巣篭もり卵
江古田煩人
巣篭もり卵
つくづく
ことに朝飯には念を入れて、品数は少なくとも滋味のあるものを揃えようと苦心していた。私が朝早く、三時とか四時とかのまだ日も昇らないような時間にアパートへ戻ると、ぷうんと味噌汁の甘い香ばしい匂いが私を出迎え、そうして小さな卓袱台にはきちんと二人分の朝食が並んでいるのである。
食わない代わりに鉋は料理をこしらえるのが大層得意で、またそれを娯楽の乏しい我らの暮らしにおける数少ない楽しみとしていた。食に関しては鉋は人一倍目が肥えているようで、肉でも乾物でも青物でも、他より質のよいものを選んでくるようだった。いつだったか、鉋が銭湯の掃除で腰を痛めたというので私が代わりに買い物に行ったのだが、見てくれだけで選んだ大きな大根をいざ切ってみると、ものの見事に
なかでも鉋が大層好んで作ったのが巣篭もり卵であった。鉋自身が考えついた献立なのか、それとも中心街にこれと似た料理を食わせる店があるのかは知らないが、たまに大ぶりの
鉋が居なくなってもう十二年になる。ある年の暮れに、番頭とやくざ者が言い争っていたのを止めに入って、突き飛ばされた拍子に番台の角で頭を打ったのだ。即死だったらしい。これがよその銭湯であったなら大事になる前にその場でばらされていたようなものの、鉋の死体をそっくり私に返してくれたのはまったく顔馴染みである番頭の温情に他ならなかった。線香の煙がたなびく狭い奥座敷に仰向けで寝かされている鉋の顔は、臨終の床で穏やかに眠っているようにも見えた。私の手元には華奢で白い鉋の骨だけが残った。
鉋が居なくなって、私はようやく自炊に手を出した。しかし自分でこしらえるものは金平でも卵焼きでも相当に不恰好で、一人だとなかなか箸を伸ばす気にならないが、あの巣篭もり卵だけは今でも玉菜を見かけるたびに作って食う。やわく温かくとろりと舌に絡む、鉋のこしらえるあの甘い蜜柑色を私は今でも夢に見るが、私の腕では火の通り過ぎたぼそぼその黄身を味気なく食むほかない。もし鉋のと同じぐらいうまい巣篭もり卵を食わせる店がどこか中心街の中にあるなら、私は死ぬ前に一度、鉋を連れてそこへ行ってみてもよいと思っている。
巣篭もり卵 江古田煩人 @EgotaBonjin
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