Ep.6 Identity

 真っ直ぐの日差しが肌を焼く、茹だるような猛暑の日だった。

 今日はこの季節には珍しい生憎の雨上がりで、オスカーがいないと薄汚くすら思える『約束の場所』の地面は表面が少し泥濘んでいた。リアンはヴェラの一番のお気に入りの靴に泥と草がつくのを避けて、なるべく固まったところを選んで慎重にいつものベンチへと向かう。そこに座って待つことにも慣れてきて、いつの間にかあのオスカー・ジャーヴィスと会うことにも緊張しなくなっていた。友達だから、会うのは当然なのだ。

 とはいえ少し早く来すぎてしまった。影はまだ短くて、自分がそわそわしていることに気付く。——今日は、オスカーがやっと絵を見せてくれるという。『うつろいの少女ヴァージン・コンバージョン』と銘打った、あの絵をだ。

 オスカーの方が忙しくなって頻度が下がってしまったのが惜しい。毎度二人しかいない使用人の片割れが拘束されることになるから、最近はお目付役をジャーヴィス家の従者の方に任せて、マルヴィナは送迎だけしてくれるようになっていた。ハーツホーン家の者が近くにいない時間はリアンにとって新鮮で、特別だった。じめっとした風の揺れ方なんて気にしてしまったりして、……。

「——相変わらず呑気だね。調子乗っちゃってさ」

「、‼︎」

 突然背後からかけられた罵声に、リアンはびく、と冷や水を浴びせられたように体を硬直させた。——兄様。声には出さずに、悲鳴を上げるように掠れた息が漏れる。離れた場所にいるマルヴィナは、何も言ってこない。それが彼の存在を知らないからなのか、知っていて尚そうなのか、彼女と友達ではないリアンには区別がつかなかった。怖くて、振り返ることはできない。

「オスカー・ジャーヴィス……素晴らしい芸術家だと思ったけれど、姉様にこんなに入れ込むだなんて見る目がないね。いいや、彼の芸術はそれすらも乗り越えてしまうのかもしれない……。いずれにせよ、彼が厄介な性格であることに変わりはないけれど。大丈夫かい? ——おっと失礼、幸せ絶頂の君には何の話か分からないか」

「——……」

「もし限界になったらいつでも僕に言ってよ。すぐに殺してあげるからさ。覚悟はできてるんだ、あとは時機だけ……」

 死——限りなく絶望に寄り添う、救いに最も近い終わり。それをちらつかされて、リアンは忘れかけていた鉛を呑むような息苦しい恐怖を克明に思い出した。そして、自らの立場と使命も。ふわふわ浮かんでいた心はずんと沈んで、彼が姉様にはそこがお似合いだよと見下して嘲笑っている。どうしてこんな時にそんな酷いことするの、と怒鳴りたい気分だったけれど、リアンには兄への罪悪感を捨て去ることなどできなかった。

 ——いや、待て。リアンの兄はだ。つまり考えるまでもなく、。今リアンは何を聴いて、何を恐れている——?

「っ」

 歯を食い縛り、意を決して振り返ると、そこには誰もいなかった。安堵に肩の力を抜いたが、躊躇っている時間で彼が姿を隠した可能性が捨てきれないタイミングになってしまったのは失敗だった。リアンはすっきりしない気分で前に向き直って、膝の上で骨の浮き出る華奢な拳を握った。今は、オスカーのことを考えたかった。

 上手くやらなければならない、何もかも、一分の狂いもなく。オスカーも、ヴェラも、スタンレーもが認めてくれるように。

「——リアン。リアン・ハーツホーン?」

 さく、と誰かが近くの草を軽く踏んで、名前を呼んでいる。リアンは馴染みのないその気配と声に、ぼうっと視線を上げた。——待ち人よりも小柄な体躯、ふわふわのモカブラウンの髪、リアンのものとは比べ物にならない上等なワンピース——調

