Ep.8 Bliss

 思えば、リアンはラドフォード家に陥れられる前のハーツホーン家を、スタンレーとヴェラを知らない。家が傾く大事は確実に彼らから余裕を奪ったのだろうし——実際見えないところで彼らも『姉様』と同じくらい大変な生活をしているであろうことくらい、理解できている。特に使用人を三人召し抱え続けるのは、口止めのためとはいえ大きな負担になっていただろう。

 いつだったか、どこかで「子供が愛しくない親なんているはずがない」と誰かが言っていた——スタンレーやヴェラもそうならば、彼らもなんて可哀想に。

 リアンは汚れてしまった上衣を脱いで、スタンレーとヴェラが話している応接間の扉の前に立った。これは期待か、それとも恐怖だろうか。すぐにでもその素顔を暴きたいと思っていたのに、いざここに来るとなかなか前に踏み出せない。しかしぎりぎり聞き取れない話し声に焦れて、リアンは扉を叩いた。使用人の三人と叩き方が違うのはすぐに伝わってしまっただろう。開けてもらうのを待たず、木製の扉を押す。

「誰?」

 ヴェラが少し警戒を滲ませた声を上げる。

「——お父様、お母様」

 緊張に震えそうになるのを堪えて呼ぶと、二人の視線が一斉にこちらを注視する。短くなった髪、粗朴なシャツ姿、一層愛想のない顔つきは、一体二人の目にどう写るのだろう。彼らは、在るべき姿に戻った一人息子にどう思うのだろう。

「おかえりなさい。……夕食、準備できたみたいだよ」

「ふざけているのか」

「——、ごめんなさい。……オスカー様は……」

 思わずふっと視線を逸らして、絨毯の模様が目に入って我に返り、言葉を止める。もう『姉様』は殺したのに、無意識にいつも通りの応対をしてしまっている。短く舌打ちをすると、スタンレーのかける圧が何倍にも重くなった。「リアン?」ヴェラが驚いて怒声を放つ。

「何のつもりかしら? ああ、大事にしていた髪は? お洋服は?」

「違うよ。これは自分でやった」

「……何ですって?」

「お母様。……お母様は僕のこと、好きかい?」

「……?」

 脈絡のない質問に、ヴェラは戸惑いながらも答える。

「ええ、愛しているわ、私の子」

「——本当?」

 否定されることを覚悟して恐る恐る訊いたリアンは、それを聞いて顔をぱあっと明るくした。すかさず、「だからそのふざけた態度をやめて頂戴っ?」と怒鳴られるまでの、少しの時間だけは。

「、ごめんなさい。……僕は……」

 やっぱり選ばれるのはいつも、『姉様』なのか。お母様は酷い人だ、とか、何も分かってない、とか、言おうとしていたことはたくさんあった。けれどもどうしてかそういう言葉はこの時出てこなくって、腕をだらんと下ろして拳を握る。……悔しかった。あんな事件に遭っても、これまでの装いを捨てても叱責しか貰えない自分が。

「何か言いたいことがあるの?」

「お母様……」

 リアンはいっそ呆れを覚えて、観念して呟いた——今しか言えないと思った。

「……僕はっ、……どこまで、どうやって完璧に応えきれればよかったの? ……『姉様』の振りをするのが忌々しくない時なんてなかったし、貧乏な家が嫌だったわけでもない。それでも、姉様のことが好きで、いつか返り咲きたくて努力しているお父様とお母様のために、何年も我慢してきた」

「…………」

「僕はそうしてきた。……なのに、今、僕への心配とかの言葉もないの? 僕は……、おまえたちがいい親であってくれたら、多分それだけでよかったのに。ねえ」

「リアン」スタンレーが口を開く。

「言ってやるっ。は、おまえたちのことを好きだったことなんて一度もない——それでも、待っていたのに! おまえたちが言う愛なんてのは偽物だ……そんなもの、どこにもない‼︎」

