Ep.7 Lian

「おかえり、姉様」

 ……あれから動転したマルヴィナに連れ帰られ、新しい服を押し付けられて、リアンは部屋に押し込まれ、気付けばぼんやりとした思考のまま、壁側を向いていた姿見を引っ張り出してその布を剥いでいた。リアンの憔悴しきった顔を見て、少年が心から嬉しそうに嗤う。彼はいつも怒りに突き動かされていたが、今はリアンを完全に下に見て落ち着いているようにも思えた。

「君がようやく僕に殺される気になってくれたみたいで何よりだよ。さあこっちに来て、よく頑張ったね」

 彼がリアンが欲しかった言葉をいとも容易く口にするので、リアンは思わず彼と視線を合わせた。彼は薄笑いで、黒々とした瞳でリアンをやはり見下している。それはぞっとする悍ましさを持っていたが、同時にこれで確実に終わりにしてくれるという深海の闇のような心地良さがあった。——スタンレーとヴェラが帰ってきた時のことを考えると恐ろしくて堪らないのだ。対して兄はちゃんとこうやって、リアンの頑張りを認知してくれる。

 少年が、鏡面という隔てを侵して手を伸ばしてくる。その白い指は同じ色のリアンの手の甲に触れて、そっと何かを握らせた。——ナイフ。見覚えはあった、家に隠されている、緊急時の護身用のものだ。その鈍い輝きを見て、リアンは今更ながら全身にヒヤリとしたものが走るのを感じた。

「おっと、今更待ったはきかないからね。……ああ、やっとこの時が来た——」

「っ、——」

 彼は恍惚と囁いて、するりと鏡から身を乗り出すとリアンの背後をとる。逃げられない——もしかすると最も恐ろしい選択をしてしまったのかもしれない、と気付いてももう遅い。彼は沸々と積もり積もった憤怒によって威圧を強めつつ、ナイフをリアンの首筋に添えさせた。少しでも動けば、斬られる。呼吸さえ上手くできなくなって、世界が色を失っていく。視野が狭くなっていく。思考が滞る。

「君の次は、この家の全員を殺してやる。その後は——トレイシー・コルディエも探して、殺す」

「……‼︎ ——、」

「ふふ、姉様が今思っていることは分かるよ。『トレイシーは殺さないで』でしょう」

「わ、分かってるならやめてっ!」

「ふ、ふふふ……あははははっ!」

 兄は珍しく大口を開けて、本当に可笑しそうに笑った。

「殺さないわけがないでしょう! 姉様がそんなに気に入っているものなら尚更さ!」

「な……っ、何で! 兄様が殺したいのは私でしょ⁉︎」

「口答えしないでくれ給えよ。どうせキミはもう、んだ」

「……! っ……!」

 毒のような声が脳にこびりつく。体の主導権が奪われていく。

「——姉様、僕はいつだってキミを見てきた。僕の全てはキミに奪われたのに、キミが得たものはキミのもので、僕のものにはならない……」

「ぅ……、……」

「ねえ、姉様? キミは少し長生きし過ぎたね。それもあの男のせいだ。そもそも本当はのにねえ?」

「に、にいさま……それ、は……」

「そうだ! キミを殺したらキミの名前をそのままもらおう。——ようやく、僕こそがリアン・ハーツホーンになるのさ」

 彼はリアンの言葉など聞いていないとばかりに高らかに言い、リアンに更に強くナイフを握らせる。抵抗して手が震えたが、力関係ははっきりしていた。ナイフが纏う冷気が徐々に首に伝わり、凍らせているかのように思えた。

「にい、さま……! と、トレイシーだけは……お願い、トレイシーは殺さないで!」

「さっきそう言うのは分かってるって言ったでしょう? 本当に物分かりが悪いね」

「だ、駄目だってば……っ! トレイシーを殺すなら、まだから……‼︎」

「君の命の危険はもうないんだから、そんなサービスは終わったってば。自分の立場、分かるかい? キミは僕に殺されるんだ。それともお父様にまた折檻を受けてみるかい? 今度はあれで済むかどうか……」

 ——怖い。刃が、人を死に至らしめるところを見た。このまま触れてしまえば……。

「——受け入れて。今日こそ、僕はキミを……」

「い、嫌だっ……! っ、ああ……!」

 刃が更に近づき、手が白むほどぐっと力がこもる。憎しみというより、決意に近いような殺意を呟きに乗せて、少年は少女の手を握り直した。少女の呼吸は不規則になったが、少年の手も同じくらいに震えていた。少女はきつく目を瞑っていたので、それに気付くことはできなかったが。