「く、——?」

 リアンは目を見開いてすぐに立ち上がり、状況を理解するより前にただの娘として適切な礼儀を払った。

「き……、奇遇の出会いに感謝致します……、」

「本当に私が偶然こんな見窄らしい場所に来たと思っているの?」

「……、……」

「ねえ? リアン・ハーツホーン。分かるでしょう、いつまでも私が何も知らないなんて思われちゃ困るわ……私ね、我慢ならないのよ——」

「う、」

 満開の威圧を纏いながら詰め寄られて、リアンは思わず後ずさったが、それが失礼に値することは分かっていた。それでも本能が警戒を促している。

 ——その直感が正しいと分かったのは、彼女が背中側に隠していた何かをくるむ布がはらりと解け、その中から銀色に光る刃が見えた時だった。それは、よく立派な貴族につく護衛が持っているような長剣の剣身で間違いなかった。どうしてそんなものを——呆気に取られていると、リアンの視線がそれに釘付けになっていることに気付いたクラリッサが、ニヤリと危うい笑みを浮かべながらその全体を隠さず露わにした。景色の色が美しい銀色に反射して、少年が珍しく必死に叫ぶ。

「姉様! ちょっと、こら、呑気に見てないで! この子はまずい……すぐ逃げて——本気だよ! ! ……姉様ってば!」

 クラリッサが剣をゆっくりと持ち上げ、ぐっと力を入れて不安定に振り上げる。よく見ると、それには柄がなかった。リアンは全く動けなかったが、クラリッサも流石にいきなり殺す気ではなかったらしい——それをガン! とベンチに打ち付けて、至近距離からこちらを睨み上げる。

「オスカーから離れろって言ってるの‼︎」

 クラリッサは吠えるように絶叫して、リアンの胸倉を掴んだ。遠目に見た可憐な印象など欠片もなく、いっそ怒った時のヴェラを思い出させる。

「オスカーはね、昔から私のことが好きだったのよ! あんたみたいなぽっと出の小娘が手を出していい相手じゃないの。オスカーは私の価値をよく分かっているわ、あいつが私に一番相応しい運命なのよ」

「……あ、っ、……と、トレイシー、たすけて……。——ま、マルヴィナ! マルヴィナ、どこにいるの⁉︎」

 リアンは咄嗟に助けを求めて叫んだ——叩かれることにも、打たれることにも慣れてしまっているが、純粋に生命の危機を感じる恐怖は初めてだった。兄が逃げを許したことと、彼女よりも自分の方が正気であるという状況がそうさせた。しかし、こういう時のために様子を見ているはずのマルヴィナの返事はない。

「使用人の人? なら、ちょっと呼び出して『ハイエナ通り』への道であんたを見たと言ったらどこかに行ったわよ」

 クラリッサは可笑しいとばかりに高揚して震えた声で言いながら、泣き真似のジェスチャーをした。そうやってマルヴィナを騙したのだと悪戯を誇るように。

「信頼されてないのね。なのに私の言うことは信じるお馬鹿さん。あははは! 当然だわっ、だって仕える相手が、私がいるのにオスカーに手を出すような最高のお馬鹿さんだもの!」

 どうしよう——。リアンはオスカーの語る『可愛いクラリッサ』とは全く違う彼女の様子に怯え、今にもへたり込んでしまいそうだった。——クラリッサにオスカーとの関係が知られてはいけないとずっと危惧はしていたが、知られて困るのはオスカーの方だと思っていた。それがどうだ、矛先は完全にリアンに向いている。それも実体を持って、過激に。

「く、クラリッサ様。わたしとオスカー様は、その、クラリッサ様の言うような、ものでは」

「他でもないオスカーが言ったのよ——私よりも、あんたがいいって!」

「っ。お、オスカー様は、そのとき、気が立っていただけでしょう。あのひとは、クラリッサ様のことが大好きですよ。いつも、かわいいと、話されています」

「嘘よ! あいつは結局都合のいい子が好きなんだわっ……最近は誘ってもくれなくなった! そしたらこんなところで、あんたみたいな子とずっと会ってるんだもの——」

 目を覚ましてあげなくちゃならないわ。そう言ったクラリッサの声はまるで正義のような決意に満ちていて、リアンは本当に自分が悪くないのか不安になった。いずれにしても、足は竦んで逃げることはできない。切羽詰まった兄の声が脳内でリフレインしている。だがリアンは、逃げ方を知らなかった。