 一世一代の叫びを上げたリアンに、しかしスタンレーは調子を変えず、また一つため息を落とした。リアンは、返事をもらう前なのに既に泣きそうだった。

「卑しい論を並べ立てるな、聞き苦しい! 愛だと? そんなものは、お前が『良い子』であったらの話だ……。使えない子になったな、リアン」

「……。は、はは」

 もはや乾いた笑いしか出ない。そんなのおかしい、と言い返したかったが、もう期待する心も枯れ果てた。目は痛むだけで、涙が滲むことはない。

 やっぱり最初から、諦めるのが正しかったんだ。

「……じゃあせめて、今日は、話をしながら、最後まで一緒にご飯を食べてよ……。家族水入らずでさ。……その後は、また、前よりもっとちゃんとするから……お願い」

「————」

「そうね。そうしましょう」

 リアンはきっとまた何か吐き捨てられる、と身構えたが、意外にもスタンレーよりも先にヴェラがそう言ったことで、リアンの提案は受け入れられた。スタンレーは正気を疑うようにぎょろりと眼球をヴェラに向けたが、ヴェラは全ての目でリアンを見て、立ち上がって食卓へ歩き出した。八つの視線を向けられても、不思議と体は竦まなかった。

 ——ハーツホーン家の食卓は、いつも使用人たちによって事前に用意される。今日もタバサは誰もいない食卓に全ての料理を並べ終えており、彼女がもう来ないとしてもリアンらが厨房に行く必要はない。だからと言って使用人が全く入ってこないことは今までなかったが、ヴェラはリアンが「家族水入らず」と言ったことを覚えていたのか、タバサがいないことは怪しまれなかった。

 いつもと同じ席について、向かいのヴェラの落ち着いた様子を見て、リアンはなかなか今の状況に現実感を見出せずにいた。……ただ、心底とても嬉しいということだけは間違いない。

 カトラリーを手に取る時の僅かな雑音に背中を押されて。リアンは思い切って、「今日はどこに行ってたの?」と訊ねてみた。ヴェラが手を止めて、「仕事よ。途中から、それどころではなくなったけれど」と答えている間、スタンレーはやはり無言で先に手を進めていた。

 していただけに、その警戒が見えない仕草に、リアンは少し悲しくなった。スタンレーは、そもそもリアンの能力を何一つ信用していないのだと思う。

「それどころではなくなったって? 何かあったの?」

「——オスカー・ジャーヴィスが死んだそうよ」

 ヴェラは淡々と言って、リアンの反応を窺うように沈黙を落とした。オスカーとリアンの関係は密やかなものだった、が……あの時一緒にいたのがリアン・ハーツホーンであるということは、遅かれ早かれ必ず辿られるだろう。リアンは彼の従者に顔を見られているし、最初の手紙で、オスカーはリアンのことを父親に話したと言っていた。そして——オスカーが遺した現場の絵に描かれているのは、クラリッサではなく黒髪の少女だ。

「……原因は?」

「驚かないのね。……殺されたのよ。噂によれば、凶器はブッシュネル家に保管されていた剣身で、現状事件当時姿が見えなかったクラリッサ・ブッシュネルが容疑者だそうだわ。でも、彼女はパニックで、殺したのかに首を横に振る以外何も話せないらしいの」

「説得力がない否定だね。クラリッサ嬢が殺したってことにはなってないの?」

「ジャーヴィス家はもう断定しているわ。ブッシュネル家が猛反発しているの」

 ヴェラは言って、改めてリアンを見た。リアンは、自分とは関係のないことのように振る舞った。ハーツホーン家にとっては、オスカーはターゲット。情を持っていなくても不自然なことではない。スタンレーとヴェラにとっての違和感があるとすれば、リアンがオスカーと築いたミッション達成への道のりがパーになっても焦っていないことの方だろう。

 リアンはそれを分かりつつ、悪びれなく問うた。

「——でも、そもそもさ、お母様、お父様、僕を女として嫁がせたとして、その後はどうするつもりだったの? 僕だっていつまでも子供じゃあないんだから、いずればれるでしょう?」

 リアン・ハーツホーンは確かに少女のようだったが、服を脱がせば女らしさなど欠片もない。それを見れば、いくら相手がリアンを心から好いていたとしても一巻の終わりだろう。ヴェラは、「それは……」と決まり悪そうに息を呑んで、ばらばらに視線を逸らした。

「——お前がに遭えば解決する話だった」

「……は?」

 代わりに答えたのはスタンレーで、リアンはそのあまりにも無責任な言葉に目を丸くした。——所詮偽物は、彼らにとって最初から使い捨ての道具でしかなかったと?