「トレイシー……っ! 逃げて……!」

 少年は叫んだ。

「黙れ! ……僕は今日こそ——今日こそ、——‼︎」

 ——

 ぱらぱら、と落ちたのは、伸ばされていたリアンの、ハーツホーン家自慢の黒髪だった。はあ、はあ、と息を上げたリアンはぎゅっと閉じた瞼を開き、興奮してくらくらする視界をどうにか上に動かして鏡を見る。そして思い切り、新しい服を全て胸元から切り裂き、振り払った。

 長かった髪は肩より上で終わり、重力を受けなくなった毛先が僅かに反る。すると、首から肩の少女にしては直線的な筋が晒された。痩せて骨の見える胸は幼いにしても平らで、睨み上げる濁った瞳には純朴さや愛想など感じられず、苛立ちを隠さない表情はとても淑女のものではない。は、己のそのままの姿が写った鏡を睨みつけ強張る口角を上げた。

 ハーツホーン家に生まれた第一子は、だった。だがその体は不完全で、彼女はたった三日しか生きることができなかった。両親は初めての子の運命を愛し、哀れみ、訪れた別れに深く悲しんだ。

 だが、その日、その命と入れ替わるように、ヴェラはまた一つの命を産んだ。

 母が身籠ったのは双子だった。。弟は選ばれず、愛の代わりに姉の名と性を与えられた。

「……はあ、……。……よし。大丈夫。は、からね……。大丈夫、。あんなやつら……全員、殺してやる。自由になるんだ」

 一層ガタガタと震える手を隠すようにナイフを握った右手を白くなる左手で掴んで、自らに言い聞かせるように繰り返す。骨張った傷だらけの体を、リアンは壁に掛けられっ放しだったトレイシーの上衣を纏って隠した。そうすればもう、儚く可憐な少女の印象など見る影もない。

 スタンレー、ヴェラ、そしてタバサが帰って来る前に、準備をしなければならない。リアンは丸みを帯びた靴を脱ぎ捨てて廊下に出て、扉の音が立たないように注意しながら隣のトレイシーの部屋へ入った。——『姉様』は「幸せになっていますように」なんてお気楽なことを考えていたが、彼の現在は恐らく全く良いものではないだろう。頭の悪い『姉様』は気付かなかったが、スタンレーが言及した東の地域は戦争の影響下にある。この家を出た方が良い環境になりました、なんて不名誉ことを、あのスタンレーが許すはずがない。

 トレイシーの部屋は整然としていて、まるで生活感がなかった。彼が個人的な所有物を大切にしているところを見たことがないから、特に未練もなかったのかもしれない(その代わり、『お嬢様』のためなら何でもする男だった。——)リアンは舌打ちをして、乱暴にクローゼットを開けた。クローゼットの中も仕事着ばかりが目についてスカスカだ。

 使用感のないワンセットを選んで、慎重に身に纏っていく。スカートのひらひらのない服を着るのは何年振りだろうか? 女物と違って無駄な露出がないのもいい。『姉様』との繋がりを証明する傷跡が必然的に見えなくなる。

「うん、まあいいでしょう」

 リアンは緩い袖と裾を捲り全てのボタンを通すと、すとんと素直に真っ直ぐ落ちた布を満足げに撫でた。再び上衣を肩にかけ、ナイフを持ち直すと、手の震えは先程よりも随分収まっている。ようやく、これが自分の正しい姿だというあるべき自信が湧いてきたのだ。

 リアンはさっさとトレイシーの部屋を後にして、ぺたぺたと廊下を歩き今度はマルヴィナの部屋の扉の前に立った。ふう、とひとつ深呼吸をして、コンコンとノックをする。反応がないので「マルヴィナ?」と呼びかけると、中からガタッと物音が聞こえた。

「はいっ、お、お嬢様? 少々お待ちを……」

 その後もバタバタと何かが崩れるような音がして、中でマルヴィナが慌てているのが容易に想像できた。彼女はその内片付けるよりリアンを待たせていることに意識が向いたか、部屋の中を隠すように躊躇いがちにゆっくりと細く扉を開けた。そして、ぽかんと嘴を開いて固まる。