「それ以外に、あんたにあって私にないものって何? 私とオスカーなら、周りだってみんな祝福してくれる。それが自然のことだもの。この浮気だって、私が主張しても誰も信じてくれなかった……だから一人でどうにかするしかなかったのよ」

「…………」

 クラリッサは何も分かっていない。リアンはそう思った。オスカーは、クラリッサが絵に理解を示してくれさえすれば、あんな風に悲しむことも、リアンに縋ることもなかったのに——。

 リアンがどうしても手に入れなければならない彼の愛をみすみす駄目にしているのだと、そう言ってやりたかった。でも、もしかしたら、リアンがオスカーに寄り添ってしまったから、二人が仲直りする機会は失われてしまったのかもしれない。リアン・ハーツホーンには、ジャーヴィスの名という目的がある。それがもどかしかった。

「……お、お二人で、話し合われては。本当に、オスカー様は、わたしのことなんて」

「ここでオスカーを待つわ、あんたには分からないだろうけど、あいつはもう私には会ってもくれないの」

「そ、れは、絵を見せることで、示したいだけで……そ、そもそも、オスカー様も、クラリッサ様から連絡がないと言っておられましたが」

「はあ? レディに誘わせようだなんて、あいつ、いつの間にそんな態度を取るようになったのよ」

 リアンの言葉は彼女には響かない。リアンは冷や汗を手に握って、せめてオスカーが来るまでクラリッサが暴挙に出ないことを祈った。オスカーが来れば、きっとなんとかしてくれる。リアンに誰かの意見を変えさせることなどできた試しはないが、彼はきっと違う。彼には確固たる意志がある。

 極度の緊張で、リアンは全身に刻まれた古傷がじくじくと痛み出すような錯覚に襲われた。浅い呼吸を繰り返し、暗転しそうになる視界をなんとか開き続ける。

「私とヴェラが現在のために動いている間、暇を持て余しているのはお前達使用人とリアンだけだ!」

「とにかく、こうなったからには、キミは僕に殺されるまで死なないことを第一に考えるんだ。いいかい?」

『俺は君がいないと駄目なんだ。どうか戻って来てほしい』

「お嬢様が笑顔を見せて下さるなら、私は何でも致します。それだけのことです」

「……っ、……、」

「何よ、その顔……不満がありそうね。大人が来なくてもこれを見せれば済むと思ったのに、まだ私の気持ちが届いていないのかしら?」

 リアンは一度、ゆっくり瞬きをして、深く息を吸って吐いた。

 今日、リアンは彼の絵を見ると約束した。リアンの前でオスカーは画家であり続けたが、クラリッサは画家としてのオスカーを受け入れていない。

「——ど、うして」

「……何?」

「——どうして、そんな、強引に……言うんですか」

 自分を睨む相手に意見したのは初めてで、声が震えた。

「オスカー様は、あなたのことがお好きですっ……。あの人の芸術に向き合えば、そんなことはすぐ分かります……!」

 この時リアンは、オスカーのために怒りを覚えていた。愛する相手に、愛を表現したものを理解できないと無下にされる——それはどんなに悲しいことだろう。今ならその苦しみに痛いほど共鳴できる。

「——二人共っ。ここで何を」

「っオスカー!」「……‼︎」

 クラリッサが走ってきた少年の方をばっと見て、剣を自らの影で誤魔化そうとしながら「……早かったわね」と呟く。——よく考えれば、クラリッサはこの場所を調べ、マルヴィナの存在まで把握した上でこうしてここにいる。剣を手に入れたのも、リアンを一人にしたのも、全て彼女の計画なのだろう。その殺意による計算をするのに、彼女は一体何日かけた?

「クラリッサ……? それ、」

「久しぶりね、オスカー。最近何も連絡してくれないから、会いに来ちゃった」

「何で、いきなり。まあいいけど……つれないのはクラリッサの方だろ。俺は君に今度こそ何か感じてもらえるように、ずっと絵を描いてたんだ。今日仕上げるつもりだったから、丁度よかっ——」

「でも、ずっとこの女は呼んでたんでしょ?」

「それは、……絵を描くのにリアンが必要だから」

「そんな絵で、私が喜ぶと思ってるの? ——誰がなんて見たいのよ!」

 聞くに堪えなかった——オスカーはクラリッサを喜ばせるために絵を描いているわけでもなければ、クラリッサの代わりにリアンを選んだわけでもなかった。そんな簡単なことすら、彼女は分かっていないのだ。それさえなければ、オスカーはとっくに愛してくれているのだということも!