 ——そんな。実の息子を相手にそんなことを考える人間がいていいものか。やっぱり、スタンレーとヴェラはどうかしている。どうかしてしまうほど、なのか……。

「リアン。辛いか? 悲しいか? 隠さなくていい。お前はオスカー・ジャーヴィスを気に入っていたな」

 スタンレーは、リアンが知る中で一番感情的に嘆いた。

「私も辛く悲しいよ、リアン。……だが、お前はまだ私の役に立てる」

「…………」

「今お前が自ら命を絶てば、お前は苦痛から解放され、私達はブッシュネルのを得ることができるだろう」

 じいっと二つの黒点に見つめられて、背筋が凍る。

 これが『姉様』なら、罪悪感に負けて本当に言う通りにしてしまっていたかもしれない。しかしリアンは頷かず、穏やかな憐憫を以て微笑んだ。もう、リアンは怒りを覚えない。何を言われたって、もう構わない。

 何故なら、彼らを救済できるからだ。リアンはこの時、目を逸らさなかった。

 ——マルヴィナを殺した後、リアンは三人の帰りを待ちながらトレイシーの部屋にいた。唯一の若い男性の部屋で、仮にもずっと一番近くにいて慣れ親しんだ空気感だったからだ。トレイシーの部屋はやはり簡素だったが、……一つだけ、何か分からないものがあった。クローゼットの中の箱の中の、色付きの瓶たちだ。

 その時は掃除用品か何かだろうか、と思っていたが、タバサを庭園に立たせてから理解が及んだ——あれは毒物だと。彼が何を考えてそんなものを私的に保管していたのかは知らないが、彼はもうここに帰ってこないのだから、リアンが使ってしまっても誰も文句は言わない。

 突然、スタンレーの椅子が微かにずれる音を立てた。彼は俯いて、片手で胸元を激しく掴み、不規則に声の混じる咳をしだす。不快な光景だったが、リアンはゾクゾクと期待に甘く痺れて、口角が吊り上がるのを抑えられなかった。

「……どうしたの? 大丈夫?」

 ヴェラが不安そうに、彼に声をかける。聞き苦しい呻き声が耳を通り抜けていく。リアンの耳にはファンファーレが聞こえていた。

「お父様……」

 心配しているとも取れる素振りで近づくと、スタンレーは見ているこちらまで呼吸が詰まりそうなほど悶え苦しんで椅子からずり落ち、膝をつく。ごぽっ、と喉から垂れ流された液体には血が混ざっていて、トレイシーはなんてものを用意していたのかと、リアンは思わずまずそう戦慄したが——同時に解放の実感が込み上げてきて堪らなかった。そして、スタンレーが、顔を上げた。

「ふふ」

 お揃いの黒い双眸と黒い髪、厳しい表情によってできた皺の多い艶のない肌。血色の悪い唇はわなわなと震えていて、それをリアンは見下ろしている。。喜色の吐息を漏らすと、ヴェラは「リアン……? お、おまえが何かしたの?」と、戸惑いの声を上げた。リアンは彼女に視線をやって、ニコッと笑いかける。

「やっぱりお父様もそうだった。本当は、お父様もこう在りたかったんだよね? こうやって、穏やかに……。遅くなって、ごめんね」

「……ま、待ちなさい! 話をしましょう、リアン、ね、落ち着いて。早まらないで」

「お母様も大変だったから、頑張った分天国に行けるかもね……」

「どういうこと、」

 リアンは悶えるスタンレーの体を「よいしょっ……」と細腕で頑張って持ち上げて、ひとまず座り直させると、ヴェラの両肩に手を置いてやんわりと彼女も座らせた。首で振り返ったヴェラは、スタンレーに気を取られつつもリアンの動きを注視している。その困惑が愛らしい。

「出来損ないでごめんなさい、お父様、お母様。本当は、可愛い娘を普通に愛したかったんでしょう? そうだよね。こんな情勢で、僕が出来損ないだから、そうできなかったんだよね?」

「あ、あ——」

「だよね。……うん、分かってるよ。許してあげる」

 リアンはヴェラが手をつけていないスープを掬ってやって、彼女の口元に差し出した。ヴェラは珍しく押され気味で、口の端から一筋こぼしながらもそれを口に含んだ。いいや、興奮して少し強引だったかもしれない。