「え、……リ、アン、さま……?」

 呟かれた名前を聞いて、やっぱり彼女も分かっていて『お嬢様』と呼んでいたのだと知った。嘴をぱかっと開けてがはっ、と吐かれたものと、腹から溢れ出るもの、飛び散る血液が上衣に染みを作る。刺さったナイフを抜いて、リアンは感慨なくその腕を掴んで部屋に押し入った。マルヴィナは混乱して、言葉にならない短い声を上げていた。ひっくり返された部屋の中にはまとまった荷物がいくつかあって、先程の慌てぶりから考えるとその目的はすぐに分かる。

「ふうん、キミ、逃げようとしてたの。これから荒れるであろうお父様のことを思うと正しい判断だろうね、——もっとも、殺したのは僕だったけれど。ふふ」

「り、リアンさま! ひ、うぅっ、ど、どういう、つもりで、」

「僕だってキミら使用人に全く感謝がないわけじゃあないさ。キミはずっと中立の立場を守っていてくれた。——けれど、それしか脳がなかった。それだけの話さ」

「す、……すみませ、すみませんでした、ごぼっ、ごめ、なさい、しにたくない、ああ、あ」

 マルヴィナは嘴を溶かしながら、頭を振り乱して狂ったように必死に訴えた。しかしリアンにはその怪我を処置できる能力もなければ、そもそも生かす気もなかった。

 ……いや、正確にはその時、リアンはマルヴィナの生死のことを考えてすらいなかった。リアンはただ——その、露わになっていくに、に、に、目を奪われていた。オスカーと同じだ。

「————」

「う、ううっ……! まっ、なん、なんでっこんなこと、」

「ちょっと、……静かにして。こっちを見て、マルヴィナ」

 一重の両目、丸い鼻、荒れた肌、無作為な癖っ毛。彼女は決して美人と言われる容姿ではなかったが、その瞳が怯えによって繊細に潤んだ時、リアンは思わず「綺麗だ」とこぼしていた。ゾクゾクと背筋が興奮に痺れている。これが、マルヴィナの本当の姿なのだと——リアンはこの時、悟った。

「は……、?」

「……姉様はずっとキミのことも怖がっていたのだけれど、どうやら、そんな必要はなかったみたいだね」

「な、なんな、んですかっ、ね、姉様? なに言って……」

「分かるでしょう。分からないなら、いつもみたいに『お嬢様』って呼べばいい……。ああ、でも、こんなに綺麗なんだからキミはきっと悪い人じゃあなくて、そう呼べってお父様に言われていただけなのかな? そうだよね?」

 マルヴィナの顎をすくって、間近で視線を奪う。そうすると気分は高揚して、途端にマルヴィナが愛おしくて堪らなくなった。

「キミは今、オスカー・ジャーヴィスの件の責任に怯えているんでしょう。もう心配しなくていいよ、マルヴィナ。キミのことは僕が殺して、僕が暴いた。さあ、もっと本当のキミを見せて?」

 ベッドが赤く染まっていき、部屋に生臭い香りが充満する。リアンはマルヴィナと、度の強いワインに陶酔するような感覚を共有しているような気がした。マルヴィナは、諦めを瞳に宿した。リアンに視線を向けたまま、虚空を見つめる。呼吸が掠れて、浅くなっている。

「そう、ですか、これで……終わり……」

「そう」

「わ、私、ず、っと……」

「うん」

「ずっと……ゆっくり……ゆっくり、安心して、眠ってみた、かった……私……朝が、来ても……あたたかい、お布団の、中で……ごほっ」

「…………」リアンは、思わず毒気を抜かれて言った。「それだけ?」

 返答はない。その間に、徐々に押し進めていたナイフがついに急所を抉った。マルヴィナはびくん、と跳ねた後、苦しげにゆっくり瞼を下ろして、リアンは暫しそのまま呆気に取られていた。

 ——そういえば、そう言う自分は自由になって、それで何をしたいのだっけ? ……これでは姉と変わらない考えなしだ。リアンは不機嫌に眉を歪めながら、よいしょと脱力した腕や足を持ち上げて動かし、姿勢を整えてみた。ベッドは呑気にも死体をいつも通りに受け止めたから、リアンはつられて彼女に刺さったナイフを抜いてケットを被せてやる。