 だが口出しをすることはできず、リアンは二人の大喧嘩を見守ることしかできなかった。

「……っ何なんだよ、何も分かろうとしないで、文句ばっかり言って!」

「前は私の絵を描いてくれたじゃない!」

「あの時君は、こんなのはあり得ないとか、雑だとか散々言ったじゃないか……!」

「丁寧に、現実的に描いてくれればいいだけの話よ!」

「——君が……君自身が、あれを否定するな! 君みたいな人が、絵画の世界を狭めるんだ‼︎」

「何よ。あんただって、誰にも評価されない絵ばかり描いて落ちぶれたくはないでしょ? 私は心配しているんだから、オスカー。私が事前に見定めてあげてるんだから、感謝しなさい」

「……ッ‼︎」

 オスカーは途轍もない怒りに口を裂いて、大口で威嚇するように叫んだ。

「クラリッサ……‼︎」

 リアンは思わずその剣幕に竦み上がったが、当のクラリッサには全く伝わっていないようだった。オスカーはぐっと拳を握って、ギリギリと獰猛な牙を見せて歯軋りをする。その怒りもまた、今この瞬間に生まれたものではなく、蓄積されたものがいよいよ溢れてしまっているように思えた。

 彼はクラリッサをしばらく見つめて、ぐっと辛そうに顔を歪める。少しだけクラリッサの言葉を待つような間があって、それから、オスカーは諦めたように悔しさを滲ませて呟いた。

「……クラリッサ、君にはもううんざりだ」

「え? ——」

 それは静かで、一番冷たい言葉だった。

「君に歩み寄る気が一切ないのはよく分かったよ。五年前のあのお願い、なかったことにして。——。いいよね、リアン?」

「⁉︎」

 いきなりの突拍子もない宣言に、リアンは目を見開いて唖然とし、クラリッサもまたぽかんとして横目でリアンを見た。驚愕と拒絶の視線だった。彼女がそんなことに納得するわけがない——分かっていたが、リアンにとってはあまりにも都合の良い展開だった。鼓動が逸る。

「地位も金も周りの奴らも、どうだっていい。ジャーヴィスの名前だって。俺は芸術を続けられればそれでいい——描きたい絵を描き続けたい! その熱を呼び起こしてくれたのはリアン、君なんだ。君は純粋に俺の絵を見て、心を見ようとしてくれる……君の絵を描こうと思った時点で、気付くべきだった」

「————」

「絵を介さなくても、俺はもう、クラリッサよりも君のことが好きなのかもしれない。少なくとも……今、俺は、君と一緒にいたい」

 それは一過性の衝動ではないのかとか、色々思うところはあったけれど、リアンはひたすら言質を取らなければと考えていた。食いつくように「嬉しい」と言って、硬直していた体を動かしてオスカーに歩み寄り、言葉を象る口に息を通して喋る。

「私も、ずっと……絵を見るためだけじゃなくて、あなたと一緒にいたいと思ってた」

 オスカーが微笑む。夢みたいだった、まさか本当に彼と婚約の話が生じるなんて。これで、スタンレーやヴェラもよくやったと言ってくれるだろうか? トレイシーも、みんな、笑顔を見せてくれるだろうか。兄はきっといい顔をしないけれど。

「な……、……そんなの、……あた、しは」

「……クラリッサ。そういうことだから……」

 オスカーは言って、リアンの方に手を伸ばす。その瞬間、クラリッサはひゅっと息を呑んで、オスカーが触れるよりも先にリアンを突き飛ばし、その細くて軽い体をベンチに押し付けた。その暴力的な挙動にオスカーが「なっ」と声を上げるが、屈辱に顔を真っ赤にしたクラリッサは止まらない。固い肘掛けに支えられ、同時に角に追い詰められたリアンに逃げ場はない。