「お母様。僕はずっと、何でもない話をしながら、一緒に食事をしたかったんだ。叶えてくれるよね?」

「——。げほっ。ごめんなさい、リアン——」

「どうしてお母様が謝るの」

「……一緒、に、食べましょう」

「————」

 リアンはぱちくりと瞬きをして、「うん」とひとまず返事をした。それから、ヴェラの向かいの席に戻って、ゆっくりと料理を口に運ぶ。食材の一層一層をいつもよりもじっくりと味わいながら、リアンは、向かいに鼻筋の通った美しい女が座っているのを見て、ようやくふわっと幸せな笑みを浮かべた。ヴェラもまた、料理を口に運ぶ。その綺麗な双眸は泣き出しそうな緊張に揺れていたが、リアンの笑みを見て、悲しそうに柔らかくなった。その眼差しに見つめられて初めて——リアンは、自分は愛されているのだと、感じた。

「えへへ。やっぱりタバサは何でも上手だよね。今日も美味しい」

「——ええ。そうね……」

「嬉しいなあ、こんな日が来るなんて……。——そういえば、お母様は魚料理が好きでしょう? どう、当たったかい?」

「……ええ——」

「ふふ。あはは」

「…………」

 思ったままを彼女に話すのがあまりに楽しくて、リアンはスープが冷めるまで喋り倒した。これまでのこと、ヴェラのこと、スタンレーのこと……そして、オスカーのこと。他愛ない思い出の話をたくさん。

 そうしてリアンが食べ終わる頃には、二人は酔い潰れたみたいになっていて、リアンは思わずクスリと笑った。

「お母様、お父様、タバサが待ってるんだから。仕方ないな、——僕に任せてよ。これでも男の子なんだからね」


      ■


 また血や吐瀉物が付いてしまったので、リアンは部屋で再び着替えることにした。そうしている内にもう、すっかり外が暗くなってしまった。欠伸をしながら、汚れた服を脱いでベッドに寝転がる。意識はぎらついているが、やはり無意識のところで疲れは蓄積されているらしい。しかし、やはり今晩のうちにこの家を出てしまうべきだろう。

 そして、ここを出たら、トレイシーを探しに行こう。ハーツホーン家の内情を知る最後の一人——それに、あの男は唯一『お嬢様』という存在に傾倒していた。その幻を覚ましてやらないと気が済まない。

 トレイシーはどんなひどい労働をさせられているだろう。もうとっくに死んでいるかもしれないし、悪ければ戦場にいるかもしれない。それに、東へ行けば、痩せ細った子供のリアンであっても、男というだけで強制的に同じ目に遭いかねない……。目下の目的はトレイシー以外にないが、これは大きな問題だった。

 そしてそれをしながら、リアンは殺人犯として逃亡もしなければならない。何にせよ、とにかく遠くに……、

「えっ」

 突然本能的に声が出て、リアンはドキリとした。その後から、じわじわと状況を理解する。——喉に、僅かな光を集めて輝く切っ先が突きつけられている。「……?」という呟きが耳元で聞こえて、リアンはまた「うわっ」と声を上げた。

「と、?」

「……よかった、……ご無事で」

 聞き慣れたぼやけた声で安堵を表現したトレイシーは、ゆっくりと離れて言う。

「遅くなって申し訳ありません。ただでさえ長く離れていたのに、今日、オスカー様の件を耳にしてから、ずっと生きた心地がしませんでした。——それと、……今、この家で何が起きているか、知っておられますか? この部屋も血の匂いがするのは、オスカー様のものでしょうか」

「……、び、びっくりした。いつの間に入ったの?」

「すみません、犯人があなたのことを狙っているのなら止めなければと焦りまして。マルヴィナは何をしてるんですか? こんな時にあなたを一人にするなんて。——私がいるからにはもう大丈夫です。相手が何者であろうと守ってみせます」