「——これが、キミが望んだ姿かい」

 心なしか安らかに見える寝顔は、自然で且つ究極だった。リアンは感嘆して、さらりと血で汚れた手で彼女の明るめの髪を一束指に絡ませる。リアンは目の前の檻にばかり気を取られて、その先で掴みたいものの形がどんなものかを全く分かっていなかった。——その答えがここにある。何気ない時間。安らかな日常こそ、世の中に普遍的に存在し、リアン・ハーツホーンがこれまで決して掴めなかったものの正体なのだ。

「おやすみ、マルヴィナ」

 リアンは穏やかな気持ちで使用人の額にキスを落とし、飾らない所作で部屋を出た。血の匂いを除けば廊下はいつもと同じ形をしていて、ここが現実であることを教えてくれる。——死が、平等に美しき安寧の姿を齎してくれることを。

 リアンはまだ彼の、彼女の本当の姿を知らないが——知ることができるのだ。そして、愛することができる。……なんて素晴らしい。

「タバサ——お母様、お父様っ」

 歓喜のままに歌うように呼んで、踊るように廊下に出る。嬉しくて仕方がなかった、これまで憎しみや恐怖でしかなかった感情が、在るべき愛情に変わっていくことが。そして、『姉様』が終ぞ手に入れることのなかった充足感を手に入れられることが、だ。


      ■


 玄関の外に人の気配がする。オスカーの件の取り調べかもしれないという思考には至らなかった。リアンはドキドキと胸を高鳴らせながら、厨房へ入るスペースの戸棚の陰に隠れた。玄関が開き、三人分の足音が聞こえる。世界は静かで、声がよく聞こえた。

「スタンレー様、対応ハどうされまスか……」

「ヴェラと話す。お前は夕食を用意していろ」

「マルヴィナは」

「無能は不要だ。——お前は、自分の役目が分かるだろう?」

「ハイ、スタンレー様。お夕食を用意してお待ちしておりまス」

 タバサは三人の使用人の中で一番年上だけれど、老けているわけではない。むしろリアンは彼女に幼い印象を持っていた。彼女は成熟した体とはちぐはぐな、をしていて、それは

 誰かがリアンを探しに二階まで行きマルヴィナの死体を見つけてしまうことが気掛かりだったが、スタンレーとヴェラは一階の応接間に留まってくれたようだった。それに、今タバサが一人になったことは確かである。彼女はいつもより速めの足取りで厨房に来ると、リアンには気付かず準備を進め調理を始めた。タバサは使用人としての仕事の優秀さなら三人の中で抜きん出ている。食事の用意も例外ではなく、多分スタンレーは彼女を気に入っている……。 リアンは壁に凭れて、タバサが手早く料理を終えてテーブルに皿を置き終えるのを待った。

 彼女も、この家の環境下において本当の姿を隠してしまっているに違いない。勿体ないことだ。間違いなく美味しいと直感できる牛肉の焼けた匂いがリアンに纏わりつく鉄錆の臭いを誤魔化し、またどこかから僅かにバターが香る。食器の音がして、彼女が食卓と厨房を行き来し始める。

 ナイフをまた握って、そっと廊下に身を出す。タバサが離れている隙に厨房に入り、彼女から死角の位置に息を潜めて立った。狙うのは心臓にしよう。そう決めて、彼女の足音を数える。少し曲がってから、五、六、七……。

 八、と頭で唱えながら、リアンは陰から飛び出してナイフを心臓の埋まった胸めがけて振りかぶった。タバサは——しっかりとそれを捉え、急ブレーキをかけて一歩下がり、刃を回避する。リアンは少し動揺したが気を取り直し、二撃目を食らわせようとする。

 しかし、軟弱な少女であった少年と優秀な彼女では、力の差は明確にあった。彼女はリアンが認識できない熟練の動きでリアンの手首に触れると、あっという間にナイフを取り上げる。それは危険人物に対する反射的な仕草だったようで、そこでようやく彼女はリアンの顔を見てハッと動きを止めた。

