたしは、


 ゆっくりと、


 目を、


 閉じた。



〈完〉

 

 

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