 どうやら、トレイシーは庭の方から入ってきて、タバサとスタンレーとヴェラの死体を見つけたようだ。しかしまだ、目の前にいるのが目当ての人物でないことには気付いていないらしい——『お嬢様』と久しぶりに会えて嬉しいのか、彼は鬼気迫りつつも生き生きとしている。リアンは努めて冷静になろうとした。まさかトレイシーが帰ってきているなんて思わなかったから、今リアンは何も武器を持っていなかった。

「……挨拶が遅れましたね、ただいま戻りました。本当に、お久しぶりですね」

「……そうだね」

 リアンは適当に同意して、ベッドに倒れ込んでトレイシーの腕を引いた。予想外の動きだったのか、トレイシーは慌てて枕元に得物を置く。リアンは目敏くそれに気づき、そっと手を伸ばして指の関節で触れ位置を確認してから、その延長線上にある窓枠を指で叩いた。トレイシーはそれだけで意図を察して、カーテンを開けてくれる。ゆったりと月明かりが差し込んで、少しだけお互いの姿が見えるようになった。トレイシーの格好は、使用人であった時よりも随分見窄らしい。リアンはトレイシーの首に腕を回して引き寄せた。

「ふふ、待ってたよ、トレイシー」

 額が触れそうなほど近くで、リアンはその何もない顔に驚きが浮かぶのを想像してにっこりと笑う。

「キミがいなくて不安だった」

「——ええ、。私もです」

 しかしすぐに淀みなく返されて、リアンの方が調子を崩された。そのままのっぺらぼうを見つめていると何だか不安になってきて、何となく「……キミってちゃんと、目見えてるの?」と訊ねる。トレイシーは若干面白がるような口調で「見えていますよ?」と言いながら、リアンの存在を確かめるように頭を撫でてくる。不気味で、リアンは思わずぞっとしてその手を振り払った。

「……じゃあ早く夢から覚めてくれ給えよ、トレイシー・コルディエ。——キミの大好きな『お嬢様』は、もういないんだから!」

 だがそう挑発しても、トレイシーは沈黙するばかりだった。——おかしい。リアンは悔しくて、恥ずかしくて、体じゅうを怒りが駆け巡り始めたのを感じた。

 表向きには女児であったリアンの身の回りの世話を主にトレイシーが行っていたのは、彼本人の希望でもあるが、それが許可されたのはリアンが男だからであろう。それは、ずっとそうだった。彼は、——『も、一番近くにいた。

 あくまで他人である『姉様』は記憶が欠けているが、リアンは覚えている。それまで、リアンの世界で彼だけはではなくて、慈愛に満ちたでリアンを見てくれた。

 彼だけは、女物の服を着るのを嫌がるリアンに寄り添ってくれた。彼だけは、折檻で受けた傷をこっそり手当てしてくれた。彼だけは、『姉様』が眠った後のお喋りに付き合ってくれて、街に行ったら自分が欲しくなったからと言ってリアンが欲しい物を買ってくれて、それは結局取り上げられてしまったのだけれど、どんなに叱られてもリアンのための意見を曲げなくて、最後に「ばれてしまいましたね」とわざと悪戯っぽく笑ってくれた。

 だけれど、『姉様』が——『お嬢様』が、その全てを奪ってしまった。それでもリアンが『姉様』を殺した今、彼はその忌々しい夢から覚めてくれるはずだった。

「トレイシー……今、キミはどんな表情をしてるの」

「——そう、ですね……。自分では分かりません。あなたにはどう見えますか?」

「…………」

「とっても、だらしのない顔をしていると思うのですが……」

「どうだろう」

 声もぼやけたままで、感情を読み取ることはできない。——見せて欲しい。リアンはつう、と彼の首筋を指先でなぞって、緩慢に彼のシャツのボタンを一つ外した。縫い目を辿り、二つ、三つと同じようにしながら起き上がり、脱がしたシャツを放っても抵抗しないその体を反対に押し倒していく。これでも、『お嬢様』と同じ顔と体だ。トレイシーが息を呑んで、自らベッドに背を預ける。その間にリアンは、先程の軌道を思い出しながら手を後ろに伸ばし、針を手繰り寄せた。

「トレイシー。そういえば、ご両親のことは大丈夫かい? キミが見た通り、ハーツホーン家はこんな有様だし、これから腐っても商家のうちより額を出してくれる場所が他にあるかどうか……」