「アナタは、まさか」

「……チッ。『まさか』って何? 僕が誰だか分からないかい?」

「イえ——リアン様。これハどういう……そノ血は?」

「考えれば分かるでしょう。——僕はマルヴィナの次に、キミを殺しに来た」

 タバサは眉を顰めて、「お待ちくだサイ」と焦ったように言った。

「そのよウなこと、ご冗談でもスタンレー様が知られレバ悲しまレてしまいまス」

「それって、本当にキミにとって大事なことかい? タバサ……少し話をするのもいいかもしれないね。キミがどうしてお父様に従うのか」

 落ち着いたトーンで問うたリアンに、タバサは困惑しつつも「スタンレー様ハ、昔……私ヲ拾って、助けテくださイまシタ。命ノ恩人でス」と答えた。リアンはまた、「それだけ?」と呟いて、怪訝に目を細める。

「リアン様、スタンレー様ヲ傷つけルようナことハ、してハなりまセン。私ガ許しマセン。まだ何かなさルおつもりなラ、私ガ相手になりまスよ」

「タバサは、お父様のことが好きなの?」

「忠誠でス」

「ふうん……? よく分からないけれど、——いや分かった、キミはどうやら姉様と同じで、のことに想像が及ばないんだね。可哀想に、自分が可哀想だってことにも気付けないなんて」

 リアンがそう首を捻ると、タバサは不愉快そうに「ドウいう意味でスカ」と言った。「リアン様といえドモ、スタンレー様のことヲ悪ク言うのハ感心いタシまセン」

「キミはもっと報われるべきなのさ」

「……リアン様」

「怒らないでってば。じゃあキミは、姉様のことを可哀想だとは思わなかったのかい?」

「とんでもなイ!」

 タバサは更に怒って、相手が主の嫡子であるとは思えない様子で宣う。

「スタンレー様の実子デある以上ノ幸福ハございマセンでしょウ」

「——。……、はあ?」

 リアンはその言葉を噛み砕くのに、少しの時間を要した。タバサは真剣だったが、リアンはそれを滑稽にすら思えなかった。スタンレーは『リアン』にとって確かな悪だった、実子に抑圧と暴力を重ね、支配者的に振る舞う危険人物。まさかタバサが従順なのは、スタンレーに肯定的だからなのか? ——笑えない。

「……はあ。折角、僕が本当のキミ自身を教えてあげようっていうのに! お話にならない。キミは僕を殺した姉様と同罪だ」

「何ヲ。……貴方がご乱心召さレタと知れバ、きっとスタンレー様ハ悲シまれまス——」

「もう喋らないでくれるかな。キミには強引にやった方が良さそうだ」

 リアンは再び殺気を込めて彼女を睨み、タバサはその緊張を感じ取って片足を引いた。

「教えてあげるよ。キミも、僕も、こんなところで使い潰されていい人間じゃない!」

 リアンは正義感に背中を押されて、タバサを押し倒し優位を取るために踏み込んだ。彼女がナイフを後ろ手に隠す動きを読み、主人の実子を傷つけられない怯えを利用して奪い取る。しかし彼女の、明確な攻撃の動作に対する反射は完璧だった。仕事ばかりで決して綺麗ではない手が振り上げられ——リアンの視界に影を落とす。

 その時、一時的に姿勢を崩していたリアンの動きが、次の動作に入るでもなく止まった。意思ではない。

 血の気が引いて、リアンはカランっとナイフを取り落とした。異常を感じ取ったタバサが手を引き、一歩下がる。その仕草すら、リアンには失望の発露に思えた。

「う……、違う。違う、違う違う……! 僕は、姉様みたいに、弱くは……っ!」

「り、リアン様?」

「……、本当に、苛々する。僕はただ、自由になりたいだけだっ……! みんなと、それを分かち合って許し合いたいだけだ! なのに、何で怖がらなくちゃいけないのさ!」

 タバサの在るべき姿を暴いてやらないといけない。動かなくては。リアンは意を決して、無防備に彼女に体当たりをして、一か八か上衣の内側に手を伸ばした。

 不自然な縫い目を指先で辿り隙間に指を差し込めば、冷たい金属の感触に当たった。それを引き抜くと、キラッと銀色に輝く。予想外だったのかタバサは目を見開き、逆手に持ち替えて振り下ろされるそのナイフよりも小さい暗器を防ぎきれない。——この上衣はトレイシーのものだ、彼のは『お嬢様』に開示されている——スティレットを思わせる針の切っ先がタバサの胸の柔肌を貫き、滑り込んでいく感触が伝わってくる。