「何なのっ……オスカー! あ、あんたが、好きだって言ってきたくせに!」

「それは、——」

「婚約ですって、……そんなの、認めない‼︎ ——全部あんたのせいだ! リアン・ハーツホーン……‼︎」

「な、」

 空の色を塗り潰すほどの激しい憎悪に、リアンはまた身動きが取れなくなった。クラリッサは剣を握り直して、それを大きく振りかぶった——リアンには迷いと躊躇のあるそれが、スローモーションのように見えた。兄は『同じ目をしている』と言ったが、クラリッサには殺意に任せて本当に人を殺すまでの覚悟は決まっていなかった。

「……何、やってるんだよ! クラリッサ‼︎」

「う、うあぁあぁっ——‼︎」

 その震えた絶叫は、いっそ逃げてくれと言わんばかりだった。しかしリアンは動けない。

 ぎゅうっと固く目を瞑ったクラリッサが両手で持った剣が、振り下ろされる——。

 その時、オスカーが咄嗟にクラリッサの片腕を掴んで引っ張り、——クラリッサは簡単にバランスを崩し、剣筋は逸れた。リアンはそれを目で追ったが、それだけ。

 オスカーが、声にならない鈍い悲鳴を上げた。下になったオスカーの体に、剣先が深く突き立ったのだった。クラリッサの表情は見えなかったが、「ひ、」と漏れた情けない悲鳴は彼女のものだった。

 じわ、と服の色が濃くなっていくのが見え、その染み出すものは剣身に触れると鮮やかな赤色をしていた。

 その姿にいつもの凛々しさはなく、彼は身悶えることすら満足にできなかった。全身が大きく痙攣するような挙動を見せた後、彼はひどい色の塊を吐いた。クラリッサはふらりと立ち上がって後ずさり、何事か呻きながら背を向けて走り去ったが、それに気付かないほどリアンは彼から目が離せなかった。

「っう、う……さい、あくだ。なんで、こんなこと、に……はあ、……痛いっ、熱いっ、寒い……ううっ」

「オスカー様、」

 リアンは歩み寄ってそばに座り込み、か細い声で彼を呼んだ。彼が己の胸を掻きむしるように手を当て、その指が血に染まっていく。いつも筆を動かしていた手が……硬直と弛緩を繰り返し、力を失っていく。思わず触れるとそれは掴むような動きをしたが、ぴくりと跳ねたようになっただけで終わった。

「はあ、リアン。嫌だ、君と、見たいものがあったのに……。まだ、芸術家気取りの驚く顔も、見てないのに……! ……せめて……何があっても、あの、絵は、絶対に……発表、してほし……」

「あ、あ……オスカー、様……そんな。血が、止まらな……」

 彷徨うオスカーの瞳孔はまるで透明のようになっていって、何も映していないように見えた。……体が、もがきながらも徐々に重力に従っていく……。

 それが何を意味するのか、分からないわけではなかった。

「——綺麗だね」

 ふと、背後で少年がぽつりと呟いた。オスカーの顔からは爛れが引き、あの時と同じ、素直で純朴な少年の顔が露わになっていた。

「た、助けないと……」

 リアンは言った。

「兄様、人を、……人を呼ばないと、医者を……」

「——うん? ……ふふ、何、僕に頼んでるのかい? そうか、姉様はオスカー・ジャーヴィスがいないと困ってしまうからね。——でももう、そんなことはしなくても大丈夫さ」

「え……?」

「僕が君も殺してあげる。君の役目は終わった。もう何も考えなくていいよ」

 彼に言われて、何もしないリアンを見つめるオスカーの潤んだ瞳を見て。リアンはその時、どうしてか猛烈な安堵に襲われた。

 二人の秘密基地の入り口には、戻ってきたらしいマルヴィナの姿があった。相変わらずトレイシーよりも感情の分からない彼女は、そこで立ち止まって荷物を取り落とした。

 オスカー・ジャーヴィスはそうして若くして、逸話つきの『うつろいの少女ヴァージン・コンバージョン』を遺してこの世を去ったのである。

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