 彼の肌は汗ばんでいる。ある程度引き締まった体は、少し痩せたように見えた。ベルトに手を掛けると、彼は少し顔を逸らしながら「そうですね……」と曖昧に答える。

「私は、ずっとあなたのためにここで働いてきましたから……あなたが雇って下さらなかったら、困ってしまうかもしれませんね」

「病は重いの?」

「ああ、ええと」

 トレイシーは少し気まずそうにして、困ったように首を傾げた。

「——私の両親は、。昨日一昨日の話ではなく……リアン様と出会った時には、既に」

「え?」

「すみません。ですが、お嬢様は、私がこの家を出て行かないことに罪悪感を覚えてしまわれるかと思いまして。……ですから、私のことは何も心配しないで下さいね」

「——違う、」

 リアンは目を見開いて、言った。

「キミは僕にも、両親が危篤だって言った。——嘘を吐いてたの?」

「嘘……といいますか。あなたに、余計なことを考えて欲しくなかっただけです」

「キミがこの場所に留まる理由は、なかったんだ……」

「いいえ。あなたを支えることが、私にとっては」

「——口先ばっかり‼︎」

 胸の底から何かがこみ上げてきて、リアンはトレイシーの言葉を遮って叫び、その剥き出しの胸元に針を突きつけた。それを見てか、トレイシーが悟ったように「なるほど……」と呟く。

「……私のは、あなたの役に立ちましたか?」

「あんなもの、主人の手の届くところに置くものじゃないでしょう。……まさか、全部わざとだったの? ……」

 リアンは強く歯軋りをして、怒りに身を任せて怒鳴った。

「……そこまでして、それならどうして、! 外に行けば、僕は僕のままでいられた。『姉様』に体を明け渡さずに、ずっと僕こそがキミと友達でいられた! あれだけ一緒にいたのに、僕がどうして欲しいか分からなかったの? ……そうでしょうね、キミは『お嬢様』が好きだから」

「————」

「キミにはうんざりだ。ここで死んで——どうか、美しく終わってくれ給え」

「リアン様」

 ぐっと、手に力を込めて。どうしてか目を瞑りたくなったが、自分はクラリッサとは違う、と言い聞かせて開いたままでいた。それでも力んで視野が狭くなっていて、トレイシーが視界の端からリアンに手を伸ばしたことに、気付かなかった。

 トレイシーの手はリアンの後頭部と背とを抱いて、引き寄せた。リアンの体が傾き、同時にトレイシーが体を少し起こす。構えた針が一気に深く突き刺さる感触が手に伝わって、——ガツン、と痛い音が前歯に響いた。その正体が何であるか理解できないまま、息を止めたリアンはあまりの衝撃に眩暈を覚えながら、ひとつ、瞬きをした。

 はあ、と漏れた吐息は、どちらのものだったか。

「……ああ、やっと、目が合いましたね。リアン様、と呼べば、あなたは嬉しいですか」

 複雑に歪んだ表情をした彼のグレーの瞳に、間抜けな顔をした自分が写っている。彼は朧な記憶よりも精悍な顔立ちをしていて、しかしそのどこか子供っぽい、リアンが好きだった性質は変わっていなかった。明瞭な声色は、穏やかだがしっかりとした大人の男のものだった。

 その頬は僅かに紅潮し、細められた目尻はリアンを愛おしげに見上げる。彼はそれから、微笑んだ。

「……私にとってあなたと、あなたの言う『お嬢様』は、どちらも同じ『リアン様』でした。女性の格好をしていても、あなたは綺麗だった……。でもあなたは、嬉しくなかったんですね。私の私情のせいで理解が及ばず、すみませんでした。……こんなこと、もう、あなたには綺麗事の言い訳のようにしか聞こえないでしょうが……私は、ずっとあなたに、……両親に愛される子供になってみて欲しかったんです」

「、……」

「本当は——俺が理不尽な彼らを殺して、あなたを連れ出して差し上げたかった。何度そう思ったか知れません。毒殺の勉強もしました。……でも、俺は、あなたの姉が死んだ時の、スタンレー・ハーツホーンの涙を、覚えていたんです。……だから、後に産まれたというだけであなたが愛されないのが悔しくて仕方がなかった。それに、オスカー・ジャーヴィスと関わり始めたあなたは、本当に楽しそうで……もしかしたらと、……そんなふうに甘えているうちに、あなたは……俺がいなくても、しっかり、ご自分で道を拓いて行けるようになられたご様子で……」