「っい……‼︎ なゼっ、こんなものヲッ」

「はあ……トレイシーの手を借りるのは癪だけれど。——さあ、僕のところまで来て、タバサ。もっとよく見せて」

 できた隙に、リアンは言いながら二本目を取り出し、今度はタバサの心臓の真上に突きつけた。鋼鉄の肌が融解し、柔らかな質感の肌色が露わになる——その表情は苦悶に歪んでいたが、リアンにとってはそれさえも甘美だった。満面の笑みを浮かべたリアンを、タバサが揺れるブラウンの瞳で見ている。それが痛みに耐える不快感だとしても、純度百パーセントの本物の感情だ。本当のタバサの顔には年相応の皺がたくさん刻まれていて、不気味でもなんでもなかった。

 今リアン・ハーツホーンとタバサ・ケラハーは最も近い場所におり、何も包み隠さないで対話している。

「……トレイシーが姉様に言ってたのを覚えてるよ。キミは何でも卒なくこなすけれど、庭仕事だけは少し時間がかかるんだって。それは、楽しんで丁寧にやるからだろうって。合ってる?」

「っ、リアン様、ふざけるのも大概に……、」

 いつもよりも滑らかに聞こえる声が詰まり、彼女が急速に顔色を悪くする。リアンはきょとんとして、彼女の痙攣する手を見た。唇は青褪め、まるで嘔気に耐えるように浅く開閉する。とても針を刺しただけの反応ではない——まさか、毒が回っているのか? 信じ難いが……トレイシーは、リアンの想像よりも真っ直ぐに殺すことを目的とした準備をしていたらしい。

「——どうやら、時間がないみたいだ。観念してくれる気になったかい? キミの望む姿を教えてくれ給え」

「……余計なことを……。私は……スタンレー様に、お仕えできれば……それだけでいいのに」

「本当に? ——それは、本当にキミの人生かい?」

「なにを、仰りたいのです、」

「……ねえ、キミにとってお父様は、どういう存在なの?」

 困惑はあれど迷いはないタバサの眼差しに、リアンは一抹の不安を覚えながら訊ねた。タバサは心許ない息を吐く。そして、質問に不満を覚えたように眉を顰めつつ、ぽつりぽつりと答えた。

「……命の恩人であり、……おいたわしいお方です、……。いつか、スタンレー様とヴェラ様が、昔のように落ち着かれるまで、お支えして……余裕ができたあかつきには……そうですね、」

「…………」

「もう一度……わたしが手入れをした、庭園で……おくつろぎいただきたい……そういう、存在です、おわかりになりましたか、リアン様。……あなた、は……」

 タバサはそこまで喋ると横隔膜をひくつかせて、顔を横に向けて血の混じった胃液を吐いた。ツンと鼻の奥にくる刺激臭が広がり、香ばしい料理の残り香を塗り潰していく。リアンはその苦しみを憐れんで、一思いに針を刺し込んだ。——タバサは、心からスタンレーに仕えていた。リアンが知らない過去の影を追って。

 リアンは、その夢を叶えてあげようと思った。両手でタバサの襟を掴み、女性とはいえリアンよりはだいぶ重い体を引き摺って庭園へ向かう。

 ハーツホーン家の庭園は広くはないが、言われて見てみると、植物は刈り揃えられ、落ち葉も片付いていて綺麗だった。リアンはガゼボまでタバサを運び、一旦倉庫に寄って、重たい剣を何本か運んでくる。それから彼女の脇に手を入れ、踏ん張って彼女を持ち上げてその背を木製の柱に押し付け、彼女との身長差を思い出しながら、見上げる位置に頭部を持ってくる。

 そしてリアンは、彼女の口にスリムで尖った短剣を捻じ込んだ。そのままぐ、ぐ、と柔いところを探りながら喉奥に押し込むと、貫いて血濡れた切っ先が後頭部に斜めに現れる。リアンはそれを、柱の中に半分以上が隠れるまで突き刺した。

 片脇で踏ん張っていた片手を首にもっていくと、大分作業はしやすくなった。足をまっすぐ伸ばして立っているふうにして、剣を杭にすることで股や足首を同様に固定していく。最後に両手を前に出し、手のひらを重ねてお腹の前に持ってくれば、いつも上品な彼女らしい立ち姿になった。

 リアンは彼女の体から手を離す。そして満足して彼女ににこりと笑いかけ、それから、すぐそばにあるベンチに目をやって言った。

「タバサ。……待ってて、今二人を連れて来るからね」

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