 トレイシーの眦に、涙がじわりと浮かんだ。彼の胸には、タバサを殺したのと同じ針が突き立っている。その儚さが吐露される激情と混じり合い、美しく咲いている。トレイシーの腕から力が抜けていって、指がリアンの頬をなぞりながら下ろされる。

 この時こそ、リアンは一番激しく痺れた。息が弾み、体温が上がっていくのを感じる。それでもまだ足りない。

 この美しい男を、もっと引き立たせるには。

 リアンは衝動に任せて、熱に浮かされたまま、もう一度トレイシーの唇を奪った。馬乗りになり、粘度の高く感じる濡れた舌を舐める。

「トレイシー、……」

「あ……んんっ、はぁっ、」

 無意識のうちに足を彼の胴に絡めると、トレイシーは甘い声を漏らして身を捩った。死に際とは思えないほど生の躍動を感じる仕草で、彼の手がリアンの体に触れ、腰を強く撫でると、リアンは何故だか己の瞳を湿らせた涙液が熱いと思う。

「はあ……リアン様っ、」

「トレイシー……好きだよ」

「ああ……、っ」

「キミが一番綺麗だ」

 吐息混じりに囁くと、トレイシーが身を震わせ、感極まって息を呑む。毒のせいか、それとも毒よりも強烈な何かのせいかチカチカと揺れる瞳孔にますます惹きつけられて、リアンは彼の腕の中に甘えるように収まりながら、その表情を目に焼き付けた。

「……そうだ、ここを出たらやってみたいことがあったんだ」

 ふと言うと、トレイシーはますます嬉しそうにする。その優しさが、リアンをまた震撼させる。

 そう、リアンはこれから自由になるのだ。

「——芸術家みたいに、自分が美しいと思うものを示し続けるんだ! そうしたら、みんな本当に幸せに、綺麗になれるでしょう!」

「ええ、ええ、あなたはもう自由です。……この先何があろうと、私はずっとあなたの味方です、リアン様」

「ありがとう。僕も、ずっと忘れない。……キミが、最初の傑作だよ。トレイシー」

 そう言って、リアンはこの恍惚がより濃くより長く続くことを求めて、トレイシーの首筋に擦り寄る。彼はそれを優しく抱き留めて、昔してくれたようにリアンの髪をなぞり、口の端からこぷりと死の香りのする体液を垂らし、咳き込んだ。リアンはその苦しそうな音を聞くのが嫌で、トレイシーの首に指を伝わせる。

「っ、! う、……ーっ、はーっ……、……、‼︎」 

 押し付けて、途端にガクガクッと跳ねる体をあやすようにしながら、蕩けた彼のまぶたに、頬や額にキスを繰り返し、そうしていると頭がぼーっとして、これまでの苦痛なんてすっかり忘れてしまった。ただ幸せだけがあった。リアンはここで、きちんと愛されていた。やはり死は、本来愛し合う相手との齟齬ある認識の全てを取り払い、完璧な美しさを顕にしてくれるのだ。

 二人は、トレイシーの心臓が止まるまで、ずっとそうしていた。

 永遠が過ぎた頃、はあ、と混じり合った体温で熱い吐息を吐いて、リアンは体を起こした。ベッドは乱れたまま、リアンはトレイシーが着ていた服を身に纏う。これで、身分を偽るエピソードには事欠かない。

「……じゃあね。トレイシー、」

 さあ今夜、リアンは自由を手に入れる。そして、終わりのない旅に出る。

「お父様、お母様、タバサ、マルヴィナ——大好きだよ」

 ハーツホーンの黒髪は夜闇に紛れ、少年の軽快な足音が、遠ざかっていく。そうして二度と戻ってくることはない——リアン・ハーツホーンの名は、オスカー・ジャーヴィスの名よりも遥かに衝撃的に、周辺諸国にまで伝わっていくことになる。

 謎に包まれた、連続殺人鬼のとして。



〈了〉


2022.11.08 初稿

2024.06.25 改稿

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Lian / うつろいの少女 清純派おにロリ推進委員会 @LoveAndPease

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